第123話 誰かを守ることの難しさ
突如として、クラリス達の前に現れた巨大な黒い怪物。もしや魔獣か? その姿は蛇のようでもあるが、実際の全長がどれほどあるのかは影に隠れていて分からない。仮に見えている部分の倍の長さがあるとすれば、優に三十メートルは超えているのではないだろうか。
戸惑うクラリスの視界の端で、銀色の剣身がドームにぽっかり空いた穴から射し込む光を反射する。しかし――その剣を握るダリルの顔には、隠しきることのできない動揺が滲んでいた。
「あれはまさか、ハロルド・フィルボッツ……? マジかよ……どうしてエルマーがいない、こんな時に限って……!」
「ダリルさん、アレのことを知ってるんですか!?」
ピンと張り詰める緊張感。オープンスペースの外では、いち早く危険を察知した人々がエスカレーターや非常階段へと流れ込んでいく。意識せずとも肌に感じる喧騒と地鳴り――どこか震えた声音で尋ねたクラリスの質問に、ダリルが静かに頷いた。
「ええ。あの男は魔法局が行方を追い続けている魔導士の一人です。アンタが知ってるかは分かりませんけど、今のサントルヴィルとその近郊じゃあ、魔法使いの連続失踪事件なんてもんが流行ってましてねぇ……。その主犯格として指名手配されているのが、なにを隠そうあのデカブツなんですよ」
「連続失踪事件……。そんな……それじゃあアレも、私達が出会ってきた魔導士達と同じ、人が魔獣になってしまった姿だっていうんですか……?」
たくさんの人々を幸せにしたいと願った、スモーアで出会った一人の夢見る少女。そして自分勝手な願いを叶えるべく、多くの人々を巻き込んだ傍若無人なマモナ王――夢を叶えた彼ら魔導士が、どんな末路を迎えたのか。その姿がクラリスの記憶の中に呼び起こされる。
このハロルドという魔導士も、おそらくは最高の魔法使い様とやらにそそのかされた末にこのような魔獣となってしまったのだろう。そうクラリスは思っていたのだが……ダリルから示された返答は、彼女をより困惑させるものとなった。
「魔獣ねぇ……ははっ。たしかにその通りですけど、少しだけ惜しいですね。見た目はあんなんですけど、ハロルド・フィルボッツはまだ――僕らと同じ、人間ですよ」
「……えっ? で、でも、魔導士が魔獣に姿を変えるのは、体内の魔力が尽きた時になってからなんじゃ……!」
「そうですね。もちろんクラリスさんが言ってることは間違いじゃありません。つまりハロルドはイレギュラー……あの姿こそが、あの男が最高の魔法使い様って奴から貰った魔法の正体ってことです。しかし困ったな……こんな建物の中で襲われるなんて予想外だ。応戦するにしても、一般人の避難を最優先しろって口を酸っぱくして言われてますし……全員の避難が完了するまでは、僕が囮になるしかないか」
小さく舌打ちをして、ダリルがさっと空間全体に目を向ける。目視だけでもその広さはざっと半径七十メートル以上――全ての範囲を索敵することはできないが、けっして余裕が無いわけじゃない。むしろ、さすがラクス随一の大型ショッピングモールというだけあって、逃げ回るための広さは申し分ないと言えるだろう。
なにせつい先程、ダリル自身がハロルドを『魔法使い連続失踪事件の主犯格』であると話した通り、あの魔導士の目的はただひとつ――
『あまそうな、まほうつかい……ばにらあいすみたい。それからあっちは……しふぉんけぇき……うーん? ちょこれぇとかなぁ。とおくからは、れもんのにおいもする。ふふ。きょうはごちそうだぁ。にげないうちに、それじゃあえんりょなく――』
瞬間、それまでゆらゆら揺れているだけだったハロルドの頭の中心が、ぐぱり。綺麗な十字の裂け目を描いたかと思えば、一輪の花のように大きく広がった。
『いただきまぁす』
いただきます。なんと礼儀正しいことだろうか。この地上をテーブルと見立てるのであれば、きっと食事の前には命に感謝をするのだというマナーをこの怪物に教えた者がいるに違いない。
しかし到底その儀式の意味などは理解はしていないのだろう。ダリルに覆い被さるように急降下するハロルドの顔は、どうにも彼へ感謝の意を示しているようには思えない。それはまさに、ひと飲みで「はい、終わり」とでも言うかのような面白みのない捕食者のテーブルマナー。
