第37話 親友と書いて腐れ縁と読む
ようやく現場が静まったのは、時間にして五分以上が経過した頃だった。
水音が止まると同時にカラスがけぷりとげっぷを漏らす。少し待ってみても、それからジャムの放流が再開されることはなかった。
「んー、これで全部かな。おつかれさん、戻っていいぞ」
フィリップがカラスの額を指先で撫でる。口の周りをベトベトに汚したカラスは、しゃがれた声で『ガァ』とひと鳴きすると、開け放したままの窓から外へと羽ばたいていった。
テーブルの上に並べられた八個のグラスは、さながら瓶詰めされたジャムが整列しているかのようである。そのうちの一つをフィリップは持ち上げると、おもむろにその場で立ち上がった。
「フィリップさん、それ……どうするの?」
「どうするって、全部ヴィクターに飲ませるんだよ。幸運にもまだジャムになったのは一部だけみたいだからな。腹に入れときゃあ、魔法が解けた時に勝手に元の形に戻るだろ」
「飲ませる……!? でも、それってその、臓器……なんだよね。体の中身を失った状態で人が生きることなんて、本当にできるの……?」
「んー、まぁ今回みたいな症状ならだいたい一日くらいはな。はぁ……コイツが魔法の効きやすい体質で良かったぜ。オレの魔法でコントロールすれば、こんなんでも無理矢理臓器として機能させることができる。普通の人間なら、このまま浸食が進んで――それこそ内臓が全部ジャムになった頃には死んでるはずだからな」
そう恐ろしいことを口にして、フィリップがケラケラと笑い声をあげる。だが、その内容はまったくもって笑える話ではなかった。
彼の話がそのままの意味ならば、エイダの魔法に掛けられた人間にはタイムリミットが存在する。それならばヴィクターが倒れるよりも前に、既に犠牲となった人間だっているのではないだろうか。
――それじゃあエイダちゃんは、たくさんの人が犠牲になるってことを分かった上で、あのクッキーを作り続けているってこと? 魔法が人間性を歪めるっていうのは、本当に善悪の区別もつかなくなってしまうってことなの……?
広場で出会ったエイダからは、確かに悪意は感じられなかった。だが、やっていることは悪魔の所業そのものである。きっとそれは、人間の世界でも魔法使いの世界でも――けっして許されることではない。
胸の前で握った手がじっとりと汗ばむ。視線を落としたまま口の端を固く結んだクラリスを見て、フィリップがわずかに口の端を吊り上げた。
「なんだ、クラリス・アークライト。顔が青いぞ。気分が悪いなら休んでるか? ヴィクターのことなら、心配しなくてもしばらくオレがそばについてる。アイツが嫌々自分の内臓を飲んでるところなんて、眺めてたって楽しくねぇだろ」
「……いいの?」
いくらフィリップが信頼できそうな人間だとはいえ、今日初めて会った人物にヴィクターを任せるのは気が引ける。それでも今のクラリスの精神状態では、ボロボロとなった自分の心を保つことだけで精一杯で――ああだめだ、もう頭が働かない。彼女には一度、心の整理をつける時間が必要だった。
「それじゃあお言葉に甘えて、少しだけ部屋に戻っていよう……かな。この短時間で色々ありすぎて、今はちょっとだけ頭の中を整理したいかも。隣が私の泊まってる部屋だから、終わったら教えてもらってもいい?」
「はいよ、隣な。後でちゃんと呼びに行くから、寝るなり気分転換するなりゆっくりしてな」
クラリスは小さく頷くと、静かに眠り続けるヴィクターの寝顔に目を向けた。一時はどうなることかと思ったが、今は安らかに眠っている。それに少しだけ安堵の息を吐いて、彼女は覚束無い足取りのまま部屋を後にした。
間もなく、フィリップが手にしていたグラスがサイドテーブルに置かれる。そのまま彼はベッド端に腰を掛けると、ヴィクターの腹部に手を当てた。コートを脱がせたとはいえ、ベストやシャツを着込んでいて分かりにくいが……やはり。腹の辺りが窪んでいる。このまま手で押し込めば、きっと背中まで触れることだってできてしまうだろう。
「……やっぱ、空から見てるだけじゃ分かんねぇもんだな。オマエは奥手すぎるし、気の遣い方はヘッタクソ。あのガキのことをちゃんと説明しなかったせいで、アイツ……すげぇショック受けてただろ。ましてや、あんな他人様の魔力の塊みたいなモンを馬鹿みたいに食うなんて……ほら。この薄っぺらくなった腹を見てみろ。たまたまオレがこの町にいたからいいものの、そうじゃなかったら……オマエ、最悪死んでたぞ」
