第34話 あなたの血肉はイチゴジャムサンド
文字通り人を掻き分け、道を作りながら広場の中心へ向けて進んでいく。
クラリスの言いつけを守って、あれからヴィクターが他人に無駄なちょっかいをかけることはなかった。時折肩がぶつかったり、言いがかりをつけられることこそあったものの、そこは歴戦の魔法使い。彼が上からひと睨みすれば、ほとんどの人間はそそくさとその場を離れていく。
――もう。それで済むなら最初からそうすれば良かったのに。
ヴィクターはたしかに頭も口も回るが、相手の立場を思いやった最適な選択をすることは得意ではない。それに並大抵のことはソツなくこなすものの、彼の性格なのか、はたまた育ちに起因するものなのか。口調や見た目に反して粗暴な態度がよく目立つ。
それらをどうにか注意して、サポートして。ようやく最低限にまでラインを下げた常識とコミュニケーションを説くのが、隣を歩くクラリスの役回りなのだ。だって他に好き好んでやる人間はいないだろう。こんなデカくて偉そうな、顔だけの男相手に。
「……いた! エイダちゃんだ!」
二人がようやくエイダの姿を捉えたのは、ワゴンとの距離が約十メートルにまで来てからのことだった。
もちろんエイダの身長がワゴンよりも低いため、それまで群衆の中の彼女が確認できなかったこともある。だが――そもそも存在に気がつかないほどに、彼女の顔つきは昨日までとは違っていた。別に顔の造形が変わっていたり、目鼻の位置が変わっているわけではない。目の前のエイダの顔は、たった一日であからさまにやつれてしまっていたのである。
「……あっ。お兄さん、お姉さん! 来てくれたんですね」
それでもエイダは、二人を見ると嬉しそうに微笑んだ。
ワゴンの上の袋は残り少ない。エイダが「少し待っててくださいね」と言っている間にも、群がる客達は彼女のクッキーを購入しに――いや、違う。既にそこに金銭のやり取りは発生していなかった。次々に手を伸ばす客を相手に、彼女はただいっぱいにクッキーの詰まった袋を手渡しているだけなのだ。
クラリスはなんと声をかければいいか迷ったが、それでもヴィクターに説得を任されたからには責任を果たさなければならない。変に刺激をしないためにも、彼女は当たり障りのない話題からエイダとの対話を試みることにした。
「今日はすごいお客さんだね……。みんなエイダちゃんのクッキーを買いに来てるの?」
「そうなんです! 昨日のお客さん達に、家族やお友達にも配ってあげてくださいってお願いしたら、こんなにいっぱい……えへへ。これが全部、私のクッキーを食べに来てくれた人達だなんて……明日はもっともっと忙しくなりそうだなぁ」
そして最後の一袋が、客の手に渡った。
うっとりとした表情でエイダは質問に答えたが、それが素直に喜べないことはクラリスも分かっている。やはりあのクッキーは、とっくに町全体へと出回ってしまっているのだ。
「エイダちゃん。みんなに笑顔になってもらいたいっていう、アナタの気持ちはよく分かる。でも……たまには休んだ方がいいんじゃないかな? 今日のエイダちゃん、昨日会った時よりも疲れた顔をしていて……私心配になっちゃったの」
「えっと、お休み……ですか? ……たしかに毎日夜遅くまでクッキーを作っていたので、あまり寝てないかもしれません。朝起きても体が重くて……でも……」
「でもじゃないでしょ。エイダちゃんが倒れちゃったら、私だけじゃなくてアナタのお父さんやお母さんも悲しいし、それこそみんなを笑顔になんてできなくなっちゃう。だから今日は帰ったら美味しいご飯を食べて、いっぱい寝て休もう? 私達がおうちまで送っていくから。ね?」
クラリスが言ったことは本心であった。エイダがこのまま魔法を使い続けることは、彼女自身の命を脅かす行為となる。ましてや人々のあの狂乱ぶりを見た後だ。今後も小さな子供を一人で置いておくことなどできない。彼女の両親にもよく話をして、こんなことは止めさせないといけないのだ。
その心配する気持ちは、どうやらエイダにも伝わったらしい。彼女は少しの間ワゴンの車輪の下にできた轍を眺めて思案していたものの、やがて顔を上げると――にこりと微笑んだ。
「平気です!」
「……え?」
「たしかに疲れてはいますけど、こんなにたくさんのお客さんが私のクッキーを求めに来てくれていて……今が一番幸せなんです。だから、休むなんてもったいないことはしません。町の外からもお客さんが来ているうちに、もっともっといっぱいの人達に私のクッキーを食べてもらわないと!」
前言を撤回しなければならない。エイダに、クラリスの気持ちは伝わっていなかった。いや、言葉こそ伝わっていたのかもしれないが、それは彼女の心まで届いてはいなかったのである。
思い立ってすぐ、エイダは行動に移った。地面に広げていた道具を一式ワゴンに積み込むと、手馴れた様子で後片付けを済ませていく。きっと、帰ってすぐにでもクッキー作りの準備を始めるつもりなのだろう。
「待ってエイダちゃん! アナタがこのまま魔法を使い続けたら、町もアナタも大変なことになる。だから私の話を――わっ!? ヴィクター? こんな時に突然どうしたの……って、大丈夫!?」
それは急なことだった。エイダの元へ向かおうとしたクラリスの背中に、何者かが寄りかかってきたのだ。
いったい誰が? まさか妨害するために町の人間が襲ってきたのか? そんな漠然とした不安の正体は、ジャムと混ざった香水の匂いのおかげですぐに分かった。ヴィクターだ。
