第70話 この町に巣食うものは人か、それとも
《二十分後――ホテル三階・クラリスの宿泊部屋》
テレビ以外に物音もしない一人だけの空間に、張り詰めた緊張感。
気を紛らわすために見ていたバラエティ番組も、内容なんて見ているうちから抜けてしまった。集中力が無いのではない。集中することができないのだ。
「――クラリス、開けてくれないかね。戻ってきたよ」
その緊張の糸を断ち切るように、部屋のドアがノックされた。
同時に聞こえる聞き慣れた声に安堵して、テレビの電源を消したクラリスは小走りにドアまで駆け寄る。
しっかり施錠していた二つの鍵を解錠したところで、彼女はようやくドアを開いた。
「おかえり、ヴィクター。……どうだった?」
「部屋も廊下も、一通り見てきたが特におかしなものが仕掛けられている気配は無かったよ。……お腹は空いたけれど、あまりルームサービスを頼む気にはなれないね。いつも通りで申し訳ないが、ティータイムにしながら話すとしよう」
部屋に入ってきたヴィクターは、そう言って椅子の上でヘタっている安物のクッションへと腰かけた。
高さは丁度いいが、座り心地はお世辞にも良いとは言えない。まだベッドに座った方がマシだと思えるほどである。
正面にクラリスが座ると、彼は指を弾いてティーセットを呼び出した。
今日はいつものメンバーにプラスして、カップと同じ背の高さのミルクピッチャーも呼ばれたらしい。心安らぐ甘い香りは、テレビなんかよりもよほどクラリスの心を落ち着かせた。
「いい匂い。チョコレートみたい」
「甘い紅茶の方が、キミもリラックスできるかと思ってね。ミルクを入れて飲むのがオススメだ」
ヴィクターが目配せをすると、くるくると踊るミルクピッチャーがクラリスの目の前で紅茶の上からミルクを注いだ。
ひと口飲めば、すっきりとした甘さに彼女の表情も思わずほころぶ。
「本当だ。口当たりが良くてすっごく美味しい! いつもフルーツティーが多いから、なんだか新鮮。アナタ器用なのねぇ」
「コーヒーだろうが紅茶だろうが、ご希望があればなんだって用意するさ。そうだ、今度は花びらをブレンドしたものなんてどうかね。実は先日新しいものを入手して、そろそろ試したいと思っていたん……まて。クラリス、キミ器用ってなんのことを言って――あっ、馬鹿!」
すっかり良い気分で話していて、反応が遅れた。
早々にクラリスが二杯目を頼んだのだろう。なみなみ注がれたカップの水面にちゃっかりハートマークを描いたミルクピッチャーを見て、ヴィクターが慌てた様子で前のめりに手を伸ばす。
しかしひらりと彼の手を躱したピッチャーはクラリスの方へ逃げ出すと、彼女の周りを一周してから何事も無かったかのように、ゆっくりとテーブルの上へと着地した。
「……そのイタズラものを、ちゃんと叱っておいてくれ」
ヴィクターがじとりと睨むと、同じくテーブルの上で待機していたティーポットの蓋がカチャリと音を立てて揺れた。
それからしばらくの間、彼はこの町のことには一切触れず、なるべくいつもと変わらぬ他愛もない話を繰り広げていた。
最近見たスイーツのレシピ本の話、夏毛になりはじめた使い魔の話、紅茶のうんちく――どれもクラリスの不安が少しでも和らぐようにと、ヴィクターなりに考えて選んだ楽しい話題だ。
そんな彼の気づかいをクラリスも分かっていたのだろう。
心の準備はできた。彼女は聞いていた話がひと段落したタイミングを見計らって、ようやく自分達が話し合うべき問題について向き合うべく口を開いた。
「それで……これからのことだけど。もしも無事に一晩過ごせたとして、明日迎えのバスが来るとしたら昼過ぎになるわよね。もう外は夜だから、だいたい半日ちょい。何も起きないってことは……無いかな?」
「残念だけれど無いね。ワタシの勘がそう告げている」
「そうよね……」
それはクラリスも同意見だ。これで何も起きないなんてことがあれば、むしろ拍子抜けしてしまうくらいである。
「さて……クラリス。少しばかりお喋りに付き合ってくれ。ここに来るまでに、ワタシ達が見聞きした範囲で考えられることを整理しよう。それで見えてくるものもあるかもしれないからね」
そう言うと、ヴィクターは上手に組んだ長い足を組み直して話を始めた。思わずクラリスの背筋がピンと伸びる。
「まずオーナー殿から聞いていた、町を訪れた人間が突然移住するようになるという話の真偽は……正直分からない。受付にいたホテルマンのように、若い人間がいるのはチラホラ目に付いたが、先住民の可能性だってあるからね。我々になにも手出しがされていない以上、現時点で判断することは不可能だ」
「でも……町の人達の様子が普通じゃなかったのは、ヴィクターも見てたでしょ? もしかして洗脳されてるとか、そういうのは……」
「洗脳か……」
そう呟いて、ヴィクターは顎に手を添えて宙を見上げた。
たしかにクラリスの言う通り、誰かが住民や旅人達を操っているという線は決して薄くはない。
あの薄気味悪い笑顔の真意は分からないが、少なくとも団体行動としてアレが行われていた以上、古来よりそういう習慣でも無い限りは指示を出した人間がいるということだ。
