第131話 『わたし』達の、大事に抱えた理由を教えて
ヴィクター・ヴァルプルギス。彼のことをそう呼んだのは、クラリスにとっては初めての経験だった。なにせ初めて彼と会話をしたあの夜から今までにかけて、ずっと隠し通されていた名前だ。緊張するかと思ったが、案外すんなりと口にできるものである。
そんなクラリスの呼び掛けに対し、ヴィクターは足を止めてわずかな沈黙だけを返した。口を結んだまま、逃走するための言い訳でも考えているつもりなのだろうか。それとも今の呼び名に、なにか思うところでもあるのか――彼の唇が開くのに合わせて、身を震わすかのように空気が揺れる。
「……別に。外の空気を吸いに行ってくるだけだよ。周りを見てみたまえ。ここ……色々なものが崩れたせいで、なんだか埃っぽいだろう。そのせいか頭が痛くなってしまってね……。心配しなくても少ししたら戻るから、キミは彼の手当てに戻って――」
「それなら私も一緒に行く。ちょうどダリルさんの足を冷やすためのものを探しに行こうと思ってたの。ヴィクターが代わりに探してくれるっていうのなら、私はそれでも全然かまわないけれど……そうやって任せたらアナタ、今度こそ私の前には戻ってこないつもりでしょ」
そう言って道を塞ぐかのように、ぐるりとクラリスがヴィクターの前へと回り込む。見上げた顔は、想像通り居心地の悪そうな面構えだ。そこに追い打ちをかけるかのごとくぐいぐいと詰め寄られてしまえば、彼はさらに渋い顔でクラリスから一歩後ろへと距離をとった。
互いが睨み合ったまま、どれほどそうしていただろうか。逃げ道を塞がれた状態で一方的に気まずい空気に、ようやく観念したのだろう。退く気の無いクラリスをヴィクターは一瞥すると、大きく息を吐き出して砂だらけの床へとゆっくり腰を下ろした。
「……分かった、分かったよ。降参だ。やっぱり……クラリスには敵わないな。こんなことなら、迎えの手配でもしておくんだった。ほら。もうどこにも行かないから、少し座って休ませてくれ。それとも魔法局の小僧の元にでも戻った方がよかったかね」
「ううん。ここでいいよ。ちょうどヴィクターとは一対一でゆっくり話をしたいと思っていたし……。それに私、あんまり怒ってるところを人に見られるのは好きじゃないから」
「……なに? お、怒ってるところ……?」
それまでとは一転、弾かれたように上を向いたヴィクターが目をまん丸にしてクラリスの顔を見つめる。声音こそいつもの彼女と変わりはないが、そう言われてみればたしかに目だけは据わっている。二年にも渡って、ほとんど四六時中を一緒に過ごすほどの付き合いなのだ。彼女の言葉が嘘偽りでないということは、その目を見ればすぐにでもヴィクターには伝わった。
「そう。実は私、すっごく怒ってるの。だってヴィクター……アナタ、私に謝らないといけないことがたくさんあるでしょう? それなのに、あんな知らん顔でさっさと逃げ出そうとしたんだもの。身に覚えがないだなんて、言わせないからね」
「……それは例えば、ワタシがキミの顔に怪我を負わせてしまったこととか――」
「違う。そんなことはどうでもいいの」
「どうでもって……」
ハッキリそう否定されてしまえば、いくらヴィクターであってもクラリス相手に渋い顔を向ける他ない。あの時、もう少し魔法の軌道がズレていれば、彼女の命を奪っていたかもしれない。そうでなくとも、跳ねた石ころの当たり所が悪ければ失明させていた可能性だってあったかもしれないのだ。それをまさか『どうでもいい』と、たったの一言で一蹴するだなんて……。これでは毎晩くよくよ考えていた自分が馬鹿みたいではないか。
するとそんなヴィクターの考えすらも、クラリスは見透かしてしまっているのだろう。迷わず彼女が伸ばした右手がヴィクターの額を捉えたかと思えば――パチン。小気味のよい音と共に、彼の頭が後ろに小さく仰け反った。いわゆるデコピンというやつだ。
「あのねぇ……私が起きちゃった事故をいつまでも引きずるタイプの人間じゃないってこと、ヴィクターが一番よく分かってるでしょ? あの時はアナタもいっぱいいっぱいだったし、先にちゃんと逃がそうとしてくれていたのを聞かなかった私も悪かった。……それでも気が済まないっていうのなら、今のでおあいこ。心配しなくても傷跡は残らないってお医者さんも言ってたし、痛みももう無いから気にしないで」
「あ……そっか。そうなんだ……。よかった……それならよかった。本当に……」
