第35話 お喋りカラスの助け舟
カラカラと、固いものが地面を転がる音にクラリスが振り返る。音の先には、糸の切れた人形のように横たわるヴィクターの姿があった。
崩れ落ちた拍子に、先程落としたステッキとぶつかってしまったのだろう。主人の異変を知らせるべく石畳の上を転がっていた苺水晶は、クラリスに発見されると、役目を終えたようにピタリとその場に停止した。
「ヴィクター! どうしたの!?」
血相を変えてクラリスが駆け寄る。しかしヴィクターは苦しそうに呼吸を繰り返すだけで、彼女の呼びかけに返事をすることは無かった。少し揺すったところで起きる気配も無い。まさかここまで……意識を失うまでに限界がきていただなんて。
――どうしよう。さっきのお客さん達が戻ってくる可能性もあるし、さすがに意識の無いヴィクターを残して離れるわけにはいかない。でも……うっ、重い。移動させるにも、私一人の力じゃ運ぶこともできないし……
腕を引っ張ろうにも、クラリスだけでは成人男性を……それも自分よりも一回り以上も大きな人間を動かすことなど到底できない。
となれば、彼女に残る選択肢はたったの一つ。一か八か大声で叫べば、まだ正気の残った誰かが気づいてくれるだろうか。
「……よし。待っててヴィクター。絶対に私が助けるから」
意を決して、クラリスが大きく息を吸い込んだ。そして次の瞬間――
『ガァ!』
「わぁっ! な、なに!?」
突然足元で湧き上がった騒音。クラリスの邪魔をしたのは、ノイズ混じりの汚いしゃがれ声だった。
――びっくりした……この子、ちょっと大きいけれどカラス……だよね?
視線を落とした先にいたのは、黒い身体に、黒い瞳。今は閉じられている少し長いクチバシは、見間違うこともないカラスそのものだった。
艶やかなその瞳には、驚きに飛び上がったクラリスの姿が映し出されている。まさか、またあのやかましい鳴き声を上げるつもりなのだろうか。そうクラリスが構える先で、カラスは首をかしげると――見た目に反した耳障りな声で、彼女に向けてこう怒鳴り上げたのだ。
『オイ、オンナァ! 助けヲ呼んでも無駄だゾ。この辺リの人間ハ、みィんな手遅れダ。他人のコトなんて眼中にねぇシ、なンなら医者ですら、今のコイツヲ治療なんてできヤしねェ。今やろうとしているオマエの行動は無意味なンだよ! ム、イ、ミ!』
「……へ?」
クラリスは耳を疑った。なぜなら今の言葉は腹話術でも、誰かがこっそりスピーカーから流している音声でもない。正真正銘、目の前のカラスからの発言だったからである。
――カラスが、喋ってる。魔獣? そういえば、広場に来た時にも何羽か見かけたっけ……
よく覚えている。広場に入ってすぐ、ゾンビ映画のようにナニカに群がる人間と、乗じて集っているカラスを目撃したのはついさっきのことだ。そんな人々が一心不乱に食い漁るもの……集まった彼らがなにを口にしていたのか。今のクラリスにはそれが分かる。
『アーア、もったいネェなァ。みんな帰っちまったシ、せっかくオマエの作ッたジャムヲ食う奴がいなくなっちまっタ。……ムグ……ンン、予想通り魔法使い産のは味が違うネェ。タダの人間のより、よっぽド美味い』
跳ねるようにカラスがヴィクターの元へと近寄り、彼の吐き出したジャムを丁寧に啄む。だが……あのクチバシでは食べづらいのだろう。カラスは顔の周りをベトベトに汚しながら角度を変えて、優雅に他人様の吐瀉物を味わっていた。
状況を整理し終えたクラリスが、ようやく我に返ったのはその時である。
「や、やめて! ヴィクターから離れて!」
『ギャッ! オイオイ、危ねェじゃねぇカ! ソレは振り回すモンじゃねぇゾ!』
とっさにクラリスが両手で拾い上げたのは、ヴィクターが落としたステッキであった。それを横薙ぎに振り払うと、カラスが慌てて翼を広げて飛び上がる。叶わず空振りとなったステッキに振り回されたところで、クラリスは一回転しかけた体を踏ん張って耐えきった。
いつもは軽々とヴィクターが振り回しているため、てっきり軽いものだと思っていたが……クラリスが想像していたよりも重い。それでも距離を取ろうとしないカラスに威嚇の意味を込めて、彼女は再びステッキを持ち上げた。
『見た目と違って、ずいぶん凶暴なオンナだなァ……だんだんコイツに似てキタンじゃねぇカ?』
「いいから動かないで。アナタ、エイダちゃんの件についてなにか知ってるみたいだけど……ヴィクターに手を出したら許さないからね。私になにか言いたいなら、まずは彼から離れて」
『ハァ? 勢い余ってオレと一緒にコイツゴト潰しそうになったのは、イッタイどこノどいつだヨ。……マァいいか。さすがに、ずっとこんな場所にカワイイ兄弟ヲ寝かせルわけにもいかねぇしナ』
カラスがそう言った瞬間、どこからともなく吹いた風がふわりとクラリスの足を掬い上げる。ゆらゆらと揺れて不安定な足元、少しだけ高くなる視点――彼女の体は、地面から浮いていた。
「なに!? 私、飛んで――」
「おい、暴れるな。三秒でいい……そのまま大人しく目をつむってろ。酔っても知らねぇぞ」
背中に感じる体温。同時にクラリスの耳元で知らない男の声がした。――いや、違う。この声を知っている。これは、今まで彼女が話していたカラスの声だ。だが、ノイズを取り除いたその声と言葉は、不思議とクラリスの頭の中にストンと入ってきた。
