第154話 見えざる毛皮に愛と戦慄を
《数十分後》
食事を終え、買いすぎたものは後の楽しみに。ヴィクター達の話題の中心は、クラリスがクマの着ぐるみと接触をしたあの数秒間の出来事へと移っていた。
アレが、シャロン達を襲った着ぐるみと同一個体なのか……その真実は、まだ分からない。しかし、あの接触が彼女達の疑念をより深めたという事実に間違いはなかった。
「Hmm……なるほどね。つまり、あの着ぐるみの中には、人とは違うナニカが潜んでいるのではないかと。クラリスはそう感じたのだね」
「うん……。上手くは言えないけれど、あの感じは肉そのものを握った感触だったというか……血管を直接触っているみたいな気味の悪さがあった。とにかく、あれが他の着ぐるみ達とは違う存在ってことだけは確かだと思うの」
クラリスは自身の両手に視線を落とすと、感覚を確かめるようにゆるく握りこぶしを作る。
時間が経過し、落ち着いた今でも鮮明に思い出すことができる肉々しい感触。あのままあの手を握り続けていたら、今頃自分はどうなっていたのだろうか。
しかし、彼女の不気味な想像はそこで終わりを迎えることは無かった。追い打ちをかけるように、あのデリカシーのささくれだった厄介者が、頼みもしない考察を始めたのだ。
「人ではない、か。……クラリス。以前、渦男という人形によって、人々の顔が次々に奪われる事件に出くわしたことを覚えているかね」
「もちろん覚えてるよ。パルデでアリスタさんと一緒に解決した事件のことだよね」
あの強烈な体験を、たったの数ヶ月で忘れるものだろうか。実際に顔を奪われかけたクラリスの脳裏には、今でも顔面を黒で塗り潰されたおぞましい人形の姿が焼きついている。
ヴィクターがこくりと頷き、手元の苺水晶をひと撫でする。そんな彼の口から放たれた言葉は、クラリスが予想もしていなかった内容だった。
「ああ。あれはたしか、『人ではないものを人に成り代わらせる』ことを目的とした魔導士によって仕組まれた事件だったね。だが……ワタシが思うに、クラリスが接触した着ぐるみは、その逆。『人が、人ならざるものに変容してできた』ものの可能性があるんじゃないかと思うんだ」
「……私、さっき人じゃないって言わなかった?」
「もちろん、それは分かってるよ。だが、それは別に着ぐるみの中身が元々は人間であった可能性を否定する材料にはならないだろう? 実際にキミが接触するまで、アレと他の着ぐるみにたいした違いなんてものは無かった。人に酷似した存在がいくら人の真似をしようとも無駄なことは、我々も経験上分かっている……となれば、そもそも異形の正体は『人間』であると考えるのが当然なのではないかと。ワタシはそう思うがね」
こんな時には、彼の後ろに育ての親代わりの顔が見え隠れするものだ。悪びれもなくそんな言葉で脅すヴィクターの表情は、彼のへそ曲がりな性格を現すかのごとく口の端が吊り上がっている。
「……まだサンディさんも見つかってないのに、怖がらせるようなこと言わないでよ。それじゃあヴィクターは、着ぐるみの中には人……だったナニカが入ってるって言いたいわけ?」
「いいや? それはあくまで可能性なだけであって、アレの毛皮をひん剥いてやらないことには断定できない。蟲が集まって身を寄せ合っているかもしれなければ、人喰いスライムが詰め込まれているのかもしれない。この目で実際に見ないことには、真相なんて誰にも分かりっこないのさ」
そんな嫌な言葉ばかりを並べて満足したのか、ヴィクターは呼び出したティーセットにミルクティーを注文する。
ほどなくして、カップになみなみ注がれた紅茶を楽しむ彼を横目に、クラリスは思わず喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。ヴィクターの自論にまみれた演説が『可能性』の話で終わることなんて、今に始まったことではない。証拠が無い以上、この話を可能性以上のものへ広げることなど、彼女にはできやしないのである。