しかしそんなこと、よほどのカリスマ性が無ければただの人間ができる所業ではない。むしろそんなカリスマ性があれば、パルデも過疎化なんてしなかったはずだろう。
もしも可能にすることができる人物がいるとすれば――
「キミの意見、あながち的外れでないかもしれないね」
「えっ……本当に?」
「うん。仮に洗脳が得意な魔法使いがいたとして、ソレが悪さをしていると考えれば話は早い。ただ……」
ヴィクターの目が怪しく細められ、ゆらり。揺らめく。
「ワタシは思うんだ。そもそも彼らは――ワタシ達がこの町にやって来てから目撃した人々は、人間なのだろうか、と」
その言葉にクラリスは目を丸くした。
人ではない? どこからどう見ても彼らは普通の――そう、容姿に関しては少なくとも、普通の人間だったはずだ。あれが人間でなくて、なんだというのだろうか。
「ヴィクター……それってどういうこと? もしかしてアナタ、本当に幽霊なんかを信じてるんじゃ……」
「違う。この世界には幽霊なんかより、もっと我々に対して直接的に手を出してくるものがいるだろう」
「……魔獣?」
「ああ。あの住民達の様子はまるで……人ではないものが、一生懸命に人の営みを模倣しようとしているかのように見えた。人の姿に化ける魔獣なんかがいたとすれば……腑に落ちる点もあるのではないかね」
ヴィクターの考えはいつだって的確で、クラリスの想像の上を行く。
人に化けた何者かが、人の生活を真似ている――となれば、あの手入れの行き届いていない荒れ果てた畑も。花壇の一箇所に水を撒き続ける老婆も。おままごとをする店主と客のやり取りも。全部に納得がいく。
もし仮にその相手が人とは違うものを食べて生活をしているのであれば、あんなにも野菜や果物が腐るまで店先で放置されているのにも頷けるだろう。
「つまり外からやって来た魔獣達が、今は町の人に擬態して生活をしているってこと?」
「そう考えるのが自然だと、ワタシは思うが……なにかが引っかかるね。蹂躙するならまだしも、魔獣が住民に成り代わったとして、果たしてそんな行動に意味なんてあるのか……ふぁ。力でねじ伏せていいものか判断のつかない相手だなんて、困ったものだよ」
そう語る彼の顔は途中、大きく口を開けたあくびで破顔した。バスの中でしっかりと睡眠をとったクラリスとは違って、ほんのり眠たいのだ。
ヴィクターは指を鳴らして空になったティーセットをしまい込むと、その場にすっと立ち上がった。
「ヴィクター、もう帰っちゃうの?」
「うん。もう一度周囲の状況を確認してくるついでに、後のパフォーマンスに影響しないよう少し仮眠をしてくる。キミはその間にシャワーでも浴びてサッパリしてるといい。……ああ、でもこうしてわざわざ我々の部屋を離させたんだ。もしかしたら一人になったタイミングを狙ってくるのかもしれないし……本当ならば、こんな状況でキミのそばを離れたくはないのだけれど……」
「どうせ私がバスルームを使ってる間、同じ部屋で寝るのは心臓が持たないとか言うんでしょ」
「うん……」
日頃これだけ一緒にいるというのに、こういう時だけ難儀な男である。
しかし何が襲い来るかも分からないこんな状況だ。不安げにに視線を泳がせるクラリスの気持ちもヴィクターにはよく分かる。
少しの間考えた後――彼はもう一度、指を弾いた。
「わっ! ……あれ、ペロちゃん?」
『くん?』
熱を伴わない小爆発と共に、クラリスの腕の中に現れたのはヴィクターの使い魔であるペロだった。
クリーム色の毛玉にも似た犬は抱いていると暖かくて、ほどよい重さが心地良い。
人ではなくとも誰かと触れ合っているという感覚は、心細いと感じていた彼女の心に拠り所を与えた。
クラリスが背中を撫でると、それまで主人と同じく眠そうにしていたペロはパチリとつぶらな瞳を開いて振り返る。
尻尾を振って喜ぶ様子は正直……ヴィクターにとって羨ましい限りだった。
だってそうだろう。今日も出てくるだけで、ペロはクラリスから無条件に可愛がってもらえているのだ。これをずるいと言わずになんと言う。
「……ペロ。警戒心の強いキミを、特別にクラリスの護衛に任命してあげよう。有事の際にはワタシが来るまで、キミが彼女を守りたまえ」
『わふ』
「あくびで返事をするんじゃないよ。……まったく。とにかく、ワタシ以外が来てもドアは開けないように。ちゃんと起きられれば……三十分くらいで戻ってくるから。いいね」
「分かった。ヴィクターも気をつけて。ほら、ペロちゃんもご主人様にバイバイしようね」
「あっ……うん。また後で、クラリス」
クラリスがペロの前足を持ち上げて手を振ると、ヴィクターは分かりやすく動揺しながらも部屋を後にした。
いくら心の余裕が生まれたのだとしても、そんなにも可愛らしいことをされたら本当にこちらの心臓が持たない。
もしもヴィクターの心にコメントを残せるだけのゆとりがあったのならば――きっと彼は、こう言っていただろう。
いわゆるキュン死になんて洒落にならない。うっかり鼓動が止まったらどうしてくれるというのだ、と。