「……」
「オイ。いつまで狸寝入りしてんだよ。アイツは騙せても、オレは騙されないからな」
「……ぴぃちくぱぁちく喧しいね……。説教なら他所でやってくれ。こんな時くらい、ゆっくり寝かせてくれたらどうなんだ」
その時だ。弱々しく掠れた声が聞こえたかと思えば、眠っていたはずのヴィクターの瞼がゆっくりと開いた。紅梅色の瞳が天井を、それからフィリップを映し――やがて不機嫌に細められた。
「なに言ってんだよ、しばらく聞き耳立ててたくせに。いつから起きてたわけ」
「キミの使い魔が汚い声で嘔吐しはじめたところからだよ。キミはキミでクラリスと親しげに話をしているし、おかげで最悪の目覚めになった……。彼女と言葉を交わすことを容認してやったんだ。少しは感謝したまえよ」
「なんだその態度。感謝されたいのはこっちだっつーの。まったく……久しぶりにこっちで話ができるって機会なのに、困ったもんだよホント。ほら、起きてたなら話は聞いてただろ。ジャム、集めてきてやったからとっとと腹に詰め込みな」
そう言って、フィリップがサイドテーブルに置いていたジャムの入ったグラスを差し出す。上半身を起こしてそれを受け取ったヴィクターはグラスの中を覗くと、チロり。舌先だけを中身に触れさせて、明らかな不快感が滲んだ表情でフィリップを睨みつけた。
「……美味しくない。三流の味がする」
「文句言わないでさっさと飲め。オマエが寝てる間に魔法で細工をしておいたから、腹に入れときゃじきに普段通りに動けるようになる。だが……勘違いはするなよ? 完治したわけじゃないんだから、無理だけは絶対にするな。まったく……オマエが出すだけ出したせいで、あっちにまだまだあるんだぞ。それともご丁寧にパンに一枚一枚塗って食べやすくしてやれってか?」
「結構。自己責任なことくらい分かっているよ……うぅ、きもちわるい。腹の中が変な感じがする……」
恨み言のようにぶつくさぼやきながらも、この作業が必要なことは理解しているのだろう。ヴィクターがチビチビとグラスに口をつける。
フィリップは彼が問題なく飲み込めているのを確認すると、残りのグラスを持ってきては次々にサイドテーブルへと並べた。手にしたグラスと合わせて、合計八個。その圧倒されるような光景を見て、わずかな間ヴィクターの動きが止まったのは言うまでもない。
ヴィクターが全てのジャムを消費することができたのは、それから壁掛け時計の長い針が一周した頃だった。
「……飲んだよ」
虚ろな目で最後の一口を無理矢理喉に流し込むと、ヴィクターはグラスを置いてフィリップに報告した。
姿かたちが違うとはいえ、自身の体内にあったものを飲み込むというのには多少なりとも抵抗感があった。それに加えて致死量のような人工甘味料の大量接種を強いられるだなんて。口の中がまだ甘ったるい。さながら新手の拷問のようである。
「おつかれさん、ヴィクター。体調はどうだ?」
「おかげさまで大分回復したよ。助けてくれたのがクラリスではなく、キミだというのは嬉しくないサプライズだったが……。まぁ、荒療治だがこの方法ならば異次元の胃袋を持つキミの使い魔が集めてくるのが適任だろう。一応感謝はしておくよ」
「一応って……そういう時は、ありがとうだけ言えばいいんだよ」
「ふん、イヤだね」
ぷいとヴィクターがそっぽを向く。
すると椅子に座ってテレビを見ていたフィリップが、長い溜め息を吐き出して立ち上がる。彼はベッドに近づいてヴィクターの頭に両手を置くと、まるでペットを撫で回すかのようにワシャワシャと髪をかき混ぜはじめた。
「こら、フィリップ! せっかくセットした髪に触るな!」
「どうせ魔法でセットしてんならいいだろ。というか元々寝てる間に崩れてるっての」
「言葉が悪かったね! そのわずらわしい嫌がらせをやめろと言ってるんだ!」
ヴィクターが左右にブンブンと首を振ると、意外にもフィリップはあっさりと手を離した。
髪が四方八方に跳ねているのが気に入らないのか、ヴィクターが手ぐしでサッと身なりを整える。その顔色は広場から運んできた時と比べて良くなったと言えるだろう。赤みがかった血色は、ようやく人としての温度感を感じられるまでに戻っていた。
「そんだけ元気なら、良くなったのも本当みたいだな」
「チッ……キミはいつもいつも、雑すぎるのだよ。ここですぐに息の根を止めてやらなかったのは、最大限の温情だと思いたまえ」
