第136話 紳士と乙女と旅立ちの午後
《三日後――ラクス郊外・公園》
ヴィクターとクラリスが再会を果たしてから、早いもので三日が経過した。
魔導士の襲撃や、謎の大爆発――そんな災難に見舞われたにも関わらず、まるで何事も無かったかのような建物の姿。ショッピングモールで起こった一連の出来事については、エルマーが自警団を上手く言いくるめてくれたようだ。安全が確認された今、あの場所は今までとなんら変わらぬ営業を再開できるまでに至っていた。
「――ヴィクター、こっちこっち! よかった、ベンチは誰も使ってないみたい。あそこでお昼ご飯にしましょ!」
そう言ってパタパタと駆けていくクラリスの後ろ姿は、紙袋の中で待つホットサンドに今すぐ齧り付きたいとでも言うかのようだ。今にも転びかねないその背中へ向けて、ヴィクターが声をかけることを我慢できるはずがなかった。
「クラリス! そんなに慌てなくても買ってきたランチは逃げたりしないよ! なにをそこまで急いでいるのかね。朝からそんなにそわそわして……」
「いつエルマーさんが迎えに来るかも分からないんだから、急ぎだってするわよ。本当だったら昨日のうちにゆっくり楽しむ予定だったのに……。ヴィクターが丸二日も眠ってるから、予定がズレちゃったんだよ」
「しょうがないだろう。魔力が減ると自分の意思と反して体が言うことを聞かなくなるんだ。むしろ、ちゃんとホテルのベッドに潜ってから寝たことを褒めてもらいたいくらいだね」
そんな言葉の売り買いもそこそこに、ベンチに座るクラリスの元へ追いついたヴィクターが、パチリ。再び指を弾けば、彼らの頭上には陶磁器のティーセットが現れた。
フレーバーはもちろん、甘い香りに心も安らぐミルクティー。本当はここに来る前に買ったばかりの新しい茶葉を試したいところだったのだが……このフレーバーも、ここのベンチでするランチも。全てはクラリスたっての希望だ。
「それじゃあ準備も整ったことだし……始めよっか。ピクニックの続き」
「ああ。……でもクラリス。続きというのならば、ペロ達を呼んでボール遊びでもする方がよっぽどそれっぽいんじゃあ――」
「細かいことはいいでしょ。もうお昼になって、お腹がペコペコなんだから……。わざわざ言わせないでよね」
そう言っている間にも、もう待ちきれなくなってしまったのだろう。膝上に広げたハンカチの上で、クラリスが紙袋の口を開く。瞬間、ふわりと香る麦の匂いに彼女の目が大きく見開かれた。
「わぁ……! ずっと嗅いでいたいくらい、すっごく良い香り。値段は張ったけれど、奮発した甲斐があったわね。――はい、ヴィクター。ぎゅって押すと肉汁が垂れちゃうから、気をつけて食べてね」
カサカサと紙でパンを包む音に混ざってクラリスがそんなことを言えば、ヴィクターの前には手のひらサイズよりも一回りほど大きなホットサンドが差し出された。見た目だけでも、顎が外れそうなほどに分厚い肉が挟まっているのが分かる。クラリスの大きな口ならともかく、自分の口では上手にかぶりつくことすら困難なのではないだろうか。
受け取った拍子に指先に付いたソースを舐め取り、じっと見つめること約五秒。ヴィクターの口から飛び出たのは、最初にこのホットサンドを見た時に感じた素直な疑問であった。
「これ……なにが挟まってるのかね」
「ステーキだって。なんと一日にたったの十個しか販売されない限定ものなの! ヴィクター、お肉好きでしょ? また倒れたりしないようにたくさん食べて体力をつけてもらいたいし、絶対アナタが喜ぶと思ったから……って、もしかして違った……?」
自分でそう話しながらも、突然不安になったのだろう。クラリスが両手に持った紙袋でサッと口元を隠すと、ヴィクターの心臓が不意にドキリと跳ねた。……まさか、困り顔までもがここまで可愛いだなんて。無自覚にこんな表情ができるだなんて、彼女は天才なのではないだろうか。
――これは……よくないな。つい意地悪したくなってしまう。でも、せっかくクラリスがワタシのために早起きして準備してくれたんだ。こんな時くらいは素直に厚意を受け取るとしようか。
眉尻の下がった上目遣いに、もっと困らせてやりたいという邪な感情がヴィクターの中へと芽生える。だが、自分を思うクラリスの気持ちを無下にしてまで自身の欲を優先するほど、まだまだ彼は落ちぶれてはいなかった。
ホットサンドを両手で持ち直せば、鼻先を掠める麦と香ばしい肉の香りにヴィクターが優しく微笑んだ。
「……いや、間違ってなんていないさ。さすがクラリスはワタシの好みもちゃんと理解している。やっとキミが朝一でバタバタ出掛けていった理由が分かったよ。それじゃあ早速頂いて――」
「ああ待って待って! やっぱりその前にもう一つだけ。ヴィクター、カップを呼んでちょうだい。せっかくだし、先に乾杯してからご飯にしたいの」
「乾杯?」
「そう。私達の、新たな旅立ちを記念して。もう飲み物は淹れてもらった後だし、この際ミルクティーでもいいよね?」
手元に降りてきたティーカップを手に取り、クラリスが首を傾げる。人の両手を塞いだ上でこんな提案をするだなんて、本当に今思いついたことなのだろう。ぽかんと口を開けたヴィクターがカップに視線を落とせば、乳白色の水面が怯えるかのようにふるりと震えた。
