第60話 無垢な花瓶に泥水色の愛を注いで
《同時刻――町の中央》
時は少し戻り、クラリスとサラが花馬に乗って移動した後の町の中心。
そこには赤い魔法使いと白い魔獣。形も大きさも違う、二つの魔法を従える者達だけが残されていた。
『さっきからちょこまかと動くな、人間!』
「キミが狙いをつけるのが下手なだけではないのかね。そもそも……ワタシを殺したところで、キミが好んでやまない安っぽい愛を手に入れられると思ったら大間違いだ。真実の愛というものは、マイナスから生まれるのではなく、プラスを積み重ねることで……そう。ワタシのように、たゆまぬ努力を続けた先にこそ生まれるのだと、そうは思わないかね」
ラヴの振り下ろした前足を跳んで避けたヴィクターは、そのふかふかな純白の足の甲へと華麗に着地してはそんな持論を述べる。
すかさずもう片方の前足を持ち上げて、上下から挟み潰そうとしたラヴの一撃を、ヴィクターは真上に向けたステッキの宝飾で受け止めた。
筋力を増強する魔法をとっさに掛けたとはいえ、重いものは重い。彼は被さる手のひら――否、この場合は足の裏というべきか。その弾力のある肉球へと、文字通り熱の篭った魔力を放出した。
『うぅっ! あっつい! なんてことするだよ!』
爆発音と共に離れた足を蹴りつけ、ヴィクターが地面へと飛び降りる。
両前足を引っ込めて上半身をぶんぶん振るラヴの目には、涙が浮かんでいる。
魔力による高熱の光線を浴びせられた彼の肉球は、赤く火傷をしたかのような傷を負っていた。
「そんなに痛いのが嫌なら、もう大人しくしていたまえ。これよりもっと痛い思いをするのも嫌だろう」
『うるさい! 俺は愛を司る魔獣になるんだ……そのためにオマエみたいに酷いことをする、愛の欠片も持ち合わせていない人間を全員殺して、残った世界中の人間達から愛してもらうんだよ!』
「……」
ラヴの叫びを聞いて、ヴィクターが口を噤んだ。なにやら難しい顔をした彼は左手でステッキをくるくると弄び、視線が左上を向いて思考に耽る。
その間も、ラヴは次の攻撃を仕掛けるべくヴィクターの一挙一動に目を向けていた。
これまでは虫を潰すように、空き缶をぺしゃんこにするように押し潰してやろうと考えていたが、それでは生ぬるい。
『ズタズタに引き裂いてやる……』
ラヴの前足から鋭く伸びてきたのは、鋭利な鉤爪だった。
今にも飛びかかってヴィクターのその柔肌に爪を立ててやろうと、姿勢を低くして戦闘態勢に入る。
もちろん爪の伸びたこの前足は武器とはなるが、立派に発達した後ろ足のことを忘れてはならない。バネ仕掛けのびっくり箱よろしく飛び出す準備はとっくのとうにできているのだ。
そして、ラヴがヴィクターに手をかけようと後ろ足に力を込めた、まさにその時――
「あっ。分かった」
『――ッ』
ついにヴィクターの思考が、答えを導き出した。
ジロリと見上げた紅梅色の瞳と目が合うと、ラヴの全身は金縛りにあったかのごとく硬直する。――動けない。熱さを感じるとはまた違う嫌な汗が、ラヴの背中を伝って流れていく。
「キミ、ワタシに対して憎しみの匂いがするとかどうとか言っていたね。それはてっきり魔法局の……ワタシを牢に閉じ込めた、あの憎きオズワルド・スウィートマンと同じ目をしたサラくんのことを言っているのかと思っていたのだが、それは違う。彼女は……たしかに最初は気に入らないと思っていたが、あの男とは別人だからね。クラリスの友人となった以上、ワタシは受け入れようと思っている」
ステッキの石突きが地面を叩いた。
コツコツと音を立ててヴィクターが向かった先は、ラヴの足元である。
「それならワタシの怒りの矛先はどこに向いているのか。――愚かな魔獣、ラヴ。キミは最初に出会った時、ワタシになんと言ったのかを覚えているかね」
苺水晶が真っ白なラヴの巨体へと押し付けられた。
ここまで来れば、勘のいい相手は尻尾を巻いて逃げ出していたことだろう。なにせ今回は蜂人間相手の時のように足を踏みつけているわけでもなければ、使い魔相手に待てをさせているわけでもない。
