第140話 魔法局長アレクシス・マードック
クラリスとサラが甘味に心を奪われていた一方で、ラクスの事件を巡る話題は誰から口火を切ってもおかしくない状況へと移っていた。
ちびちびとカップに口をつけるダリルとは違って、ヴィクターは出されたコーヒーに口をつけることすらせず、足を組んだまま黙ってソファにもたれるのみ。彼の境遇を考えれば、この警戒心の強さだって予想の範囲内と言えるだろう。
一触即発――とまではいかずとも、誰もが口をつぐんでしまうほどの重たい沈黙。そんな沈黙の中で、最初に口を開いたのはやはりエルマーであった。
「それじゃあ全員落ち着いたことだし、そろそろ始めようか。ただ、初対面のメンバーもいるし、せっかくなら本題に入る前に自己紹介くらいはしたいところなんだけど……。一人一人話しはじめると面倒だから、ボクが簡単に紹介しちゃおうか。一応ボクやダリルちゃん、それからサラについては、みんな知ってるだろうから挨拶は省かせてもらうね」
そうエルマーが名前を挙げた三人は、ヴィクターやクラリスにとっても馴染みの深い面々だ。この顔ぶれであれば、きっとアレクシス達からしてみてもそうなのだろう。誰からも異論の声が上がることは無かった。
エルマーの視線が部屋の奥へと向けられれば、応じて来客達の視線も奥へと誘導される。まずは目上の人間から紹介するという最低限のマナーは、魔法局においても有効なルールのようである。
「まずそこに座っているいかにも目つきの悪い彼が、魔法局長のアレクシス・マードック。こんな怖い顔でもサラとは遠い親戚で、愛妻家な一面もあるかわい子ちゃんだよ。隣の彼は側近……って言うとなんだか堅いかな。ロジャー・スプリングフィールドには、通常業務のかたわらでアレクシスのサポートをお願いしているんだ。無愛想に見えるけど、優しい男だから安心して」
そんな紹介を受けてだろうか、一身に皆の視線を浴びたロジャーが執事のように丁寧な所作で小さく頭を下げた。
対してアレクシスは表情筋が固まっているかのように仏頂面を崩さず、眉間の皺をぬかるみに刻まれた轍のごとく深くしている。もしやエルマー特有の冗談交じりの紹介がお気に召さなかったのだろうか。その目は余計な話をやめて、早く進めろと無言の訴えを続けている。
「そんな目で急かさなくても分かってるって。ほら。こちらに座っている可愛らしいお嬢さんが、噂のクラリス・アークライト。遠いハイムの出身で、歳は……まぁロジャーとダリルちゃんの間くらいかな。彼女は魔法使いじゃないけれど、持っている適応力と洞察力はボクらに負けないくらいに本物だよ。そして――」
そのもったいぶるようなエルマーの切り出し方に、嫌気がさしたか呆れでもしたのだろう。ヴィクターが小さく溜め息をついたのが、すぐ隣で彼の息づかいを感じていたクラリスの耳に届いた。
「お待ちかね、彼こそが四百年前にひとつの大陸を沈め、二年前には魔法局を脱獄した男――世界で唯一の時間を操ることができる魔法使いヴィクター・ヴァルプルギスだ。近頃、スモーアで起こった集団食中毒事件や、パルデって田舎町で発生した元町長の不祥事……それからマモナ国で女性達が監禁されていた事件なんかも話題になっていただろう? アレら魔導士が関わっていた事件を全て自力で解決してしまったのが、何を隠そうこの二人だったってわけなのさ」
やはりここでも、エルマーの紹介を聞いたアレクシスの表情が変わることはなかった。だが――その一方で、ピタリ。彼とは関係ないところで、それまで止まることなくマドレーヌを食べ続けていたサラの口が止まった。おそらく、ヴィクターとクラリスが魔法局に来るという話は聞いていても、その理由や過程については知らされていなかったのだろう。突然明かされた情報の波に、彼女はただ驚いた様子で目を白黒とさせている。
するとそんなサラに触発されたのか、ここにきてようやくアレクシスの様子にも変化が見られた。彼は「……そうか」と一言呟くと、睨むように自分を見つめるヴィクター、それから喉に詰まりかけたマドレーヌを慌ててコーヒーで流し込んだばかりのクラリスへと目を向けた。
「ヴァルプルギス、そしてアークライトといったな。報告ではそれ以外にもいくつかの事件に関与していると聞いているが……。まずは魔法局を代表して、事件解決に尽力してくれたことに礼を言おう」
そんな初めて自分達に向けてかけられた言葉に、すっかり気を抜いて丸められていたクラリスの背筋がピンと伸びる。そんな言葉を、まさかいの一番に魔法局長から貰うことができるだなんて夢にも思っていなかったのだ。
彼女はぶんぶんと顔の前で手を振ると、ついでに首も横に振っては精一杯の謙遜の意をアレクシスに示す。ろくな思考の準備も無しに喉から絞り出した声は、動揺のあまりぐるりと間抜けにひっくり返ってさえいた。
「い、いえ! そんな……私達はただ、勝手に首を突っ込んでしまった事件を対処しただけにすぎません。それに、いつも頑張ってくれていたのはヴィクターで、私は褒められるようなことはなにも――」
