第23話 無力な家畜にできること
ヴィクターは考える。はて、自分が女王蜂の腹を爆破した時、はたして魔獣はあちらとこちら、どちら側を向いていただろうか。――答えは簡単。こちら側だ。なにせ奴は愛するクラリスとの会話に水を差す形でこちらへと突進してきたのだ。少なくとも、あんなあさっての方向は向いていなかったはず。それならば、今のこの状況は明らかに――
「まずい……クラリスッ!」
「えっ?」
その答えに行き着いた時、ヴィクターは出せる限りの声を振り絞って彼女の名前を呼んでいた。いつになく緊迫した声で呼ばれていることに気づいたクラリスは、保護したばかりの小鹿を両腕に抱き抱えて振り返る。瞬間――彼女の全身が凍りついた。
クラリスに覆い被さるのは、視界いっぱいを覆い尽くす不気味に伸びた影。生気の感じられない顔で上体を起こした姿は間違いない、先程死んだはずの女王蜂だ。
『Aaaa……Gy、Aaa……』
閉じることを忘れた口から流れ続ける、粘り気のある涎。焦点の合わぬ白目を剥いた四つの瞳。魔法が解けて、臓器が零れた腹穴。はたから見ても明らかな致命傷だ。それであるにも関わらず――
――この魔獣……どうして。どうしてこんな状態なのに、それでも動いてるの……?
クラリスには理由など分かるはずもない。頭をもがれた虫がしばらく地べたをもがくように、ただの誤作動、筋肉の反応なだけなのかもしれない。
だが……この魔獣はまだわずかにでも生きている。ならば死の間際に感じた生命の危機に、本能的に行動を起こそうとしているのだろう。食事という、もっとも原始的で分かりやすい行為によって。少しでも長くこの世に生を繋ぐために。
だから、そう。今ここで下手に動いてしまえば、きっとその瞬間に彼女は――食べられる。
「ヴィクター!」
「分かってる。今トドメを刺すからそこに伏せ――」
ヴィクターが女王蜂の後頭部にステッキの照準を合わせる。しかし、魔法を放つ寸前で彼の動きはピタリと止まった。
撃てない。動くことのできないクラリスの頭上――巨木に繋がった小部屋が揺れている。そう、揺れているのだ。度重なる戦闘の影響で、部屋を繋ぐパイプが外れかかってしまったのだろう。今にも部屋ごと落ちそうになっている。
もしもここでヴィクターが魔法を使えば、どんなに低火力だろうと巨木ごと巻き込むことになる。女王蜂にトドメを刺せたとしても、次の瞬間にクラリスはぺっちゃんこ。だからといって、なにもしなくても美味しく食べられておじゃんだ。
――考えてる時間はない。ワタシが無理やり割り込んででも止めないといけない……いけないのに。
そうは思っても、ここからでは距離が離れすぎている。ヴィクターが今から走ったとしても間に合う可能性の方が低いだろう。しかし――
「ああくそ、手段を選んでいる場合じゃないな!」
あれこれ考えても仕方がない。まずは魔獣の撃破。巨木が崩れてきた時のことを考えるのはそれからだ。
緊張で上下にブレるステッキに言うことを聞かせて、ヴィクターが照準を絞りなおす。できるだけ範囲は最小限に、しかし威力は落とすことなく。そして一か八かを賭けた魔法をヴィクターが放とうとした――まさにその時だった。
『……Aaam?』
コツン。不意に音がして、女王蜂の頭になにかがぶつかった。――石だ。石の飛んできた方向に女王蜂が振り返ると、すかさず二つ目、三つ目、そして次々にとまた石が魔獣に向けて投げ込まれる。
「クラリスちゃんから離れろ!」
「そ、そうだ! 離れないと、も、もっと投げつけるぞ!」
「俺達のことを家畜扱いしやがって、これでもくらえ!」
「死にかけの魔獣なんて怖くないんだからな!」
石を投げていたのは、ベン率いる村人達であった。
こんな森の中、武器になりそうなものはいくらでも落ちている。彼らは足元から拾った石や木の枝を投げつけることで、女王蜂の気をクラリスから自分達へと逸らそうとしていたのだ。
