第40話 沈んだ夢の先にあるもの
クラリスに魔導士のことを話すべきか、このまま話さないべきか。そのことについてヴィクターが悩んでいたのは、ものの三十秒程度。短いようにも感じるが、それはクラリスがカップの中の紅茶を半分頂くまでに十分な時間だった。
「……分かった。お望み通り、ワタシが知っていることをキミに話そう。だが、ここで話すにはあまりに長くな――」
「あっ、ちょっと待って。できれば簡潔に、気遣いなんてしなくていいから分かりやすくお願い。フィリップさんも言ってたよ。昔からヴィクターは都合の悪い話をうやむやにしようとする癖があるって」
「あの鳥頭、本当に余計なことばかり言うな……」
クラリスを相手に特大の舌打ちが出なかったことは奇跡だ。それほどまでに、フィリップが彼女にいらぬ先入観を与えたことがヴィクターは気に入らなかった。これでは自分の説明が下手なようではないか。
少しでも心を落ち着けるために、ヴィクターがカップに口を付ける。だが……どういうことだろうか。腹の中からはビチャビチャと水が跳ね飛ぶ感覚がダイレクトに伝わってくる。体内にこんな感覚を感じる器官はあったのだろうか。いやそもそも、いったいこの紅茶はどこに落ちて、跳ねて、溜まっているのか。腹の底に紅茶が溜まっていくのに比例して重なる不安からか、ヴィクターは思わずぶるりと体を身震いさせた。
「……まぁ、他でもないクラリスの頼みだ。誰の入れ知恵だろうと、キミの言う通りにするよ」
体を開いて確認することもできないのだ。目の前にクラリスがいるというのに、これ以上別のことを考えるのは時間の無駄。彼女への不敬罪に相当する行為である。
フィリップや自分の体のことを考えるのはそれきりにして、ヴィクターはさっさと話を戻すことにした。
「まず魔法使いと魔導士の違いについては昨日話した通りだ。簡単に復習すると、生まれつき体内に魔力を宿しているのが我々魔法使い。ワタシのようなイレギュラーを除けば、扱えるのは自分の特質に合った魔法を一つから二つ……まぁ、身の丈にあった魔法しか使えないということだね。魔力はバッテリーのような役割をしていて、仮に使いすぎたとしても十分な休養さえとればまた回復することができる。無理さえしなければ、ほとんど無制限に魔法が使える存在だと思ってくれればいいだろう」
「自分が特別っていう自慢はやっぱりするのね」
「いいだろう別に。横槍はやめてくれたまえ」
ヴィクターはこほんと咳払いをすると、無駄に長い足を組んでソファの背もたれに体を預けた。たったそれだけのことで絵になるだなんて、なんとも容姿に恵まれた男である。
しかし――クラリスを見つめるその表情は、彼女の知るヴィクターとはまるで別人のように曇って見えた。
「魔法使いに関しての話はもういいね。ならば、本題はこっちだ。魔導士……そう。彼らは過去に、自らのことをそう呼んでいた。なんでも『最高の魔法使い様』によって導かれた……選ばれし人間なのだとね」
「最高の魔法使い様? もしかして、その人がエイダちゃんの言っていた、私達の前に出会ったっていう魔法使い……」
「うん。仕組みは単純なんだ。ただの人間が、その魔法使いによって魔力を与えられただけ。耐性の無い人間が魔力を得るとどうなるか。その答えをキミはもう知っているだろう」
「……魔力によって命が蝕まれ、人間性が歪む」
人間性が歪む。その言葉の意味について、昨日までのクラリスはいまいちピンと来ていなかったが、今なら分かる。広場で出会ったエイダの言動を見れば、嫌でも理解させられるだろう。
話の飲み込みが早いクラリスに気を良くしたのか、ヴィクターの表情がわずかに和らぐ。だがそれも、ほんのわずかな間だけのことだった。
「さすがクラリス、記憶力も抜群だ。そこまでキミが理解しているというのならば、復習はここまで。ここからは、キミに伝えていなかった魔導士のその先についてを話そう」
「その先?」
「ああ。生まれつき魔力を宿していないキミ達人間が、いくら休養をとったところで魔法使いと同じように魔力が回復するわけがない。つまり魔導士は本来持つべきでない魔力によって、命をすり減らし続ける存在……当然、その先にあるのは 死だ」
無意識にクラリスが息を呑む。
死。予想こそしていたが、実際にその言葉を聞くと体の芯から冷え切ってしまうような恐怖心が湧き上がってくる。だが……クラリスにはどうしても、その言葉がこの話の終着地点であると思うことができなかった。
「それで……死んでしまった魔導士は、どうなっちゃうの……?」
恐る恐るクラリスが尋ねると、ヴィクターは分かりやすく彼女から視線を逸らした。