「だとしてもだ。結果こそ良くとも、本来であれば事件性に気がついた時点で貴様らは迅速に魔法局へと対応をあおぐべきだった。事件解決に協力してもらったことは評価するが、おかげで莫大な時間と経費をかけてまで事後処理と状況把握に人を回すことになった。今後似たようなことがあれば、必ず指示を聞いてから動くように」
「すみません……」
一瞬舞い上がってしまっただけあって、その後の落差は酷いものである。
しっかりとアレクシスから注意を受けて、クラリスがしゅんとうなだれる。もちろんその正論自体に噛みつくことこそなくとも、彼女の様子を見かねたヴィクターが横から口を挟んでくることを誰も予想できないはずがなかった。
「それで。本題はいつになったら始まるというのかね。こっちは長旅で疲れてるんだ。ただ説教を垂れるために時間を取っているというのなら、我々はさっさとこの場をおいとまさせてもらいたいのだけれど」
「……ほう。なるほど。貴様らの性格については今のでなんとなく理解した。ウィークエンド。俺もヴァルプルギスの意見には賛成だ。貴様らが遅れたおかげで、こっちの予定も大幅に狂った。定時の鐘が鳴るまでに、報告は済ませてもらおうか」
紅梅色と翠玉色。鋭い二対の瞳がエルマーを睨みつける。ただでさえ威圧感の塊のような男二人にこうも見つめられてしまえば、誰だって背中に冷や汗くらいはかくというものである。
視線に耐えられなくなったエルマーは、困った様子でコーヒーをひと口。次に口を開いた彼の声は、心なしかふてくされているようにも感じられた。
「分かってる分かってる。ヴィクターは当事者だし、アレクシスには後で書面で正式なやつを提出するから。今日の報告はなるべく手短にさせてもらうよ。まったく……どっちも自我が強いんだからさ。少しはこの若者達のことを見習ってよね」
それからエルマーが語った話の内容は、まるでヴィクターとクラリスの旅の軌跡を辿るかのようでもあった。
サラからの報告を受けたことがきっかけで、エルマーがダリルを連れて魔法局を発ったのは、わずか一ヶ月と数週間前の出来事。その後、アリスタの話を耳に挟んだ彼らが山奥にあるパルデや、スイーツフェアの余韻の残るスモーアへと足を伸ばしたこと。そして先日マモナ国で起きた監禁事件と王の死を聞き、ヴィクターがまだ近くにいることを確信したエルマーがラクスで張り込みをしていたことが、彼の視点をもって順を追って語られていく。そして――
「――というわけで。ラクスで起こったハロルド・フィルボッツの襲撃事件は、ヴィクターが時間を巻き戻したことで最終的に被害はゼロ。魔導士に逃げられはしたけれど、今までのことを考えれば全体的な損失の少なさは過去一番だ。それだけでもかなりの功績だと言えるだろう?」
「ああ……そうだな。魔法使いばかりを狙う、異形の魔導士……たしかに、神出鬼没なあのデカブツには俺達も手を焼いていたところだ。同じ失敗でも、返り討ちにあうくらいならば逃げられた方がまだマシとも言える。となれば、あの魔導士を――いや、大元の『最高の魔法使い様』を捕らえるためにも、ヴァルプルギスの存在は俺達にとって大きな戦力となる。ウィークエンド。結局、貴様が言いたいのはそういうことだろう」
「さすがアレクシスは話が早いね。……君も知っての通り、過去の彼は魔導士達を一掃する上で多くの民衆を巻き込んだ大事件を起こしたこともあった。もちろん脱獄のことだって、問うべき罪はまだまだたくさんあるけれど……それでもボクは、この何百年にも続く魔導士との因縁を終わらせるために、彼の存在に賭けたいと思っている。オズのいない今の魔法局じゃあ、ヴィクターの魔法は貴重な戦力になるはずなんだ」
一連の話を終えたエルマーは、最後に力強くそう言い切った。言葉の端々からも分かる必死な訴えは、確かな説得力を――いや、わざわざ歴史に手を加えてまで用意周到にヴィクターを迎える準備をしていた男だ。それだけでは終わらない、過去何百年にも積み重なった執着心さえをも感じさせる。
話を聞き終えたアレクシスは、じっと真っ直ぐにエルマーの目を見つめ、それからヴィクターへと視線を移した。
「なるほど。だから脱獄者であるこの男を再び捕らえるのではなく、正式に魔法局員として迎えるための許可を俺にしろと」
「そういうこと。クラリスがボク達に協力してくれている限り、ヴィクターも味方でいてくれることを約束してくれている。口先だけの言葉に聞こえるかもしれないけれど、その彼らの絆が強固であることは……ボクだけじゃない。ここにいるダリルちゃんとサラだって、この目で見ている。……アレクシス。どうかボクの判断を信じてほしいんだ」
言うならば、エルマーの挙げた根拠は物的証拠の無い彼の直感のみの話にすぎない。しかしそれが何よりも確固たる証拠であるということを、ヴィクター本人を含めた多くの人間がこの場でよく理解をしていた。
一方、アレクシスは目を閉じて、しばらく頭の中で今のエルマーの話を整理しているようだった。そして考えをまとめた彼は、ゆっくりとまぶたを開くと――
「いいぞ」
そんな一言だけを、軽々と口にしたのだった。