「あーはいはい。寛大なヴィクター様のおかげで今日も生きながらえましたよ」
わざとらしくフィリップが両手を上げる。これだけ口も回るなら、少しの間寝かせておけば体の調子の方もじきに戻るだろう。
だが、そんなことを思っていたのもつかの間。彼は次にヴィクターの口から放たれた言葉を聞いて、思わず目をパチリと瞬きさせた。
「それで……フィリップ。ここまで丁寧に面倒を見てくれたんだ。見返りにキミは何を求めるのかね。どうせただの善意でワタシを助けたわけでもないんだろう」
「……はぁ? なに、ヴィクター。オマエはオレが謝礼目当てで助けてやったとでも思ってるわけ? 仮にも親友だろ?」
「仮ですらないよ。腐れ縁の間違いだろう……。キミが損得勘定無しに動くとは思えないからね。金なのか、物なのか、それとも……なんて。まぁキミが言いたいことくらい、最初からワタシには分かっているけれど」
そう半笑いにヴィクターが言うと、フィリップの目が今度は怪しく細められた。
「ふぅん。モノじゃなくて言いたいコトとは、分かってるじゃねぇか。それじゃあ単刀直入に言わせてもらうが……ヴィクター。そろそろあの女からは離れて、オレの所に戻ってこないか? また世界相手に大暴れしてやろうぜ」
「断る」
「あ? なに、オマエさ……断るにしても、せめて少しは考えるフリでもしてから断れば? 昔言ってたじゃん。サントルヴィルのド真ん中にでっけぇクレーターあけて、紅茶のプール作って浴びるほど飲むんだって! あそこは今じゃあ世界一の大都市だ。穴のあけがいも、あの頃の何千倍だってあるんだぜ?」
「プールって、キミねぇ……そうやって何百年も過去の発言をほじくりかえすんじゃないよ。……はぁ。考える暇も無いね。今のワタシにはクラリスがいればそれで十分なんだ。勧誘ならば他でやってくれたまえ」
そう言って、毛布を呼び出したヴィクターがごろんと横になる。悲しきかな。無情にも壁の方を向いてしまった。どうやら彼の中ではフィリップとの会話はもう終わってしまったらしい。曲がりなりにも感謝しているのならば、リップサービスくらいあってもいいのではないだろうか。
「オマエって奴は……いいよ、どうせ茶化したところで相手にされないことくらい分かってたから。だけど、これだけは覚えておけよ。あの女に執着するのは構わないが、オマエの過去は無かったことにはならないし、遅かれ早かれボロは出る。苦しい思いをしたくないんだったら、早いうちに関係を切ってこっちに戻ってくることだな。……これは嫌味じゃなくて、本当にオマエのことを想って言ってるだけだから」
フィリップがいくら言葉を重ねたところで、毛布の中からの返事は聞こえない。もちろん返ってくるとも思っていなかったが、この短時間でヴィクターが眠ったとも彼は思わなかった。
テレビの電源が消されて、足音がベッドから遠ざかっていく。やがて扉が一度開閉したかと思えば、フィリップの気配は完全に部屋から消え去った。
「……ふん。大きなお世話だよ」
聞き手のいなくなった部屋の隅で、ポツリ。ヴィクターが呟く。
壁の薄い安宿だ。きっとフィリップがクラリスに状況でも伝えに行ったのだろう。静寂に耳鳴りが響く中で、隣の部屋の扉をノックする音が聞こえる。
――キミに言われなくたって……この幸せが長くは続かないことくらい、ワタシが一番よく分かっているさ。でもいいだろう。長い人生の中で、少しの間くらい楽しい夢を見ていたって……
まぶたが重い。いくら体調が良くなったとしても、体はダメージを受けたままなのだ。とろとろと襲い来る睡魔に呑まれては、ヴィクターの頭はついに考え事をすることすらも億劫になってしまっていた。
――クラリスは大丈夫……かな。今日のこと、あまりショックを受けていないといいんだけれど……
あれだけの現場を見た後だ。クラリスが心を痛めて塞ぎ込んでしまったとしてもおかしくはない。嗚呼、もしも自分がスモーアに行こうと誘わなければ。あのクッキーを口にせず、異変に気がついた時点で町を離れていれば。こんなことに彼女を巻き込まずに済んだのではないだろうか。そんな後悔が次々に、睡魔で溶けた頭の中を駆け巡っていく。
しかしそんな後悔をどれだけ並べたって後の祭り。そうやって心にモヤモヤとしたわだかまりを抱えたまま、ヴィクターは深い眠りの中へ向けてゆっくりと意識を手放していくのだった。