ならば、なぜラヴはその場を動かなかったのか――それはヴィクターの目が、彼の目を捉えて離さなかったから。ただのそれだけだったのだ。
「キミはたしかに言ったのだよ。ワタシには愛が足りないと。この世界中の誰よりもクラリスのことを愛しているワタシにだ。そりゃあたまには喧嘩もするし、今日だって悪い態度をとってしまったと反省はしているが……彼女との将来のために、今のうちから家計簿の予習も貯蓄もしてるし化粧品のブランドとカラーはメモして買い置きもしてれば彼女がうたた寝している間に……こっそり指輪のサイズを測った上でわざわざ姓をあけていつでもアークライトを名乗れるようにと準備をしている、このワタシにだよ」
早口にヴィクターがまくし立てる。――押し当てられた宝飾が、熱を持った。
「そしてさっきはなんと言った。ワタシが愛の欠片も持ち合わせていない人間だと……聞き間違えでなければ、そう言ったのかね。こんなにもクラリスを想っているワタシに向かって、足りないどころか持ち合わせてすらいないと……ねぇっ! それって、とんでもない侮辱的発言だとは思わないかね」
次の瞬間、ブツンとなにかが切れる音がした。
音に驚いて、ラヴの身体がびくりと跳ねる。いや、違う。音に驚いたのではなく、突然襲いかかった振動に全身が動いたのだ。……熱い。大きな巨体の胸と背中が、今まで感じたことのないくらいの熱を持つ。
ラヴが視線をヴィクターの手元に向けると、自分の白い体毛がじんわりと赤く染まっていくのが目に入った。それと同時に、彼は自身の身体になにが起こったのかをようやく理解する。
『あああッ! いたい……いたいいたいッ!』
「なにを言う。たかが一回魔力が身体を貫通しただけだ。ちゃんと本体から狙いは外したし、傷も小さい。むしろ二度も傷つけられたワタシの心の方がもっと痛かったよ」
『心って……そんなわけないだろ! なにが愛だ。……もしかして気づいてないのか? オマエのそれは愛なんかじゃない。自分勝手に愛情だと勘違いしただけの、醜い――ッ!』
そう言いかけた刹那、ラヴの眼前に閃光が走った。
爆発――轟音と同時にヴィクターの放った魔力が弾け、体毛を焼き切る爆風にラヴはたまらず前足で顔を覆う。
「……それ以上口にするな」
硝煙の向こう。重々しくそう口を開いたヴィクターの瞳は、わずかに揺れていた。
向けられる凶器を前に、ジリジリとラヴが後ずさる。しかしここは商店街。建物が多く並ぶ中では、彼の巨体はあまりにも逃げ場が無かった。
「ワタシのこの想いは、勘違いなんかじゃない。初めて彼女を目にした時のことも、恋を自覚した時の胸の鼓動だって、あれは本当に――いや、魔獣ごときにワタシのことが理解できるはずもないか」
『ひっ……』
頭を振って雑念を振り払う。その目が再びラヴへと向けられた時――ヴィクターの顔は、いつも通りの余裕を取り戻していた。
視界をチラつく薄桃色の宝石を前に、ラヴの喉からは声にならない悲鳴が漏れる。先程まではピンと立っていた長い耳も、今はペタリと倒れてしまっていた。
「良い子だね。そのまま大人しくしていたまえ。クラリス達が戻る頃には力も弱まって、キミも人間と変わりない容姿に戻っているだろう」
『でも、俺は……俺は……』
「まだ戦いたいというのなら相手をするよ。だが……実力差はその身で覚えたばかりだろう。……クラリスはわずかながらにもキミの身を案じている。ワタシにこれ以上、傷つけさせるような真似をさせないでほしいんだ」
『うぅ……ううう……!』
迫り来るヴィクターを前にして、ラヴは唸ることしかできなかった。
攻撃する気が無くなったわけでもない。まだ燃やすことも、潰すことも、切り裂くことだって、その気になれば行動に移すことができる。だがそうしたところで、しょせんは無意味だと分かった――分からせられてしまったのだ。
それじゃあ、自分は一生他人に憎悪を振りまくだけの存在として、これからも生きなければならないのか?
悔しい。まぶたをぎゅっと閉じると先程に負けない大粒の涙がラヴの目から溢れ出る。
涙はやがて彼の頬を伝い、二人の間で地面を濡らし続けた。




