第28話 奇妙なワゴンと菓子売りの少女
《翌日――ヴィクターの宿泊部屋》
ヴィクターが感じた胸焼けは、朝になっても治ることはなかった。むしろそれに加えて胃もたれまでしている気がする。
風邪でも引いてしまったのか? 全身にのしかかる気だるさに一瞬、そんな疑いすらしたものの……呼び出した体温計で測った結果は平熱。彼はなんとも言えない全身の不調に頭を悩ませながら、こうして起床後も十分近くをベッドの上で横になり続けていた。
――酷い倦怠感だな。あのレディに渡されたクッキーを食べた時から……いや、悪化したのはクラリスに付き合って甘い物を食べすぎたせいか。なににせよ食欲も無いし、昨日のうちに朝食をパスする選択をしたのは正解だったね。本当ならもう少し休んでいたいところだけど、ワタシの体調ごときで彼女の楽しみを奪うわけにはいかないし……
そう悶々と考え事をしている間にも、時刻は十時。クラリスとの待ち合わせの時間だ。
サイドテーブルに置いていたペットボトルから常温の水を一口飲み、気合いだけで重い体をベッドから立たせる。呼び出したステッキを軽く一振りして床を叩けば、静かな花火の破裂音と共にヴィクターの身支度は完了した。クラリスには悪いが、いつだって完璧な自分を見せるためだ。こればかりは魔法使いの特権として楽をさせてもらうとしよう。
「クラリス、起きてるかな……」
手短に歯磨きを終わらせて、香水をひと振り。ようやく部屋を後にしたヴィクターは、クラリスが泊まっている隣の部屋のドアを控えめにノックした。
パタパタと、部屋の中からスリッパを引っ掛けた足音が聞こえてくる。クラリスは先に支度を終えていたのか、ドアを開けた彼女は腰にポーチを装着して準備万端な状態でヴィクターを出迎えた。
「はーい! あっ、おはようヴィクター。それじゃあ早速町に出て――って、なんだか顔色が悪そうだけど……大丈夫?」
「ああ……昨日食べすぎたせいか、なんだか胸焼けがしていてね。そのうち治るだろうから心配しなくていいよ。そういうクラリスこそ、ワタシ以上に食べていたと思うが……キミはなんとも?」
「当たり前じゃない。デザートは別腹なんだから。昨日食べた分なんて、今回出店されているお店の四分の一にも満たないのよ」
「別腹もなにも、ほとんどデザートみたいなものしか食べていなかったじゃないか……どうやらキミの胃袋は異次元にでも繋がっているようだね……」
そんな会話もそこそこに、二人はお祭り真っ只中な町中へと繰り出すことにした。こうして話をしている間にも、数量に限りのある人気商品は売り切れてしまうかもしれないのだ。ヴィクターが大丈夫だと言っている以上、クラリスはその言葉を信じて予定通りに行動をするしかなかった。
「クラリス。今日のルートはもう決まっているのかね」
「もちろん! 寝る前にスマホとパンフレットを穴が空くほど見て頭に叩き込んできたんだから。今日はチョコレート中心に攻めるわよ」
「チョコか……太らないように気をつけたまえ――いだっ」
外出早々、デリカシーの無いヴィクターの発言にクラリスが思い切り彼の背中を叩いた。食べすぎないよう注意喚起をしただけだというのに、力加減も無しとはなんたる暴挙だろうか。
その後はクラリスが調べてきたルートのおかげで店選びに迷うこともなければ、人に揉まれることもなく二人のショッピングは順調に行われた。昨日と比べて通りを歩く人の姿が少ないのは、イベントも中日だからだろうか。おかげでゆっくりショーケースの中を見比べることができて快適だったくらいである。
二人がようやく休憩を取るべく足を止めたのは、太陽が頂点を過ぎた頃。クラリスがランチの場所として選んだのは、広いテラスを構えたカフェであった。
「ふぅ……さすがに歩き回って疲れちゃったし、ちょっと休憩。ヴィクター、私のワガママにずっと付き合わせちゃってごめんね?」
「なにを言うのかね。クラリスが楽しいのならワタシはそれだけで十分だ。つかの間の休息なんだし、ランチは好きなものを頼みたまえ」
「ありがとう。……うーん、どうしようかな。パンケーキもあるし、パスタもある。ランチセットも魅力的だけれど、夜に向けて昼は軽めにした方がいいかな……」
テラスに席を取り、メニューを開いたクラリスがうんうんと唸り声を上げる。……が、実際のところ、クラリスが頼むメニューはこの時既に彼女の中では決まっていた。ランチの場所だって、事前にリサーチ済みなのだ。ここがパンケーキで有名なオシャレカフェであることくらい知っている。
そんな彼女が、こんな棒読みの演技をしてまで注文に時間をかけていた理由は他でもない。ヴィクターの様子を探るためである。
