第4話 今夜は彼女の目を盗み、こっそりと
《夜――ホテル二十階》
結論から言えば、ホテル備え付けの夜景が見えるレストランでのディナーは大満足の美味しさだったし、サービスの一環として行ってもらったプロのマッサージは至福のひとときだった。
まだオイルの香りが体に残っているのか、腕を近づけて匂いを嗅げば甘い花の香りに心も癒される。
――久しぶりに体は軽いし、肩凝りも治ってスッキリした! さすが町一番の高級ホテル。金額を考えなければたしかに最高かも。
上機嫌でホテルの廊下を歩いていたクラリスは、カードキーで宿泊部屋のドアを解錠する。室内用のスリッパに履き替えた彼女は部屋の奥へ向かって声をかけた。
「ただいまヴィクター。荷物整理任せちゃってごめんね? ここまで長旅だったし、アナタも疲れたでしょ。……ヴィクター?」
期待した返事はない。
不思議に思ったクラリスが足早に部屋の中を覗きに行くと、探し人はようやく彼女が戻ってきたことに気がついたらしい。それまで椅子に腰かけたままうつらうつらとしていたヴィクターが顔を上げた。
「……ん。おかえりクラリス。えーっと……クローゼットはそこに出しておいたから、衣服の整理は自分でやってくれ。それといつもの化粧水のセットはテーブルの上に置いておいたから。明日は朝食の時間には起こしに来るよ」
彼はそう言ってわふっと犬のような大あくびをすると、立ち上がったついでに腕を高く上げて伸びをした。身長が百九十もある男が遠慮なく伸び伸びすると、天井にもうっかり両手が届いてしまいそうである。
そんなヴィクターにそこと言われた先には、クラリスの背丈程もある見慣れたクローゼットと、化粧水やら乳液やらといったスキンケアセットが用意されていた。
もちろんこれらもヴィクターの魔法によって収納されていたものだ。ソファに積まれた紙袋には、まだ日の目を見ていない購入したばかりの衣服達がぎゅうぎゅうに入っている。
「ありがとう。ヴィクターはもう部屋に戻って寝るの?」
「いや……半端に寝たおかげで目が冴えてしまってね。少し外の空気を吸ってから寝るとするよ。……あぁ、飲み物は冷蔵庫に冷やしておいたから。他に欲しいものがあれば言ってくれ。それじゃあ……おやすみ。クラリス」
「うん。おやすみ」
ヴィクターが部屋を出ると、オートロックのドアは背後でガチャリと音を立てて施錠した。本音を言うならばもう少し話していたかったが、そういつまでも彼女の時間を奪うわけにもいかない。
近くのエレベーターに乗り込んだヴィクターは、迷わず一階のボタンを押した。フロントに軽く挨拶をし、ロビーから外へ出れば、少し冷えた潮風が彼の頬を優しく撫でる。
――まだ冬も明けたばかりで、夜はさすがに冷えるか。クラリスに厚手のパジャマを出してあげればよかったな。
そんなことを考えながら、ヴィクターは足早にホテルを後にする。
実際、これが彼にとっての早足なのかといえば、そんなことはない。普段と比較して――クラリスの歩幅に合わせて歩いている時に比べればたしかに早いのだが、そんな普段との差を気にする人間は今は誰もいやしなかった。
「……やはり着いてきたか。思ったより少ないね。……ワタシも舐められたものだ」
しばらくして、真っ直ぐに前を向いたまま、ヴィクターが呟く。
彼が向かっていたのは、人気のない海であった。砂浜に降り立てば、ざりざりとブーツ越しに砂を踏む感触が心地いい。
海は、昼間の賑やかな煌めきをすっかりと隠し、月明かりを背におぞましくも美しい水面を静かに揺らしていた。
――街の中心からも大分離れた。この辺りならば人に見られる心配もないだろう。
ヴィクターは足を止めると、くるりと後ろを振り返った。
