第153話 蛇、陽の当たる幸福を語り犬の尾を揺らす
パルク・ラピエセの中心に位置する、赤と白のストライプが特徴的な巨大テント。それこそがこの遊園地内において、ミラーハウスに並ぶと言われるほどの人気アトラクション、『シルク・ラピエセ』――すなわちサーカス団である。
来園早々、ジェットコースターへと向かったクラリス達とは違い、客のほとんどは一直線にこのサーカスの開演時間を確認しに来ていたようだ。その人気ぶりは、遠くからもひと目で分かるほどである。
「すっごい人気……ねぇヴィクター。休憩する前に、開演時間を確認して行かない? いくら調査するとはいえ、終わっちゃって中に入れなかったら意味が無いでしょ」
「そうだね。入場が遅れて、定員オーバーなんてことになってもシャレにならないし……。まぁ、忍び込むにしても、人手が薄い時間くらいは知っておくべきか」
正々堂々と入場しようとするクラリスとは反対に、ヴィクターはなにやらよからぬ考えを浮かべているようである。
三人がテントに近づくにつれて、周囲を取り囲む喧騒はより賑やかさを増していく。園内を彩るBGMにもテンポの早い二分の二拍子が混ざり合い、はじめはポツポツいるだけだった着ぐるみ達の姿も目立つようになってきた。
――入口の方まで行けば、公演時間が書いてある看板があるみたいだけど……うーん。人が多すぎて、見に行くのは大変そう。チラシを配ってたウサギの着ぐるみも、いつの間にかいなくなっちゃったみたいだし……
テントの入口近くに群がる人々の姿を遠巻きに眺め、クラリスはむっと眉根を寄せて、目を細めた。あの人混みでは文字を読むにも一苦労。頭ひとつ背の高いヴィクターでも、ようやく見えるか見えないかの混みようである。
そうして視認できるかも分からない遠くの文字を睨みつけていたのも、つかの間。しびれを切らしたクラリスが群衆へ飛び込もうとした、まさにその時――彼女の袖を引っ張ったのは、シャロンであった。
「クラリス様、あっちあっち」
小声でシャロンが指し示した先に、クラリスも目を向ける。すると――そこにいたのは、群衆の中からぴょっこり飛び出た長い耳。間違いない。クラリスがジェットコースターから発見した、あのウサギの着ぐるみであった。
いないように見えたのは、こうして『ウサギ』の周りにも多くの人間が集まっていたためだろう。『ウサギ』は発見した時と同じように、大量に持ったチラシをばら撒くように配り続けている。
「あんな所にいたんだ……! 私、近くに行って様子を――」
「いえ。今度は私が行ってまいります。クラリス様は、そのままヴィクター様のおそばに。……ふふ、大丈夫ですよ。なにかあれば、大声で叫んで助けを呼びますから」
今にも走り出しかねないクラリスを、そんな微笑みひとつでシャロンが制する。そして、まるで示し合わせたかのように彼女はヴィクターへ目配せをすると、人だかりへ向けて颯爽と歩きはじめた。
濡れたカラスのように真っ黒なワンピースの裾をはためかせ、シャロンは単身で『ウサギ』へと近づいていく。彼女はしばし着ぐるみの様子を伺うと、ちょうど人のはけたタイミングを見計らって声をかけた。
「ごきげんよう、ウサギ様。貴方様の配っているそのチラシ……私も一枚頂いても?」
控えめながらもよく通る声が、大きな二本耳に張られた鼓膜を揺らす。すると、その声はしっかりと『ウサギ』の持つもう二つの耳にも届いたのだろう。着ぐるみはその場でターンするかのように、彼女の方へと振り返った。
呼び掛けに反応した『ウサギ』が、アクリルでできた無機質な瞳をぐっと近づけ、緊張した面持ちのシャロンの顔を見つめる。そして――
『ワォ! これはこれは可愛いお嬢さん、もちろんさ! 『パルク・ラピエセ』の大目玉『シルク・ラピエセ』の公演は一時間後だ! お友達を連れて、ぜひかの大舞台を見に来てくれよな!』
そう調子づいた声でチラシを差し出す『ウサギ』の肩からは、小型スピーカーの入ったポーチがぶら下がっていた。声と動きが連動しているところを見るに、中にいる人間が喋っているとみて間違いないだろう。
道化のごとくコミカルな動きでステップを踏む『ウサギ』の立ち振る舞いは、シャロンの肩から力を抜くには十分すぎるほどの活躍をしていた。この着ぐるみは、どうやら彼女達を襲ったのとは別の個体のようである。
