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災禍の魔法使いは恋慕の情には慣れていない  作者: 桜庭 暖
第1部 第2章『賞味期限切れの魔法は腐った果実の味がした』
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第42話 腐り落ちた善性、沼の底で溶けて

 二人の前に現れたエイダの姿は、昼間に見た時よりもさらにやつれ、目だけが爛々と輝いていた。

 まず最初に目に入ったのは、エプロンにべったりと付いたジャムだ。普通に料理をしているだけで、あそこまで酷く汚れるはずがない。


 きっと、今まさに――彼女は()()の最中なのだ。

 追い討ちをかけるかのように、開いたドアの隙間から漏れる濃いジャムの香りを受けて、ヴィクターがわずかにえずいたのがクラリスの頭上から聞こえた。



「さぁ、お兄さんもお姉さんも中に入ってください。もう少ししたらお客さんがたっくさん来てくれてる予定なんです! 美味しいクッキーもあとちょっとで出来上がりますよ!」



 エイダはにこにこと、本当に心の底から二人の訪問を喜んでいるように見えた。

 彼女はドアの方へと寄って、片手で中へ入るようにとアピールする。

 しかし一向にその場を動こうとしない彼らの様子を見て、すぐに彼女は子供らしく首を傾げた。



「……ごめんねエイダちゃん。私達、クッキーを食べに来たんじゃないの」


「えっ。どういうこと……ですか? だって、ここに来る人はみんなそれだけを目当てにして……あっ、そうか! お姉さんはまだ食べてなかったんですよね。クッキー」



 一人合点のいった様子で、エイダはエプロンのポケットから保存容器を取り出した。最初にヴィクターに差し出したのと同じ、あのイチゴジャムサンドクッキーが入った容器である。

 彼女はふらふらとした足取りで、裸足のままなこまとも気にせずにクラリスの元へと歩きだした。

 そして、容器の蓋を開けると、笑顔でそれを掲げて見せる。



「えへへ。お姉さん、どうぞ! 一口でも食べればきっと気に入りますよ! だってこれは――」



 そう、エイダが言いかけた瞬間、彼女の掲げていた容器が地面に叩きつけられた。

 代わりに彼女の目の前に現れたのは、自分の腕と同じくらいの太さもある黄金色の柱である。それが、突然上から降ってきたのだ。

 もちろんそれは、自然に降ってきたものなどではない。



「お兄さん、どうして……」


「どうして? 白々しいね。今までは目を瞑っていたが、クラリスにまで危害を加えようというなら話は別だ。それを食べた人間が最終的にどうなるのか、作り手のキミが知らないはずもないだろう」



 裏切られたようにも感じただろう。エイダは信じられないというような目でヴィクターを見上げていたが、対するヴィクターの視線は冷たいものだった。

 彼が振り下ろしたステッキを退けると、容器の中に入っていたクッキーはすっかり粉々になってしまっていた。

 普段ならば、こんなことをすればクラリスから三日三晩口を聞いてもらえなくなるほどの大顰蹙(だいひんしゅく)をかうものであるが……今はそんな場合ではない。

 このクッキーの恐ろしさは、既にヴィクターの身をもって証明済みであるからだ。



「き、危害だなんてそんな……これはただのクッキーなんです。全然変なものじゃありません! 私はただ、みんなに喜んでほしくて……」


「そうかい。Um……残念だが、キミでは話にならないようだ。保護者は中かね。会わせてもらおうか。あわよくば直接指導をさせてもらいたいのだが」


「え? えっと、それは……ダメです! お父さんもお母さんも忙しくて部屋に……」


「関係ない。死人が出ているかもしれないのだよ? というより……さっき、我々に中に入れと言ったのは、レディ。キミの方ではなかったかね。なぜ今さら道を塞ぐ」



 ヴィクターの目の前でエイダが両腕を広げるが、彼女も自分の行動の矛盾には気がついたらしい。

 彼女はしばらくの間うつむいて小さく唸っていたものの、やがて諦めたのかゆっくりと腕を下ろした。


 ――この反応、エイダちゃん……もしかして、お父さんとお母さんはもう……


 ようやく話ができそうな状態に落ち着いたエイダと目線が合うようにと、クラリスは彼女の前にしゃがみ込んだ。



「エイダちゃん、教えて。アナタのお父さんとお母さんはここには……もういない。ううん、もう……死んでしまった。アナタの魔法で作られたクッキーを食べて。そうなんだよね」


