第72話 顔をください、お客人
《ホテル三階・クラリスの宿泊部屋》
一方、ヴィクターが去った後のクラリスはしばらく暇を持て余してペロと遊んでいた。
遊ぶといっても手を握って振ったり簡単な芸を指示するくらいで、投げる物も無いのにボール遊びなんてできやしない。
予定通りならば、ヴィクターが戻るまであと約二十分。
「とりあえず、今のうちにシャワーだけ浴びてこようかな。ペロちゃんはここで待っててね」
『きゃん!』
ペロは甲高い声でひと鳴きすると、そのままコロリとベッドの上に転がった。
うっかりもののヴィクターは、クラリスのスキンケアセットを置いていくのも忘れて戻ってしまったらしい。しかし普通のホテルと同じく、一般的なアメニティグッズがこの部屋にも備え付けられているというのを彼女は先に確認していた。
――あまり合わないものは使いたくないし、そもそもここのやつを使うのも気が引けるんだけど……見た感じどこにでもありそうなやつだったし、一日くらいなら使ってもいいかな。
そんなことを考えながら、彼女が洗面所へと入った時だった。
「ッ!」
突然響いたドアをノックする音に、クラリスは声すら上げられずその場に飛び上がった。
恐る恐る洗面所から顔を出すと、もう一度ノックの音が室内にこだまする。
しかし次に聞こえてきた声に、クラリスは強ばっていた肩の力を抜いた。
「すまない、クラリス。緊急事態だ。開けてくれないかね」
「……ヴィクター? なんだ驚かせないでよ……」
ドアの向こうにいるのはヴィクターだった。
着替える前でよかった。もう少し早くにシャワーを浴びに行っていたら、彼を閉め出すことになっていたはずだ。
――緊急事態って……もしかして一人になったところを襲われたってこと? だとしたら大変……早く入れてあげないと。
「ちょっと待ってて。今開けるから!」
そう言ってクラリスが洗面所を出ると、起き上がったペロがこちらへ駆け寄ってきた。使い魔とはいえさすがは犬。主人の出迎えをしたいのだろう。
微笑ましい忠犬の行動を見ては頬を緩ませ、彼女はドアノブを下ろした。その時――
『きゃんっ!』
「わっ! ペロちゃん、どうしたの? 突然吠えたらびっくりしちゃうでしょ」
ペロが急に甲高い声を上げて吠えだした。
はじめは主人が戻ってきたことに喜んでいるのかと思ったクラリスであったが、その様子がおかしいことに気がついたのはすぐのことだった。
ペロが吠えたのは今の一回ではない。彼はまるでこのドアの向こうの相手に対し、牽制するかのように激しく何度も吠えたて、唸り声を上げて威嚇をしているのだ。
いつもヴィクターの周りをついてまわり、ニコニコと笑っているあのペロがである。
「ッ!」
瞬間、クラリスは反射的にドアを閉めようとした。
――この人、ヴィクターじゃない!