「ありがとうございます。必ず、拝見させていただきます」
そう言って、シャロンは差し出されたチラシを両手で受け取った。
二人の元へ帰ってきたシャロンは、全員に見えるようにチラシを広げてそこに書かれている数字に指を落とした。サーカスの公演時間は、一日に二回。一回目は午前の間に終わってしまったようだが、幸運にも二回目の開演時間にはまだ時間があるらしい。
「どうやら、次の公演は一時間後のようです。それまでは、ヴィクター様の提案に従って予定通り小休憩をとる……ということでよろしいでしょうか」
「そうだね。今からあのミラーハウスに戻ったとて、十分な探索時間は確保できそうもないからね。依然としてヒントは少ないままだが、さっきクラリスが見たものは早いうちに共有しておきたい。……あっちのテーブルが空いているようだ。場所も近いし、あそこで休むとしようか」
最初に前を通りかかった時と比べて、席には少なからずの余裕ができている。運良く空いていたテーブルを見つけたヴィクターは、足早に座席を確保しては、ひとつ指を弾いて財布を取り出した。
ピザにパスタに、オムライス――てっきりポップコーンやチュロスなど、簡単につまめるお菓子類が多いと思っていたのだが。各地で見かけたワゴン式の屋台とは違って、ここでは普通の食事を楽しむこともできるようである。
「Um……思ったよりも店が多いね。二人はなにか食べたいものは? 買ったものは後でエルマーが精算してくれるようだし、高かろうがなんだろうが好きなものを頼んでいいよ」
「それなら、私がまとめて買ってきてもいいかな? なんだかどれも美味しそうで、目移りしちゃって……。せっかくだし、気分転換に買い物がしたいんだ」
そう言って、クラリスがポーチから自分の財布を取り出す。
けっして安いとは言えないアミューズメントパークの飯であっても、買えない金額ではない。ヴィクターが渡してくるお小遣いでも、十分にまかなえるくらいである。
「そうかい。なら、ワタシも一緒について行こうか?」
「ううん。一人で大丈夫だから、ヴィクターはシャロンさんと待ってて。二人のリクエストは……特には無さそうね。なら、私が美味しそうなご飯を買ってくるから!」
落ち込んだクラリスを元気づかせる一番の方法は、いつだって美味しいご飯をたらふく食べることのようである。
早々に店の並びを確認し、クラリスが一番近場なフライ専門店へ向けて小走りに去っていく。これだけの人の目があるのだ。ここなら、あくまでスタッフである、あのクマの着ぐるみが襲ってくることも無いだろう。
「クラリス様が、どんなお食事を選ばれるのか……楽しみですね。ヴィクター様」
「ああ」
固く薄いアルミニウムの椅子に腰を下ろし、クラリスの背中を見送ることしばし。沈黙に耐えかねたシャロンの言葉に、ヴィクターは心ここに在らずといった表情で相槌を打った。
この間のヴィクターは落ち着きなく足を組み替えたり、ちらちら顔色をうかがったりと、明らかにシャロンのことを意識した様子だ。彼はクラリスがしばらく戻ってこないことを確信すると、行儀よく座って待つ彼女へ、まるで耳打ちするかのごとく話しかけた。
「……シャロンくん。少し、キミに聞きたいことがあるのだが……」
「はい。もちろん私でよろしければ、なんなりと。サンディ様が連れ去られた時のこと……でしょうか?」
「えっ? ああいや、違うのだよ。ワタシが聞きたいのは、そういうことではなくてね。えっと……キミとサンディくんの関係について……なのだが……」
なにを今更照れることがあるのか。そこまで言ったところで、ヴィクターはうつむき、もじもじと両手の指をもてあそびはじめた。
仮に、この場にまだクラリスがまだいたものならば、彼女はこのヴィクターの姿を見て天を仰いだことだろう。なにせこんな状態のヴィクターからは、普段の思慮深い顔など見えやしない。例えるならば、今の彼の顔は思春期を迎えたばかりの一人の少年そのもの。となれば、質問の内容はもちろん――
「そ、その! エドワードくんが言っていた『婚約者』というのは、もしかして……。キミ達は、しょ、将来結婚することを誓い合った仲であるということ……という認識で、間違いないのかね!?」
やはり。きっとクラリスならば、そんなことは当たり前であると呆れた合いの手を入れたに違いない。そうなることが分かっていたからこそ、ヴィクターはシャロンと二人きりになるタイミングをずっと見計らっていたのだ。
