第125話 久しき目覚めは香ばしい昼食の席で
《数十分前――ラクス郊外・フィリップの隠れ家》
時はクラリス達がハロルドの襲撃に遭うよりも少し前。まだ彼女達がショッピングモール内で買い物をしていたのと同時刻まで遡る。
時計の短針は既にてっぺん近く。どこからか漂うバターの香りに混ざって鼻腔をくすぐるのは、食欲をそそる香ばしい匂い。昨日買ってきたばかりの粗挽きソーセージが焼ける匂いだ。
キッチンに立ったフィリップが慣れた手つきでフライパンの上のソーセージを転がす。弱火の上でパチパチと油が跳ねる音をバック演奏に、彼は鼻歌混じりに肉が焼けるのを待ち続けていた。
――これならあと数分もしないでできそうだな。オーブンの方もそろそろ焼き上がりそうだし、火を止めたタイミングでヴィクターの奴を起こしにでも行くか。
となれば――フィリップが再び視線をフライパンへと落とす。その目に映るソーセージの数は全部で五本。これを二人で分けるとなれば、最後の一本が取り合いになるのは目に見えている。それなら取り分を揃えるため、ヴィクターにバレるより先に一本処理してしまってもいいのではないだろうか――そんな企みをフィリップが心の内で考えていた、まさにその時のことだった。
「フィリップ……なに焼いてるの」
「うおっ。びっくりした……起きたなら起きたって言えよな……」
匂いに釣られてやって来たのだろう。急に後ろから声をかけられて、フィリップはようやく背後にヴィクターが立っていたのだということに気がついた。自身の鼻歌と目の前のソーセージに一生懸命で、周りを気にする余裕までは無かったのだ。
「これは朝飯に食おうと思ってたソーセージだよ。誰かさんがいつまで経っても起きてこないせいで、もう朝飯どころか昼飯になっちまったけどな」
「ふぅん……それは悪かったね」
そう言って、まだ寝起き間もないヴィクターが悪びれもなしに大あくびをひとつする。彼は丸眼鏡の奥の寝ぼけ眼を細めると、フィリップの手元のフライパン――それからオーブン、鍋とを順番に見回しては不思議そうに首をかしげた。
その首の動きに追従するようにヴィクターの頭で寝癖が揺れれば、フィリップは口から出かかっていた説教を飲み込まざるを得なかった。どれだけ小憎たらしく、血が繋がっていないとはいえ、弟というものはなんだかんだで可愛いものなのである。
「……まぁ、先に起こさなかったオレも悪かったからな。寝坊のことはもういいや。それよりほら、いつまでもそこに突っ立ってないで顔でも洗ってきな。その間に飯の支度は済ませておくからさ」
「うん。デザートも用意しといて」
「はいはい。言われなくても昨日のうちから冷やしてますよ」
そんな楽しみを提示されれば、自然と気分も上がるものである。
まだ眠い目をこすりながら洗面所に向かったヴィクターは、洗面器に溜めた冷水を使って手短に顔をすすいだ。今日は特に外出の予定も無いため、寝癖やパジャマはそのまま。身だしなみを欠かさない普段の彼を知っている人間からしてみれば、想像もつかないスタイルである。
しばらくして食事の席に戻ってきたヴィクターは、大人しく着席をしてはテーブルに並んだ料理を物珍しそうに眺めていた。
パーティでもするつもりなのだろうか。やけに手の込んだエッグベネディクトの隣には、先程フィリップが焼いていたソーセージが三本添えられている。生クリームがひと回しされたコーンスープには、こだわりなのだろうかパセリが散らされていた。
「なんか……朝食の予定だったにしてはやけに豪華だね。キミが料理を趣味にしているのは知ってるけど……。これはさすがに作りすぎではないかね」
「んー、そうか? たしかにいつもに比べたら豪華だけど……まぁ、これが最後になるかもしれないからな。自然と手が動いちまったんだよ。ほら。残ったのはオレが食うから、気にしないでどんどん食べな」
「……? あぁ、うん……」
最後、とはどういう意味だろうか。フィリップの言葉にどこか引っ掛かりを覚えながらも、せっかくの料理を勧められてしまっては断るわけにもいかない。湧き上がった疑問をよそに、ヴィクターは香ばしい匂いの立つソーセージへとフォークを突き立てた。
それからテーブルいっぱいに並んだ料理をもくもくと口に運ぶこと数分――ようやくヴィクターがデザートにたどり着いたのは、腹八分目を目前とした頃。タイミングを見計らってフィリップが冷蔵庫から取り出してきたのは、デザートカップの中でぷるぷると揺れるミルクデザートだった。
沈んだ赤い塊は、ベリーだろうか。スプーンでひとすくいし、口に運べば甘さと酸っぱさが同時に口の中に広がる。クラリスが好みそうな味だ――そう言いかけた言葉をハッと飲み込み、慌ててヴィクターは続く二口目、三口目を口をした。
