第30話 そのお菓子には不思議な中毒性があった
正直、ヴィクターがクラリスからの申し出を断ったことは、彼女にとっても意外なことであった。彼は好んで甘いものを食べることはなくても、嫌いなわけではない。普段ならば、恥ずかしさに首まで赤くしてでも「食べる」と答えるところである。
「そう。じゃあ私が全部食べちゃうけど……それならさっきの話、そろそろ続けても大丈夫よね?」
「ああ。エイダくんのことだろう。彼女の発言や客の様子、そしてそんな客達が我を失ってまで求めるクッキー……。おかしな点は多々あるが、ひとつずつ整理するとしよう。まずはこのクッキーについてだが」
ヴィクターがステッキで地面を叩くと、彼の手の上に例のイチゴジャムサンドクッキーが入った袋が現れた。
が、なにを思ったのかヴィクターは袋のリボンを解いた上に、中身を一つつまみ上げると――それをためらいもなく自身の口の中へと放り込んでしまった。クラリスが唖然としてしまうのも無理はない。
「ヴィクター!? ちょっとなにしてるの。そのクッキーはもしかしたら……」
「安心したまえクラリス。昨日も一つ食べたが、このクッキー自体にはキミが想像しているような変な物はなにも入っていない」
そう言いながら、次々とヴィクターはクッキーを口に運んでいく。一口のパンケーキは駄目だというのに、ひと袋のクッキーは良しとするだなんて。いったい彼の中の基準はどうなっているのだろうか。
それから食べきってしまうまでに、おそらく数秒とかからなかっただろう。ヴィクターは少し名残惜しそうに空の袋を覗いてから、指を鳴らして残ったゴミを彼方へと消し去った。
「うん。味はやっぱり三流だ」
「三流だって……そんなに食べて本当に大丈夫なの、それ」
「Um……正直、こんなに食べるつもりはなかったのだが。ワタシにも少なからず中毒症状が出ているのかもしれないね」
「ちゅ、中毒症状?」
ぎょっとして、クラリスの食べる手が一瞬止まった。
ヴィクターは口直しにコーヒーを一口飲むと、空になったカップをテーブルの上に置く。
「そう。あのクッキーには中毒を引き起こす魔法が掛けられている……とでも言えば分かりやすいかね。言うならば、魔力中毒だ。通常、魔法使いはそれなりの魔力に対する耐性を有しているから、自身の魔力で身体に異常をきたすことはない。異常があるようでは生きていけないからね。……だが、これが魔力を持たないただの人間となれば、話は別だ」
ヴィクターが椅子の背もたれに大きく寄りかかる。急に体重をかけられたことで、鉄でできた椅子はギィと悲鳴に近い鳴き声を上げた。
「ただの人間にとって、魔力はそれは魅力的で依存性のある毒だ。ワタシもそれなりに長く生きているし、あの客達のように外的要因で魔力を摂取した人間なんて何度も見たことがある。だが……それによって良い最期を迎えた人間だけは、一度たりとも見たことがない。アレはただ命を蝕み、人間性を歪める毒を体内に入れているだけだよ。呑まれれば呑まれるほど後戻りができなくなって、最後には身を滅ぼす。おおかた、彼らも自分達が何に依存しているのかすら分かっていないのだろうね」
「なるほど……むぐ。依存……人間性を歪める毒、か……」
それまでは聞き手として、もくもくとパンケーキを口に運びながら彼の話聞いてたクラリスであったが……残念ながら、それも今の一口で終わり。彼女はあれだけの高さのパンケーキを、数分もしないうちにペロリとたいらげてしまったのである。
クリームは思ったよりもサッパリとしていて、通常のパンケーキ二枚分もの厚さがあったにも関わらず胃もたれしそうな様子はない。重いのは、今話している会話の内容――それだけである。
「……ヴィクターの話をエイダちゃんに重ねると、ワゴンに集まっていた人達はさっきのクッキーを食べたことによって魔力中毒になってしまった……。だからあんな風に興奮していたってことになるのよね。つまり、エイダちゃんの作ったクッキーには、魔力が込められている可能性がある……」
「正確には普通に作ったものに後から魔法を掛けたのではなく、エイダくんという魔法使いが魔法で生み出したクッキーがアレなのだろう。込められているどころか、魔力そのものでできているとも言えるはずだ。あるいは……」
「あるいは?」
クラリスが復唱して尋ねるものの、ヴィクターはなにかを言いかけたまま黙り込んでしまった。それから彼が口を開いたのは、通りの賑わいが昨日の半分近くまで戻りはじめた頃。だがその顔は、今までクラリスが見たことがないような険しい表情をしていた。
「……いや、なんでもない。どれもまだ、憶測の域を出ない話だからね。ワタシは確証が無い話をするのは好きじゃあないんだ」
そう言うと、ヴィクターは通りがかった店員を呼び止めて、コーヒーのおかわりを注文した。ついでとばかりに慌ててクラリスも同じものを注文する。人が飲んでいるのを見ていたら、自分も食後のコーヒーが欲しくなってしまったのだ。