そんな確証は無い。しかし頭の中にはもううるさいくらいに警鐘が鳴り響いていて、このドアを開けてはいけないと告げてきている。
両手を使って思い切りドアノブを引き、急いで鍵を閉めようとする――いや、もう既にそんな行動を取ること自体が遅かった。
「いや……なんなのこれ!?」
先程クラリスがドアノブを下ろしたわずかな間に、もうその手は――黒くて、小さくて、細い、その無数の手は。ドアの隙間から中へと入り込んでいたのだ。
どれだけドアノブを引っ張ろうが、びくともしない。むしろあちらの開こうとする力が強すぎて、隙間はどんどん広がっていくばかりである。
『ぐるるる……きゃん!』
「あっ、ペロちゃん待って――」
クラリスの足の間を縫って、ペロがドアの隙間から廊下へと飛び出してしまった。
その一瞬、彼女の気が逸れた隙をついてドアが勢いよく外側へと引っ張られる。体が前のめりになって、浮遊する感覚。
ドアは――開かれた。
「――えっ?」
開いた勢いでクラリスが廊下に倒れ込む。
胸を強打する衝撃に息が詰まり、彼女はほんのわずかな間身動きをとることができなかった。
しかし、背中越しに感じる人ではないものの気配に、なんとか振り返る。
そこにいたのは――やはりヴィクターではなかった。
それは六階に現れたのと同じ、顔の中心に黒い渦を巻いた人型の化け物。
クラリスと同じように服を着ていて、靴を履いていて、ピアスもしていて――これは、魔獣なのか? そんな見た目の分析をしている暇も無く、もうあの無数の細腕はクラリスの顔へと伸びてきていた。
「な、なに……やめて! 触らないで!」
『きゃん、きゃん! がう!』
ペロが化け物の足に噛み付くものの、効果は薄いのかびくともしない。
腕は次々とあの渦の中から伸びてきているようで、どれだけ振り払おうが叩こうが、お構いなしにクラリスの顔へと触れてくる。
その腕の中のひとつ。細くしなやかな指が顎の輪郭をなぞった時――一瞬、顔全体が浮き上がったような感覚に、彼女の背筋が粟立った。
――ッ! 今の感覚……絶対におかしい。早く、早く逃げないと……!
しかし体は言うことを聞かず、顔が固定されてしまってはあのぐるぐると底の見えない渦から目を離すことができない。
するり、とまた渦から新たに伸びた黒い手がクラリスの頬を撫でる。
『――顔を、分けてください』
「……えっ?」
その時、弱々しく掠れた声が渦の中から聞こえた。
ヴィクターのものでも、クラリスのものでもない。男とも女とも取れる見知らぬ誰かの声が、たしかに彼女へと意思を持って話しかけてきたのだ。
『顔を分けてください。高い鼻が欲しいんです。そうしないと、可憐な花の香りを嗅ぐことができないから』
「ッ」
黒い手が、クラリスの鼻の頂に触れる。
『顔を分けてください。達者な口が欲しいんです。そうしないと、大好きなあの人とお喋りすることもできないから』
「や、やめて……」
黒い手が、震えるクラリスの唇をなぞる。
『顔を分けてください。大きな瞳が欲しいんです。そうしないと、綺麗な夕焼けを見ることができないから』
「やめて……」
黒い手が、瞬きもできずに凍りつくクラリスの瞳へ触れようと手を伸ばす。
「やめてッ!」
そう、クラリスが叫んだ瞬間――目の前の化け物の身体がくの字に折れ曲がった。
折れ曲がったというと、また奇妙な変体を行ったとでも思ってしまうがそれは違う。化け物の身体は横から飛んできた赤い光の柱によって脇腹を殴られ、そのまま廊下の奥まで殴り飛ばされてしまったのである。
なにが起こったのかも分からず、クラリスは呆然と化け物が飛んでいった方向を見つめていた。我に返ったのは、ペロの甲高い鳴き声が耳に入ってきてからだ。
「クラリス! 怪我はないかね!」
「ヴィクター……よかった、本物だぁ……」
廊下の反対側から走ってきたのは正真正銘、本物のヴィクターだった。
その顔を見た途端、安心感からクラリスの全身からは力が抜けてしまった。彼女は座ったまま、よろめきながら廊下の壁にもたれ掛かる。
「ちょっと危なかったけれど、私は大丈夫。……ペロちゃんも怪我してない?」
『きゃんっ!』
ペロはクラリスの質問に元気よく返事をすると、やって来たヴィクターの足元をくるくると回って尻尾を振る。
