第152話 そのボロ布に潜むモノは
立派なフードコートこそ無くとも、人気アトラクションの近くには、必然的に美味しい匂いを漂わせたワゴンが多くなるものだ。バターやシナモン、チョコレートにキャラメル――定番のチュロスやポップコーンひとつ取ったとて、それぞれ味つけにも違いがある。
先程よりも悲痛な鳴き声をあげる腹の虫を適度にあしらい、クラリスの視線は雑踏の先へ。その建物は、満を持して彼女達の前へと現れた。
「あれは……ミラーハウス……?」
近隣のスーベニアショップからほど近い、数十人規模にもなる長蛇の列。建物自体はシンプルなキューブ状で、外周をぐるりと囲むように人々が一列となっている。
掲げられた看板をクラリスが読み上げると、分かりやすくヴィクターは首を横に傾げた。そもそも遊園地という場所に馴染みがない彼にとって、ここでは見るもの全てが目新しい。それは目の前の建物も例外ではないのである。
「ミラーハウス? それはどういった施設なのかね」
「簡単に言えば、鏡でできた迷路ってところかしら。ほら、合わせ鏡をすると鏡の中にまた鏡が映って、自分がいっぱいいるみたいに見えるでしょ? それを利用して、たくさんの鏡でできた迷路を作るの」
「ほう……なら、あの行列は皆その迷路を目当てに来ているというわけか。鏡の迷路だなんて、姿見をたくさん用意すれば家でも作れるのではないかね。それをわざわざこんな場所まで来て眺めようとするだなんて……アレにはそれほどの価値があるとでも?」
行列を眺めるヴィクターの目は、疑心に満ちていた。彼は別に、ミラーハウスの価値自体を問うているわけではない。本当にそれだけの施設で、あれほどまでの行列ができるのかどうかを疑問視しているのだ。
言われてみれば、並んでいる人々の顔ぶれには家族連れだけではなく若いカップルなんかが多く目立つようにも思える。そうやって揃いも揃って首をひねるクラリス達に助け舟を出したのは、二人の隣で話を聞いていたシャロンだった。
「……どうやらこのミラーハウスでは、照明を有効活用した特別な景色を見ることができるようです。幾重にも鏡に映る光のアートが有名で、中は撮影もできるため若者を中心に人気……だとか」
「シャロンさん、知ってるんですか?」
「いえ……私はこちらのパンフレットを見て。ここに来る途中で、一枚頂戴したものです。サンディ様を見つけるためのヒントがあるかもしれないと思っていたのですが……あまり有益な情報は無いようですね」
そう落ち込んだ様子で話すシャロンの手には、たしかに三つ折りにされた遊園地のパンフレットが握られていた。
風になびくパンフレットを受け取ったクラリスが、ヴィクターとシャロンにも見えるように大きく広げる。
パルク・ラピエセの全貌が描かれた地図には、丁寧にもアトラクション毎に写真と説明文が添えられているようだ。ちょうどミラーハウスにあたる部分へ視線を落とせば、たった今シャロンが述べた説明とまるっと同じ内容が記されていた。
「乗り物自体はたくさんあるみたいだけれど……『若い人達に人気のミラーハウス』と、『毎公演内容が変わるサーカス』か。この二つがここの売りみたいね」
「Hmm……ならば、やはりこれらをあたるのがいいだろう。裏口に回るかい? あのクマの着ぐるみはそちらから中に入っていったようだが――いや。この混み具合じゃあ、誰にも見られずこっそり忍び込むのは難しそうだね」
ヴィクターはそう言って、建物をぐるりと囲むように並んだ客達へと視線を上げた。
ミラーハウスは一度に複数人が入場できるようだが、シャロンの言っていたように人気のアトラクションなのだろう。次から次へと人がやって来ては、目まぐるしく最後尾が更新されていく。こうしてヴィクターが見ている前でも、ほら。また新たな客が列を大きく伸ばした。
「それなら、後回しにしていたサーカスの方に行ってみましょ。このままここでお客さんがいなくなるのを待っていたって、調査はなにも進展しないもの。あっちは公演時間もあるだろうし、調べておいて損はないかも」
「うむ……そうだね。さすが聡明なクラリスは時間の使い方も分かっている。シャロンくんも、それでいいかね」
「はい。私もクラリス様の意見でかまいません。サーカスのテントがあったのは、たしかちょうど園の中心だったでしょうか。それでは早速来た道を戻って――きゃっ!」
