第132話 拝啓、大切な人。これからも隣に
すっかり背中を丸めてうつむいてしまったヴィクターの声は、遠くから近づくサイレンの音に今にもかき消されてしまいそうなほどに弱々しく、酷く掠れていた。彼の普段の尊大な態度を知っている者ならば、ここにいるのはまるで別人ではないかと疑ってしまうほどであろう。その声をよく聞き取るため、クラリスが距離を詰めようとするのは当然のことだった。
――あれ。ヴィクターの後ろにいるのって……
すると、クラリスが少し身を屈めたその拍子。ちょうど今まで死角になっていたヴィクターの後ろには、小さく丸まったペロがいたことが分かった。
使い魔とは不思議なものである。特にヴィクターが従えているコヨーテ達……そしてこのペロという子犬にいたっては、なおさらそうだ。彼らは時おり、呼ばれずともこうして主人の心情の変化に応じて自ら姿を見せることがある。これはフィリップが従えるカラス達とはなにかが違う、もっと別の関係性があるのではないかとクラリスは日頃から疑問に思っていた。
「ヴィクターの言う『ひとり』っていうのは、そのまま『ひとりぼっち』になりたくない……って意味なのよね。でも、こうやってアナタには一緒に感情を共有してくれるペロちゃんも、大事な時にはちゃんと守ってくれるフィリップさんだっているじゃない。それとは違うっていうの?」
「……少し、違う。たしかにペロはいつもそばにいてくれるし、フィリップは……フィリップも一応、見守ってはくれてる。でも、そうじゃないんだ。上手く言葉にすることはできないけれど、クラリスといるのはなんか……こう、もっと心の深いところで安心できるような。暖かくて、ワタシにとってはなによりも特別な――」
そこまで言いかけたところで、ふと。ヴィクターの言葉が途切れた。話しながら段々と思考がまとまってきたのか、自身の言葉に気がついたことがあるのだろう。
ヴィクターは手元に身を寄せてきたペロの頭をひと撫ですると、遠い昔の記憶を馳せるかのように目を細める。そしてこの小さな相棒から受け取った最後の後押しに、彼は大きく息を吸い込んだ。
「……そうだね。もしかしたら、また帰る場所を失うのが怖かった……って言い換えた方がいいのかな。……実は、ワタシは幼い頃に家族を亡くしていてね。行くあての無かった所をフィリップに面倒を見てもらってたんだ。だが……はは。お察しの通り、魔法局に捕まってからは、またひとりぼっちに逆戻りさ。だから……キミと出会って、久しぶりに居場所ができたことが本当に嬉しかったんだ」
「……それで、昔のことを隠すことにしたのね」
すっかりうつむいてしまったヴィクターが、こくりと一度頷く。
彼の言っていることはクラリスがエルマーから聞いた話の通りであった。不慮の爆発事故で家と家族を失ったヴィクターは、フィリップと出会ったことでその後の数百年間を彼と共に行動していた。しかし世界中で魔導士を狙った襲撃事件を起こした彼は、ついに四百年前――『ヴァルプルギスの夜』にて大陸ひとつを沈める大事件を引き起こした。そこでたくさんの人々の命を奪った代償として、長い時間を魔法局へ囚われることとなったのだ。
「いつかはクラリスに話さないといけないと思ってた。でも、ワタシの過去を知ったらキミが離れていってしまうんじゃないかって……。そうじゃなかったとしても、この関係性が変わってしまうのが怖くて言い出すことができなかったんだ。……クラリスだけには、対等な関係のままでいてほしかった。それだけ……キミと過ごす時間は、ワタシにとって心地のいいものだったんだよ」
「……そう。それじゃあ聞くけれど。つまりヴィクターは、アナタの昔話を聞いた私が怖がったり、軽蔑したりすると思ったから今まで話すことができなかった……。でも意図せずバレてしまったことで、心の準備もできないままに非難されて、傷つくのが嫌だったから逃げ出すことにした……。この前のことは、そういうことでいいのよね」
