第71話 嗚呼、なんて下手くそな三文芝居!
《ホテル六階・ヴィクターの宿泊部屋》
自室へと戻ってすぐ、ヴィクターは羽織っていたコートを脱ぎ捨ててベッドへダイブした。
安そうなパサパサの掛け布団を下敷きにしたとしても、マットレスは思っていたよりも硬く、反発力が無い。どれもこれもが使い古されているのか、お世辞にもホテルとしての品質は微妙なところである。
しかしそんなことすら気にならないほど、今の彼は先程の比にならない強い眠気に襲われていた。
――こんな状況でクラリスと長時間離れるなんて、したくはなかったが……仮にあの住民達が化けた魔獣であるというのなら、今後の振る舞いを決めるためにも確証が先に欲しい。仮眠は十分くらいにして、それから外の様子を見に行けばいいかな……
もちろん十分で済む保証など無いのだが。
大きなあくびをひとつして、ヴィクターが指を弾く。すると床に落ちていたコートがひとりでにハンガーへと向かい、どこからともなく飛んできたお気に入りのベージュの毛布がふわりと彼の全身を包み込んだ。
ベッドが小さいため足を伸ばして眠ることはできないが、この際それも良しとしよう。
器用に足だけ動かしてブーツを放り投げれば、ようやく入眠準備は整った。
「……」
目を閉じればすぐに睡魔はやって来る。
ヴィクターは深くなっていく自身の呼吸を感じながら、夢の世界へと落ちていく。そして――
「……だれ……」
ドアが、ノックされた。
コン、コンと控えめに薄板を叩く音に、半端に起こされたヴィクターは苛立ち混じりの声を上げて、毛布の中でもぞりと身動きをする。
「ヴィクター? ごめんね、こっちまで来ちゃって。今、大変なことが起きて……どうしてもアナタに伝えなきゃいけないことがあるの。開けてもらえるかな?」
ドアの向こうからそう声をかけてきたのは、クラリスであった。
ヴィクターは毛布にうずめていた顔を上げると、のっそりと上半身を起こして目元を擦り、ベッドの淵に腰掛ける。
まだまだ眠い。もしや一分たりとも眠れなかったのではないだろうか? もう一度大きなあくびをした彼は、ふらふらとした足取りでコートを羽織り、指を弾いて毛布を魔法の引き出しへとしまい込む。
「あれ? ヴィクター、いる……のよね。大丈夫? もしかしてもう寝ちゃった?」
返事が無いことを不思議に思ったのだろう。
そんなクラリスの声を耳にしながら、ブーツを履き直して、片手間に髪を直して――呼び出したステッキを左手に。ヴィクターは彼女の待つドアへと手を伸ばす。
「ヴィクター、本当に大丈夫? 聞こえてたらせめて返事だけでも――わぁ!?」
瞬間、驚いた声がドアの向こうから聞こえた。
それもそうだろう。なにせ部屋の中から思い切りドアを叩いてやったのだ。驚かない方が無理がある。
「ど、どうしたの? まさか話せないくらい具合が悪いとか? それならとりあえず顔だけでも見せ――」
「ずいぶんと愛らしい声で鳴くんだねぇ。まるで誰かさんとそっくりだ」
「……えっ?」
話を遮り、危うく上擦ってひっくり返ってしまいそうな声音でヴィクターが喋りだす。
困惑したクラリスの声が聞こえると、彼は笑い声を上げて続けざまにドンドンとドアを叩き続けた。
「我々の話を盗み聞きしていたのかな? 頑張って似せようとしているみたいだけれどさぁ。相手が悪すぎるよ。騙すのならば、もっとよく観察しなくちゃあ。世界中全員騙すことができても、よりにもよって……ワタシを騙すことなんてできないよ」
「……ヴィクター、本当にどうしたの? なんのことを言って――」
「だーから、下手くそな芝居をやめろと言っているのだよ。クラリスはそんな媚びた声でワタシの名前を呼ばないし、間延びした驚き方もしないし、ノックをする時はそんなにゆっくり叩かない。全部が半端! 半端だ! ……ははっ。なにかね。ワタシが常日頃から生半可な気持ちで彼女と過ごしているとでも……簡単に引っ掛かるとでも思ったのか」
ドアを叩く音が止んだ。
正直なところ――彼の言う半端で下手くそな芝居というものは、当のクラリス本人でさえ客観的に聞けば分からないような、そんな些細な違和感であった。いや、むしろ違和感なんてものは実際は無かったのかもしれない。
コツン、とドアになにかがぶつかる。
次の瞬間――轟音。まる巨大な鉄球が壁に打ち付けられたかのように、重い音がこの六階のフロア全体へと響き渡った。
硝煙を上げるドアの真ん中には大きな穴が空いていて、杖先の苺水晶からも同じくきな臭い煙が立ち込める。
『どう……して……ヴィクター……』
「それ以上喋るな、大根役者。二度とクラリスを騙った声でワタシの名を呼ぶんじゃないよ」
もはやプライバシーを守ることもできなくなったドアを蹴り開け、ヴィクターはクラリス――否、クラリスの声を騙っていたソレに向けてそう言い捨てた。
廊下に倒れていたその人間――魔獣――いや、これはいったいなんだろうか。
体は男女どちらとも言えぬ人間の体つきをしていて、ご丁寧に服も着ている。しかし顔は――あえて言うのならば人間。かろうじて、人間だ。
例えるのならば、風船のごとく膨張した顔の端々まで口を広げて、その中に無理やりブラックホールを詰め込んだかのような。
ぐるぐると渦を巻く黒い闇が目鼻の存在しない顔の中心に広がっていて、見つめているとなんだか気分が悪くなってくる。
「なるほどね……住民に化けていたのはコレか。声帯になりそうな器官は無さそうだが……」
試しにヴィクターがソレの顔の横にステッキを打ち付けてみるが、反応はない。先程ドア越しに放った魔力が上手いこと腹を貫通しているのだ。きっと死んだのだろう。
――目的はなんだ……捕食するためか? もしも人の声を真似しておびき寄せているのであれば、かなり厄介な能力だが……
「……クラリスが危ない」
自分が襲われたということは、クラリスの元にもこの化け物が現れている可能性が高いということだ。
ヴィクターが周囲を見回す。ここは六階で、彼女がいるのは三階。ここまで上がってくるのにはエレベーターを使ったが、この状況だ。あの箱の安全性が既に保証されていないということは分かっている。
――どこかに非常階段があるはずだ。また密室でコレと同じものが出てきた時のためにも、そちらを使って移動したいところだが……
そこまで考えたところで、ヴィクターがピタリと止まった。
彼はくるりとステッキを反転させると、敷かれていたカーペットへ向けて宝飾を押し付ける。
「直線距離で移動した方が早いな」
そう呟いた刹那、ヴィクターの足元で床が弾けた。
ぽっかりと空いた穴にすかさず飛び込み、同じように真下へステッキを構えて魔力を放出――五階から一階のロビーに到るまでを一直線に貫いた。
こんな化け物ホテル、今更損害なんかを気にしたところで意味もない。
ヴィクターは無事に三階の廊下へ着地をすると、クラリスの待つ部屋へと駆け足で向かっていった。




