第65話 幕間▷そして種は芽吹いた
《数週間後――サントルヴィル・魔法局玄関口》
「やっと……帰ってきたぁ!」
よく磨かれた黒大理石の天井に映る、両腕をめいっぱい伸ばして喜びを体現する一人の人間。大きくあげた声は空間に反響して、意図せずとも行き交う人々の注目が集められる。
サラはハッとして片手で口を塞ぐと、奇異の目を向けるすれ違う人々に申し訳なさそうに会釈をした。
「なにしてるんですか。早く行きますよ」
「ちょっと待ってダリルさん! 今社員証出すから!」
そんなサラの横を、ダリルがさっさと抜かして歩き去って行く。
ゲートに備え付けられた改札に社員証のバーコードをかざすと、軽快な電子音と共に扉が開いてダリルが通過する。
ようやくポーチの奥底から自分の社員証を取り出したサラも、続く形で急いで改札を通過した。
天井と同じく、壁や床にいたるまでが艶やかな黒大理石で造られた内装は、玄関口だけでなくその先の廊下からロビーにまで続いている。
細かい部署への移動はエレベーターか階段を使う必要があるため、必然的にこの辺りは人通りも多い。
「……あっ。そういやそろそろタバコが切れそうなんだった。サラ、僕は売店に寄ってから行くんで、先に行っててもらってもいいですか」
ロビーには売店もあり、ちょうど前を通りかかるタイミングでダリルがそう言って足を止めた。
売店は昼頃になると昼食を求めた人達でかなり混み合う。
サラは社員食堂で日替わりランチを注文するのが日課となっているが、ダリルはそれよりも手軽に短い時間で食べられる、おにぎりやサンドイッチなんかで済ますことが多いらしい。
いつも下げてくるビニール袋にお気に入りの銘柄のタバコが必ず一箱入っていることを、サラは知っていた。
「分かった。先にエルマーに報告しておくね」
「ええ。報告書の書き方は後で教えるんで、今は適当に口頭ででも伝えておいてください」
「はーい。……やったぁ、ダリルさんから直接教えてもらえる……!」
ダリルと別れたサラは、エレベーターの前まで来ると迷いなく下行きのボタンを押して、到着を待った。
ほとんどの部署が二階以上にあるのに対し、サラ達が所属する『特例異変解決本部』は地下に事務所がある。なんでも設立されてから間もないようで、空き部屋が上には無かったというのだ。
ちょうどよく下りてきたエレベーターに乗ったサラは、地下二階のボタンを押して無意識にパネルに映った階数に目を向ける。
二階くらいなら階段で下りてもよかったが、長旅で疲れた足ではそれも面倒だった。
「お土産も買ってきたし、エルマー喜んでくれるかなぁ」
右手に提げた紙袋を見て、思わず笑みがこぼれる。
エレベーターを降りたサラは、地上にくらべていささか安っぽくなった白い壁に覆われた廊下を歩き、突き当たりの部屋のドアをノックする。
「はぁい。どうぞ」
そして中から聞き慣れた男の声で返事があることを確認すると、ドアノブを捻ってドアを開けた。
「ただいま、エルマー!」
「おっ、サラじゃん。長旅おつかれさまぁ。会うのは一ヶ月ぶりくらいじゃない?」
「本当はもう少し早く帰ってこられそうだったんだけど、トラブルがあって……なにがあったかは簡単にダリルさんから聞いているのよね?」
中に入ってすぐ目の前。革張りの黒いソファの上でくつろいでいたのは、アプリコット色の髪に、細いフレームの眼鏡をかけた男だった。
魔法局に勤めるほとんどの人間がスーツなどのフォーマルな装いなのに対して、彼――エルマー・ウィークエンドは派手なオレンジ色の花柄のシャツを着用していて、社内基準すら満たせないほどにフォーマルさの欠片も持ち合わせていない。
エルマーはひらひらとサラに手を振ると、ローテーブルの上に広げていたお菓子や雑誌を端へと寄せた。
「うん。魔獣が途中で逃げ出したんでしょ? そんで町で暴走した結果、建物の損傷が数件と……草むしりに二週間かかったって聞いたけど」
「あはは……お察しの通り、後半はアタシのせいです……」
サラはエルマーに対面するソファに腰掛けると、お土産の入った紙袋をテーブルの上に置いた。ここですぐに開けてもいいが、それは真面目な話が終わってからだ。
「まぁ、新人に失敗なんてつきものなんだから、変に悩まないでよ。早速だけど、とりあえず聞かせて。サラとダリルちゃんが草むしりに二週間も費やすことになった、経緯ってやつを」
「もう、からかわないでよ。簡単に全体の流れを話すわね」
そう言ってサラは事の顛末を噛み砕いて説明した。
遠くの町で起きた事件に関わっているとして保護をしたシロが、護送中に逃げ出したこと。シロを探す道中で出会った二人の旅人の力を借りて、暴走したシロを止めたこと。そして別件で保護をしていたクロと引き合せたことで、無事にシロとクロは互いの力に悩むことがなくなったこと。