まるで人が変わったかのようなヴィクターの変化は、すぐにでもシャロンへと受け入れられた。彼女は右頬をくすぐる髪の束を耳にかけると、どこか想いを馳せた様子ではにかんだ笑顔を浮かべた。
「ええ……そうですね。サンディ様と私は、将来結婚することを誓い合った仲です。実は、今年の秋口には式を挙げる予定なのですよ?」
「やっぱり……! そ、それってつまり! どちらかがプロポーズをしたということなのかね。どっちから? 場所は? 服装は? 決め手となった言葉は? ワタシとクラリスの将来のためにも、ぜひ参考にさせてもらいたいのだよ!」
至極当たり前の予想が的中したことを喜び、ヴィクターは興奮気味にテーブルに身を乗り出した。
プロポーズ、婚約者、結婚――ヴィクターにとって、それらの言葉はあまりにも魅力的なものだった。なにしろ世間一般的にはそう珍しくもないシャロンとサンディの関係は、彼がクラリスと目指したい関係性の終着点そのものであったのだ。
――男の子の期待がこもった純粋な眼差しは、いつなん時であっても変わらないものなのですね。クラリス様のことを想うヴィクター様の目は、まるでサンディ様に焼きたてのレモンパイを出した時とそっくり……なんて可愛らしいのでしょう。
両腕で頬杖をつき、シャロンの話を待つヴィクターの姿は、さながら好物を前にした大きな犬のようでもある。時間さえあれば、茶菓子やティーセットを用意して相応のもてなしをしていたことだろう。
「……ふふ。ヴィクター様は勉強熱心なのですね。貴方がクラリス様のことを大事に想っていることがすごく伝わります。ただ……その質問の答えを、私の口から答えることはできません。答えてしまえばきっと、ヴィクター様の言葉はサンディ様の真似事となってしまいますから」
「……それはつまり、サンディくんからプロポーズをした……ということになるのかね」
「まぁ! ヴィクター様には敵いませんね。ですが、やはり詳細を語ることだけは控えさせてください。あの言葉は私だけのものにしたいというワガママと……きっと、貴方が悩みに悩み抜いて考えた言葉の方が、クラリス様も聞いて喜ばれると思いますから」
シャロンがそう答えると、彼女の言葉に腑に落ちるところがあったのだろう。真面目くさった顔でひと言、「なるほど」と呟き、ヴィクターがそろそろと自分の席へと戻っていく。
彼の背後から声がかけられたのは、そんな時であった。
「二人共、楽しそうになに話してたの?」
そこにいたのは、両腕にたくさんのビニール袋をぶら下げたクラリスであった。
袋の中には主食となりそうなパック詰めの料理が段々と積み重なっており、飛び出たチュロスが袖口に粉砂糖を振りかけ遊んでいる。肩に下げた青とオレンジのツギハギ模様が描かれたクマ型のケースに入っているのは、ポップコーンだろうか。先程クマには襲われそうになったばかりだというのに、のんきなものである。
「おかえり、クラリス。サンディくんのことについて、シャロンくんと少し……ね。それよりもキミ……ちょっと目を離した隙に、ずいぶんと買い込んできたみたいじゃないか」
「そうなの。ここのご飯、どれも美味しそうだから一つに決めることができなくて……。初任務だし、エルマーさんも大目に見てくれるんじゃないかと思って、いっぱい買っちゃった。好きなものを選んでちょうだい。食べきれなかった分は後で食べるから……ヴィクター、管理はお願いね?」
その言葉が誇張表現ではないというのが分かるほど、容赦なくテーブルの上には料理が並べられていく。
しかしこれだけ買ってきたというのに、この中に飲み物が一切含まれていないというのには驚きだ。ヴィクターがペットボトルを常備しているのが分かっていて――というよりも、これは単純にクラリスの手が足りなかったのだろう。
「お願いって……まったく、キミの食いしん坊だけはずっと変わらないね。それならワタシはアイスティーを淹れよう。最近暖かくなってきたし、ちょうど冷やし方のコツを掴んできたところなんだ」
そう言って、ヴィクターがパチリ。指を弾けば、空中には陶磁器のティーセットが現れた。
シルク・ラピエセの開演まで、残り一時間――確実に近づく脅威の気配を肌に感じ、三人はつかの間の休息に心を休めるのだった。