「……なんで、そう思うんですか」


「だって、私が親だったら娘が初めて焼いたクッキーを一番に食べたいと思うもの。その時にすごく喜んでくれたから、アナタは町の人達にも喜んでほしくて、今回のイベントを使ってクッキーを食べてもらおうと思ったんじゃないかな?」



 そうクラリスが優しく問いかけると、エイダはこくりと頷いた。

 彼女に悪意が無いことを確信したクラリスは、わずかな安堵感に息をついてから、話しを続けた。



「このクッキーが危ないものなんだって、エイダちゃんが気がついたのはいつ?」


「……一週間くらい前です。最初は魔法を教えてくれた魔法使いさんが、力を貸してくれました。一緒に魔法を使ったら、なにも無いところにポン! って、クッキーが出てきたんです。でも、それを食べたお父さんとお母さんは具合が悪くなって……部屋に見に行った時にはもう……」


「そっか。アナタも辛かったんだね」


「……うん」



 エイダの目に涙こそは浮かばなかったが、彼女の言葉の端々には悲しさが滲んでいた。その瞬間は、たしか父や母のことを想い故人を(しの)んでいたのだ。

 それはきっと、心の片隅にまだ残っていた、魔力に侵される前の本来の彼女の想い。だが、それすらももう、『(魔力)』が全身を回りきって――



「でも、お父さんとお母さんが()()()()()()ジャムを見て、ようやく私は自分の魔法がどういうものなのか理解することができたんです。二人が教えてくれたんですよ。これ(クッキー)は、そうやって作るものなんだって!」



 今、死んでしまった。



「これが普通のクッキーじゃないと分かった時には、もう全部遅かったんです。最初のクッキーは近所の人達にも試食してもらってましたから。そしたら、みんな次の日にはもっと欲しい、もっと欲しいって私のクッキーを求めに来てくれて……えへへ。すっごく嬉しかったんです。やっと、やっと私の夢が叶ったんだって!」


「エイダちゃん……?」


「お姉さん、私言いましたよね。みんなが私のクッキーを食べてくれてる……私は今が一番幸せなんだって。お客さんもそうなんです。私のクッキーを食べてくれている時が一番幸せなんです。顔を見れば分かりますよ。顔を見れば……」



 おかしい、とクラリスが気がついた時には既に、甘すぎる臭いに彼女達は包まれていた。

 外にいるのに、まるで建物の中にいるように。臭いが、充満する。

 隣のヴィクターは微動だにしなかったが、この異常には気がついているようだ。頭を抱えながら後ずさりしていくエイダを見て、彼はステッキを握る指をピクリと動かした。



「でもどうして、みんなはお父さんとお母さんみたいな笑顔になってくれないんですか。あの笑顔が見たいのに……どうして。怖い顔で、私に近づいてくるんです。幸せそうにしているのに、なんか違うんです。でも、でも、理由なんて分からないから。もっとたくさんの人に食べてもらって、もう誰でもいいから……笑顔になってもらわないと」


「……クラリス。下がっていたまえ」



 ヴィクターが一歩前に出る。

 意味も分からないまま、言われたようにクラリスが数歩後退ったその瞬間――エイダの足元にドロリとした茶色い水溜まりが現れた。


 粘度があり、この過度な甘いジャムの香りが良い匂いであると感じてしまうほどに、そこからは悪臭とも言うべき酸っぱい臭いが立ち込めていた。

 思わずクラリスが鼻と口を押さえてもなお、混ざりあった強烈な悪臭が彼女の鼻をつく。

 不快。広大な空間に、まるで窓も無い小部屋の中に閉じ込められたかのように、無限に臭いが充満し続けている。



「ヴィクター、アレはなに!?」


「残念だが、もう手遅れということだよ。エイダくんの体では、本来使えるはずもない魔法の力にはもう耐えることができない。もう彼女は――人間ではなくなった」



 そうヴィクターが言うと共に、エイダの体がガクンと傾いた。片足が溶けて、水溜まりの中へと沈みはじめているのだ。



「そんな。早くエイダちゃんを助けないと!」


「ッ、待ちたまえクラリス! もう手遅れだと言っただろう! キミの気持ちは……わかる。だが、あの汚水は酸だ。触れればキミも彼女のようになってしまう。それだけはダメだ」


