第27話 スモーア・スイーツフェア
バターの匂い。カラメルの匂い。フルーツの匂い。まるでこの世の全てのスイーツをテーブルに並べたかのような、それでいて互いを邪魔しない奇跡の香り。そんな食欲を刺激する甘美な香りが、新たな二人の客人の来訪に胸を躍らせている。
この香りを形にすることができたとしたら……きっとそれは、まん丸で柔らかな質感をしているのだろう。そう思えてしまうほどに、町全体を包み込むこの甘い香りは人々の心を癒し、笑顔の花を咲かせてしまうだけの力を秘めている。ここに足を止めた彼女も、その香りの虜となった一人であった。
「すごい……町中から幸せの匂いがする。ここがスモーア……私、本当に来ることができたんだ……」
たくさんのパティスリーが建ち並ぶ、スイーツ好きにとっては聖地と呼ばれる町『スモーア』。この場所が聖地とされる所以の一つは、そのスイーツ店の多さとそれに準ずるとあるイベントにある。
少し視線を上げれば、『スモーア・スイーツフェア』と書かれた看板が大通りの入口にでかでかと飾られている。そう。とあるイベントとは、世界中からスイーツの名店達が集まるこの一大イベントのこと。ショーケースに並ぶ見た目も美しいスイーツの数々は、まるでお菓子の国にでも迷い込んでしまったと錯覚させてくるようだ。
今年度の開催はちょうど一昨日から始まって一週間――本当に良いタイミングで訪れることができたものである。
――五日間もあるなら、頑張れば全店制覇できちゃうかも……! ヴィクターにお小遣いの前借りを頼まないと。どれもイベント価格で少しだけ割高だけれど……言わなければバレないよね?
そんな目論見を胸に、クラリス・アークライトは大通りの看板の下でキョロキョロと周囲を見回す。夢にまで見た一大イベントなのだ。いくら事前に下調べをしたとて、本物を見てはさすがに目移りもしてしまう。ましてや通りが二つに分かれてもいればなおさらだ。
「クラリス。急に立ち止まるのはやめたまえ。通行の邪魔になってるよ。ただでさえこの人混みなんだ……いてっ。うっかり見失ってしまったらどうするつもりなのかね」
「大丈夫。ヴィクターの身長なら離れたってすぐに見つけられるもの。人混みっていっても、ぎゅうぎゅうになるほどでもないし」
そう甘えた答えを述べるクラリスの目は、一歩後ろに立つ紅髪の男――ヴィクターを既に見てはいない。どれだけ顔が良かろうが、宝石のように輝く大好物の前にビジュアルは無力。ケーキに飾り付けられた砂糖菓子にすらこの魅力は劣ってしまうのだ。
――キミがスイーツに目を奪われている間、他人がぶつからないようにと身を呈して守っているのはワタシなのだが……。よくもまぁ、食べ物ごときでここまで夢中になれるものだね。
ヴィクターがそう思っている間にも、彼の肩や腕にはごった返した人の波が容赦なくぶつかっていく。いっそのこと、わざとではないかと思うほどに。それは勢いよく。ああ、ほらまた。
「キミがよくたって、ワタシはよくないんだ。はぐれてしまった時のことを考えたことはあるのかね? いいや、無いだろう。連絡しようにもワタシはあのスマホとやらは持っていないんだ。この人の波をかき分けて探そうものなら、先にワタシが人酔いでダウンする方が早い自信すらあるね」
「それなら手でも繋ぐ? その方がヴィクターも離れる心配がなくて安心でしょ」
「えっ」
クラリスからの思わぬ提案に、ピタリ。飴細工のごとくヴィクターの動きが固まった。手を繋ぐというのは、恋人達が行うあの定番中の定番――もしや手と手を繋げるあの行為のことをいうのだろうか。
ヴィクターは口を閉じることすらも忘れて、近くのワゴンでマフィンを購入するクラリスをぽかんと見つめていた。するとその目が彼女の白く細い指先に向けられたのもつかの間――ぼっと顔を赤らめた彼は、煩悩を打ち消すかのようにブンブンと首を横に振った。
「く、クラリス。そういうのはよくない。申し出は本当に嬉しいが、ワタシの心の準備ができていない。手を繋ぐだなんて、お付き合いもまだなワタシ達には早いと思うんだ。それもこんな人目の多い所でなんて、ワタシにはまだっ、ハードルが高くて……!」