すると、合わせるかのように彼の後ろを――ホテルを出た時からひっそりと着いてきていた男達も同じように足を止めた。
ヴィクターに逃げる気がないことを分かっていたのだろう。満足に身を隠す場所が無いこの砂浜に着いた時から、堂々と男達は彼の後ろを着いてきていたのだ。
「よぉ兄ちゃん。こんな夜中にコソコソ出てくるなんて、逢瀬にしても場所は選んだ方がいいんじゃねぇか?」
「……キミがクレイグくんか。主に商人や旅行客……とはいっても、界隈のいわゆる金持ちと称されるような人間ばかりを襲う賊を率いているとは聞いているが。なるほど。こんなに群れるくらいに雇う金は儲かっているみたいだ」
ヴィクターに話しかけてきた先頭の男は、昼間に手配書で見た顔と一致していた。クレイグ・ラスキン――間違いない。
クレイグの後ろにいる男達は、ざっと数えて三十人程度。薄ら見知った顔がいるのを見るに、昼間の強盗団も合流しているらしい。
彼らはあらかじめ打ち合わせしていたのだろう。それぞれが得物を手に、ジリジリとヴィクターの周りを囲んでは、逃げ場を無くすように退路を塞いでいく。
「なんだ。俺のことを知っているのか? それなのに、こぉんな助けも呼べない場所まで来るなんて……ハハッ。自分が殺されるとも思っていないとは、やっぱり魔法使いってのは危機感がなってねぇなぁ。海に流されて、死体すら見つけてもらえないかもしれないぜ?」
「それならば問題ない。人に見られる方が、かえって都合が悪いからね。今日のワタシは、愛するクラリスから危険ごとには首を突っ込まないようにと釘を刺されているんだ。キミに出くわしたことがバレてしまえば、多分……とても怒られる」
そう言うと、ヴィクターはどこからともなくステッキを呼び出し、石突きを砂浜へと落とした。
「だから、彼女にバレないようにとこうしてキミらを誘い込んだのだよ。目先の餌に釣られてまんまと着いてきた――阿呆共」
その瞬間――ぷぎゅっという間抜けな破裂音が、男達の中から聞こえた。それはヴィクターの背後。つまりクレイグから見て正面から上がった音だ。
「お前……なに、してんだ?」
最初に声を発したのは、その音の出処のすぐ横にいた男である。男はなにが起きたのか分からないといった表情で音の主に向かってそう的外れな声をかける。
その答えを知っているのは、当の声をかけられた本人と、クレイグのみ。
クレイグはたしかに見ていた。今――ヴィクターの背後にいた男の頭が、突然見るも無惨に弾け飛んだのを。
「こ、こいつ……人体にも干渉できる魔法使いなのか!?」
クレイグが上擦った声でそう叫んだ。
すると、状況を理解した男達の中からも次々に悲鳴が上がり、そのほとんどがヴィクターから距離を取るように後ずさる。それもそうだろう。昼間はクラリスに気を使ってこんなにも直接的な暴力を示すことはしなかった。
その場を動かなかった者は、勇敢なわけでもなくただ足が動かなかっただけなのだろう。一人はへたりこんだまま失禁していた。
「なんだ。殺しもしていると聞いていたから、こちらも強気に出てみたのだが……思っていたよりも意気地がないね。たかが一人潰れただけだろう」
そう語るヴィクターが軽くステッキを持ち上げると、今度こそ男達は距離を取るでもなく、文字通りその場を逃げ出した。
唯一逃げなかったのはクレイグだけだったが、常人……一応、彼も殺人を犯した指名手配犯ではあるのだが。ただの人間である彼も、転がる凄惨な死体を見ては情けなく荒い呼吸を繰り返している。
「どうした? 報復は終わりかね。ワタシを殺して金品をせしめるのではなかったのかな。もしも恥ずかしいことに奥の手を……あぁ。キミが今までターゲットの情報を横流ししてもらっていた、あのホテルの従業員に扮したお仲間を使い、クラリスを人質にとるつもりならば無駄だ」