その時。彼女にしては珍しく、大きな声を出してシャロンがその場に飛び上がった。歩き出そうとした矢先に、小さな子供が二人、彼女のワンピースすれすれの距離を走り抜けていったのである。
子供達は兄妹なのか、後から追いかけてきた母親と思わしき女性が謝罪の言葉を述べて三人の横を駆けていく。しかしその行先に目を向けた時――思わず、クラリスとシャロンの背筋には電流のような悪寒が走った。
「わぁ、くまさんだ! みてみてママ、おっきなくまさんがいる!」
「しゃしんとって! あたし、くまさんとおててつなぎたい!」
小さな子供達がそうはしゃぐ頭上――そこにいたのは、見覚えのあるチョコレート色の獣頭。見間違えるはずがない。それは、サンディを連れ去ったあのクマの着ぐるみであった。
子供を前にした『クマ』は他の着ぐるみ同様、千鳥足にも似た陽気なステップで客人達に両手を振る。
まさか、あの子供達をも連れ去ろうというのだろうか。そうクラリスが懸念している間にも、どうやら親子による写真撮影は早々に終わったらしい。満足した様子で去りゆく子供達を、例の『クマ』は名残惜しそうに見送っていた。
―― 多分、あれがヴィクターが見かけたクマの着ぐるみだと思うけど……変なところは見当たらないな。もしかして、サンディさんを連れ去ったのとは別の着ぐるみ? それならきっと、怪しい個体は他にいるはずだけれど……
クラリスがそんなことを考えていた、まさにその時。彼女の視線は、パチリ。子供達の見送りが終わった『クマ』と合ってしまった。
新たなターゲットを見つけた『クマ』は、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねながらクラリス達に近づいてくるよう手招きをしている。この状況下だ。近づくチャンスであると共に、その誘いに安易に乗っていいものなのか――経験の乏しいクラリスが、ヴィクターの指示を仰ごうとするのは当然のことだった。
「ヴィクター……あれ、どう思う?」
「Um……怪しいことこの上ないが、一般客を装う以上無視するわけにはいかなさそうだね。クラリス、ちょっと握手くらいしてみたらどうかね。なぁに、アレが妙な動きをすれば、すぐにでも焼き尽くす準備はできているよ」
そのヴィクターの言葉が嘘ではないことは、彼のステッキに鎮座する魔力の込められた苺水晶が物語っている。
わずかに感じる熱に背中を押されたクラリスは、意を決して手招きを続ける『クマ』へと近づくことにした。
「……わ、わぁ! 可愛いクマさんだ! すごぉい、あ、握手とかしちゃおうかなぁ……」
言動が先程の子供達に引っ張られてしまうのも、やむを得ないことだろう。
ヴィクターは「クラリスは相変わらずの大根役者だね」とでも言いたげに苦笑を浮かべているが、シャロンの方は心配そうに両手を胸に当ててクラリスの行く末を見守っている。
――近づいてみても、やっぱりおかしな様子は無いみたい。ここなら人の目もたくさんあるし、危害を加えてくることもないはず。仮になにかあったとしても、ヴィクターが目を光らせてるから、きっと大丈夫……だよね。
そう自分に言い聞かせ、クラリスはグーパーを繰り返しながら握手を待ちわびる『クマ』の手を取った。……なんらおかしなことはない。突然手を引かれることもなければ、暴力的に殴られるようなことだってない。手触りはただの着ぐるみ。長年の摩擦によって擦り切れた、ぼそぼそ生地の感触だけである。
――なんだ。ハズレ……か。変に身構えて損しちゃった。ヴィクターが言ってたみたいに、やっぱりサンディさんを連れ去ったクマの着ぐるみは他の場所にいるのかも。この子には疑って悪いことしちゃったな。
と、クラリスが納得をしかけた――その時だった。
「……え?」
ふと。右手を包み込む布の感触に違和感を感じる。――いや。正確に言えば、違和感を感じたのはさらにその布の内側……本来ならば人の手がある中身の部分だ。
まるで筋肉そのものを握るかのように、分厚い布越しに感じる確かな脈動。まとわりつく湿り気は自身の汗なのか、それ以外か。声も出せずに固まるクラリスの手のひらの上を、布の内に潜むナニカが絡みつこうと不規則に蠢いた。
――これ……違う! この着ぐるみ、中に入ってるのは人なんかじゃない!
