第135話 その魔法は、誰がために
旅を終わりにする。その選択を自分の意思で行い、世界の中心へ向かうことを決めたヴィクター。そして彼の決断を信じて共に行くことを選んだクラリス。逃げるようにハイムを発った行き当たりばったりの二人旅が、まさかこんな結末に転がるだなんて。いったい誰が想像していただろうか。
すると、そんな彼らの一大決心をじっと間近で見守り続けていた人物がいた。ヴィクターを魔法局へと勧誘した張本人、エルマーである。
――うんうん。どうやら交渉は成立みたいだね。そうと決まれば、早速移動のスケジュールを立てたいところだけれど……今邪魔するのは野暮みたいだし、改まった話はおいおいしていけばいいか。なぁんか、サラやアリスタが彼らを気に入ってた理由が分かった気がするなぁ。
二人の選択は、どうやらエルマーにとって満足のいく結果へと落ち着くことができたらしい。ヴィクターを監視していた視線が柔らかくなり、緊張に強ばっていた全身の筋肉が次第に弛緩していく。凝り固まった首周りがポキポキと音を立てれば、思わずエルマーの口の端からは苦笑が零れた。
「いやぁ……それにしても、あの乱暴者の『禍犬』を相手に丸く収めることができて本当によかった。これでようやくボクもひと息つけるってもんだね。二人が魔法局に来るって知ったら、きっとサラも驚くだろうなぁ」
「……いや。全然よくはないでしょ」
その時。突然背後からかけられた声に、反射的にエルマーが振り返る。そこにいたのは離れた場所で休ませていたはずのダリルであった。
ぴょこぴょこと跳ねるように移動を繰り返すダリルの目つきは、足を絶え間なく締め付ける鈍痛のせいからか普段にも増して赤く、鋭い。まるで命からがら果てのない荒野へと逃げ出した手負いのウサギのようである。
「おや……ダリルちゃん。もう足は大丈夫なの?」
「見ての通り大丈夫じゃないですよ。ただ、このままアンタら放っておいたら一件落着のまま片付けられそうだったんでね……。ほら、見てくださいよ。このショッピングモールの有様を。半分はハロルドが暴れたのが原因だったとしても、もう半分はどう見たってさっきの爆発で吹っ飛んだに違いないでしょ。ヴィクターを引き入れる以上、コレの責任をとるのはどう考えても僕達になるじゃないですか」
よほど目の前のことだけに集中していたのだろう。そうダリルに言われたことで、ようやくエルマーの目にもそこらじゅうで上がる黒煙の存在が飛び込んできた。
火事になるほどの火の手は上がってはいないものの、確かに明日から通常通りの営業ができる状態であるとはとても言い切れない。大穴の開いた天井。粉々に砕けた窓ガラス。瓦礫の下に埋もれたマネキンの左腕。半分で途切れたエスカレーター……ここから見える景色だけでいえば、ほとんど廃墟のようなものである。
「あー……たしかにダリルちゃんの言う通りだねぇ。とりあえず建物の方は後でなんとかするにしても、本当に逃げ遅れた人がいないかの確認はしないといけないな……。自警団が来たらボクから話をするよ。その間にダリルちゃんは迎えを呼んで病院に行ってきて。支払いならクラリスに預けてたボクのカードを使ってくれていいからさ」
そうエルマーが促すようにクラリスへ振り返れば、つられてダリルもいまだ再会の余韻に浸ったままの彼女達へと視線を向ける。――すると、ちょうどその時。二人の視線にタイミングを合わせたかのごとく、クラリスの目が真ん丸に見開かれた。
「――あっ! そういえば私、ベンチの所に今日買った荷物を全部置いてきたままだったんだ!」
「買い物? たしかに、飛ばされた先がこんなショッピングモールだったことをずっと不思議には思っていたが……。クラリス。君……まさかワタシがいないにも関わらず、のんきにショッピングなんて楽しんでいたというのかね」