彼は一気にカップの中の紅茶を呷り、ゆっくりと体内に広がる違和感に目を細める。先にこの不快さを経験しておけば、これよりも気分が悪くなることは無いと考えたのだ。
「……死んだ魔導士は内側から魔力に体を食い破られ、その姿は魔獣へと変貌する。……さっき、魔導士には魔力を回復する方法が無いと言っただろう。実はひつとだけ、あるにはあるのだよ。己の全てを捧げるという自己犠牲の末に、叶えたかった夢そのものに生まれ変わるという最初で最後の手段がね」
「ッ……じゃあ、エイダちゃんもいつか……」
「ああ。しかも残念ながらエイダくんは子供だ。ワタシが思うに……彼女に残された体力では、今から急いで会いに行ったとしてもおそらく間に合わない」
それは昼間に見たエイダの様子からの推測だ。ましてや、彼女が魔法を使い始めたのは、ヴィクターとクラリスが町を訪れるよりも前。仮に一週間以上魔法を使い続けているともなれば、そろそろ体に限界が来ていてもおかしくはないはずなのだ。
目を伏せたクラリスは、険しい表情でヴィクターの言葉の意味を噛み締めているようだった。厳しい現実を必死に自分の頭の中へと落とし込み、振り子のように何度も頷く。彼女が心を痛めているということは、はたから見ても明らかな事実だった。
――そんな顔をしないでくれ。だからキミには言いたくなかったんだ。
クラリスにこんな悲しい思いをさせたくなかったからこそ、ここまで踏み入った話は避けてきたというのに。あの時、広場でエイダの説得に成功していたのなら。ヴィクター自身が倒れるようなことがなければ。彼女にこんな思いはさせずに済んだのかもしれない。
そうヴィクターが嘆いている間にも、どうやらクラリスは考えをまとめあげたらしい。顔を上げた彼女の瞳は、真っ直ぐにヴィクターのことを見つめていた。
「……うん。分かった。大丈夫……私、ちゃんと考えたよ。ヴィクター」
「え?」
クラリスはヴィクターを見習ってカップの中身を一気に飲み干すと、その場に立ち上がった。
そんな彼女をポカンと見上げるヴィクターは、稀に見る間抜け面だ。その気の抜けたご自慢のハンサムフェイス向けて、安心させるようにクラリスは笑いかけてやった。
「エイダちゃんのところに行こう。おそらくってことは、まだ間に合う可能性もあるってことなんだよね。少しでも可能性があるのなら、私はそれに賭けてみたい。もしも待ってる結果が最悪だったとしても……私は受け入れるよ。今の話を聞いて、自分にできることをやりたいって想いがもっと強くなったの。だから……諦めるなんてことだけは、絶対にしたくない」
「……そうか。キミがそう望むのなら、もちろんワタシは喜んで協力しよう。だが場所は? 当てずっぽうに探し回るわけにもいかないだろう」
「それなら大丈夫。ほら、これ」
クラリスがヴィクターの前に例のカードを差し出す。だが……やはりあの迷路のような地図は、誰が見たとしても難解な図形をしているのだろう。彼はカードを受け取ると、不思議そうに首を傾げた。
「……なにかねこれは。子供の落書きかなにかかい」
「地図だって。あの時のヴィクターはそれどころじゃなかったかもしれないけど、エイダちゃんが帰る前に置いていったの」
「地図……あー……」
ヴィクターは目を細めたり、寄ったり離れたりと忙しなく微調整をしていたようだったが、どうやらすぐに諦めたらしい。彼が指先でこめかみをノックすると共に、キラキラとした火花が目元に丸いレンズの眼鏡を形作った。
「なんだ。やっぱり子供の落書きじゃないか」
「なに言ってるの。よく見れば分かるでしょ。ここが広場で、この辺りが私達が今いるホテル。少し外れたところにあるここが、多分エイダちゃんのいるところ」
「Hmm……よく分かったよ。ここに向かえばいいということだね」
言葉とは裏腹にあまり納得していない様子で呟き、ヴィクターは立ち上がってカードをクラリスへと返した。道案内は任せるようだ。
ヴィクターがステッキを手にして床を叩くと、ティーセットと眼鏡が花火を咲かせて消失する。すると代わりにハンガーに掛けられていたコートがひとりでに空を舞い、彼の肩へふわりと着地をした。
「出発しよう、クラリス。今夜が正念場だ」
「うん。ありがとう、ヴィクター……行こう!」
必ずヴィクターを、そしてエイダを助けるために。たとえ無駄だと笑われたって構わない。ちっぽけな自分にできることがあるのなら、わずかな可能性を信じて最後までやり通そう――そんな決意を胸に抱き、クラリスは手の中のカードを強く握りしめた。




