第145話 いざゆかん、なんて都合のいい初仕事
《翌日――魔法局公用車・車内》
窓の外から射し込む陽気な日差しに、思わずクラリスの口からは大きなあくびがこぼれた。時刻は十時手前だが、これが都会というものなのだろうか。どの店もオープン前にも関わらず、サントルヴィルの街並みは人で賑わっている。
すると、同じく後部座席に座るヴィクターにもこのあくびはうつったのだろう。わふっと聞きなれた声を耳に、人知れずクラリスが微笑んだ。
「ふふっ。これだけ暖かいとなんだか眠くなっちゃうね。ヴィクターは昨日、ダリルさんの家に泊めてもらったんでしょ? どう? よく眠れた?」
そんなことを尋ねれば、ヴィクターが腕を組んで深くシートに沈み込む。こうして今も、夢と現実の狭間で格闘している最中なのだろう。ぽやぽやと覚醒しきらない瞳は、ただでさえ切れ長な目を強調するかのように、なにも無い空中をじっと睨みつけている。
ここまでして彼が仮眠を取ろうとしないのは、クラリスと少しでも話をしたいのか、はたまたエルマーの運転に完全には身を任せたくはないという変なプライドなのか。どちらにせよ、一人眠気との戦いを続けるヴィクターの姿はどこか滑稽でもあり、初めての土地でも変わることのない二人にとっての日常の象徴でもあった。
「うーん……眠れたかと言われると、正直三時間も寝た気がしないな……。ワタシが気がついた頃にはもう外も白んでいたし、起きてからも、なんだか目がしょぼしょぼしていて……」
「そうなの? ヴィクターが夜更かしするって珍しいね。アナタが朝まで夢中になれるものがあるだなんて……なにか楽しいことでもしてたの?」
あのヴィクターが興味を抱くものといえば、基本的にはクラリス関連。趣味という趣味も紅茶の飲み比べくらいのもので、旅の途中でも一人の時間は昼寝か使い魔達と遊ぶかのほぼ二択に費やしていたくらいである。
――ヴィクターが自分から干渉しにいくとは思えないし……私の時と同じで、ダリルさんが気を利かせてゲームに誘ってくれたのかな。二人が仲良く並んでる姿なんて想像できないけれど、楽しく過ごせたのならよかったな。
実際、そのクラリスの考えはおおよそ正解であった。
ダリルの提案でゲームコントローラーを握ったヴィクターが、何時まで起きていたのか。それは彼自身もよく覚えてはいない。気がついた時にはダリル共々寝落ちていたのか明け方に。それから二度寝をして起こされるまで、彼は人の家のソファを占領してぐっすりと眠りこけていたのである。
「楽しいことというか……昨夜は現代の大衆文化について、ダリルくんに教えてもらっていたんだ。キミが焼いたベーコンエッグトーストには劣るが、一応美味しい朝食もご馳走になった。また遊びに来てもいいだなんて言われもしたけれど……まぁ、あっちがその気なら断る理由も無いし。気が向いたら行ってあげないこともないね」
「ふふ、やっぱり楽しかったんじゃない。上手くやれてるのか心配だったけれど、二人が仲良くやっててよかったわ」
そんなことを言われれば、ヴィクターは照れを隠すように窓の外へと目を向けた。
「……そういうクラリスはどうなのかね。キミはサラくんの所で世話になったのだろう。今日、魔法局で待ち合わせた時はずいぶんと仲良くお喋りしながら来たみたいだけれど……」
「けれど?」
「……なんか。ワタシと話してる時よりも楽しそうだったなって」
小声でそう呟いたヴィクターの声音は、まるで拗ねた子供のそれのようであった。どうやら素直さに磨きがかかっただけでなく、眠気に襲われた頭では考えた言葉がそのまま口から出てしまうようである。
「まさかヴィクター……サラ相手に妬いてるの?」
「別に……妬いてはないけど。クラリスが取られたみたいで少しモヤッとした」
「モヤッとだなんて……アナタだって、休日のダリルさんにわざわざ魔法局まで送ってもらったんでしょ? それと同じことじゃない」
たしかにサラが提案した『恋バナ』の延長戦はもちろん、クラリスの知らなかった流行や美味しいスイーツのお店。それから新作のコスメやドラマといった年頃の女の子同士の会話は、ハイムを発ってからそういった交流の薄かったクラリスをおおいに楽しませた。
だが、それはけっしてヴィクターと過ごすよりも楽しかったというわけではない。どちらかが一番なのではない。そもそも比べること自体が間違いなのだ。
すると、ルームミラー越しに二人の様子に目を配っていた運転席のエルマーがくすりと笑い声を上げた。前方の赤信号に向けてゆっくりとブレーキを踏み込んだ彼は、車が完全に停止したのを確認すると後部座席へと振り返った。