「な、なんでそのことを知って……」
「ワタシにだって情報網はある。支配人殿には昼のうちによく話をしておいたからね。キミを自警団に突き出すという条件で、我々は数日間無料で良い部屋をサービスしてもらっているんだ。数日は探す羽目になるかと思っていたが……こんなに早くキミと会うことができたのは好都合だったのだよ」
状況は一対一。それでも人と魔法使いとでは、あまりにも力量に差がありすぎる。顔も覚えていない末端とて、先程仲間が殺られたばかりなのだ。自分の命を脅かしかねない相手を前にして、クレイグの焦りは最高潮に達していた。
しかしクレイグはキョロキョロと視線を動かした後、離れた岩陰になにかを発見したらしい。彼はヴィクターに視線を戻すと、意味ありげな笑みを浮かべた。
「へへ……そう余裕こいてられるのも今のうちだ。こっちだって、もしもの事態に備えて魔法使いを用心棒に雇っているんだ。それも五百年も生きている魔法使いだぞ!」
「……ほう。それだけ生きているとなれば、それは偉大な人物なのだろうが……それを雇ったと。たかが盗人風情が」
「うるせぇ! ――イーリイ先生! 仲間がやられたんだ。いつまでも見てねぇで、早く俺を助けてくれよ! なんのために高ぇ金払って雇ってると思ってるんだ!」
そうクレイグが叫んですぐ、それまで彼らの会話を清聴していた波がざわつきはじめる。
強い風がヴィクターとクレイグの間を駆け抜けていき、一瞬の砂煙。やがて煙が晴れた中心に立っていたのは、帽子を目深に被った、全身黒い装いの背の低い男であった。
「クレイグ。俺を呼ぶ時は、本当に緊急事態の時だけだと聞いていたはずだが」
「今がその緊急事態だ! アイツら……せっかく金を分けてやってるってのに、一人やられたくらいで全員俺を見捨てて逃げやがったんだぞ!」
「愁傷なことだな。まぁ、先に金は貰っていることだ。契約に則って仕事はこなすとしよう。それで、俺が始末すればいいのはコイツ……ん?」
しかしイーリイはヴィクターを一瞥するやいなや、被っていた帽子をわずかに上げて、まじまじと彼の顔を見つめた。
そんな顔をされるのは久々だ。穴が空くほど見つめられてしまっては、愛想は良くしなければならない。ヴィクターはにこりと笑って、正面からその視線を受け止めた。そして――
「待て。お前のその顔、見覚えがあるぞ。どこで見たのか……たしか、過去に何度も飽きるほどに――」
それからイーリイの顔色が変わるまでに、さほど時間はかからなかった。
弾かれたように彼はクレイグに振り返ると、先程までの余裕を全て失った鬼のような形相で彼へと詰め寄る。突然のことに状況が理解できていないクレイグは、思わず両手を前にしてそんなイーリイを制した。
「ど、どうしたっていうんだイーリイ先生!」
「どうしたもこうしたもないだろう! お前、とんでもないことに巻き込んでくれたな……アイツが誰だか知らないで相手していたっていうのか!」
「へ、へぇ……?」
心当たりも無くまくし立てられる怒号に、戸惑うクレイグが素っ頓狂な声を上げる。
おかしい。ただ黙って二人の会話を聞いているだけのヴィクターの目は冷えきっていて――よく見れば、まったく笑ってはいなかった。
「知らないなら教えてやる。あの男はその昔、通称『禍犬』と呼ばれた魔法使い、ヴィクター・ヴァルプルギス」
そう言ってイーリイがヴィクターに視線を向ける。
そしてその存在を確かめるように、大声でこう言い放ったのだ。
「四百年前に大陸ひとつを沈めるまでに至った大量殺人事件、ヴァルプルギスの夜を引き起こした首謀者――魔法局に収監されているはずの大罪人だぞ!」