代わりにクラリスが声をかけたのは、ヴィクターとはお向かいにあたる席。粉砂糖とシナモンがたっぷり掛かったチュロスを、小動物のように頬張り続けているシャロンだった。
「えっと……今ので気分を悪くしたらすみません、シャロンさん。ヴィクターに悪気は無いんですけど、その……彼、見ての通りの正直者で……」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。クラリス様。ですが、私のことはどうかお気になさらず。……こう見えて、怖いものは結構好きなんですよ? むしろ、ヴィクター様のお話は興味深く聞かせていただきました。あの着ぐるみ達の正体に、私も興味が湧いてきたところです。……だなんて。サンディ様の捕まっている今の状況では、やっぱり不謹慎な発言……でしたでしょうか」
最後の一切れを食べ終えたところで、シャロンが上目づかいにそう呟く。どうやら彼女も、ヴィクターに負けず劣らずの変わり者だったようである。
と、そんな話をしていると。どこからともなく乾いた空砲の音がヴィクター達の耳へと届いた。音の出どころは、テントの上空――サーカス開演間近の合図である。
「どうやら、そろそろ演目が始まるようだね。先程のチラシによると……公演時間はだいたい四十分程度か。それなら、終わったらまたこの辺りに集合するとしよう。中の方はクラリス達に任せたよ」
「任せたよって……ヴィクターは一緒に行かないの?」
「ああ。ご期待に添えずすまないが、少しだけ単独行動を取らせてもらう」
パチン。ヴィクターの指が鳴ると共に、宙を踊るティーセットが煙の中へと消える。
ぞろぞろと人の波がテントの中へと進んでいき、着ぐるみ達が最後の追い込みと言わんばかりに道行く人へチラシを配っていく。この調子では、眺めの良い席はあっという間に埋まってしまうだろう。
「公演中はそちらに人手をさくだろうし、これだけ客が大勢いるんだ。安易に敵も襲ってはこないはず……。だからその間、ワタシは裏口から調査に回らせてもらうとするよ。……なに、心配せずとも、キミらにはこっそり護衛をつけておこう。いざという時は、ワタシに代わって彼が危険を知らせてくれるはずさ」
クラリスだけに聞こえるよう、そうヴィクターが囁きかける。そして、彼がステッキの石突きをコンクリートに叩きつけた、次の瞬間――
『わふん』
クラリスの足元で四方に散る、熱を持たない七色の花火。その中心に現れたのは、主に倣い、極限まで声のボリュームを抑えたクリーム色の毛玉だった。
――ペロちゃん! そういえば、前にペロちゃんは警戒心が強い使い魔なんだって、ヴィクターが言ってたっけ。私達以外に見える人はいないし、危険を知らせてくれる役割ならたしかに適任かも。
ヴィクターの忠実なるコヨーテ達と比べても、ペロは特別意思の疎通が取りやすい使い魔だ。きっとクラリスの命令にも柔軟に対応できる、唯一の存在が彼なのだろう。
ついその柔らかな毛並みを撫でたくなる衝動を抑え、クラリスが足元のペロに微笑む。――不意に、シャロンが大きな声を上げたのはその時のことだった。
「まぁ! 可愛らしいワンちゃんですね。この子はヴィクター様のお友達……でしょうか?」
動物が好きなのだろうか。わずかに興奮した様子で、シャロンがペロの前にしゃがみ込む。一方のペロは、声をかけられたことに驚いたのか、飛び上がった彼はとっさにクラリスの足の後ろへ身を隠した。
三人の間に流れる、不自然な間。ヴィクターとクラリスが顔を見合わせたのは、彼らが抱いた同じ疑問のせいである。
「……シャロンくん。キミ……ペロが見えるのかね」
