第39話 再会はひと房の寝癖と共に
《数時間後》
ドアは、固く閉ざされている。そんなあたり前のことが、クラリスにはとても不安なことのように感じられた。なにせ中の様子が分からないのだ。いくらフィリップが大丈夫と言ったところで、ヴィクターの無事を自分の目で確認するまで、彼女は気を抜くことができないでいた。
――ヴィクター……大丈夫かな。
数時間ぶりに会うだけだというのに、緊張からか手のひらがじっとりと汗ばんでいる。クラリスは深呼吸をひとつすると、中に聞こえるようにドアをノックした。
「ヴィクター? 入るね」
まだ眠っているのだろうか、制止の声は無い。もしそうならば起こさぬように、クラリスがそっとドアを開けると――パチリ。紅梅色の瞳と目が合った。
ノックの音で目が覚めたのだろう。起き上がったヴィクターはまだ眠そうな目をしていたが、クラリスと会えた喜びからか肩上にポコポコと小さな花火を上げて彼女を出迎えた。なんだか珍しく、ぽやぽやしている。
「やぁ、クラリス。まさか起き抜けにキミの顔を見ることができるなんて……今のワタシは世界で一番の幸せ者だね」
「……ふふ。はいはい。もうそんなに口が回るなんて、元気になって本当に良かったわ」
「いつまでもキミを待たせるわけにはいかないからね」
ヴィクターはふにゃりと破顔すると、遅れた身支度を始めるべく手元にステッキを呼び出した。だが――急に目を見開いたかと思えば「あっ!」と似合わぬ奇声を一声。突然の大声に驚くクラリスをよそに、彼の姿は一瞬のうちに毛布の中へと逆戻りしてしまった。
「ど、どうしたのヴィクター? やっぱり、まだどこか調子が悪いところが……」
「……ちがう。ねぐせ」
「寝癖?」
「まだ直してなかった」
チラリと毛布から顔を出したヴィクターの頭には、たしかにひと房、外に跳ね上がった髪の束があった。それどころか全体的に見ても、身なりを気にする彼にしてはきっちり整っていないようにも見える。
「別に私は気にしないけれど……ほら、そこに潜ってたら直せるものも直せないんじゃない?」
「だめ。クラリスの前に出る時は完璧でないといけないんだ」
そう言って、ヴィクターが三度毛布の中へと潜り込んだ。
間もなく、クラリスの耳に聞こえてきたのは聞き慣れた破裂音。ヴィクターの魔法の花火が弾けたのだろう。もちろんそれが周囲を引火することこそ無かったものの、小規模な爆風がもこもこと毛布を持ち上げる様子は外から見ていて不安を感じさせるものがある。
「……見苦しい姿を見せたね。ほら、いつまでも立っていないで座りたまえ。今温かい紅茶を淹れよう」
しばらくして。ようやく毛布から出てきたヴィクターは何事も無かったようにベッドを降りると、ステッキを軽くひと振りしてティーセットを呼び出した。服の乱れも直り、もう髪は跳ねていない。道ですれ違った人が振り返るほどのハンサム顔は、見慣れた姿のヴィクターそのものだ。
――いつものヴィクターに戻っちゃった。寝起きのところなんて久しぶりに見たし、子供みたいでちょっと可愛かったんだけど……
クラリスにそんなことを思われているなどつゆ知らず。すっかりすまし顔のヴィクターが椅子に座る。そんな彼の周りをティーセットが踊るようにくるくる回り、やがて遅れて席についたクラリスの前へカップが着地した。
注がれる紅茶は黄金色が美しいカモミールティー。薄く張られた水面を眺めたまま、ヴィクターはバツが悪そうな表情で口を開いた。
「まぁ……なんだ。キミには心配をかけたね。今回はワタシも軽率な行動をとって悪かったと思っているよ。自分で毒だと言ったものを、ああも躊躇いなく摂取してしまったんだからね」
「それはそうだけど……分かってるならなんで食べちゃったわけ? 最初のうちは我慢しようと思えばできてたんでしょ?」
「……昔はいけたんだ。あれくらいの魔力でできたものなら、朝食にバターを塗ったパンを食べるのと同じようにね。だから、好奇心で食べた。それなのに……はぁ。まさかここまで耐性が落ちていたなんて……」
「こ、好奇心……」
ヴィクターが両手で顔を覆い、落胆した様子でそう答える。ましてやその理由が好奇心とは。心配を通り越して呆れてしまう程である。
こういった警戒心の欠如や慢心は、普段から自信と余裕に満ち溢れている彼の言動の反動から来るものなのだろうか。昔からの知り合いであるフィリップがあんな世話焼きになったのにも、なんとなくクラリスには納得することができた。
「分かった。時間も限られてることだし、アナタのうっかりについてはこれで水に流す。今の私達には、もっと大事なことについて話し合う時間が必要でしょ?」
「……エイダくんのことだね」
ヴィクターが顔を上げると、目が合ったクラリスは大きくひとつ、頷きを見せた。こうしていつまでも再会の余韻に浸っているわけにも、雑談にだって時間を費やしている暇は無い。
「そう。ヴィクターが寝てる間に、フィリップさんから少し話を聞いたの。エイダちゃんが魔導士って人になってしまったってこと。それからヴィクターや町の人を助けるためには、やっぱり一刻も早くエイダちゃんに魔法を解いてもらう必要があるってこと」
「あぁ……うん」
その微妙な反応は、何に対してだろうか。フィリップに対してなのか、はたまた魔導士という存在を知ったことに対してなのか。もしもこの反応がフィリップと会ったことに対してなのであれば、それは気の毒な話である。
「だから私ね、アナタと話す前に魔導士のことを調べてみようとしたんだ。でも……どれだけ検索をかけても、それらしい情報なんて全然出てこなかった。なにも分からなかったの」
「それもそうだろう。彼らの存在は一般には秘匿されているだろうからね。……なるほど。だからワタシの口からちゃんとした説明をしてほしい、と」
「うん。教えてほしいの。だって二人で目的を共にしているのに、私だけ知らないままなんて……そんなの不公平でしょ?」
そうクラリスが言うと、ヴィクターはあからさまに渋い顔で眉間に刻んだ皺をさらに深くした。
「……それは絶対、かね。エイダくんのことが心配ならば、彼女のことはワタシだけでも――」
「絶対。これから私達が足を踏み入れるのが、危険な道だっていうのは分かってる。……それに、本当はヴィクターが一人で行動した方が都合がいいってことも。それでもアナタだけにこのまま負担を背負わせたくない。私も、ヴィクターの役に立ちたいの。だから……お願い」
胸に手を当ててハッキリと意志を示したクラリスの言葉に、ヴィクターは思わず目を丸くした。まさか彼女が、自身のことをお荷物であるかのように思っていただなんて。……いや、そう思わせてしまうような態度をとってしまったのは、きっとヴィクターの方なのだろう。
――いけないな。クラリスはこうやって寄り添おうとしてくれているというのに、その気持ちを無駄にしようとしていただなんて。そんなに真剣な目で見つめられたら……もう、キミの手を取らないわけにはいかなくなっちゃったじゃないか。
できることならば、今すぐにでもその勇気と優しさを称えて抱きしめてあげたい。しかしそんな勇気すら持ち合わせていないヴィクターの肩上には、代わりにぽこり。クラリスの目にも鮮やかに映る、小さな喜びの花火が打ち上がった。