「ワタシは別に構わないのだが……それならグラスにワインでも入れてやった方がいいのではないかね。いきなり乾杯なんてしたらカップもビックリするだろうし、あまり行儀がいい行為とは言えな――」
「いいから! ここには私達しかいないんだよ? 慣れないグラスでするよりも、この方がずっと私達らしいでしょ?」
自分達らしい。そんな言葉と共にクラリスがウィンクをすれば、またとない特別感にヴィクターが気を良くする。彼の考えが手のひらを返したように、くるり。反転するまで、おそらく数秒も時間はかからなかった。
「ああ……たしかに、それもそうだね」
ヴィクターが指を鳴らせば、彼の手元にも湯気の軌道を描いてティーカップが降りてくる。それを手に取り掲げれば、動きを真似するようにクラリスもカップを顔の前へと掲げた。
「――それじゃあ。ワタシとクラリスの、輝かしい未来を祝して」
「ふふ、なにそれ? ……でも、そういうスケールの大きな話し方、ヴィクターにしては分かりやすくて嫌いじゃないな。なら私もアナタに倣って、そうね……よし。私とヴィクターの、新たな旅立ちを祝して――」
目が合えば、どちらからともなくはにかんだように笑顔を向け合う。そして――
「乾杯!」
そう高らかに言い放った二人の声が重なり、続けてカップ同士がぶつかる軽快な音が雲ひとつ無い青空へと響き渡る。
淹れたてのミルクティーは舌を引っ込めてしまいそうなほどにまだまだ熱かったが……それでも。彼らにとってのこの紅茶は、これまでの旅の中で口にしたどんなフレーバーよりも甘く、そしてこの上なく美味な至極の一杯となった。
――さて。そろそろクラリスが買ってきてくれたホットサンドを食べようかな。分厚すぎて、最初のひと口じゃあパンの角しか食べられなさそうだけど……。うん。確かに良い匂いがする。
カップを傍らに浮かぶソーサーへと預け、改めてヴィクターが手元のホットサンドへと向き合う。
こうしてじっくり研究をしている間にも、彼以上にランチを楽しみにしていたクラリスはもう半分を平らげてしまっている。そんな彼女に早く追いつくべく、ヴィクターも自分ができる限りの大きなひと口を開き――
「……あ?」
「あっ。エルマーさんだ。残念だけれど時間みたい。サントルヴィルに行く準備ができたみたいだね」
タイミングを見計らったように聞こえた短いクラクションの音に、大口を開けたままのヴィクターが視線だけを音の方向へと向けた。公園の外には黒い車が停まっている。クラリスが言ったように、その運転席の窓からはひょっこりと身を乗り出したエルマーが手を振っていた。
「本当……あの男はワタシ達の邪魔をするのを趣味にでもしているのかね。クラリス、あんなのは無視だ、無視。別に後から列車を乗り継ぎでもすれば追いつくだろう。今はピクニックに集中して、ランチを――」
「そういうわけにもいかないでしょ。ただでさえエルマーさんには無理言って時間を作ってもらったんだし、ヴィクター・ヴァルプルギスさんにはまだまだ監督する人が必要なんでしょ? なら仕方ないじゃない」
「……そんな人なんて知らない。まだご飯も食べきってないし、フリスビーもしてないし花冠も作ってもらってない。ここに来てから乾杯しかしてないんだよ」
どうやらこのピクニックのやり直しを、思っていた以上にヴィクターは楽しみにしていたようだ。すっかり拗ねた彼ががぶりとホットサンドに食らいつけば、クラリスはもう呆れた溜め息をつくことしかできなかった。
「花冠なんて私も作ったことないわよ……。でも、楽しみにしてたぶん、こんなに早く終わるのが残念なのは私も同じ。エルマーさんには少しだけ待っててもらうようにメッセージを送るから、もうちょっとだけのんびりしてから合流しましょうか」
「っ! さすがクラリスは話が分かるね! あの男と連絡先を交換しているというのは、いささか聞き捨てならない発言だったが……まぁいいだろう。それなら早く食べきってフリスビーをしよう。使い魔達もキミと遊ぶのを楽しみにしていたんだ。それからカードゲームにシャボン玉なんかも持っていたはずだね。これだけ陽当たりが良ければ、日向ぼっこなんてのもいいかもしれない。それからそれから――」
なんとも態度に……いや、体質に出やすい男である。
ピクニック継続と分かるや否や、ヴィクターの背後でポコポコと喜びに満ちた花火が打ち上がる。そんな素直な喜びの感情に加えて、今にも溶けてしまいそうなほどの笑顔を向けられてしまえば、ついついクラリスの顔もほころんでしまうというものだ。
「はいはい。本当にアナタといると退屈しなくて毎日が楽しいわ。――私達の旅はここでもう終わりだけど……サントルヴィルに行っても、こうしてたくさんの思い出を一緒に作っていこうね。ヴィクター」
そんな願いが近い未来できっと現実になるよう、言の葉に乗せて。
暖かな春の陽気に包まれた四つのティーカップが空を舞い、半分は和やかな談笑に花を咲かせる男女の元へ。もう半分はメッセージと共に、彼らの帰りを待つ新たな仲間の元へと飛び立っていく。
魔法使い達の賑やかなティータイムはまだまだ続いていくのだった。
第1部 最終章『その名を呼んで。親愛なるファムファタル』――完
第1部【旅編】――完