そのクラリスの元を自主的に去ったのは彼自身だというのに、これで拗ねるというのも筋違いなものである。
綺麗に整った唇をむっと尖らせて、ヴィクターが小言を呟く。しかしそんな態度がクラリスに通用するはずも無ければ、次に彼女が放った言葉はますますヴィクターの機嫌を損ねるものとなってしまうのだった。
「ヴィクターが私の荷物をみんな持ったままいなくなっちゃったからでしょ。実は買い出しにはダリルさんと一緒に来ていたんだけれど、その途中で魔導士に襲われちゃったの。あんな状況だったから、荷物を持ったまま逃げるなんてこともできなくて……。建物も崩れてるし、取りに行くのはもう無理なのかなぁ」
「ふぅん……そう」
すると珍しいこともあるものである。がっくりと肩を落とすクラリスには一瞥もくれず、ヴィクターの淀んだ紅梅色の瞳が、じとり。ダリルへと向けられる。その目には隠すつもりもさらさら無い、あからさまな私怨が含まれているように感じられた。
――えっ……僕? 悪いのは僕ってことですか? それともただの嫉妬? いやいや買い出しの付き添い程度、仕事の一環みたいなもんでしょ。それくらいでそんな恨めしそうな視線を向けられても困るんですけど!
そうは思っても、実際に口に出すことなんてできず。ダリルがサッとエルマーの背に身を隠すと、ヴィクターは小馬鹿にした様子で鼻を鳴らした。
「……まぁいいや。ならクラリス。その失くした荷物とやらをワタシが取ってくるとしよう。そうすれば、今度こそキミはその曇った顔を晴らしてくれると約束してくれるね。場所は? すぐにでも取り掛かるよ」
「三階にある大きな広場だけど……本当にヴィクターが取ってきてくれるの? 気持ちは凄く嬉しいけれど、でも……どこも崩れてて危ないよ?」
「HAHA! 今更危ないだなんて、ワタシを誰だと思っているのかね。……だが、馬鹿正直にこんな瓦礫の山を這い上っていては服も汚れるからね。なにやら責任がどうたらなんて話も聞こえてきたところだし――とりあえず、全部戻してやるのが一番手っ取り早いか」
そうヴィクターが呟いた、次の瞬間。彼の左手でステッキがくるり、半回転する。それから音もなく地面へと突き立てられた苺水晶が示す意味を、この場にいた全員が瞬時に理解していた。
ぞわりと毛が逆立つような感覚に、キンと殴りつけるような耳鳴り。この感覚はつい先程クラリスも経験したばかりだ。その正体は――そう。あの魔法である。
「ちょっとヴィクター……アナタもしかして、また時間を巻き戻す気なの!? それ、こんなことに使うような魔法じゃないんでしょ!」
「こんなこととはなにかね! クラリスのお願いなんて最優先事項に決まっているだろう。いいからそこで見ていたまえ。時間は取らせないよ」
言われるがままにクラリスが見上げた先には、思った通り。フロアの端から端までを覆い隠すほどに巨大な時計の文字盤が浮かんでいた。
公園で最初に見た時よりも、秒針はなめらかに動いている。その秒針が文字盤の中心を軽く一周したかと思えば、カチリ。今度は倣うように長針が動き出し――刹那。周囲の景色に変化が起きた。積み重なっていた瓦礫がひとつ、またひとつと浮かび上がり、天高くへ向けて颯爽と飛んでいってしまったのだ。
――建物がどんどん元通りになっていく……。ハイムが魔獣に襲われた時も、きっとヴィクターはこうやって町を直してくれたんだ。こんなことができるなんて、魔法使いって……ううん。ヴィクターって、本当にすごい人なんだなぁ……
そうクラリスが感心している間にもひとつ、またひとつと、瓦礫が彼女の横を通り過ぎては宙を飛び去っていく。