「……うん」
「ふぅん……なるほどね。アナタが今までの旅の間、何を考えていたのかはよぉく分かった。分かった上で言わせてもらうけれど……。――なんかそれ、とっても失礼じゃない?」
ぴしゃり。まるで冷水を浴びせられたかのように。クラリスが冷たく言い放った一言に、ヴィクターがハッと目を見開き顔を上げる。半開きとなった口は返すべき言葉を失ってしまったのだろう。薄い涙の膜が張られた瞳からは、今にも雫がこぼれ落ちてしまいそうだ。
ここまで直接的に、ヴィクターがクラリスから事を咎められるような視線を向けられたのは初めてのことだった。あの目でこれから、何を言われるのか。頭の回転が早いというのは、こんな時に仇となるものだ。瞬時に悪い想像を張り巡らせたヴィクターの顔がクラリスから背けられる。
「……ッ」
強く閉じられたまぶたから、緊張がヴィクターの全身へと伝わっていく。震える拳を強く握り締めれば、ペロが心配そうに鼻を鳴らす。
だが――そんな彼の顎が掴まれて、無理やり正面に向き直させられたのは他でもない。たった今目を背けたばかりのクラリスの手によるものだった。
「なぁにビクビクしてるの。別に突き放したりはしないから、そんな顔しないでこっちを向いて。……もう。今更なにを聞いたって、私がヴィクターを嫌いになんてなるはずないじゃない」
「……」
クラリスが指先に力を込めると、ヴィクターの頬がぷくりと持ち上がる。まだ理解が追いついていないのだろうか。彼女の動向を見守る瞳は困惑に濡れていた。
「……アナタが起こした事件のことならエルマーさんから聞いた。……でも、だからなに? 確かにどんな理由があったとしても、たくさんの人の命を奪ってしまった事実はもう変えられないし、許されない。だけど……態度には出さなくたって、ヴィクターが優しい人だってことを私は知ってるよ。アナタの犯した罪になにか理由があるのなら、私はそれに向き合っていきたい。今は話したくないっていうのなら、アナタの決心がついた時に話してくれればそれでいい。少なくとも……私にとって、ヴィクターは世界中で一番信頼ができる大切な命の恩人なんだから。私がどう思うのかをアナタが勝手に決めつけないでよ」
「クラリス……」
「ねぇヴィクター。アナタは私と一緒にいたいの? それともいたくないの? お得意の御託も、私への気遣いだっていらないから。アナタがどうしたいのかを素直に教えてちょうだい」
ヴィクターを掴んでいた手が離れていき、二人の視線が交差する。普段でさえ、ここまで互いをじっくり見つめ合って話す機会など無いのだ。まじまじと見られる気恥しさから、ついつい無意識に視線を逸らしてしまいそうにもなるものの――しかしもう、彼がクラリスから目を離すことは無かった。
「ワタシは……これからもクラリスと一緒に、いたい」
「それで?」
「……もう、勝手にどこかに行ったりしない。……心配をかけて、ごめんなさい。クラリス」
そうか細い声でヴィクターが呟くと、クラリスはようやく口元をふっと緩めて彼の髪へと手を伸ばす。柔らかな赤毛を丁寧に梳かしてやれば、ヴィクターは産まれたばかりの子犬のように彼女の手のひらへと擦り寄ってきた。
「はいはい。本当に世話がやけるんだから……。変なことばっかり考えてないで、アナタはそれでいいのよ。まだまだ問題は残ってるけど、難しいことはこれから考えていきましょ。だから……まずはおかえりなさい、ヴィクター」
「うん……ただいま」
魔法局のことも、魔導士のことも。それらが取り巻くヴィクターの過去だって、まだなにも解決したわけではない。だが……それでも彼はここに戻ってきた。自分の意思でクラリスの隣へ立つことを選んだのだ。
二人の足元では、ペロも尻尾を振って主人達の仲直りを喜んでいる。そして、そんな小さな観客に見守られながら。クラリスはただ、心から安心した様子で涙を流すヴィクターの頭を強く抱き寄せるのだった。




