第49話 非力な私に力を貸して。魔法使い
おかしい、と思ったのは、クラリスが目を開けてすぐのことだった。
――あれ? 私、広場の中にいたはず……だよね。
彼女はいつの間にか、知らない場所に立っていた。
どこかの建物の屋上のようであるが、もちろんこの町に来てからこんな高い場所に登ってきた記憶は無い。
――どういうこと? たしかヴィクターがエイダちゃんに飲み込まれちゃった後、すぐに大きい爆発が起きて……
「ッ!」
ハッとして遠くの景色にクラリスが目を凝らす。
転落防止用の柵の向こうには、黒煙が上がっていた。間違いない、あの場所は今まで自分がいたはずの広場である。それであれば、方角と距離的にこの場所は宿泊していたホテル付近の屋上だろうか。
――そんな。もしかしてヴィクターは、まだあそこに……?
果たしてあの爆発に巻き込まれて、無事に済む人間がいるのか。助けは必要としているのか。そんなことを考える前に、クラリスの足は既に動いていた。
「早く、ヴィクターを助けにいかないと――」
「呼んだかね」
「わっ!」
目当ての人間は案外、というよりも普段通りに近くにいた。いてもたってもいられず振り返ったクラリスの目の前に、ケロリとした顔で彼は立っていたのだ。
髪やコートの端に焦げたような跡はあるが、五体満足どころか目立つような傷ひとつない。
正真正銘、そこにいるのはいつも通りのヴィクターだった。
「無事……だったのね。良かったぁ」
顔を見た安心感からか、クラリスは思わずその場に力なくへたりこんでしまった。
それを見たヴィクターも、少し不思議そうに目をパチパチと瞬きしながら、一緒になって彼女の前にしゃがみ込んで、膝を抱えた。
「無事に決まっているだろう? ワタシを誰かと思っているのかね。あんなことでいちいち死んでいたら、命がいくつあっても足りないよ」
「普通の人間はあんなことで死ぬから心配してるのよ……」
ヴィクターはゆらゆらと前後に揺れながら「ふぅん」とだけ返事をすると、チラリと上目遣いにクラリスに目線を向ける。
その姿はまるで褒められたい大型犬のようだ。期待を込めたこの顔は、自身の容姿に自信がなければとてもできるものではない。
――うっ。まだ駄目よクラリス。今この手を伸ばすことを許したら、味をしめて今後ことある事にこれをねだられる気がする。
もちろん彼の頑張りは褒めるべき点ではあるが、まずは状況を整理してからだ。褒めるのはそれからでも遅くはない。
つい手を伸ばして撫でたくなる衝動を抑えて、クラリスはわざとらしい咳払いをひとつして誤魔化した。
「んんっ、それでヴィクター。私達、さっきまで広場にいたはずだけれど……いつの間にこんな所まで戻ってきたの?」
「なんだそんなことか。なにもわざわざ歩いて戻ってきたわけじゃない。瞬間移動をする方法なら……キミももう知っているだろう」
そうヴィクターが言うと、空からバサバサと風を切る音を立ててカラスが二人の間へと降りてきた。間違いない――『エイダ』の凶弾によって死んだと思われたはずのフィリップだ。
フィリップはしゃがんだヴィクターよりも、さらに低い位置から彼の顔を見上げては、もぞもぞと畳んだ羽を動かし長い嘴を開いた。
『デザートも追加』
「……はいはい」
『店ハ?』
「任せる」
『時間』
「夜ならいつでも。適当に迎えに来て」
きっかけも無く突然テンポよく繰り広げられる言葉のキャッチボールに、クラリスはただ当惑するばかりだ。
内容から察するに、どうやら待ち合わせの予定を立てているようではあるが、ヴィクターがまるで他人任せな返答しかしていない。乗り気ではないのだろうか。
『――ヘヘッ、こりゃあ贅沢デキそうダ。使い魔三匹モ身代わりにさせタ甲斐があっタゼ。すっぽかすンじゃネェゾ、ヴィクター!』
会話の最後にそうフィリップは上機嫌に言うと、大きな翼を広げて東の空へと飛んで行ってしまった。
逆に機嫌を損ねてしまったのはヴィクターの方である。彼にとって、せっかくのクラリスとの話の途中に水を差されたのだから、というのは言うまでもない。
彼は立ち上がると、心の中のイライラを体現するかのように腕を組んで、柵にもたれかかった。
クラリスも思い出したように地面に手をつきながら立ち上がる。
「そうか。瞬間移動……フィリップさんが助けてくれたのね」
「助けてもらったんじゃない、手伝わせただけさ。おかげでディナーを奢る羽目になってね。明日はキミといられる時間が減ってしまった」
「たまにはいいじゃない。友達同士で積もる話もあるでしょうし、ゆっくりしてきたら?」
「……しない。アレとはそういう関係じゃないからね」
どうせ自分とは毎日顔を合わせているのだから、少しでも羽を伸ばしてきたらいいのに……とは思ってもこの態度だ。
するとそれと同時に、町のどこからかサイレンの音が響きはじめた。建物の間が赤く点滅していることから、事件現場へと車や人が集まっているのがこの屋上からもよく分かる。
「エイダくんの魔法が解けたことで、中毒症状が出ていた人間達はおおよそ元通り。政府の機能も回復しはじめたのだろう。そのうち魔法局も介入してくるだろうし……あそこには、魔法に関する傷を治せる凄腕の医者がいると噂されているからね。我々の仕事は終わったも同然だ」
「終わったも同然って……私達で何があったか説明した方がいいんじゃないの? エイダちゃんがクッキーを売っているところは何人も見ているけれど、あのクッキーに人をおかしくする力があって、その上エイダちゃんがあんな……魔獣になってしまっただなんて。ましてやこの事件の黒幕が魔法使いだってこと、説明できるのは当事者の私達だけじゃ――」