じんと痛む額を押さえて、ヴィクターが呟く。クラリスの無事が、本当に嬉しかったのだろう。心底ほっとした様子で破顔したその端麗な顔立ちに、普段であればクラリス自身もつい絆されてしまいそうにもなるのだが――今日だけはそうもいかない。よかったと連呼する気の抜けたヴィクターを見下ろして、彼女はますます眉間のしわを深くした。
「よくないでしょ。それはそれ、これはこれだから。私が怒ってるのは怪我とは関係の無い話だってこと、もう忘れたの?」
「えっ? あ、ああ……うん。もちろん分かっているさ。ほら。それ以外に理由があるとすれば、例えばその……アレだろう。身分を隠すために、名前を忘れたって嘘をついていたこととか……」
「……」
どうやら違うらしい。いや、違うわけではないのだろうが、反応を見る限り当たりを引いたわけではないようだ。
クラリスのまぶたがじとりと細められると、目に見えて焦った様子でヴィクターは記憶から次の回答候補を探し始めた。彼女が魔法局と一緒に行動をしていた以上、ヴィクターが過去に起こした事件の話はエルマーから聞いているはずだ。となれば、今更隠し通す理由だって無いはず。
「それともキミが言いたいのはアレかね。昔はフィリップにそそのかされて、世界中で色々と悪さしていたのを黙っていたこととか……あっ! もしかしてそれらが原因で、魔法局に追われていたことを話さなかったこととか……」
「……あとは?」
「あ、あと? えっと……キミの買ったスイーツを、勉強のために実はこっそりつまみ食いしていたこと……とか?」
急に規模が小さくなったものである。ヴィクターの中では、お菓子のつまみ食いと世界規模で起こした爆破事件は同等の罪にあたるらしい。このままでは肝心なことを差し置いて、つつけばつついただけボロが出てきてしまいそうである。
「……ヴィクターが色々と私に隠し事をしていたってことは、今のでよく分かった。ただ……私が本当に言いたいのはそんなことじゃない。もっと謝らないといけない大事なことが、まだアナタには残ってるでしょ?」
「これ以上にまだある……というのかね」
おずおずとそうヴィクターが尋ねると、クラリスは口をへの字に曲げて腰に手を当てた。
どうしてこの男はこうも察しが悪いのだろうか。普段、相手の思考の数歩先を行く言動で場を翻弄する彼からは、想像もつかないほどに情けのない姿だ。本当ならば、自分で気がつくまで問い詰め続けようとでも思っていたのだが――それを待っていれば日が暮れてしまう。クラリスに我慢の限界が来るのも当然のことであった。
「まだ分からないの? ……私はね。アナタが話し合いのひとつもしないで、勝手にいなくなったことに一番腹を立ててるの。自分がどれだけ長い間、私に心配をかけたのか分かってる?」
「そんなの、たった一週間しか――」
「一週間も、でしょ。あんなことがあった後なんだから、誰だって心配するに決まってるじゃない。……おかげで夜も眠れなかったんだから。ヴィクターが逆の立場だったらどう? 同じくらい心配するでしょ?」
「……それは……」
同じどころか、それ以上だ。突然クラリスがいなくなるなんてことがあれば、寝る間を惜しんでだって世界中を探し回るに決まっている。
まるで子供を諭すかのように問いかけるクラリスの言葉に、ヴィクターは無言をもって肯定の意を示す。そんな彼の姿を見たクラリスは小さく息をつくと、ぐっと屈んで彼の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、ヴィクター。そんなにアナタが私から逃げていこうとする理由はなに? 昔のことを知られたくないってことだけが原因じゃないわよね。だって……それならアナタの性格上、いくら正気じゃなくたって私を置いていなくなるはずが無いもの。だからもっと他に……アナタにとって、なにか大事な理由があったんじゃない?」
「……」
「お願いだから聞かせて。私達、二人でサントルヴィルに行くんでしょ。世界を見て回るのもまだまだこれからなのに……こんな夢半ばなところで終わらせたくなんかないよ。それはヴィクターだって同じでしょ? ……もしかして。アナタがいなくなる直前、私に『嫌いにならないで』って言ったことと関係があるの?」
そうクラリスが尋ねれば、ヴィクターの視線が一度彼女の方を向き、それからゆっくり地面へと落とされる。そして――
「…………ひとりに、なりたくないんだ」
ぽつり。今にも消え入りそうな声で、ヴィクターはそう答えた。




