第51話 おいしいを教えてくれる隣人
《翌日――スイーツフェア最終日》
空は快晴。町を賑わす甘い香りは、正真正銘幸福を煽る香り。
クラリスが待ち望んでいたスイーツフェアの姿が、ここにはあった。
「ヴィクター、次はあっちに行きましょ! 数量限定のチョコレートマフィンがまだ売っているみたい。無くなる前に急がないと!」
「チョコレートマフィン? チョコレート味なら、さっきフィナンシェやらマドレーヌやらも買わなかったかね」
「同じ焼き菓子でも、見た目も味も全然違うでしょ。……せっかくなんだもの。来られなかったエイダちゃんの分も私達が楽しまないとね。って、噂をすればあのワゴン! ヴィクターこれ預かってて。ダッシュで買ってくる!」
そう言うと有無も言わせぬうちに、クラリスはヴィクターの腕の中へと持っていた紙袋を押し込んだ。とっさにそれらを抱き留めた彼は、慌てて指を鳴らして魔法の引き出しへと収納をする。
「わっと、ほらクラリス! いくら前より人が少ないからといって、迷子にだけはならないでくれ。ちゃんと食べられる分だけ買うんだよ!」
「分かってる!」
パタパタと駆けていくクラリスを見送り、ヴィクターはようやく一息ついた。朝から歩き詰めでヘトヘトなのだ。
スイーツフェアの最終日は、出店数も少なくなっていれば訪れている人々も先日の半分程しか見当たらない。
――無理もないか。エイダくんのクッキーが出回り始めた頃には、撤退する店もいたみたいだからね。危機管理能力がしっかりしている人間は早々に町を離れたことだろう。
その分こうして、また人に揉まれることもなく見て回れるのは、ヴィクターにとって願ったり叶ったりであるのだが。
「んー……ベンチ。あっ、あそこが空いてる」
近場のベンチが無人なことを確認して、ヴィクターはその真ん中に腰かけた。
そろそろ昼食時である。クラリスのことだから既にランチの目星はつけていることだろう。
そうボーッと彼女の帰りを待つことにしたヴィクターではあるが、視界の端をウロウロする人影に気がついたのはすぐのことだった。
「……レディ。なにか用があるなら、そこで遠慮していないで話しかけてきたらどうかね」
「えっ! えっと……その……」
突然声をかけられて、驚いた様子なのは小さな少女であった。見たところあのエイダよりも幼い。
少女はヴィクターの顔を見ると、顔を赤くしながらもじもじと胸の前で両手を弄りながら近づいてきた。
小さな女の子への警戒心からか、彼は一瞬全身を緊張させたものの……ほどなくして力を抜いた。この子供はエイダではない。気を張るようなことはもうしなくてもいいのだ。
「あの、アタシ、あっちでバナナケーキを売ってるの。おかあさんが作った、おいしいバナナケーキ」
「……それをワタシに買えと?」
「うん。あんまり売れてないんだって。だからベンチに座ってる人に声かけてきてって」
子供は正直なものだ。いや、それ以前にこんな小さな子供にそんなことを頼む親もどうかと思うが。
少女越しに付近に目を向けると、少し先にそれらしきショーケースと、相応に若い女性が看板を持って立っていた。
有名店の並ぶ中に埋もれてしまったのだろう。少女の言った通り、売れていないのか立ち止まる人間もほとんどいない。
――どんな親かと思ったが、単に売れずに切羽詰まっているだけか。
ヴィクターは指を鳴らして黒い革張りの財布を取り出すと、少女に向けて声をかけた。
「ひとついただくよ。ワタシはここに座ってるから持ってきてくれ」
「いいの?」
「ああ。連れがスイーツに目がなくてね」
そう言うと、少女はパッと笑顔を咲かせて母親の元へと走っていった。
あの子の姿が、エイダに重ならなかったと言えば嘘になる。もしも彼女が魔法使いに唆されることなく、人としての道を歩み続けていたとしたら、こんな光景が見られていたのかもしれない……と。
しばらくして戻ってきた少女は、ケーキ箱を両手で抱えて高揚した様子でヴィクターへと差し出した。その奥で母親がペコペコ頭を下げているのが見える。
「ありがとうございますって、おかあさんが!」
「そうかい。じゃあ……これ。お釣りはいらないから、余りを使って好きなお店でお菓子を買ってもらうといい」
「わぁ……紙のお金だ。ありがとう、おにいさん!」
少女は無邪気にそう笑うと、ぶんぶんと手を振って母親の元へと帰っていった。
「ふぅん。ヴィクターも案外いいところあるんじゃない」
「……クラリス。見ていたのなら声をかけてくれ。ワタシは子供の扱いが得意じゃないんだ」
「そう? 上手くやっていたように見えたけど」
目当てのものを買い終えて戻ってきたクラリスは、意地の悪い顔でそう言った。
ヴィクターが横に避けると、クラリスは空いたスペースに座って、手にしていた箱や袋を置いた。チョコレートマフィンとやらを買いに行くと言っていたが、あきらかにそれ以上のなにかを買い込んでいる。
「しばらくは間食には困らなそうだね……ああ、これはバナナケーキらしい。日持ちしなそうだからホテルに帰ったら食べてしまおう」
「そうね。うーん、お腹も空いてきたし、お菓子より先にランチにしたいところなんだけど……ほら、ヴィクター。ここなんてどう?」
「どうって……またパンケーキかね」
彼女がスマホを軽快に操作して、見せてきたのは小洒落たレストランの料理の写真であった。
分厚いパンケーキの上には、懲りずに法外な量の生クリームとフルーツソースが乗っている。
――もはや致死量ではないかね。
そう口から出かかった言葉をヴィクターは飲み込んだ。
「ふふん。そう言うかと思って――じゃん。なんとここは、おかず系パンケーキも置いているお店です!」
「おかず系?」
「そう。ほら、ベーコンとか目玉焼きが乗ってるでしょ? 最近こういうの出してる店が増えてきててね。ヴィクター、甘いパンケーキは苦手そうだったから、これなら食べられるかなと思って。……やっぱり嫌だった?」
申し訳なさそうにクラリスがヴィクターの顔を覗き込む。
たしかに写真に写るパンケーキは、他とは違って肉やタマゴ、チーズなんかが乗っているものが多いらしい。
彼はじっと下から上にスクロールする画面を見つめていたが、やがて指を鳴らして全ての荷物をしまうと、立ち上がったその場で大きく伸びをした。
「ヴィクター?」
「よし、そこに行こう。せっかくクラリスがワタシのために探してくれたんだ。行かない選択肢があるはずないだろう。案内してくれるかね?」
「やった! 実はもう予約を取ってあるの。そう遠くないから早く行きましょ!」
クラリスはそう言って、ぴょんとベンチから降り立った。
レストランやパティスリーが多く並ぶ町、スモーア。一時は嫌気がさすほどに町中を覆っていた甘い香りも晴れ、ようやくあるべき姿に戻りつつある。
――こんなにもクラリスを虜にするんだ。ワタシもそのうち、スイーツ作りに挑戦してみようかな。
嬉しそうに道案内を始める彼女の横顔を見て、ヴィクターの心の中にはひとつ。将来のやりたいことリストが追加されたのだった。
第1部 第2章『賞味期限切れの魔法は腐った果実の味がした』――完