よろめいた拍子にクラリスの肩に手を置いた彼は、「大丈夫、大丈夫」と小声で繰り返しつつも、一人で立っていられないのだろう。そう口先で呟いている間にもステッキ伝いにずるずるとその場にしゃがみこんでしまった。
「どう見たって大丈夫じゃないでしょ! 具合が悪かったら言ってって言ったのに!」
「うん、うん……ごめん。でも……言ったらキミが、心配すると思って……。ほら。昨日もワタシのせいで、予定を変えようとしていたでしょ……。これ以上キミに、迷惑をかけたくなかったんだ……」
それはカフェでのことを言っているのだろうか。ヴィクターは気づいていないと思っていたが、クラリスの考えていたことは全部彼にはお見通しだったのだ。
ヴィクターはまだなにか言おうとしていたが、一度咳き込みはじめるとなかなか止まらないらしい。クラリスに背中をさすられ苦しそうに肩で息をしている姿は、とても見ていられるものではなかった。
「お兄さん……!」
するとエイダもこのヴィクターの異変にはさすがに気がついたらしい。彼女は作業を中断すると、小走りで二人の元へと駆け寄ってきた。そして慌てて上着のポケットに手を入れたかと思うと――次の彼女の行動に、クラリスは目を疑った。
「はい。お兄さんにはまだ渡してませんでしたよね、このカード! クッキーをたくさん買ってくれた人達には、ここに書いてある場所まで来てもらうようにお願いしてるんです。でも……お兄さんは少しだけでもお腹いっぱいになっちゃったんですね。嬉しい……私、お兄さん達が来てくれるのを楽しみにしてますから!」
そう言ってエイダは取り出した赤いカードをヴィクターの前に置くと、満足そうにワゴンを引いて去ってしまった。こんな状態の人間を前にして、気にかける言葉ひとつすら無く、である。
広場にいた人々も一人、また一人とこの場を去っていき、取り残された二人を気に止める者は誰もいない。ヴィクターの言っていた通りだ。彼らの関心の対象は、今やエイダのクッキー――それ以外に向いてはいないのである。
「エイダちゃん、どうして……」
「……げほっ……言っただろう。ただの人間にとって……魔力は、人間性を歪める毒、だと――」
そこまで口にしたところで、ヴィクターの手からステッキが滑り落ちた。
彼は両手で口元を押さえると、体を丸めて再び激しく咳き込みはじめる。だが……今度は様子がおかしい。やけにずっとえずいている上に、痙攣したかのように体が震えているのが、背中越しにクラリスも伝わってくる。
――もしかして、これもエイダちゃんの魔法の影響? ここはあの子を追ってる場合じゃない。早くヴィクターを病院に連れていかないと――
その時だった。突然ヴィクターの背中が大きく跳ねたかと思えば、どぷり。口を押えていた指の隙間から赤い液体が溢れた。もちろんクラリスが押さえようとしたところで、到底彼女の手のひらには収まりきらない質量が止まるはずもない。
「ヴィクター!? まって、これ止まらない……!」
既にクラリスの頭はパニック寸前だった。
ヴィクターの口から出ているのは、明らかに血だ。それは分かる。しかし血に混ざって吐き出されている、赤いゼリー状の物体は――まさか。それが何であるのかは、この際答え合わせをする必要も無いのだろう。
――食べたものを吐いてる感じじゃない。でも、次から次に溢れてくる……もしかして、もうヴィクターの体の中であのジャムが作られてる? なんで? さっきまでは元気そうに……ううん、そもそも体調が悪いって言ってたのは昨日からだった。ここまでずっと我慢してたんだ。もっと早く、私が変化に気づいていれば……
ずっと一緒にいたのに。彼が普通の状態でないことが分かっていたのに。こうなるまで無理していたことに気がつかなかったなんて。クラリスの心が後悔に苛まれていく。
それからしばらくすると、吐くだけ吐き出して少し楽になったのだろう。ヴィクターは息も絶え絶えながらに顔を上げて、酸欠で働かない頭で自分がなにをしていたのかを思い返す。そして、隣に寄り添うクラリスの顔を見て――彼はくすりと笑った。
「……はは。酷い顔だよ、クラリス。心配をかけてすまない……少し、気分が悪くなっただけだ。別に死んだわけでもないんだし……ほら、早くエイダくんを追いかけに――」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ! ……ああもう! こういう時に限ってスマホを部屋に忘れてきちゃった。今助けを呼んでくるから、ヴィクターは動かないでここで待ってて」
無意識に右目から零れていた涙を袖で拭い、クラリスが立ち上がる。暖かい体温が離れていく感覚に、ヴィクターの視線もそのまま上へ。しかし霞んだ視界では、彼女がどんな表情をしているのかを確認することまではできなかった。
「うん……ごめん」
そんな謝罪の言葉を口にするだけで、今のヴィクターはもう精一杯だった。
――いけないな。こんなに迷惑をかけているのに……キミがワタシを心配して、涙を見せてくれたことが嬉しいだなんて。……ねぇクラリス。これではますますキミのことが好きになってしまうよ……
クラリスに聞こえていないとは分かっていながらも、噛み締めるように。ヴィクターが心の内で呟く。しかし――その体がふらりと横に揺れ動き、地面に倒れ伏すまでにそう時間は掛からなかった。
霞んでいた視界の端から、徐々にノイズが走っていく。目の前が暗闇に覆われる寸前、クラリスが自分を振り返ったような気がしたが――確認する間もなく、ヴィクターの意識は完全に途切れた。




