第130話 暗夜の欠片を拾い集めて、繋ぐ
光の届かない、冷たい箱の内側。感覚を全て失ったかのように周囲の状況が見えない中で、クラリスの隣に立つヴィクターの荒い呼吸だけが響いている。
周囲の状況は? はたしてこの箱の外はどうなっているのだろうか。あの爆発では、いくらハロルドであっても無事で済むはずがない。ならば、近くにいたダリルはその爆発に巻き込まれずに逃げることができたのか。いや、そもそも建物内に逃げ遅れた人は、近隣施設への被害はどれほどとなっているのか……。考えれば考えるほど嫌な妄想ばかりが膨らんで、クラリスの心には不安が募っていく。
二人の視界に変化があったのは、ようやくヴィクターの呼吸が落ち着いた頃。クラリスの妄想が脳内で考えられる限りのパターンを一周してから、間もなくのことであった。
「ッ……眩しい」
突然、前方の鉄板が軋む音を立てたかと思えば、ゆっくりと板が倒れて視界がひらける。暗闇に慣れた目を細めてクラリスが一歩踏み出すと、続いて右に左にと箱が開いていき――飛び込んできた景色に、彼女は両手を胸の前に組んでほっと息を吐き出した。
――よかった……って、言っていいのかな。爆発で壊れた場所は思ってたよりも少ないみたい。建物が崩れそうな気配も無いし、あとは怪我をした人がいなければいいんだけれど……
ガラスが吹き飛んで風通しのよくなったフロアに、まるで廃屋にでも迷い込んだかのような瓦礫の山。
久方ぶりの非日常を体験して、まだ脳が興奮しているのだろう。鼻をつく硝煙の匂いに落ち着かない様子でクラリスが辺りを見回す。――ハロルドの姿が見えない。ということは、撃退すること自体は成功したのだろうか。
――魔導士が消えた……それに、ダリルさんもいない。どこに行ったんだろう……守ってくれた時に腕を痛そうにしていたし、血が出ているなら手当てをしないと……
二階を見上げてはみるものの、既にダリルの姿はそこには無い。もちろん魔導士のことも気にはなるが、それは味方の無事が分かった上でのことだ。早いところ、彼の安否を確認しなければ――ヴィクターがクラリスの横を通り過ぎたのは、彼女がそんなことを考えていた、まさにそのタイミングのことだった。
「ヴィクター?」
コツコツと、ステッキが規則正しく床を叩いていく。ヴィクターの足が真っ直ぐに向かうのは、サークル状の焼け跡が残された爆発の中心地。そこになにかを発見したのか、足を止めた彼の視線が足元へと落とされる。――思った通りだ。小走りにクラリスが駆け寄る足音を耳に、彼はそこにあった煤にまみれた黒い羽根を擦り付けるかのように踏み潰した。
「……すまない。魔導士には逃げられたみたいだ。本体をあぶりだそうと火力を絞ったのがアダとなったみたいだね。あのわずかな一瞬で、仲間が介入する隙を与えてしまったみたいだ」
「そんな……それじゃあ早く追いかけないと! あんな怪物がいるのが分かってて、このまま野放しにしておくだなんてこと――」
「いや……クラリスの気持ちは分かるが、今はやめておこう。深追いして返り討ちに遭う危険が無いとも言いきれないし……なにより、ワタシの体力がもう限界だ。今の一件で我々がターゲットにされたことは間違いないだろうが、あれだけのダメージを負った後なんだ。またアレがすぐに襲ってくることもあるまいよ」
そう答えたヴィクターの顔には、濃い疲労の色が浮かんでいた。
彼のステッキが普段に増して床を打ち鳴らすのは、体が限界を感じている無意識なサインだ。本人さえ認識していないそのサインを知るクラリスが、無理をさせる選択肢を取るはずがなかった。
「そっか……。たしかにヴィクターの言う通り……だよね。もしも魔導士の仲間が待ち構えてたりしたら危ないし、アナタがその方がいいと判断したならそれが正解なんだと思う。ダリルさんのことも心配だし……今はとにかく、魔法局との合流を急ぎましょう」
「……ああ。そうだね」
するとヴィクターが苦々しげな返答を述べた、その時である。クラリス達から見て左後ろの方向――何者かが非常階段を下りる不規則な足音に、弾かれたように彼女は振り返る。
姿の見えない相手に、一瞬にして張り詰める緊張感。しかしこれこそが杞憂であったと彼女がすぐに気づけたのは、背後のヴィクターが発する変わらぬ息づかい。そして――瓦礫が積み上がった死角から現れた男の姿を見たことにあった。
「――ダリルさん! 大丈夫ですか!」
彼女達の前に現れたのは、砂埃にまみれた体を引きずるダリルだった。思わずクラリスが駆け寄っていくと、ダリルは顔を上げて声のした方向へと目を向ける。壁に手をついているのを見るに、足を痛めてしまったのだろう。それでも彼は、クラリスの顔を見ると安心したように微笑んだ。
「クラリスさん……よかった。アンタ達も無事だったんですね。僕はこの通り、さっきの爆発にびっくりして足を捻っただけです。これくらい、少し休めばすぐ歩けるようになるので大丈夫ですよ……っと。いててて……」
そう言って、ダリルが壁伝いにずるずるとその場へと座り込む。
捻ったというのは押さえている右足首のことだろうか。前にしゃがんだクラリスがズボンの裾をめくると、確かに患部が赤く腫れ上がっているのが分かる。ダリルの口から乾いた笑い声が起きるのも当然のことだった。
「あはは……もしかして、僕が思ってる以上に酷い感じですかねぇ。これ?」
「笑い事じゃないですよ。足首が炎症して熱くなってる……とにかく今は冷やして様子を見ましょう。ねぇヴィクター。アナタ、氷でもペットボトルでも、なにか冷たいものって持ってな……あれ?」
そうクラリスが振り返ると、はたと。彼女は目を瞬きさせて、遠くに立っているその男を見た。いったい、どうしたというのだろうか。てっきりすぐ後ろを着いてきていると思っていたヴィクターの姿が遠い。それどころか、こちらに背中を向けたままどこへ行くのか、今もこうしてどんどんと距離が離れていくではないか。
いつものヴィクターであれば、クラリスが他人の心配をしている横を鬱陶しいほどについてまわってくるはずだ。だが……今日の彼の様子がおかしいことは、隣で見ていたクラリスが一番よく分かっている。もちろん、その原因についても心当たりしかない状況だ。
「えっと……はぁ。すみません、ダリルさん。少しだけ待っててもらってもいいですか? ちょっと目を離した隙に、うちの可愛い飼い犬がまた逃げようとしてるみたいなので」
「ええ。そりゃあもちろん。今更僕が止める理由もありませんからね。もう少ししたらエルマーも来るだろうし、こっちは気にしないでください」
そんなダリルの言葉に頷きをひとつ返すと、クラリスは遠くなる背中へ向けて早足に近づいていく。
他人の気配に敏感な彼のことだ。きっともうクラリスが追いかけてきたことにも気がついているのだろう。ましてや本気で逃げるつもりならば、こうして悠長に歩くなんてことをせずに、とっくに姿をくらませていたはずだ。それでもまだこの場に留まっているということは――つまり。そういうことなのである。
追いついた背中は、きっと彼女の言葉を待っている。その期待へと、真摯に向き合うべく――クラリスは初めて、『呼び慣れた』はずの彼のその名前を口にするのだった。
「……こら。私のことを置いて、勝手にどこに行くつもりなの。『ヴィクター』…………ううん。――ヴィクター・ヴァルプルギスさん?」




