第69話 好奇心は不穏な夜の幕を上げる
無数の目が、気味の悪い笑みが。ガラスに反射した自分達を見つめている。
「ッ!」
とっさに振り返ったクラリスが周囲を見渡す。
おかしい。やはり先程と同じく、自分達のことを気にかけているような人間なんて、誰一人としていない。やはり今のは幻覚、気のせいだったのだろうか。
しかし恐る恐る彼女がショーケースへ目を向けると――パチリ。ガラスに映った通行人と目が合った。
「ヴィクター……」
「……ああ。前言を撤回しよう。この町の人間はおかしい。あのオーナー殿の言っていた噂話も、あながち的外れではなかったのかもしれないね」
この異常な事態にはヴィクターも気がついたらしい。
ぞわりとクラリスの腕には鳥肌が立つ感覚が。この光景の前にした今、住民達の行動は考えれば考えるほど不気味に思えてきたからだ。
広い花壇の一箇所に水を撒き続ける老婆。ありもしない商品の売買を行う、子供のおままごとのような店主と客。自分達の視覚外からこちらを凝視してくる住民達。
そういえば町の外には荒れ果てた畑なんかがあったが、八百屋に陳列されていた野菜や果物はどこから仕入れていたのだろうか。
そんな疑問と共にクラリスがあの八百屋の軒先へと目を向ける。――陳列されている青果物は、ほとんど腐って黒ずんでいた。
「このままここにいたら、私達もああなっちゃうのかもしれない……ってことよね。今なら走って引き返せば逃げられそうだけど……どうする?」
「Um……いや、このまま一晩滞在させてもらおう」
「一晩って……もしかして普通にホテルに泊まるつもり? なにか起きてからじゃ遅いでしょ」
「分かってる。だが……クラリス。キミは気にならないのかね。こんな奇妙な町、そうそうお目にかかれるものじゃあない。どうして外からやって来た人々はここに住もうなどと考えたのか、そしてこれから何が起きるのか。ワタシは興味が湧いたよ」
そう言って、ヴィクターはさっさと前を歩きはじめる。
ずっと背中へ一身に視線を浴びせられている状態だ。そんな状態で後ろを歩くなど、怖くてできるはずがない。
クラリスは小走りにヴィクターを追いかけると、彼を追い越して一歩前を歩くことにした。
「興味が湧いただなんて。アナタ……スモーアでもそんなこと言って、痛い目見たのを覚えてないの?」
「もちろん覚えてはいるが、考えてもみたまえ。仮に我々がなんらかの事件へ既に巻き込まれてしまったのだとすれば、おそらく逃げようとしたところで妨害を受けるに違いない。ならば彼らが描くシナリオに従ったふりでもして、解決してしまった方がスッキリした気持ちで立ち去ることができるのではないかね」
「そ、それはそうだけど……もしかしてアナタが妙にパルデに来るのに乗り気だったのって、寝床だけじゃなくて、本当にオーナーさんの話を聞いた純粋な興味本位ってこと?」
「ふふん。なにも行き先を決める権利はキミだけにあるわけじゃあない。いつものお返しだとでも思いたまえ」
普段惚れた弱みを付け込まれて、あれよあれよと言いくるめられているのはこちらの方なのだ。
正直な話、興味半分、ふかふかのベッドで寝たいが半分。というのはもはや建前で――たった今湧き上がったばかりの、怖がっているクラリスをもう少し見ていたいという気持ちがヴィクターの本音だった。
――しょせん、相手は人間だ。仮に問題が起きたとしても、ワタシがどうにかすればいいだけだからね。
ここ最近戦ってきた魔獣のことなんかを考えれば、今更ただの人間が束になって掛かってこようが相手になどならない。
そのまま何事もないように普段通りの生活を送っている住民達を尻目に、歩くこと数分。ようやくヴィクターはホテルの前で足を止めた。
「さて。ここが幽霊ホテルなんかじゃないことを祈るが」