「クラリス」
ヴィクターが名前を呼ぶ。呼ぶというよりは呼び止めるという方が近いのかもしれない。
彼は柵越しに広場へ目を向けると、まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるかのような声音で、ゆっくりと語りはじめた。
「あの広場……今がどんな状況なのか、キミは分かっているのかね」
「どんなって、かなり酷いことになっていると思うけど……。エイダちゃんが溶かした地面はでこぼこになっているだろうし、大きな木も燃えて無くなっちゃった。極めつけに最後の爆発であそこは……」
そこまで口にして、クラリスは言葉を詰まらせた。
なにも感傷的になったわけでも、突然記憶喪失になったわけでもない。余計なことに気がついてしまったからだ。
「気がついたかい。親切心で関係者だと名乗ってもみたまえ。あの場所を復旧するために多額の請求をされたとしても、我々にはとても払う金が無い。ワタシの全貯蓄をもってしてもだ」
「で、でもそれって、半分はヴィクターが派手にやったからじゃ……」
「……それはちょっと反省している」
珍しく本当に反省したのか、ヴィクターががっくりと肩を落とす。
実際問題、クラリス自身はなにも罪に問われるようなことはしていないのだが……これでも身を寄せあって旅をしている関係。ヴィクターの起こしたことを他人事として割り切って考えられるほど、彼女は冷たい人間になりきることはできなかった。
――もしも私とヴィクターが広場の惨状に関係しているとバレたら、待っているのは多額の借金生活かもしれない。働いて返すのはもちろんとして、お父さんとお母さんに事情を説明して、あとは親戚と故郷の友達にも助けを……って、無関係な人達にそんな迷惑かけられるわけないじゃない……
そう悩んでいる間にも、天使と悪魔が彼女の耳元で囁く。町の人間に真相を包み隠さず伝えるのか、自分達の保身に走るのか。
頭から湯気が出そうなほどの葛藤を重ねた結果、クラリスが選んだのは――後者であった。
「……分かった。本当に心苦しいけれど、今後の調査と修繕は魔法局と町の人達に任せましょう。なんだかすごく悪いことをした気分……」
「魔導士が関わっていることなんて、どうせ捜査すれば分かることだ。ワタシはいい判断だと思うけどね。……あの場に目撃者がいなかったことを祈るばかりだ」
「うん……あっ、それでねヴィクター」
「ん?」
ヴィクターの視線がクラリスに戻される。見返り美人という言葉は、まさにこの光景のことを言うのだろう。
彼女は月明かりに照らされた男の横顔を前に、ひとつ深呼吸。意を決して胸の内を打ち明けた。
「実はお願いが……あるんだ。ベンさん達みたいに魔獣の被害に遭った人や、エイダちゃんみたいに魔導士にされてしまった人……もしもこの先、そんな人達に出会うことがあったらね。その時はまた、ヴィクターの力を貸してほしいの」
「……ワタシの?」
「うん。私が誰かの助けになりたいと思った時や、戦わないといけないと思った時。そんな時に非力な私が頼れるのは……ううん。きっとそんな時でも私の隣にいてくれるのはヴィクターだと思ったから、こんな無責任な正義感でも形にできるんじゃないかなって、そう思ったんだ。この前の事件も、今回の事件も……私は黙って見過ごすだなんて、できなかったから」
本当に無責任だということは分かっている。あるのは気持ちだけ。
他人任せ。身勝手。恥ずかしい。そう自身を攻める言葉が頭の片隅によぎっては、考えを打ち消す。しかしクラリスがいくら自分を非難する言葉を並べたって、意味もない。答えを決めるのはヴィクターだからだ。
そしてそんなクラリスの考えを見透かしたかのように、彼から出された答えは――予想するまでもなく、もちろん『イエス』だった。
「ワタシがクラリスからのお願いを断るはずがないだろう。そんなことでキミがそばにいてくれるのなら、見返りもいらない。いつだって力を貸そう」
「……ありがとう、ヴィクター。私の話を笑わないでくれて。それに今日のことも」
素直にクラリスが礼を言うと、ヴィクターは口元を緩めて笑った。
「キミの言葉ひとつひとつは、ワタシにとってどれも甘言だ。悪い意味じゃあない。キミの言った言葉だからこそ、どんな要望でもワタシはなんとかしてやりたいと思えるんだ。だが……世の中誰しもが、こうして願いを叶えられるわけでもない。エイダくんに付け入った魔法使いは、まさにそういう人の心の隙を利用して、善意の押しつけをしているのだろうね」
ヴィクターが柵から体を離してパチリと指を鳴らす。間もなくして、クラリスの肩には柔らかなブランケットが掛けられた。
風は強くはないが、それでも肌寒い。いつまでもここにいないで、部屋の中に戻ろうという意思表示なのだろう。
背後に立つ彼からは、もうあのジャムの甘い香りはしなかった。
「ああそうだ、クラリス。最後にひとつ。勇敢で誠実なキミに、ワタシが教訓にしている言葉を贈ろう。――魔法に呑まれるな。甘言を弄する魔法の言いなりにはなるな――魔法はキミの素敵な隣人ではない。……まさにかの魔導士共にはぴったりの言葉だね。もしもキミがそんなものに頼らないといけないほどに困った時は、これからも迷わずワタシを呼びたまえ」
彼はそう言って、ポンとクラリスの肩を叩いた。
「ワタシが代わりとなり、その力を存分に発揮しよう。なにせワタシは世界で一番頼りになる、キミだけの魔法使い。そしてキミはワタシにとっての、ただ一人の素敵な隣人なのだからね」




