第38話 その人々は自らを『魔導士』と呼んだ
控えめなノックの音。自室のドアを叩くその音を耳にして、クラリスは目を覚ました。頭を整理しようと部屋に戻ったまではいいが、どうやらベッドに寝転んだまま眠ってしまっていたらしい。
フィリップが呼びに来たのだろうか。彼女はその場で大きく一度伸びをすると、ベッドを降りて足早にドアを開いた。
「よお。終わったぞ」
「ありがとう、フィリップさん。それで……ヴィクターの体調は大丈夫なの?」
「今はまた寝てるだろうけど、さっき話した感じなら問題は無さそうだ。夜まで寝かせておけば動けるようになると思うよ。ったく……病人のくせして、口だけは回るんだから。おかげさまでネチネチ小言を言われる羽目になったぜ」
口ではそう言いつつも、フィリップ自身もヴィクターが無事だったことに安心しているのだろう。安堵の表情が隠しきれずに目尻が少し下がっている。
そんな無意識がクラリスにバレているとも知らず、フィリップはあくまでもポーカーフェイスを意識したまま腕を組む。狭い廊下の壁にもたれかかった彼は、クラリスの顔を見てわずかに首をかしげた。
「で、オマエは? さっきまで疲れた顔してたけど、気分はどうなんだ」
「私? ああ……うん。色々考えようと思ってたんだけど、いつの間にか寝ちゃってたみたいで……あまり気持ちの整理はできなかったかも。ごめんなさい。せっかくフィリップさんが時間を作ってくれたのに……」
「なに勝手に謝ってるんだよ。別に昼寝くらいしたっていいだろ。寝れば多少なりともスッキリするんだしさ」
「言われてみればたしかに……胸の辺りはちょっと軽くなった気がする」
フィリップの言う通り、仮眠をとったからだろうか。クラリスが感じていた吐き気や気分の悪さは薄まっている。エイダのことを考えるとまだまだ気は重いが、先程に比べればだいぶ気は楽になったと言えるだろう。
「フィリップさんって、面倒見がいいのね。ヴィクターだけじゃなくて、初対面の私のことも考えてくれるなんて」
「ああ? 別にそんなんじゃねぇよ。アイツには倒れられたら困るし、オマエはまぁ……仮にもアイツのお気に入りだからな」
あまり正面から褒められることには慣れていないのか、フィリップは居心地が悪そうにクラリスから目を逸らした。
すると彼はなにかを思い出したのか、ひとつ指を鳴らすと同時に、ボロボロに解れた薄手のコートを呼び出して袖を通す。それからポケットの中を漁ったかと思えば――取り出したものをクラリスへと差し出した。
「ほら、これ。広場でオマエらを回収する時に一緒に拾ったモンだ。あのガキから押し付けられたやつだろ。オレはいらないから返すわ」
フィリップから差し出されたのは、エイダが去る前に残した謎のカードであった。あの時はヴィクターもクラリスも限界で眺める暇も無かったが、よく見るとカードの表面には手描きで歪な線が描かれている。これは……地図だろうか。
「ひとついい事を教えてやるよ。そのカードは全員が貰えるわけじゃない。あのガキの魔法による侵食が、末期まで進行してきたヤツにだけ配っている……いわば招待状だ」
「招待状……?」
「そう。餌を与えて、体の中にジャムを蓄えてきた食べ頃の客を、最終工程に導くためのな」
そこまで言うと、フィリップはゆっくりと壁から背を離した。だが――クラリスを見つめる目には、先程までの優しさは灯っていない。見覚えのあるその顔つきは、まるで昨日のカフェでヴィクターが忠告を口にした、あの時とそっくりだった。
「よく聞け。ヴィクターを完治させたいなら、甘い考えは捨てて、現実を受け入れるだけの覚悟を持て。あのガキ……いや、『魔導士』をどう対処すべきなのかは、オマエが選択するんだ。多分アイツは……はぁ。癪だけど、今は自分よりもオマエの意見を一番に尊重するだろうからな。くれぐれも足を引っ張るようなことをするんじゃねぇぞ」
「まどうし……うん、分かった。もう一回、ちゃんと話し合ってみる。何度も言うようだけれど、本当にありがとう。フィリップさんがいなかったら、きっとヴィクターを助けることはできなかった」
「礼はもういいよ。一銭にもなりやしねぇし、今回助けてやったのは初回特別サービスだ。……別の場所で会ったオレが、ここみたいに良い奴だとは思うなよ」