――やっぱり、おかしいわよね。あのヴィクターにしては小言が少ないし……それになんだか静かすぎる。いつもなら席に着いた途端に勝手に喋りはじめるのに……
このレベルで静かすぎる、と言い切るのもいかがなものかと思うのだが。
普段であればヴィクターも昼食を頼むなり、自前のティーセットを取り出して迷惑にも好き勝手にくつろいだりするところなのだが――どうにも今日の彼は気が乗らないらしい。席に着いてすぐに頼んだコーヒーに時々口を付けるくらいで、後はぼうっと通りを眺めている。
――いつもこれくらい静かならいいんだけど。特に怒ってるわけでもなさそうだし、朝から体調悪そうにしてたからそのせいかな……
だとすれば、この後は予定を切り上げて早めに休むべきだろう。イベント期間はまだ三日もあるのだ。どうせ楽しむならば、元気になったヴィクターとあれこれ言い合いしながら回った方が何百倍だって楽しい。
「ねぇヴィクター。お昼を食べた後なんだけど、やっぱり今日はホテルに戻って――」
「あっ」
そうクラリスが切り出したところで、遮るようにヴィクターが短く声を上げた。眠そうに目を細めていただけかと思えば、どうやら通りの方でなにかを発見したらしい。
彼の視線を追ってクラリスもそちらへ目を向けると――まず最初に目に入ったのは小さなワゴンの赤い屋根。そして棚に陳列された商品の姿が分からないほどに群がる人の姿だった。
「わぁ、凄い人だかり。有名なお店が売りに来てるのかな。パンフレットには載ってないワゴンみたいだけれど……ヴィクター、あそこが気になるの?」
「気になる……という程でもないが。あのワゴンと店主には見覚えがあってね。クラリスは昨日、ワタシがキミの元を離れて別行動をした時間があったのを覚えているかね」
「ええ。ヴィクターが野次馬しに行った時よね」
「野次馬だなんて、人聞きの悪い言い方をするね……。とにかく、その時に人だかりができていたのが、あのワゴンだったのだよ。どこにも見かけないと思ったら、今日はここに店を出していたのか」
ヴィクターの言葉を聞いて、クラリスが改めてワゴンとその周りに群がる人々に目を向ける。
ワゴンの奥にいたのは、昨日ヴィクターが出会ったあの少女であった。我先にといった様子で次々と手を伸ばす客に対して、慣れない手つきで不格好なラッピング袋を渡している。
「お父さんもお母さんも近くにいないみたいだけれど、売ってるお菓子はあの子の手作りなのかな。みんな凄い勢いだけど……そんなに美味しいんだったら、無くなる前に私もひとつ――」
「いや、味は普通だったよ」
「……え? ヴィクター、食べたの?」
意外な言葉に思わずクラリスが尋ねると、コーヒーカップに口を付けたままヴィクターがこくりと頷いた。彼がクラリスに黙ってお菓子を食べるなど、珍しいこともあるものである。
「あの後、流れで試食品を貰うことになったんだ。湿気ったイチゴジャムサンドクッキー。正直……一般人の観点から見ても微妙な出来だったと思うよ。キミも口にすれば期待外れだったと感じるはずさ」
「そう……なんだ……。じゃあ、あの人達はなんであんなに必死になってクッキーを買おうとしてるんだろう。他になにか理由があるってこと……なのかな」
その答えは傍観している彼女らには分からない。言い方は悪いが、ヴィクターの話を聞いた後に見るとあの光景は――あまりにも異常である。通りを歩いていた人間がふらっと立ち寄っているような雰囲気ではない。あれではまるでイナゴ――そう。あの場に群がる客は皆、田畑を荒らすイナゴのごとく最初からあのワゴンのクッキーを食い尽くさんと駆け込んできているのだ。
――貰ったそばから人目も気にしないで食べてる人もいるし、あんな子供相手に怒鳴り声を上げてる人もいる……。みんなあのクッキーのことしか頭に無いみたいで、ちょっと怖いかも。
ここからでも客達はかなり興奮しているように見える。きっと手が出るのも時間の問題だ。ならば助けに入るべきだろうか――そうクラリスが考えているうちに、在庫が無くなったのだろう。パタリと。それまでワゴンの周りで団子状態になっていた人々は、突然興味を無くしたかのように次々にその場を離れていってしまった。
「売り切れみたい。凄かったわね……」
「ふん。あんな素人が初めて挑戦して作ったようなクッキーに、なにをそんなに群れる必要があるのかね。理性もへったくれもない……あれじゃあ飢えた獣同然じゃないか」
時間にして、五分ともたなかっただろう。そこだけ嵐が通り過ぎたかのように悲惨な有様となったワゴンを前に、ヴィクターは呆れたようにそう呟いた。