「でも……!」



 思わず駆け出しそうになるクラリスを、ヴィクターが片手で制止した。彼の言い分はよく分かる。分かるが、それならただ見ているだけでいいのか。

 嫌な汗がクラリスの背中を伝う。臭いが邪魔で思考が乱される。


 このわずかなやり取りの間で、エイダの下半身は、もうほとんどが水溜まりの中へと沈みきっていた。

 ヴィクターの言ったとおりだ。手遅れ。半身が溶けてしまった人間を、ここからどう救うことができるのだろうか。



「クラリス……ワタシが昨日、カフェで言ったことを覚えているかね」



 ヴィクターはまるで子供に言い聞かせるかのように、そう切り出した。

 痛いはずなのに、エイダは声を上げるわけでもなく静かに崩れていく。

 大好きなお菓子とひとつになる夢でも見ているのだろうか。苦悶の表情どころか、恍惚とした表情で、彼女は溶けていく自身の体を眺めていた。



「魔法使いの世界は綺麗なものではない。魔法がキミ達の素敵な隣人であるのは、おとぎ話にすぎないのだと」



 ヴィクターの言葉はクラリスの思考の遥か遠くへと響いていた。

 聞こえているが、聞きたくない。嫌な臭いに嫌な光景を前に、これ以上嫌な言葉を聞けというのだろうか。



「これが現実だ。エイダくんに寄り添い夢を見せてくれていた素敵な隣人は、いとも簡単に彼女を殺してしまった。そして次に殺されるのは? ――ははっ、さぁね。……彼女(かの隣人)にでも、直接聞いてみるかい?」



 まだ現実を受け入れられないクラリスとは反対に、ヴィクターは冗談混じりにそう言って乾いた笑い声を上げた。

 エイダの体はもうほとんどが沈んでしまっている。

 そして、最後にクラリスと目が合ったかと思った瞬間――とぷん。彼女はなにか言うまでもなく、沼の底の怪物に足を引かれてしまったみたいに、目の前からいなくなった。



「覚悟は済ませておきたまえ。これから我々が相手するのは、一種の災害のような相手だ。もちろんキミの安全はワタシが保証するが……精神的なケアは苦手だからね。その……ワタシは(こく)な選択を迫ってしまうかもしれないが、嫌いにはならないでくれないか」



 こんな時でもヴィクターは、クラリスからの評価を気にしていた。

 だが、それに突っ込んでいる余裕すらもう彼女には無い。なにせ、今さっきエイダが沈んでいった水溜まりがゆっくりと()()()()()からである。


 はじめは穏やかに、やがてグツグツと煮詰まった水溜まりが、意思のあるスライムのごとく中心へと収束していく。

 そういえば、この甘さと酸っぱさが混じりあった臭いに、クラリスはなんとなく覚えがある。

 たしか買ったことを忘れて月日が経ってしまったオレンジが、棚の底で腐っていた時の臭いだ。それが甘すぎるジャムの香りと混ざっている。


 ――気持ち、悪い。あれが本当に、あのエイダちゃんなの?


 充満した臭いがクラリスの体にまとわりつく。

 これでは自分が、あの腐ったオレンジと共に狭い果物カゴの中にでも閉じ込められてしまったかのようで――ああいや、違う。これはまるで――



「さあクラリス。我々の手で、エイダくんを彼女の甘美な夢から覚まさせてあげるとしようじゃないか」



 まるで、腐ったジャムの瓶の中に閉じ込められてしまったようだ。

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