時間が巻き戻るというのは、どこまでも非現実的で幻想的なものである。次々に飛んでいく瓦礫に混ざり、風ではらったかのように塵埃が舞い上がる。やがてパズルのピースが埋まるかのように、天井にあいた穴が塞がれ、照明がつき。最後にそれまで逆再生だった音楽が正常な四拍子を刻みはじめると、かの文字盤は空気に溶けるかのように消えていき――クラリスとダリルが最初に足を踏み入れた時となんら変わりのない、ほとんど無人のショッピングモールの姿がそこにはあった。
ただでさえいつもより魔力を消費した体で、こんな奇跡的な再建をやってのけたのだ。不意に訪れた立ちくらみにヴィクターが膝をつくと、すかさずクラリスが隣へとしゃがんでその背中をさすった。
「――ふぅ。付近の建造物の時間を巻き戻すだけなら、魔力の消費を抑えて楽にいけるかとも思ったんだが……やっぱりこれは連発するものではないね。鉛のように体が重い。気を抜いたら眠ってしまいそうだ」
「もう、だから言ったのに。……でも、私のためにありがとう。ヴィクターは少しここで休んでて。ここまでやってもらったんだし、荷物なら私が自分で取りに行ってくるから――あれ?」
その時、ふと。嗅ぎ慣れたヴィクターの香水に混ざって、雨上がりの土を掘り返したかのような湿った匂いがクラリスの鼻をかすめた。これは……間違いない。ヴィクターが使役するあの獣達の匂いだ。
クラリスがその匂いに気がついてすぐ。彼女達の耳に届いたのは、硬い地面をちゃかちゃかと爪が擦る軽快な足音だった。
『――きゃん!』
「あっ! それ、私が置いてきちゃった荷物だ。もしかして、ヴィクターが建物を直してくれてる間にペロちゃん達がわざわざ取ってきてくれたの……? ありがとう。アナタ達には重かったでしょ?」
そうクラリスが尋ねると、ちぎれんばかりに尻尾を振ったペロが地面におしりを擦りつけながらずりずりと後退していく。どうやら褒めるなら自分ではなく、荷物運びを担当した彼の両脇のコヨーテ達にしろと言いたいらしい。
二匹のコヨーテがくわえた袋は長い距離を引きずられてボロボロになってはいたが、幸いにも中身は無事なようだ。その功績を称えるべくクラリスが両手で彼らの頭をわしわし撫でてやれば、ヴィクターの恨めしそうな視線が今度は目の前の使い魔達へと向けられた。
「ここまでやったのはワタシだというのに……美味しいところはキミ達が持っていくというのかね。……ペロ。先導したのはキミか。主の顔を立てるという発想はキミには無かったのかい」
『くん?』
「顔を立てるってなぁに? じゃないのだよ。……はぁ。まぁクラリスが喜んでくれたのならそれでいいさ。次にこういうことをするのなら、ワタシに一声かけてからにしたまえよ」
そんな注意をしたところで、ペロは不思議そうに小首を傾げては素知らぬ顔を見せるだけだ。その小憎たらしいほど艶やかな瞳へ次なる棘を吐き出してやるべく、ヴィクターが再び口を開こうと――いや、やめておこう。どうせ口酸っぱく説教したところで、また小動物特有の愛らしい仕草を武器にクラリスを味方につけられるだけである。
すると、そんな二人の奇妙な光景を目の当たりにしては、おかしなことにでも気がついたのだろう。訝しげに眉根を寄せたまま、彼らの行動を眺めている人物がいた。それまでエルマーの後ろで極限まで気配を消し、すっかり黙り込んでしまっていたダリルである。
「……あれ、なにしてるんですか? あっちから凄いスピードで袋が引きずられてきたかと思えば……。あの人達、僕には何も無いところを撫でたり説教してるようにしか見えないんですけど……」
どうやら恨みの矛先が自分からヴィクターとクラリスの前にいるナニカへと変わったことが分かったのだろう。その事実に少しホッとしたのか、ダリルは恐る恐るエルマーの後ろから顔を覗かせた。
