第18話 皆さんは家畜なんです!
さあ、困ったことになった。
ベンを筆頭にこの場を動く気のない村人達の行動は、まるでそれしか娯楽を知らない人間そのもの。壁や床から掬った黄白色のナニカを暇つぶし感覚で口にしているだけ。
この行動とそれによって起こっている体型の変化は、部屋の隅に集まった小動物達にも見られていた。ペロペロと緩慢な動きで壁や床を舐める鹿やウサギ。そのどれもが彼らと同じように、普通ではありえない大きさにまで腹が膨れてしまっていたのだ。
――あれ。あの鹿……あの子だけ、お腹が膨れてない。
そんな中でクラリスが目を止めたのは、彼女からはそう遠くはない位置に伏せている一匹の小鹿であった。その小鹿だけ、他の動物と比べても明らかに元気が無い。
「アレが気になるのかい? あの鹿はさっき魔獣が連れてきたんだよ」
「魔獣が? それじゃあもしかして……」
ベンがアレと言った鹿に、クラリスは覚えがある。おそらく潜入前に目撃した、蜂人間に担がれていた小鹿だ。すると、ここに来るまでに見かけた血痕はこの鹿のものだったのかもしれない。
柵を跨いで、彼女は小鹿の元へと近づいていく。靴裏がベタベタしてとても良い気分とは言えなかったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
――よかった。この子、弱ってはいるけれどちゃんと生きてる。
小鹿はクラリスが近づくと、頭を上げてじっと彼女の目を見つめ返した。警戒している様子だが、逃げる素振りは無い。彼女の記憶では……たしか腹の辺りに刺された傷があったはずだ。
「少しだけ、お腹のところ見せてね」
手始めに背中を撫でて様子を見るが、小鹿は目を細めるくらいで特に目立った反応を示さない。クラリスが腹の部分を引っ張り持ち上げても、痛みを感じないのか無関心なのか、暴れることはしなかった。すると――
――うそ。本当に、傷が癒えてる。
持ち上げた小鹿の腹には、大きなカサブタができていた。どう考えたとしても、ただの獣がこの短時間で奇跡のような回復をすることは不可能なはずだ。超回復。きっとこれが、この黄白色のナニカに秘められた力なのだ。
いまだ信じられないクラリスが直接カサブタを撫でると、さすがに直接触られるのは嫌だったらしい。小鹿は急に立ち上がり、逃げるように彼女から数歩距離をとった。
「あっ、ごめんね。やっぱりまだ痛かったかな」
そう聞いたところで、鹿が答えるはずもない。クラリスが弁明する暇もなく、小鹿はぴょこぴょこと飛び跳ねて一足先にと部屋から逃げていってしまった。
「行っちゃった……」
動物に嫌われてしまったのはメンタル的にかなり痛かったが、それと引き換えにクラリスには分かったこともある。それこそこの空間から全員で脱出するための鍵になるかもしれない、重大な要素――村人達の意識についてだ。
――あの鹿も最初は動こうとはしなかったけれど、私に傷を触られた時……少しでも危機感を感じたから、ああやって逃げ出したのかもしれない。きっとこの人達も動けないんじゃなくて、動く気が無いだけなんだ。私が背中を押せば、きっと考え直してくれるはず。
それならばどう後押しするのか。もしかすれば、もっと危機感を煽ってやれば彼らの重い腰も動くかもしれない。だが――ヴィクターならばともかく、自分にそんな他人を煽るようなセリフが吐けるだろうか。
するとそこまで思い悩んだところで、クラリスの中に一つの疑問が生まれた。
「……ベンさん。そういえば、この部屋から魔獣に連れていかれた人っていたりしますか? 動物でもいいんですけれど……」
「うーん、僕の知る限りはいないかな。僕達より前に連れてこられた人がいるなら別だけど、少なくとも僕達も動物達も誰一人欠けることなく全員無事さ」
そう言って、ベンは壁から大きくひと掬いしたナニカを指先ごと口に入れてしゃぶる。
ニコラスの話では、最初に襲われた村人は命からがら逃げ出せたおかげで重症は負ったものの無事だったはずだ。おそらく人間で最初にここに連れてこられたのは、ベン達村の探索隊で間違いないのだろう。
――もしかして、この人達……
クラリスの中で、疑問が確信に移り変わろうとしている。
「それじゃあ、ベンさん達がここに来てからの魔獣の様子については分かったりしますか? 例えばなにかを食べていたとか、この部屋でなにかをしていたとか……」
「いやあ……たまに様子を見に来るけれど、本当にそれだけだよ。ここに連れてこられた時は全員怪我しててロクに動けやしなかったけれど、それ以上襲われるようなことはなかったね。なにか食べてるのを見たことは……ないよな?」
「ないねぇ。最初はテリトリーに入られて怒ったのか攻撃してきたけれど、それ以降は全然。俺達のことはペットとでも思ってるんじゃないかな、あの魔獣」
やはり。ベンとその隣の男のやり取りを聞いて、クラリスは確信した。彼らはこの場所を安全だと思い込まされているのだ。