「さて……話を戻すが、ここからは次のステップだ。ひとつ、ワタシの中で気がかりなことがあるとすれば、レディが我々の前に会ったという魔法使い……」
「ああ、あのクッキーの作り方を教えてくれたっていう魔法使いね? エイダちゃんが魔法でクッキーを作ってるってことは、その人が魔法の使い方を教えてくれたってことかしら?」
「……それがこの話の中で、最も重要な点なんだ。ワタシで簡単に例えるとしよう」
ヴィクターがステッキを使って再度テーブルの縁を叩く。七色の花火の爆発と共に卓上に現れたのは、陶磁器でできたティーセットに、クラリスが買いだめたマフィンやチョコレートといったお菓子の数々。そして――
『きゃん!』
「わぁ、ペロちゃん! こんにちは。今日ももふもふだねぇ」
『くん……きゃん! わん!』
いつの間にやらヴィクターの膝の上に乗っていたのは、クリーム色の毛玉の塊。つぶらな瞳が愛らしい短足の子犬であった。クラリスに撫でられたペロは甘えた声で鼻を鳴らすと、満足したのかヴィクターの膝を降りてテラス内を散歩しはじめた。
果たして、このカフェにペット同伴可能の張り紙はしてあっただろうか。それこそ注意されてもおかしくはないのだが、どうにもヴィクターの召喚するこの使い魔達は、ヴィクターとクラリス以外からは見えていないらしい。
――褒められることをしたわけでもないのに、出てくるだけで無条件にクラリスから可愛がってもらえるなんて……ペロめ。主を差し置いていいご身分だね。
他人のテーブルの下で拾い食いを始めたペロを、ヴィクターが恨めしそうな表情で見つめる。自分で呼んでおきながら、勝手に嫉妬して心の中で恨み言を唱えるだなんて……犬相手に器の小さな男である。
「……こほん。あー、今見ての通り、ワタシはいとも簡単に複数の魔法を使って見せた。キミの購入したスイーツの出し入れに、使い魔の召喚。それから……」
ヴィクターが目配せをすると、それまで静かにしていたティーセットがひとりでに動き出した。ふわふわ、かちゃり。二人がそれを眺めていると、優雅に舞ったポットがクラリスの目の前で暖かな紅茶を注ぎはじめた。優しいダージリンの香り。彼女にとっては既に見慣れた光景である。
「飲むかい?」
「今コーヒーを頼んだばっかりでしょ。それで、これがどうしたっていうのよ」
クラリスの指摘はもっともだ。ヴィクターが「それもそうか」と呟くと同時に、パチン。指を弾く音が聞こえて、目の前に並んでいたティーセットや菓子、そして次の食べこぼしにありつこうとしていたペロが跡形もなく姿を消した。ああ、この短時間で身勝手に呼ばれて身勝手に消される、可哀想なペロ。
「このように複数の魔法が使える魔法使いというのは、そう多くはなくてね。基本的に性格、体質、魔力量からなる相性によって、生まれつき使える魔法は変わるんだ。例えば空を飛ぶ魔法しか使えない魔法使いがいるのと、他者の心を読む魔法しか使えない魔法使いがいるようにね。一般人では得意な魔法が一つか、天才でもせいぜい二つ……まぁ、ワタシなんかは数えるだけ無駄なほど扱うことができるが」
「……まさか、自慢?」
「違う。話は最後まで聞きたまえ。つまり言いたいのは、エイダくんが仮に先天的な魔法使いだったとして、後から新しい魔法を習得するのはほぼ不可能だということなのだよ。なら彼女は、どうして謎の魔法使いから新たな魔法を教わることができたのか……理由は簡単。それは、彼女がただの人間だったからだ」
そのタイミングで、注文していたコーヒーが二人の元へとやってきた。クラリスは砂糖二つにミルクをひと回し。ヴィクターはブラックのままである。
「普通の人間が魔法を使うことができるようになる条件は一つだけ。それは……他者から、魔法使いになるための力を与えられることだ」
「与えるって、そんなことが可能なの?」
「そういう魔法使いもいるということだよ。……さて、クラリス。聡明なキミならば、ただの人間が魔力を手にした時、どうなるのかはもう分かっているだろう」
「えっ? 急に言われても……たしか、ただの人間が魔力を手に入れるのは毒で、魔力に呑まれた人間は最後には身を滅ばすことになる……。きっとクッキーを食べた人だけじゃなくて、魔法使いにされた人も同じよね。ということは、エイダちゃんも……」
なにかを察した様子のクラリスの言葉に、ヴィクターが頷いた。
これだけ立て続けに話してはさすがに疲れたのか、彼は緩慢な動作でコーヒーを一口飲んで息をつく。そしてクラリスと――これからエイダに起こるであろう残念な現実を想い、忠告をひとつ残したのだった。
「……もしもキミがエイダくんの身を案じ、この件について首を突っ込みたいと言うのならば、ワタシは喜んで手を貸そう。だが、覚えておきたまえ。魔法使いの世界はキミが思っているほど綺麗じゃあない。魔法がキミ達の素敵な隣人であるのなんて……しょせん、おとぎ話の中だけにすぎないのだからね」