「――ごちそうさま。最初はどうかと思ったが、なんだかんだ食べ切れるものだね」
「そこはオレの腕の見せどころってやつだ。ヴィクター、食後のコーヒーはいるか?」
「……いや、結構。そんなことより……フィリップ。話したいことがあるのなら、いつまでも様子をうかがっていないでそろそろ話したらどうなのかね。いい加減……わふ。待ちくたびれて、このままもうひと眠りしてしまいそうなのだけれど」
そんな指摘と共にわざとらしくあくびをしてやれば、フィリップの目が驚きに丸くなる。どうやらヴィクターの勘は正解だったようだ。
ヴィクターが指を弾くと、テーブルに乗った空の皿が次々にシンクへ向けて飛び立っていく。食事のお礼のつもりだろうか。ひとりでにスポンジが動いたかと思えば、やがて水の流れる音と食器の擦れる音が小屋の中へと響き渡った。
「ああ……はは、やっぱりバレてた?」
「大事な話をしたい時、キミは豪勢な食事の席を用意しがちだからね。その上あんな物言いをされて、怪しまないはずがないさ。……それで内容は? なにか欲しいものでもあるのか、魔法局に殴り込みにでも行くつもりなのか……。それともまさか、金でもせしめるつもりかね。たしかに人並みに貯えはしているけどねぇ……キミに使ってあげられるような持ち合わせなんて、あいにくワタシは持っていな――」
と、そこまで口にしたところでヴィクターの言葉がピタリと止まった。それまではいつものようにヘラヘラと話をしていたフィリップが一転、真剣な眼差しでこちらを見つめていたのだ。何百年にも及ぶ長い付き合いだ。ヴィクターにはもう、フィリップが話したかったことがいったい何であるのか……大方察しがついてしまっていた。
「……クラリスのことか」
ヴィクターがそう問うと、フィリップは頷きひとつを返して話を始めた。
「なぁ……ヴィクター。オマエ、本当にこのままクラリス・アークライトとは縁を切るつもりなのかよ。あれから一週間は経ったけど、会いに行くどころかこうやって話題にすら出しやしねぇ。別にあの女のことが嫌いになったわけじゃねぇんだろ」
「今更な質問だね……ワタシがクラリスを嫌うことなんて、万が一にもあるはずがないだろう。むしろ嫌われて然るべきなのは……今まで彼女に身分を隠し、欺き続けていたワタシの方だ。ましてや怪我を負わせてしまった上に、責任を逃れるために逃げ出したというのだよ? クラリスだって……きっともう、ワタシのことなんて顔も見たくないと思っているはずさ」
そう自虐的にヴィクターが笑うと、フィリップの眉がピクリと動いた。そのわずかな変化にはヴィクターも気がついたのだろう。つい、無意識に。居心地が悪そうに彼が視線を逸らす。――フィリップが両手をテーブルに叩きつけて立ち上がったのは、その直後のことだった。
「あああ、もう! オマエって奴は、どうして恋愛ごとになるとそうも自己肯定感が低くなるんだよ。そうやって毎日毎日ずーっと拗ねて、挙句の果てにはグチグチと自虐ばっかり……ヴィクター・ヴァルプルギスはそんな人間じゃねぇだろ! 聞かされてイライラするオレの身にもなれってんだよ!」
いわゆる解釈違いというやつだろうか。卑屈に語るヴィクターの姿がよほど癪に障ったのだろう。語気を荒げるフィリップに驚いたヴィクターが、珍しくたじろいだ様子で口先を尖らせた。
「な、なに……喧嘩したいっていうのなら、喜んで買ってあげるけど」
「そういうわけじゃねぇよ。ただ、オマエがずっと的外れな言動で拗らせてるから、いい加減見苦しくなってきてな。あー……つまりはあれだろ。オマエはあの女に会いに行って、責められるのが怖いからここに引きこもっている。ならそれが杞憂ってことさえ分かればいいってことだ」
「……どういうことかね」
まるで目的の読めないフィリップの話に耳を傾けるヴィクターの姿は、さながら飼い主に怒られた家犬のようだ。しかしながらその含みのある物言いに、わずかながらに希望を感じ取ってはいるのだろう。
期待に膨らんだ紅梅色の瞳は、今しがた怒鳴られたことなどもう忘れて、一心にフィリップを見つめている。ならば――満を持してその期待に応えるため、フィリップは彼が一番に求めているだろう餌を堂々と目の前へとぶら下げてやるのだった。
「クラリス・アークライトは別にオマエを恨んじゃいない。むしろオマエが帰ってくるのを、今もずっと待ち続けてるってことだよ。たっぷり休息もとって、魔力も回復した頃合なんだ……。そろそろご主人様の所に帰ることにしようぜ、ヴィクター」