「そう。じゃあ次はあっちのコーヒーロールを見に行きましょ。前に雑誌で見た名店が来ているみたいなの!」
「うん……」
クラリスはこんな時のヴィクターの対応を既に心得ていた。実際のところ、ヴィクター相手ならば手を繋ぐくらいクラリスはなんら構わなかったのだが――反応は彼女が予想していた通り、拒否。彼の気持ちを利用した少しズルいやり方ではあるが、ここは自分を待っているお菓子達のためなのだ。手段は選んでいられない。
無事にマフィンを購入したクラリス達は、行列ができている数件先の露店へと足を向けた。彼女が言う名店というだけあってか、客の中にはたしかに持ち帰り用の箱をいくつも手にした人間が見受けられている。
「わぁすごい……クリームの中にコーヒーゼリーが入ってる。ヴィクターも、アレなら甘すぎなさそうだし一緒に食べられるんじゃない?」
「ん、んん? あぁ……別にクラリスがくれるものなら甘い物も食べなくはないが。たしかにこのスイーツはワタシの好みに合いそうな見た目をしているね。さすがクラリスだ」
「じゃあ決定! 無くなる前に早く並びましょう」
保冷ケースの中に陳列されているケーキを遠目に見て、クラリスがスキップで最後尾に並ぶ。
きっと付き添いであるヴィクターも楽しめるよう、彼用に購入する候補をいくつかリサーチしていたのだろう。スマホを手にしたクラリスが、メモ機能にビッシリ書き連ねた購入リストのひとつにチェックマークを付けた。
「やれやれ。このままでは今夜はお菓子パーティになってしまいそうだね……ん?」
自身もクラリスを追って最後尾についたヴィクターであったが、そんな彼の耳に怒号が飛んできたのは同時のことであった。
まさか横入りしてしまったのか? そう思っている間にも二度、三度と別人の怒鳴り声が聞こえてくる。どうやらそれはヴィクターとクラリスに飛んできたわけではなく、声の聞こえた方向からして反対側の通り。事はそちら側で起こっているようである。
「なに? 喧嘩かしら」
「Hmm……それにしては様子がおかしいね。キミはここに並んでいたまえ。暇だしちょっと覗いてくるよ」
「えっ? あ、こらヴィクター! はぐれるなって言ったのはどこのどいつよ! 野次馬はダメ!」
後ろでなにやらクラリスが叫んでいるが、ヴィクターは聞こえないふりをしてさっさとその場を後にした。気になるものは気になる。あの行列であれば、少し覗いて戻ってくる頃にも彼女はまだ並んでいることだろう。
人の間を縫って歩き、反対側の通りに着くと全貌はすぐに明らかになった。そこにいたのは――人だ。一つの小さなワゴンに向けて、アリのごとく人が群がっていたのである。
「おいチビ! 早くこっちにもよこせ! どれだけ待たせるつもりなんだ!」
「私は三袋ちょうだい! ああ、やっぱり五袋! なんならあるだけ頂いてもいいわ!」
「誰だ今押した奴は! 俺の方が先に待ってたんだぞ。順番くらい守って並べってんだよ!」
どうやら先程の怒号はここから上がっていたようで間違いない。近くを通る人々も初めは物珍しそうに見ていたものの、異様な雰囲気を察知しては関わり合わない方がいいと判断したのだろう。早足にその場を去っていく。
――ここだけ無法地帯のようになっているが、店主はいないのか? このままでは客の間で殴り合いが起きてもおかしくない興奮の仕方だが……
もしも店主が店を離れているのなら、それはそれで大問題だ。なにせここにいる全員が白昼堂々と盗みを働く強盗集団となってしまう。しかしワゴンの横に回り込んでみると、人混みの中にわずかに窪んだ空間があることが分かり――ヴィクターの疑問に対する答えが聞こえてきた。
「みなさん、クッキーはまだまだたくさんありますから、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ! もっともっと欲しい人には、夜になったらこのカードに書かれている場所でお渡しします! お友達や家族にもたくさん広めてくださいね!」