「ここ? それはどういう――」
クラリスが疑問を投げかけようとした、まさにその刹那。フィリップの周りを、どこからともなく無数の黒い羽根を巻き込む突風が吹き荒れた。
とっさにクラリスが目を閉じ、腕で顔を覆う。風が止むまでには数秒とかからなかっただろう。しかし次に瞼を開いた時、彼女の目の前にいたのは――不思議かな。フィリップではなかった。
『じゃあナ、クラリス・アークライト! せいぜイ死なネェように気をつケルこった!』
「わっ!」
ノイズ混じりの声で言葉を残すと、フィリップ――否、先程までフィリップの姿に化けていた彼の使い魔が翼を広げて飛び立った。クラリスの横スレスレを通り過ぎると同時に、彼女の口から小さな悲鳴が上がる。しかしカラスはそんなこと気にもとめずに、部屋の開け放した窓から外へと飛んでいってしまった。
残されたクラリスは後ろ手にドアを閉めると、カラスが出ていった窓から外に顔を出す。だが……付近にはカラスどころか小鳥一羽ですら姿は無い。どうやら既に飛び去ってしまったようである。
「……魔法使いって、みんなあんな感じで個性的な人達……なのかな」
落ち着いたら力が抜けてしまったのだろう。ベッドの端に腰掛けてはぽつり、クラリスは呟いた。
フィリップの話では、ヴィクターは彼と少し話をした後にまた眠りについてしまったらしい。様子を見に行くとしても、少し時間を置いてからの方がいいだろう。
「そうだ、エイダちゃんのカード……」
先程フィリップから渡されたカードの存在を思い出し、クラリスは改めて表面に描かれた地図を確認した。
きっと一枚一枚を手描きで作っているのだろう。ぐにゃぐにゃに曲がった道はさながら迷路のようだ。どうやら裏は無地のようだが、ヴィクターが吐き出した拍子に飛び散ったらしいジャムの欠片が付着していた。
――うーん、スモーアに来たのは今回が初めてだし、地図も手描きだからよく分からない。……あっ。もしかしてこの場所、広場かな。さっきエイダちゃんが帰った時の方向を考えると……
地図を眺めたところで北がどちらなのかは分からなかったが、クラリスとてまだまだ花の二十代。記憶力には自信がある。まだ新しい記憶を頼りに右に左にカードを回してみれば、目指すべき場所の検討はなんとなくつけることができた。
――うん。あとは歩きながらでもたどり着ける気がする。
クラリスはベッドに倒れ込むと、枕元にカードを置いて天井へと目を向けた。エイダの居場所は分かった。しかし彼女にはもう一つだけ、確認しておかなくてはならないことが残っていた。
「魔導士……か。また知らないことが増えちゃったな」
あのままフィリップに聞いてもよかったが、どうやら話はヴィクターと直接つけなければならないようだ。それもそうだろう。ヴィクターは肝心なところをぼかしてクラリスに喋っていたのだ。彼の口から説明してもらう義務がある。
――そもそも魔法使いのことだって、ヴィクターに出会うまではよく知らなかったかも。私の住んでた町にはあまりいなかったし……。それに魔法使いと魔導士って、名前は似てるけど多分違う存在……なんだよね。うーん、なんだかまた頭がこんがらがってきたな……
正直なところ、今現在身の回りで起きていることを整理するだけでもクラリスは精一杯だった。
人と比べて勉強することは好きだが、だからといって学生時代に秀でて成績が良かったわけでもない。自分自身で思うに、頭の良さは中の上くらいなのだ。このまま脳をフル回転させ続けていれば、ヴィクターに次いで彼女まで寝込んでしまうのは時間の問題だった。
「よし」
クラリスは勢いよく起き上がると、ベッド脇で充電したままだったスマホを手に取った。こういう時に役に立つのが、文明の利器である。
――夜になるまで、ちょっと色々調べてみよう。私が知識をつけておけば、ヴィクターだって話しやすいだろうし……いざという時に邪魔にならなくて済むかもしれない。
その努力を知れば、彼はいつものように褒めたたえてくれるだろうか。
だんだんと西日が差し、うっすらと月が茜空に顔を出す。それから辺りが完全に暗くなるまで、クラリスは夢中で画面へとかじりついていた。