風に混ざって、地面から無数の黒い羽根が空へと舞い上がる。まるで夢でも見ているようだ。視界がやがて黒一色に染まり、未知を体感している恐怖心から、クラリスは言われた通りにギュッと目を閉じた。そして――
「――いつまで目ェ閉じてんだよ。三秒でいいって言っただろ。開けろ。着いたぞ」
そう言われたのは、いったいどれくらいの時間が経ってからだろうか。おそらく十秒も経っていない。
男の声に促されるままに、クラリスが目を開ける。すると、どういうことだろうか。広がる景色は、ついさっきまで彼女達がいた広場ではない。この数日ですっかり見慣れた景色――ここは、二人が泊まっているホテルの客室だった。
部屋は一人用のシングルルーム。一瞬クラリス自身の部屋かとも思ったが、それにしては見覚えのないペットボトルがサイドテーブルに置かれている。わずかに感じる香水の残り香から、ここがヴィクターの泊まっていた部屋だということが分かった。
「えっ。私……なんで。いつ帰ってきたの……?」
「オレの魔法で移動してきたんだよ。そんなことよりオマエ、手ェ汚れてるだろ。そのへん触る前にステッキと一緒に洗ってこい。ベタベタのままあちこち触られちゃ適わねぇし……って、あぁ? なんだこのコート? とっくに冬なんて終わってるんだから、衣替えくらい面倒くさがらずにしろっていうのに。ほら、水なら飲めるだ――いや待てよ。この場合、水ってどこに入っていくんだ……?」
呆然としているクラリスの目の前で、床に伏すヴィクターを介抱していたのは、あのカラスと同じ声をした男だった。身長はクラリスより少し高いくらいだろうか。黒い髪に、同じ黒色のベストを着用した細身のシルエット。オマケに瞳まで黒いものだから、まさに全身黒づくめといった印象だ。
男はぶつくさ文句を言いつつも、手を休めるつもりは無いのだろう。ヴィクターの顔色を見ながらも、コートをハンガーに掛けたり、ペットボトルに入った水を飲ませようとしてやっぱりやめたりと忙しない。
――誰……なのかは分からないけれど。ヴィクターの世話をしてくれてるし、エイダちゃんの魔法の影響も受けていないみたい。とりあえず悪い人ではなさそう、だよね……?
まだ思考が現実まで追いついていないクラリスは、とりあえず言われた通りにヴィクターのステッキを手に浴室へ。手のひらと柄に付いたままの血とジャムを、シャワーのお湯で洗い流すことにした。
赤い水が排水溝へ流れていくのをぼぉっと見ていると、ここだけまるで殺人現場のようである。備えつけのふかふかのタオルで水分を拭き取れば、ようやくステッキは元の黄金色の輝きを取り戻した。
「応急処置はこんなもんか。あとは詰め込むものさえ戻ってくれば……」
「あの、すみません! 私もなにか手伝うこととか……」
「ああ? いいよ。やることはだいたい終わったから。それより手も空いたし……もっとよく顔を見せてみろ」
ようやく男がクラリスの方を向いたのは、ヴィクターの呼吸が落ち着いてからのことだった。
ベッド脇にしゃがんでいた男はゆっくり立ち上がると、部屋に戻ってきたクラリスの顔をジロジロと観察しはじめた。それはヴィクターのように好意があって……というよりは、まるで彼女のことを値踏みするかのようである。
「ふぅん、なるほどねぇ。クラリス・アークライト……ヴィクターが好意を寄せている女、か。たしかに近くで見ると顔は良い方だが、スタイルは普通。もっとすげぇ美人に口説かれたことだって数え切れないほどあるだろ。なぁんでわざわざ、こんな普通の人間に惚れちゃったんかねぇ」
男はクラリスの周りをグルグル歩き回りながら、失礼なことをそう軽々しく口にする。
敵意が無いのは分かるが、どうやら人に対する敬意も持ち合わせてはいないらしい。言い返すべきか? しかし仮にも相手は、途方に暮れたクラリスの代わりにヴィクターを介抱してくれた人間である。いくら無礼な態度を取られたとしても、感謝の気持ちを忘れるほど彼女の心は狭くはなかった。
「えっと……とりあえず、ヴィクターのことを助けてくれたのよね。ありがとう。私のことを知ってるってことは、どこかで会ったことがあったかな……」
「いいや? オレは一方的にオマエのことは知ってるが、こうして話をするのは初めてだ」
クラリスを観察することには飽きたのか、男が近くのソファに座る。
見たところ、歳は彼女と同じだいたい二十代くらいだろうか。その幼い顔立ちや広場でのカラスの一件のせいで、つい敬語で話すことすら忘れていたが――あの瞬間移動から考えるに、おそらく彼は魔法使いだ。魔法使いの年齢は見た目には比例しないこともある。そんな話をクラリスは過去にヴィクターから聞いたことがあった。
「そういや自己紹介をしてなかったな。オレだけオマエのことを知ってるってのもフェアじゃないし、最低限の人としての礼儀っつーのは魔法使いにももちろん必要だ。だからほら……いつまでもそこに突っ立ってないで、まぁ座れよ」
そう言って男がパチン。指を弾くと、クラリスの視界が変わった。
テーブルを挟んだ目の前に、男は座っている。二度目の瞬間移動――彼女は今の一瞬の間に、彼と対面する位置にあるソファへと座らされていた。
驚きに目を丸くするクラリスを見て気を良くしたのか、男が目を細める。そしてわずかに口角を上げると、彼女へ向けて右手を差し出した。
「ということで、オレの名前はフィリップ・ファウストゥス。ヴィクターの一番の親友であり、よき理解者。そんでもって兄弟みたいなもんだ。よろしく頼むぜ。クラリス・アークライト」