人ではないのなら、一体この中身はなんなのか。クラリスの全身から汗が吹き出し、指一本一本にまで絡まった得体の知れない気味の悪さに叫び声を上げそうになる。
突き飛ばすか、振り払うか。一秒でも早くここを離れたい――と。クラリスが逃げ出そうとした、まさにその時。不意に彼女の肩が叩かれた。
「――クラリス。そろそろ満足したかね。あっちでシャロンくんを待たせていることだ。触れ合いはそのくらいにして、次の場所へ行くとしようか」
「あ……う、うん。ば、バイバイ……クマさん」
背後からクラリスの肩を叩いたのは、彼女の様子に異変を察知したヴィクターであった。
パニックを起こすことなく、とっさにこの大根役者が演技をすることができたのも、すぐ近くに彼がいるという安心感のおかげである。
クラリスが手を引っ込めれば、予想に反してあっさりと『クマ』は彼女の手を離した。逃げるように踵を返したところで、引き止められることもない。
そのままシャロンと合流を果たした二人は、ヴィクターの指示ですぐにその場を離れることにした。
鼓動の鳴り止まない心臓をなだめるように、クラリスが深呼吸を繰り返す。まだ湿度の残る右手を押さえ、すがる気持ちで彼女はヴィクターを振り返った。
「ね、ねぇヴィクター! さっきのクマの着ぐるみ、もしかして……!」
「しっ。そのまま前を向いて歩いていたまえ。あの着ぐるみ――まだ、こっちを見ている」
クラリスとシャロンを視線から守るように、ヴィクターが二人の後ろに回る。
今のヴィクターの言葉が本当ならば、こうしている間にも、あの無機質な目はじっとクラリスのことを見つめているのだろう。だが――それは本当に、目なのか? あの着ぐるみの中身が得体の知れないナニカであると分かった以上、あの存在を人として認識することに、クラリスは少なからずの抵抗を感じていた。
「……少し、休もうか。シャロンくん。この辺りに座れる場所は?」
ヴィクターがそんな提案をしたのは、ミラーハウスからしばらく距離を取った後。赤と白のストライプの屋根が顔を覗かせてから、すぐのことであった。
「そうですね……パンフレットによると、サーカステントの近くにあるフードコートが一番近いようです。お昼も過ぎたことですし、今なら少しは空いているかと」
パンフレットを開いたシャロンは、そう言ってピアニストのように細く長い指先を地図上へと落とした。
テントに近づくと共に、香ばしいポップコーンの匂いがだんだんとクラリスを現実に引き戻していく。ヴィクターは一度後ろを振り返ると、ようやく緊張の糸を解いて彼女の隣へと歩みを合わせた。
「ふむ。目的地の近くならばちょうどいいね。せっかくなら、そこで軽く昼食でも摂れればと思うのだが……クラリス。それよりも、まずは先に謝らせてくれ。軽率にキミとアレを接触させてしまってすまなかった。ワタシとしたことが、この場所の空気に飲まれて危機管理を怠ってしまったみたいだ。……キミに不快な思いをさせるくらいなら、あそこは率先してワタシが行くべきだったね」
「ううん、私は大丈夫だから気にしないで。アナタが着ぐるみ相手にはしゃいでいる姿なんて、想像もできないし……それに、普通のお客さんのフリをするのなら、この中で私が一番適任だと思うから」
そうクラリスがわざとらしく笑って見せれば、ヴィクターは眉尻を下げて言いかけた言葉を飲み込んだ。どうやら旅を終えた今になっても、クラリスの身に起きる危険を自分のせいと思い込む癖は変わらないようである。
「そんな顔しないでよ。私だって、魔法局の一員になったんだもの。危険に飛び込むことを今更怖がったりなんてしないよ。……なんて。怖くないっていうのは、さすがに嘘になっちゃうかな。でも、大丈夫っていうのは本当。だから自分を責めたりなんてしないでね?」
「……そっか。それなら、ワタシもその言葉を信じるよ。さっきのことは今すぐにでも話し合いたいところだけど、細かい話は座ってからにしようか。行こう。クラリス、シャロンくん」
それでも心の隅に芽を出そうとする、不安の種をしまい込み。ヴィクターは匂いを辿るように、テントの先へ向けて足を早めるのだった。




