第46話 失ってチョコレート、どこいった小瓶
『エイダ』から放たれた四つの酸の弾丸は、目視するにはあまりにも難しい速さで、ましてやほとんどゼロ距離に近いような場所からヴィクターへと襲いかかった。
肉が溶ける嫌な臭いは、『エイダ』の放つ悪臭に混ざってすぐに空気を汚染する。その臭いの発生源には――そう。翼を広げたまま絶命している、酸を浴びた哀れなカラスの死骸が。
チョロいものだ。こんなにも簡単に食べ物に釣られるなんて、滑稽なのはどちらだろうか。
『……? ましゅまろ? ましゅまろ?』
不思議そうに『エイダ』が声を発しながら、タコの足のように蠢く触角をあちらこちらへと伸ばす。
探し回るのも無理はない。この一瞬で相手が鳥と入れ替わっていたら、人間だろうが魔獣だろうが、誰だって混乱もするであろう。
ならば入れ替わったヴィクターはどこへ行ってしまったのか。答えは彼女のすぐ後ろにあった。
「エイダくん、どこを見ているのかね。ワタシはここだよ」
聞こえた声に、『エイダ』の触角が一斉にその方向へと振り向く。
瞬間、彼女を襲ったのは異様なほどの熱さだった。
ジリジリと身体の表面が焼かれていく感覚。眩しすぎて目が眩んでしまう光に、あるはずのない瞼を思わず彼女は細める。
それは――太陽が世界の反対側から落ちてきたかのような、大きな火球だった。
「爆破して駄目なら燃やしてみよう。それでも糸口が見えないのならば……まぁ、また適当に試せばいいか」
ヴィクターが立っていたのは、先ほどまでカラスが止まっていた木の枝の上だった。
大人の男一人の体重が支えられるほど、立派な木でよかった。すくすくと、よくぞここまで育てあげるには何十年もかかったのだろう。
ただ、それだけ立派な木であっても――今はこうして、見るも無惨にヴィクターの作り上げた火球によって、葉の先から燃え広がりはじめているのだが。
「火事になる前に、跡形も無くなるといいのだが」
ヴィクターがそれまで振り上げていたステッキを振り下ろすと、火球は応じてゆっくりと下降を開始した。
熱が、じわじわと『エイダ』の体表を焼いていく。
この感覚は、焼けるというよりも溶けるという方が近い。いかに応戦すべくジャムを吐き出しても、そのどれもが火球に触れる前に蒸発しては消えていく。
『――! ――ッ!』
「ふむ。図体がデカいからか、思ったよりも時間がかかるね……ん?」
その時、ヴィクターがなにかに気がついた。
彼は軽快に枝から飛び降りると、杖先を地面に打ち付けた。途端に、何事も無かったかのように火球が煙ひとつ残さずに消失する。
可哀想にも『エイダ』の頭上半分は熱によって溶けて動かなくなってしまったが、そんなことよりも彼が気になったのは別のことであった。
「爆発で飛び散ったエイダくんの身体の一部は……どこへいったのかね」
そう。最初の爆発、そしてその後数回に渡る小規模な爆発。クラリスを遠ざけた理由にもなった、『エイダ』から飛び散った体液がどこにも見当たらない。
最初は全て蒸発してしまったのかと思ったが、どうやら違うというのは地面に描かれた幾本もの湿った轍が証明している。
これは、ただ車輪が通ってできた跡ではない。なにかが動き、這いずり、そして――地面を溶かしてできたものだ。
「ちょっと、なんなのこれ!」
「……クラリス?」
声が聞こえたと共に、隠れていた木の陰から子ウサギのごとく飛び出したのはクラリスであった。
彼女はなにかから逃げているのか、後ろを振り返っては急ぎ足でしきりに後ろを気にしている。
そんなクラリスの背後から背中を追って現れたのは――彼女の背丈ほどもある、ナメクジにも似た生物であった。
――あれは……エイダくん?