「え? ええ……この子はペロ様というのですね。えっと……その皆様のご様子ですと、もしや見てはいけないもの……だったのでしょうか」
「いや。そういうわけではないが……実は、ペロはワタシの使い魔でね。ワタシや群れの中での許可が出ない限り、普通の人間が視認することはできないはずなんだ」
そう言って、ペロに出てくるよう、ヴィクターが片手で合図を送る。恐る恐る顔を覗かせたペロはじっとシャロンの顔を見つめた後、ゆっくり彼女の元へと歩み寄ってきた。
鼻をすんすんと鳴らして、差し出された手の匂いを念入りに確認する。……シナモン香るチュロスの匂いは、犬であるペロにとってあまり良いものではなかっただろう。しかし彼はひとしきり匂いを嗅ぎ終えると、にっこりと口角を上げて尻尾を振った。
『わふっ』
「ふふ。ありがとうございます。そっか……貴方は普通の人には見えないのですね。実は私、幼少期より他人に見えないものが見えてしまうことがあるのです。幽霊って言うと少し嘘っぽく聞こえてしまうのですが……ペロ様のことが見えたのも、きっとその体質のせいかと」
シャロンはそう言うと、テーブルの上に置いていたウェットティッシュで丁寧に手を拭き、それからペロの小さな額を優しく撫でた。
知れば知るほど、シャロン・オールドリッチとは不思議な人物である。先程の言葉を丸ごと信じるのであれば、彼女の視界には本来見えるはずのないものが見えていることになる。いくら六百年近くの時を生きているヴィクターであっても、そんな人間を目にするのは生まれて初めてのことだった。
――死者が見える、か。なるほど。『死』にまつわる者同士、不老不死のサンディくんと惹かれ合うのも、それなら当然といったところか。もう少し詳しい話を聞いてみたいところだが……いや。今ばかりは、我々の興味を優先する時ではないようだね。
ちらりとヴィクターが目配せをすれば、クラリスは分かっているとでも言いたげに、ひとつ頷きを返す。
テントの上を打ち上がる空砲が、時間の経過と共にだんだんと間隔を早めていく。時間が限られた中で、これ以上ヴィクター達がこの件をシャロンに言及することはなかった。
「……まぁ、見えてしまったものは仕方がないね。シャロンくんならば我々の不利益になることもないだろう。ペロ。ワタシがいない間、二人のことはよろしく頼むよ」
そうヴィクターが優しく語りかければ、主人の呼び掛けに反応してペロが後ろを振り返る。
ヴィクターに頼られることがよほど嬉しいのだろう。シャロンの手をするりと抜けた彼は、その喜びを全身で現すかのごとくヴィクターの靴先へと飛びかかった。
「分かった分かった。終わった後なら、いくらでも構ってあげるから。今は仕事に集中したまえよ」
駆け寄ってきた使い魔に呆れた顔をしつつも、どうやらその行為自体を咎めるつもりは無いらしい。ヴィクターはステッキを一度立てかけると、両手を使ってわしゃわしゃとペロの首元を撫で回した。
間もなく。サーカスへ向かう人の数もまばらとなり、短い別れの挨拶を終えてヴィクターが単身テント裏へと消えていく。
忙しく尻尾を振って、主人の背中を見送るペロの姿はただの子犬のようだ。その頭をひと撫でし、シャロンは自分の準備を待つクラリスへと微笑みかけた。
「それではクラリス様。私達も行きましょうか」
「はい。ペロちゃん、なにかおかしなことに気がついたら、前みたいに私とシャロンさんにすぐ教えてね」
『きゃん!』
そんな元気なひと吠えで返事をするペロに、頼もしさを感じ。クラリスとシャロンは出迎えラッパが鳴り響くテントの内側へと向かっていく。
果たして、この喧騒の中心にサンディ・キングスコートの手がかりは存在するのか――真実へ近づきつつある高揚感と、一抹の不安を胸に。『シルク・ラピエセ』、間もなく開演。