「幽霊は関係ないでしょ。……ヴィクター、先に入って」
「怖いのなら素直にそう言いたまえ」
そんなことを言いつつ自動ドアを抜けると、彼らを待っていたのは意外にも清掃の行き届いた綺麗なエントランスであった。
壁には歴代の町長だろうか。自己主張の強い肖像写真がいくつも並んでいて、ホテルというよりは豪邸の客室にでも通されたのではないかという印象を受ける。
肝心の客はといえば、ソファでくつろぐのが数人と、スタッフがカウンターやロビーに数人。大きなスーツケースを持っている女が一人いるが、きっと同じバスに乗っていた人間だろう。思っていたよりも賑やかだ。
一抹の不安を感じながらもクラリスがカウンターへ近づいていくと、若い男のフロントマンが快く二人を出迎えた。
「いらっしゃいませ」
「あの……二人なんですけれど、泊まれるような部屋は空いてますか? できれば一緒……いや、別々だとありがたいんですけれど……」
恐る恐るクラリスがそう尋ねると、フロントマンは端末を操作しはじめた。空いている部屋の確認をしているのだろう。
一見すると普通のフロントマンだが、果たして本当にそうなのかは見ている間は分からない。
今もこうして待つ間、クラリスは後ろが気になって仕方がないのである。
「お待たせいたしました。二名様ご案内可能でございます。ただ……」
「ただ?」
「空きがそれぞれ、三階と六階に一部屋ずつとなります。お部屋が離れてしまいますが、それでもよろしいですか?」
「ずいぶん……離れてるんですね」
普段なら混みあっているのかと気にしないだけなのだが、なにぶんあの町の様子を見た後だ。変に勘ぐりもしてしまう。
クラリスが隣のヴィクターへ意見を求めるべく見上げると、彼は一度頷いて「言う通りにしよう」と小声で呟いた。
「……分かりました。それじゃあ三階と六階でお願いします」
「かしこまりました。こちらがカードキーとなっております。……どうぞごゆっくりとお過ごしください」
カードキーを受け取り、クラリス達は足早にエレベーターのあるロビーの端まで歩いていった。
先に口を開いたのはクラリスである。
「とりあえずチェックインは済ませたけど……なんかわざと部屋を離されたような気がしない?」
「Hmm……考えすぎだとも言いたいところだが。たしかに人はいるが、そこまで混雑しているようにも思えないね。引き続き注意はしておこう」
そう言ってヴィクターがエレベーターのボタンを押そうとしたところで、タイミングよく到着を知らせる軽快な音が響いた。
どうやら誰かが先に使っていたらしい。中から降りてきた背広姿の壮年の男は、二人に気がつくと少し驚いた表情をして立ち止まり――やがて人当たりの良い笑みを浮かべて一礼。そのままホテルの外へと出ていった。
「うぅ、やっぱり今の人も……みんな私達のことを見てくる。ヴィクター、早く上に行きましょ」
「……ああ」
一足先にクラリスがエレベーターへと乗り込む。
ヴィクターはしばらく背広の男が去っていった方を眺めていたが、クラリスに呼ばれると空返事をひとつ。薄暗く、年季の入った箱の中へと向かう。
ドアが閉まると、ヴィクター達のいなくなったロビーはしんと静まり返った。
物音ひとつしない、完全なる静寂。
その様子を不思議と思ったのは、この広い空間の端であの大きなスーツケースを持っていた女、ただ一人だけである。
「……なに? なんで突然静かになったの?」
女がそれまで弄っていたスマホから顔を上げる。そして――その顔が凍りついた。
『――ください』
最初に彼女が感じたものは、クラリス達が感じていたものと同じ、自分に注がれる無数の視線。
しかし最後に見たものは――あの薄気味悪い貼り付けられた笑顔なんかではなく。黒い。視界いっぱいを埋め尽くす、黒い渦だった。