それは、言うならば小さい『エイダ』だ。ヴィクターがカタツムリではなくナメクジだと思ったのは、彼女のように瓶を背負ったりしていなかったから。
数は一体、二体、三体……いや、それどころではない。無数の『エイダ』達が一丸となり、クラリスの後を群れをなして追いかけているのだ。
「ヴィクター! この子達をどうにかして! エイダちゃんと同じで、触ったものを溶かしちゃうみたいなの!」
そう言われてヴィクターは合点がいった。
これぞ魔獣の身体の不思議。飛び散った『エイダ』の体液は、皆あの『ミニエイダ』となってしまったのだ。
生物の中には、分裂を繰り返すことで繁殖するものもいるとは聞いたことがあるが、まさか彼女もそうなのだろうか。
「ああ、待っていたまえクラリス! 今そっちへ助けに――」
そうヴィクターが一歩踏み出そうとした瞬間、彼の目の前をなにかが通過した。――『エイダ』が吐き出したジャムだ。
振り返ったヴィクターが頭半分になってしまったはずの彼女を見上げると、彼の口からは思わず「おや」と驚いた声が飛び出た。
「イメージチェンジにしては、子供ウケが絶大に悪そうだが。その見た目で菓子売りは諦めた方がいいのではないかね」
『あまいね、あまいね』
声がダブって聞こえるが、それもそうだろう。『エイダ』の頭の触角は――この少しの時間で、さらに分裂を繰り返して増殖していた。
さながらその様子は、頭でっかちイソギンチャクである。きっと、寄生虫なんかが人の頭を食い破って出てきたらあんな感じなのだろう。
――もしかして、攻撃を与えること自体がマズかったのか? 頭のアレに、クラリスを追っている小さいのに、この調子で増えられたら手に負えなくなる。別の方法を考えないといけないな……
仮に刺激を与える、または身体自体を欠損させることが悪手なのだとしたら、ヴィクターとしてはお手上げだ。
なにせ、彼は暴力で殺せない生物を知らない。
「ヴィクター、大丈夫!?」
「問題ないよ。それよりクラリス、すまないがもう少しそのまま走っていてくれ! こっちの大きいのがワタシを離してくれる気がなさそうでね」
「もう少しって……けっこう小走りでもキツいんだけれど!」
いくら相手のスピードがゆっくりとはいえ、数も多ければ逃げ場所も限られている。
先程も走った後だ。この運動不足のクラリスの体では、いつ足をつってしまってもおかしくはない。
しかし幸か不幸かこの『ミニエイダ』達はクラリスにしか興味がないようで、意図せずともヴィクターに代わって彼女達の注意を引いているということに間違いはなかった。
『ちょこれいと? あまいね、あまいね』
「チョコレートって……もしかしてアナタ達、これが食べたくてついてきてるの!?」
ハッとした様子で、クラリスが腰のポーチからオシャレな小箱に入ったチョコレートを取り出す。
しばしの沈黙。そして彼女が断腸の思いでその中身を後方に投げてみれば、半数以上の『ミニエイダ』が一目散にそこへと集まった。
――やっぱり! ちょっとは時間稼ぎができそうだけれど……今回のイベントで買った高いチョコだから数は多くないし。みんなで大人しく殻にでも籠ってくれてればいいのに……って、この小さいエイダちゃん達には殻は無いんだった。
そう思った時、ふと。クラリスは大きい方の『エイダ』に視線を向けた。
頭の形は見違えるほどに変わってしまっていたが、それよりも気になることがある。
クラリスはチラリと後方を確認した後に、走る速度を上げて『エイダ』の後方へと回り込んだ。
幸いにも『エイダ』の視線はヴィクターへと向けられていたからか、確認したかったものはすぐに見つけることが――否、見つけられないことができた。
「ヴィクター! こっち! エイダちゃんの背中にあの瓶が無い!」
「瓶……? おっと」
足元に飛んできた酸を避けて、ヴィクターが『エイダ』の背中に目を向ける。
言われてみれば、エイダが溶けて消えていった時に現れた瓶の姿がどこにも見当たらない。最後に見たのはたしか――彼女の家の屋根から降り立った時だ。
思い返せばあの瓶を踏み台をした時、たしかに。『エイダ』からは悲鳴があがっていたはずだ。
「……そうか。さすが世界で一番賢くて愛らしいワタシのクラリス! つまり今までワタシが相手していた、このドロドロはただのデコイで、エイダくんの本体はそちらの瓶の方だと! そう言いたいのだね!」
「えっ? あぁ、うん、そうかも!」
クラリスとしてはただ気がついたことを口に出しただけだったのだが、ヴィクターがそう理解したのならばそれでいい。
彼は感激した様子で続けざまに賛辞を述べていたが、口を動かしながらも華麗に『エイダ』の攻撃をあしらう姿は器用なことこの上ない。
しかしその一方で、彼は考える。ならば、あの瓶はいったいどこへ行ってしまったのか、と。
――なるほど。どうりで攻撃したところで意味がなかったわけだ。瓶が見えないということは、わざと弱点を隠しているのか? いや、だったら最初から見せびらかすようなことはしないだろう。無くなったのはいつだ? ワタシが踏みつけるまで、たしかに表に出ていたのだから――
その時はたと、ヴィクターの思考が止まった。
ステッキを右に左に手は動かしたまま、時には魔法を使ってはいるものの、一転。バツの悪そうな表情でなにかを言い淀んでいる。
「……クラリス」
「なに? もしかして、なにかに気がついたの?」
『ミニエイダ』達とは距離を保ちながら、クラリスはなにか言いたげなヴィクターの様子を横目で気にかける。
彼は「いや」だの「ううん」だのとひとしきり口をもにょもにょと動かした後、『エイダ』から飛んできた特大な酸の弾を爆散させ――それからやっと言葉を発した。
「エイダくんの瓶が無くなった原因……ワタシかもしれない」