「シロとクロはさっき、別館の保護施設に預けてきたところなの。アリスタがいれば診てもらいたかったけれど……彼、忙しいのか最近連絡が繋がらないみたいで……」
「ああ、たしか……スモーアで起きた集団食中毒の被害者の体から、魔力の痕跡が出てきたってやつだよね? この前連絡を取った時には、全員無事に完治したって嬉しそうに言ってたけれどねぇ。まだ忙しいんじゃない? こっちはしばらくサラが様子を見てあげなよ。アフターケアまでしてあげてこそ、築ける信頼関係もあるからね」
そう言って、エルマーがテーブルの端に寄せていたお菓子の中からひとつを取り上げ、封を開けた。小さいあんドーナツだ。
「むぐ。そういえば、話の途中に出てきた旅人ってどんな人達だったの? できればボクからお礼の菓子折りひとつくらい差し入れたいところだけど……連絡先とか聞いてない?」
「それが忘れちゃってたのよねぇ……。あーあ。せっかくできた新しい友達だったのに……」
「ふぅん。じゃあ特徴は? なんか分かれば地方の局員達に目撃情報が無いか聞いてみるけれど」
あんドーナツを食べ終えて、エルマーはジュースの入ったマグカップに口をつけた。
サラも遠慮なくクッキーの袋を手に取ると、袋の中で二つに割ってから開封して、半分になった欠片を口に運ぶ。
「そうねぇ……女の子の方はクラリスっていうんだけれど、その子は普通の人間なの。金髪で、海みたいに綺麗な目をしてて、優しいしすっごく気が合う子で……あっ、綺麗といえば一緒にいた男の魔法使いがびっくりするくらい美人さんだったのよ! ヴィクターっていうんだけれどね。性格は変だけれどとっても強くて――わっ!? え、エルマー、どうしたの!?」
ガシャンと固いものが叩きつけられる音に、驚いたサラが飛び上がる。話の途中で、エルマーがマグカップをテーブルに叩きつけたのだ。
「……ごめん、サラ。話を続けて」
「え、ええ……」
突然目の色を変えたエルマーの口からは、サラが聞いたこともない低い声が飛び出た。
そのあまりの気迫に、サラの鼓動はどんどん速くなる。残った半分のクッキーに口をつけようなど、彼女はつゆほどにも思わなかった。
「ヴィクターは凄い魔法使いで、大きな雨を降らすクラゲを出して火事を消してくれたり、暴走したシロを一人で止めてくれたりしたの。それこそ、普通の魔法使いじゃありえないくらい……クラリスが言うには、少しイレギュラーなくらいに色々こなせる魔法使いなんだって。見た目はそうね……身長が高くて赤い髪をしているんだけれど、あれだけの美人ならどこにいても目立つはず……エルマー……?」
「そうか……やっと……やっと見つけた。見つけたぞ、『禍犬』……!」
話の途中でエルマーが立ち上がった。
大きく目を見開いた彼は早足に自身のデスクへ回っていくと、困惑するサラを差し置いてカバンやスマホを掴んでは手早く身支度を済ませる。
「えっ、えっ? エルマーどこか行くの?」
「急用ができたから、しばらく留守にするよ! 報告書は書いたらアレクシスに提出しておいて。それと回ってきた仕事の判断は全部サラに任せるから。大丈夫、なにかあったらボクの責任にしていい!」
「アタシが? でもアタシまだ――」
その時、事務所のドアが開いた。ノックもなしに入ってきたのは、買い物を終えてきたばかりのダリルである。
「ただいま戻りましたぁ。早速なんですけど、お昼休憩もらってもいいですか? 朝からなんにも食べてなくて、僕お腹が空いちゃ――うぉっ!?」
「行くよダリルちゃん! 緊急任務だ!」
「はぁ!? 待ってください。僕、今戻ってきたばかりですよ! というかそろそろ家に帰って、撮り溜めてた動画の編集をしないといけな……おい、人の話は聞けよ!」
部屋に入るやいなや、走ってきたエルマーにダリルの腕が掴まれる。
彼はよろけて状況が分からないままでも、どうにかしてエルマーを振りほどこうともがいては失敗したらしい。珍しい素の口調で飛び出た抗議の声を最後に、二人の姿はドアの向こうへと消えてしまった。
ポツンと一人、部屋に残されたサラの手元にあるのは、残念にも手をつける前に渡す相手のいなくなってしまった手土産のみ。
きっとあの様子では本当にしばらくは帰って来ないのだろう。
「えっ? うそ。二人共行っちゃうの? そんな……アタシ、まだ報告書の作り方すら教えてもらってないんだけどぉ!」
サラの虚しい叫びは、既にここを離れてしまった彼らに届くことはなかった。
第1部 第3章『盲目的ラブロマンスは犬も食わない』――完