客の中に埋もれて顔こそ見えなかったが、少女と思しき声がその窪みの中から聞こえてきた。群衆を制しようと叫んではいるものの、効果は薄いのか喧騒はますますヒートアップしていく。しかし――辺りが静まり返るまでにそこまでの時間はかからなかった。肝心の商品が売り切れてしまったのである。
声で想像していた通り、客を捌いていたのは齢十程度の茶髪の少女だった。客もいなくなったワゴンの後ろでひと息ついた彼女は、離れた場所から見ているヴィクターの視線にようやく気がついたらしい。どこか恥ずかしそうに、そして申し訳なさそうに眉を下げて微笑んだ。
「わぁ、綺麗なお兄さん。こんにちは。えっと……初めて来てくれたお客さんですよね。ごめんなさい。今日はもう全部売り切れちゃったんです……」
「かまわないよ。ワタシはただ見ていただけだからね。それにしても凄い人だかりだったが……ここは何を売っている店なのかね」
「イチゴジャムサンドクッキーです! 売りはじめたばかりなんですけど、一度食べたら忘れられない味だってお客さんがたくさん来てくれて……あっ、そうだ!」
話の途中で少女はなにかを思い出したのか、ワゴンの横に積まれた木箱の中をゴソゴソと漁りはじめた。そして取り出した保存容器の蓋を開けると、中身が見えるようにヴィクターへと差し出す。
「これ、試食用に持ってきてたんです。さっきは出す暇が無かったから余っちゃって……よかったらお兄さんもひとつどうですか?」
「いや、ワタシは別に食べたいとまでは言っていないのだが……」
容器の中には少女の言うイチゴジャムを挟んだクッキーが並んでいた。このジャムは手作りなのだろうか。甘い香りがヴィクターの鼻腔を通り、ほんのわずかに顔を出した好奇心をくすぐっていく。
――先程このクッキーを目当てに群がっていた客達……少し様子がおかしかったように見えたが。一見変なものは入っていなさそうだね。……ちょっと気になる。クラリスに隠れて食べるのは気が引けるのだけれど……
ヴィクターは一度は断りを入れるべく口を開いたものの、やがて少しの逡巡。熟考の結果、結局彼は一枚だけクッキーを貰うことにした。
「……まぁせっかくの縁だ。今ここでいただくよ」
「ありがとうございます! ……どうですか?」
つまみ上げてみても、特におかしな様子は見当たらない。ひょいと口に放り込んでみれば、少女の顔が期待一色に染まった。
当のクッキーはといえば、しっとりと口当たりがよくヴィクターにとってはちょうどいい甘さ。一口で食べられるサイズ感は女性や子供にも人気が出る大きさだろう。なにより間に挟まっているイチゴジャムは香りが良く、味も――
――いや……普通、だな。
良くも悪くも、普通の味だった。
あれだけの人がこのクッキーを求めていたのだ。さぞや美味しいクッキーなのだろうと密かな期待もしていたのだが……どうやらヴィクターの見当違いだったらしい。これなら市販の物を買った方が安くつくくらいである。
「お兄さん、どうですか……?」
「あぁ……とても美味しいクッキーだね。皆があんなにも欲しがるわけだ」
にこりと笑いかけたヴィクターの口から、虚偽の感想が飛び出る。正直に述べることも考えたが、相手は子供だ。このクッキーがどれだけ不味かったとしても、きっとクラリスならばこう答えただろう。
「ほんとう? よかった……今日のは自信があったんです! 明日はもっとたくさんご用意できると思うので、また来てくださいね!」
少女はそれは嬉しそうにヴィクターの言葉を受け取ると、小さな体で一生懸命にワゴンを引いて帰っていった。親が迎えに来ないところを見るに、今日は彼女が一人でワゴンを切り盛りしていたのだろう。
――明日、か。レディには悪いが、わざわざクラリスを連れて来るほどのものでもないな。客の様子だけは少し引っ掛かるが……楽しみにしていたイベントで彼女を不安にさせるわけにはいかないからね。
あんな菓子一つで、早くも胸焼けを起こしている。
ヴィクターは遠くで手を振る少女に軽く片手を上げて挨拶すると、コートを翻してクラリスの待つ通りへと戻っていくのだった。