この子がいなければ、クラリスはまんまと罠に引っ掛かっていたことだろう。ヴィクターに代わって守ろうとしてくれたこの小さな護衛には、感謝をしてもしきれない。
「さっきのって魔獣……なのかな。ヴィクターにそっくりな声をしていて、私……ドアを開けようとしちゃったんだ。ペロちゃんが吠えて危険を教えてくれなかったら、今頃どうなっていたか……」
「Hmm……なるほど。ワタシの方も似たような状況だったよ。キミを騙って話しかけてきた痴れ者がいてね。さながら『渦男』なんて様相をしていたが……あっ、もちろんワタシはすぐにクラリスじゃないと気がついて返り討ちにしてやったよ!」
「本当に? さすが魔法使いって、そういうのも分かるんだ……」
「……まあね」
ヴィクターが言いたかったことは、そうではない。
他の誰でもないクラリスだから気がついたのだと、声を大にして言いたいところではあるのだが……評価されているのであればそれはそれで良いだろう。
するとそんなことを話している間に、廊下の奥から瓦礫の崩れる音が二人の耳に届いた。
正体は言うまでもなく、あの化け物――ヴィクターいわく渦男と名付けられたソレだ。
上半身を起こした渦男は、なにも言葉を発することなく、顔の中央に空いた渦の中からこちらを見つめている。
「距離が離れていたせいで威力が落ちたか。仕留め損ねてしまったみたいだね」
「気をつけて、ヴィクター。あの顔にある渦巻き……普通じゃないみたい。あそこから伸びてきた手に触られると、なんだか浮つくような変な感じが――」
「なに。……触られた? 変な感じ?」
その時、直感的にクラリスは自分が余計なことを言ったのだと気がついた。ヴィクターの纏う空気がどうにも……黒くなったのを感じたからだ。
「アナタ、なにか勘違いしてるみたいだから一応言っておくけど……触られたのは顔だけで、別になにかあったわけじゃないからね?」
「……ふぅん」
仮に顔じゃなかったとしても、相手は人間ですらない化け物なのだから嫉妬するにしてもお門違いだ。
しかしそんなクラリスの考えを他所に、ヴィクターは彼女の目をじっと見つめたかと思えば、ステッキをひと回しし――
「あっ、ヴィクター!」
走り出した。
それと同時に渦男の方にも変化は起きた。立ち上がり、突然小刻みに全身を震わせたかと思えば――その顔の中心をくり抜いてできた渦から、あの黒い腕を放出したのだ。
腕の数は一本や二本どころではなく、無数の腕が束となり、一本の太い腕となってヴィクターへと襲いかかる。
その手に触れられることが危険だというのは、クラリスから忠告を受けているはずなのだが――果たして頭に血が上っている彼に届いているのかは分からない。
「……上か」
斜め上方向。黒い腕がヴィクターの頭上を位置取った。
構わず走り抜けようとする彼へ向けて、弾丸の雨のごとく次々と腕が伸びていく。迫るスピードはヴィクターが走るよりも速い。
そしてまさに、指先が彼の頭を鷲掴みにしようとした瞬間――その手は謎の力によって弾かれ、壁へと縫い付けられた。
『ッ!』
渦男の動きが止まる。
ソレの手を弾き、壁に縫い付けたものは巨大な杭であった。
以前女王蜂と称した巨大な魔獣と戦う際、口を塞がせるという目的のために放ったものと同じ、魔力を固めて作り出した結晶。
顔から飛び出した腕の自由が効かなくなったことで、身動きの取れなくなった渦男は頭を振ったり、引っ張ったりしながらなんとか杭を引き抜こうと必死だったが……その時にはもう既に、ヴィクターの完全な間合いへと入っていた。
「この……どこの馬の骨とも知らない化け物風情が。クラリスの顔にその汚い手垢を付けただと?」
彼はステッキを振り上げると、角度を付け――その杖先の苺水晶を無理やり渦男の顔の中心へとねじり込む。
『!?』
「ワタシなんて……」
渦男の口内で、宝飾が――熱を帯びる。
「ワタシなんて、まだちゃんと手を繋いだことすら無いんだぞッ!」
そうヴィクターが吠えた瞬間――一閃。
渦男の口内で起こった爆発は瞬きする間もなく溢れ、廊下を燃やし、熱風が窓を割る。
嫉妬に場所も相手も関係無い。
きな臭い匂いと感じる手応え。
やがて――ヴィクターがステッキをひと振りすると、動きに追従するように炎と煙は風に乗って消え去った。