「二人共、楽しく過ごせたみたいでよかったよ。君達の急な宿泊を快く了承してくれたダリルちゃんとサラには、後でボクからもお礼を言っておくからさ。これからは同じ職場の仲間同士、仲良くしてもらえると嬉しいな」
直後に信号が青に変わり、後続車から鳴らされるクラクションに慌ててエルマーがアクセルを踏み込む。そんな彼へと追従するのは、どこか心配そうなクラリスの声だった。
「はい……でもエルマーさん。いつまでもサラ達にお世話になるわけにもいかないですし、私とヴィクターはしばらく近くのホテルに泊まりながら魔法局に通いたいと思います。だから今日は、終わったらしばらく泊まれる場所を探しに行こうかと――」
「ああいやいや! それなら大丈夫! さすがにそこに経費を割き続けるのはボクも難しいし、君達も早く安心して休める寝床は確保しておきたいでしょ? ちゃあんと事前に優良物件は押さえてあるんだ。まぁ、まだ家主は渋ってるし、ちょっと同居人が多いのがネックだけれど……むしろ、あそこなら今まで泊まったどんなホテルよりも、快適に過ごすことができるんじゃないかな」
思わずクラリスとヴィクターが後部座席で顔を見合わせる。
気がつけば、車はいつの間にか大通りを逸れた広い道路を走っていた。背の高いビル群なんてものは到底無く、あるのはどれもが庭付きのたいそう立派な大豪邸。そう。いわゆる、高級住宅街というやつである。
「え、えっと、エルマーさん? ここら辺ってなんだか大きなお家が多そうですけど……。もしかして、私達が今向かってる場所が、その見つけてもらった優良物件……ってことですか?」
「そうだよ。……あれ? ボク、今日なにをするのか言ってなかったっけ」
「なにをするというか……。本当は魔法局を案内してくれる予定でしたけど。さっき緊急性の高い依頼が来たから、足を痛めたダリルさんの代わりに私達が出向くことになったって。それしか聞いてない……ですね」
そう。本来、ヴィクターとクラリスはこの時間、ここにいるはずではなかった。元々の予定では、今日の彼らはエルマー率いる魔法局案内ツアーを実施する予定だったのである。
しかしその予定が急遽変更になったのは、まさに数時間前――エルマーの元へ、一本の緊急連絡が入ったことによるものだった。その連絡の主がいる場所こそが、この車の目的地。そして――
「そっか、ごめんごめん。でも、クラリスの認識に間違いはないよ。なにせその緊急の依頼っていうのが、なにを隠そう君達が滞在する家の主からの依頼なんだからね。サラに頼んでもよかったけれど、まぁ……いつまでもイエスの返事が貰えないとボク達も大変だし。相手が困ってるところをつけ込んで、直接誠意を見せた方が早いかなって思ってさ」
そう言ってエルマーがハンドルを切ると、車はさらに町の中心を逸れて住宅街の間を走り始めた。これはこの地域の流行りなのか、庭師のセンスなのか。目を凝らして見てみると、どの家も庭木の形がヘンテコだ。綺麗に刈り揃えられた枝葉の姿は、まるでトリミングされた犬のおしりが並んでいるかのようである。
クラリスとエルマーのやり取りを聞いている間、のんきにヴィクターがそんなことを考えていると。やがて車は目的地に着いたのか、じょじょにスピードを落として路肩へと停車した。
「――ほら、着いたよ」
そんな一言だけを言って、エルマーがさっさと車を降りていく。ヴィクターとクラリスも続くように降りていけば、次の瞬間――視界に飛び込んできたその光景と圧力に、彼らは思わず息を呑んだ。
目の前に現れたのは、ここまで見たどれよりも巨大な大豪邸。邸宅の前には小さな家屋を数軒は飲み込んでしまえそうな広大な庭と、満開の水の花を咲かせた石造りの噴水が構えている。その荘厳たる外観はまるで、フィクションの世界に迷い込んでしまったかのような……。そう思わせるほどに立派な邸宅が、ヴィクター達を出迎えたのだ。
「こんなにも立派だなんて、貴族のお屋敷みたい……ここに、本当に私達が……?」
無意識に心の内から漏れた言葉を呟くクラリスと、さすがに目が覚めたのだろう。驚きから目を張るヴィクターを横目に、エルマーはイタズラが成功した子供のような笑みを浮かべる。
そして二人の前へと立った彼は、両腕を広げてはさもこの家の主人であるかのような、堂々とした振る舞いで語り始めるのだった。
「さぁて、お二人さん。ようこそおいでなさった。これこそがボクの友人兼依頼人が待つ大豪邸、キングスコート邸だ。昨日の今日で長旅を終えてもらったところ、二人には本当に悪いと思うけど――ここからが、君達にとって初仕事の時間だよ」
第2部 序章『ハロー、世界の中心』――完