そうしているうちに、投げた石のうちのひとつが運悪く女王蜂の目玉へとヒットする。人間ならば思わず痛みに顔を覆っていたことだろう。その痛みが分かるからこそ――彼らの中から間抜けにも「あっ」と声が上がったことは必然であった。
『a……aa……Gyyyyaaaaaam!』
「こっちに来る……! みんな逃げろ! あの速さなら走れば逃げ切れ――マイルズ? おい、君も早く逃げろ!」
ベンがそう言ったそばから、情けない悲鳴を上げてマイルズと呼ばれた村人が尻もちをついた。それはあの耳をつんざく奇声と共に、女王蜂がベン達の元へと走り出した矢先のことである。
マイルズは逃げようにも足に力が入らないのか、迫り来る女王蜂とベンとを交互に見ては口元を震わせている。その顔は青色を通り越して土気色にまで染まりきっていた。
「ひぅ……ベン、もうダメだ。先に行ってくれ……腰が抜けて立てなくなっちゃったんだよ……」
「バカ言うな! せっかくクラリスちゃんが助けてくれた命なんだぞ。そんな無碍にするようなこと言うんじゃない!」
「で、でも……」
女王蜂は瀕死の重症を負っているだけあってか、スピード自体は速くない。しかしそれでも動けなくなった獲物一人くらいを狩りとる力は残っているのだ。
いち早く気がついたベンが駆け寄ろうとするものの、なにせ二人揃って腹が突っ張ったこの体だ。動けない人間相手に、果たしていつものように引っ張りあげることができるだろうか。走ることができるだろうか。なにより――巻き添えにならずに生き残ることができるだろうか。たった今放った自分の言葉とは反する考えがベンの脳裏に過ぎり、足が恐怖ですくむ。
しかし――そんな彼の恐怖の感情は一瞬のうちに拭いさられることとなる。神は――否、その魔法使いは、絶望の淵に立たされた彼らを決して見放さなかったのである。
「――ただの人間にしてはよくやった。まさか石を投げるだなんて、そんな簡単な方法で解決することができたなんてね。ワタシには無かった視点だ。キミ達がクラリスからアレを引き剥がしてくれたおかげで……これ以上、遠慮をする必要が無くなった」
通りざまにそう言って、ベンの左肩を叩いたのはヴィクターであった。
彼は座り込んだままのマイルズの前に立ちはだかると、手元のステッキをくるりとひと回し。そして迫り来る女王蜂を正面から見据えて、高らかにこう言い放った。
「クラリス、今だ! 全速力でその場を離れたまえ!」
「ぜ、全速力?」
「ああ。――かっ飛ばすよ!」
「かっ飛ばすって、アナタまさか……!」
ヴィクターの目線が巨木の上部に向けられる。そこでクラリスは、ようやく自身の頭上でなにが起こっているのかに気がついた。同時にヴィクターがなにをしたいのかを理解する。
彼女は小鹿を抱き抱えたままなんとか立ち上がると、精一杯に足を動かして小部屋の落下範囲の外側へ向けて走り出す。反対に女王蜂は立ち塞がるヴィクターの存在に気がつくと、停止。咆哮――持てる最後の力を使って、一心不乱に彼へ向かって跳躍をした。
「キミ、名前はベンくんといったかね」
「えっ? あ、ああ。そうだが……」
視線は魔獣に向けられたまま、左手は魔力を流し込んだステッキを握ったまま。突然ヴィクターからかけられた質問に、それまで呆然としていたベンは思わず肯定を返す。
「改めて、キミ達には礼を言おう。キミの仲間は自らを家畜だと称したが……ワタシから見れば、あの行為はそれは勇気ある戦士の姿だった。これはキミ達が行った選択の結果だ。自らが行った選択に誇りを持ちたまえ」
そう言って、ヴィクターはステッキを構えた。
それはいつものように前に突き出した構えではない。まるでいつかのテレビで見た、バットを構えたアスリートのような。そんな見よう見まねのぐちゃぐちゃなフォームのままに、彼は真っ直ぐに自分へと飛び掛ってくる女王蜂の顔面に狙いを定めると――
「ぶっ飛べッ!」
見事なフルスイングで魔獣の身体を打ち返したのだった。