「あれはヴィクターの使い魔である透明な獣達だね。基本的に彼とフィリップ以外の人間には見えない存在のはずなんだけれど……。どうやらクラリスは視認することができるみたいだ。ダリルちゃんも気配くらいは感じるでしょ?」
「ええ。僕の索敵範囲内だけでも、ざっと十匹以上はね。……まったく、よくアンタもあんな化け物を引き入れようと思いましたよ。いつからこうして勧誘するつもりだったんです?」
「いつから? あぁ……たしかにいつからと言われれば、そうだなぁ。最終的な決定をしたのは、さっきも言った通り君達がハロルドと衝突してから起きたたった数分の出来事だ。ただ……そもそもボクは、いつかはこうなる日が来ると思っていたんだよ」
すると、過剰なほどにフロアを照らす人工照明の光が落ち着かなかったのだろう。話がちょうどよく途切れたタイミングを見計らい、エルマーが胸ポケットから取り出したサングラスを掛け直した。
「……ダリルちゃんにもこの前話したでしょ。ヴィクターが四百年前に事件を起こした理由には、魔導士――そしておそらくマーリンが関わっている。言ってみれば、彼とボク達の目的はほとんど同じはずなんだ。それが分かっていたからこそ、彼のことは使える駒として手元に置いておきたかった」
「ただ、四百年前にそうすることは実質的に不可能だった……と」
「うん。なにせ彼は誰もが顔を知る犯罪者だったし、いくらボク達でも敵意を剥き出しにしてくる相手と手を組むなんてリスクは取れなかったからね。あの時は力を奪って、オズの箱庭に閉じ込める他に選択肢が無かったんだ。だから現代になって、彼が脱獄したのは……ある意味、好機だったのかもしれない。こうして落ち着いて本質を見極める機会を作ることができたし……なにより、次に会った彼はあんなにも強固な首輪をはめてボクの前に現れたんだ。この絶好のチャンスを逃すはずがないでしょ」
あまりヴィクター本人には聞かれたくないのだろう。そんなことをエルマーがささやけば、ダリルは目に見えて表情を曇らせた。
この一連の事件をまさか『チャンス』と言い切るだなんて。これだから長命な大魔法使い様とやらは考えることが庶民とは違う。もちろん褒めているわけではない。皮肉的な意味で違うと言っているのだ。
「なるほど。つまり今回の一連の茶番は、はなから全部アンタの手のひらの上だった……ってことですか。わざわざ悪役じみた振る舞いをしてまで仲間に引き込もうとするだなんて。エルマー……アンタって、本当に人が悪いですよね」
「そう? 別に想定外の事態なんていくつもあったし、ボクがやったことなんて……そうだな。長年かけて、ちょっと歴史を改ざんしたりしたくらいだよ。ほら、ダリルちゃんも学校で習ったでしょ? ヴァルプルギスの夜は――不運にも天災によって沈んでしまったと言われている、とある大陸に起こった悲劇の総称だって。おかげで真実を知るのは、魔法局の上層部と一部の長命な魔法使いくらいなもんさ」
「……それってもしかして。アンタは数百年前から、この日のためだけにわざわざ根回しをし続けていたってことですか? うわ。それはさすがの僕でもドン引きなんですけど……」
どうりでダリルもクラリスも、『ヴァルプルギス』という名前に初めはピンと来ていなかったはずである。なにせあの事件はエルマーによって丸ごと改ざんが施されてしまっていたのだ。そこまでして秘匿されていたのならば、脱獄後のヴィクターが即座に世界中で指名手配されなかったという件にも納得がいく。
わざとらさくダリルが身を引く仕草を見せると、エルマーはサングラスの奥の瞳を細めてふっと表情を和ませた。そして――
「こんなことで世界の平和が保証されるのなら、ボクの苦労なんて安いものだよ。さて……。あとは、オズが無事でいてくれればいいんだけれど」