はたから見れば、ここは好戦的な魔獣の巣の中にあるあきらかに異質な空間――そう。傷を瞬時に癒し、生物のやる気を削ぎ、過多な栄養から人の形すらを変える黄白色のナニカによって覆われた空間で、それを安全と思えるのは内部にいる感覚の麻痺した人間だけ。
きっと蜂人間が様子を見に来るのは、本当にそのままの意味。弱らせて捕まえてきた生物が逃げていないか――大事に飼育している餌が逃げていないかを見に来ているのだ。
しかしベン達の話では、蜂人間がこれまでに餌を口にすることはなかったという。もちろん実は外で襲って食べているだとか、他にも似た部屋があってそこでは食事しているだとか、そんな可能性を上げはじめたらキリがない。
仮に蜂人間が肉食でないのであれば、もう他に肉を必要とする可能性がある生物は――クラリスが考える限り、ひとつしか存在しないのだ。
「……全部分かりました。ベンさん、皆さん。やっぱり早くここから逃げましょう。このままだと全員……魔獣に食べられてしまうんです。逃げるチャンスは今が最初で最後なんですよ!」
「お嬢ちゃん……さっきも言ったけど、僕達は動く気もないし、魔獣に危害を加えられたのは最初の一回だけだ。食べようと思っているなら、とっくのとうに全員食べられて死んでるはずだよ」
ベンはのんきにそう答えるが、クラリスはゆっくりと首を横に振った。
「ベンさんの言うことは間違っていません。……でも、違います。あの魔獣達は、たしかにアナタ達を食べることはないでしょう。……だってアナタ達は、とっても大事な供物なんですから」
「は? 供物……?」
その言葉を聞いて、ベン含むその場の男達がざわつきはじめた。空気が変わった様子には動物達も気がついたのか、部屋の隅で眠っていたウサギが顔を上げてクラリスへと視線を向ける。
全員の注目が彼女に集まった。もう心に迷いは無い。この異常な空間で生ぬるい洗脳を掛けられていた彼らに――現実を突きつけてやる時間だ。
「私達、ここからずっと上にある部屋で大きな卵が置いてあるのを見ているんです。ヴィクター……私と一緒に来たもう一人の話では、その卵の中身は動いていたみたいで、生まれるのが近いかもしれないとも言っていました。きっとアレを育てるために、無事に孵すために……魔獣達は餌がたくさんあるこの森に移り住むことを選んだんだと思います」
「もうすぐ生まれる卵……供物……餌……もしかして、お嬢ちゃんが言いたいことっていうのは……」
どうやベンは事態の緊急性にようやく気がついてくれたらしい。もう少し、あともう少しだ。
――あとひと押し……お願いヴィクター、力を貸して……!
直接人に向けて言うのは本意ではないが、しかし今は強い言葉で彼らの心を動かさなくてはならない。現実を見させなくては、ならない。それに適した言葉のチョイスは、クラリスの知る限りヴィクターの言っていたあの言葉――彼女が不謹慎だと注意をした、あの言葉だけだった。
「はい。きっとベンさんが思っている通りだと思います。皆さんはアイツらには食料としか見られていないんです。生まれてくる魔獣達の子供のために、こんな場所に軟禁して、栄養のあるものを食べさせて、大事に太らせて……そして美味しく育った頃に生まれた子供へ献上する。アナタ達はペットどころか、家畜としてとしか見られていないんですよ!」
そう言って、クラリスはハッと口を噤んだ。家畜だなんて。つい言う気の無かったところまで口から出てしまった。
さすがに家畜とまではあのヴィクターでも言っていない。……いや、この光景を見た彼ならば、いの一番に口にするかもしれないが。
――ど、どうしよう。これで怒らせちゃったりしたら、もう私の話なんて誰も聞いてくれなくなっちゃうかも……!
襲い来る後悔と申し訳なさに耐えながらも、クラリスはチラリと村人達に目を向ける。しかし――彼女の想像よりも遥かに真面目な顔をして、ベン達はなにかを話し合っているようだった。
やがて話はまとまったのか、ベンに続いて次々と男達が重い腹を抱えて立ち上がる。そんな彼らの瞳は、最初に見た時よりもハッキリとクラリスの姿を映し出していた。
「お嬢ちゃん、ありがとう。僕達……ようやく目が覚めたよ。家畜ね……ははっ、たしかにこんなに太ってしまって、妻に愛想を尽かされてしまったらどうしよう」
「ベンさん……私の話を信じてくれるんですか……?」
「もちろん信じるさ。僕達を助けに来てくれた人間の言葉を信用しないなんて、そんなの失礼にも程があるからね。……お嬢ちゃん、名前は?」
「私はクラリスです。クラリス・アークライトっていいます」
「クラリスちゃんか。……分かった。それじゃあみんな! 早くこんな所は抜け出して、家族が待つ僕達の村に帰ろう!」
そう高らかに言い放った彼の顔は、希望に満ち溢れていた。
ベンが拳を天井に向けて突き上げると、他の男達も雄叫びを上げて次々に拳を突き上げた。想いが届いた。それはクラリスの言葉が、初めて人の心を動かすことに成功した瞬間だったのだ。