そしてそんな捕食者がダリルを丸呑みにしようと襲いかかった、まさにその刹那――
「ハッ。なにがいただきます、だ。アンタがどんだけ腹を減らしていようがねぇ……こっちは食われるつもりなんて、さらさら無いんだっつーの!」
自分が囮となる。そう口にしたように、ダリルが逃げ出すことはなかった。
迫る魔導士を正面から迎え撃ち、ダリルが足を踏み鳴らした次の瞬間。クラリスの目の前で、淡い光の粒が収束していく。あれは先日見たものと同じ――たしか、ダリルが武器を生成する際に発生する光だったはずだ。
そんな光の集まった先に現れたものは、黒光りする大きな筒。一般人にとっては見慣れないものであるが、その特徴的な見た目はクラリスも映画の中で見たことがある。――大砲だ。
「――わぁっ!?」
『あう!』
クラリスとハロルドから悲鳴が上がったのは、ほとんど同時のタイミングだった。たった今生まれたばかりの大砲が、間髪入れずに轟音響く砲撃を行ったのだ。
いくらクラリスが常日頃から爆発音に慣れているとはいえ、至近距離で起きた発砲に驚かないはずはない。とっさに耳を塞いだからいいものの、それでも彼女の心臓はバクバクと速い鼓動を刻み続けていた。
――ダリルさんが作る武器って、剣とかナイフみたいな刃物だけじゃなかったの!? すごい煙……砲弾はあのハロルドって魔導士に当たったみたい。でも……まだ、倒しきれてない!
そう。放たれた砲弾は、今にもダリルに食らいつこうとしていたハロルドの顔面へと確かに直撃した。だが、ただそれだけ。それだけなのだ。
黒煙の中で揺らめく影が頭を振り、傷一つ無いハロルドが姿を現す。その身体がヌメリを帯びた固い鱗に覆われていることにダリルが気がついたのは、ドームの割れた天井から射し込む光が魔導士を照らしてからのことだった。
『いたたぁ……あたまがぐらぐらして、けむりくさぁい……。おおきいおとはきらいだぁ……』
「チッ。やっぱり一筋縄にはいかないか。怪我をしてる以上、あまり接近戦には持ち込みたくないところなんですけど……!」
そう言っているそばから、煙を振り払ったハロルドの巨体が再びダリルへと襲いかかった。突進を剣で受け止めた彼は、右腕に走る鈍い痛みに顔を歪めながらも気合いで前へと押し返す。すかさず空中に現れたナイフの雨がハロルドの頭に降り注げば、人とも魔獣とも区別のつかない悲鳴がショッピングモール内に響き渡った。
「ッ……クラリスさん! 今ので分かってもらえたかと思いますけど、ハロルドの狙いは僕達魔法使いです。巻き込まれないうちに、アンタはここを離れてエルマーに連絡を取ってきてください! さすがに連絡先くらいは聞いてますよね!?」
「は、はい! でも……ダリルさんは! エルマーさんが来るまで、まさか一人であんな魔導士を相手にするっていうんですか!? 逃げるならアナタも一緒に――」
「できるわけないでしょ! 僕が逃げればハロルドが追ってくる。自分可愛さにそんなことして、一般人巻き込んで死なせるわけにはいかないんですよ! アンタだって同じです。エルマーにアンタのことを任されている以上、僕には守る責任ってもんがあるんですから……。今更言うことが聞けないだなんて、そんな馬鹿なこと言わないでくださいよね!」
切羽詰まった表情で怒鳴るダリルの額には、汗が浮かんでいた。よく見れば、昨日怪我をした右腕にも血が滲んでいる。先程ハロルドの突進を受け止めた際、ヴィクターと戦った時の傷口が開いてしまったのだ。
もちろんそんな怪我を負った彼の姿を見て、クラリスが黙っていられるはずがない。なおさらダリルさんを一人で放っておくなんて――そう彼女が口を開きかけた、その時だった。
「クラリスさん、アンタ……ヴィクターと再会する前に、ここで僕と一緒に死ぬ気なんですか!」
「っ、それは……」
まるでクラリスの心を見透かしたかのように、ダリルの言葉は彼女が今一番突かれて痛い部分に向けて突き刺さった。
そして、気づかされる。ヴィクターがいつもクラリスの正義感を手放しに賞賛し、戦場にいることを許してくれるのは他でもない。誰が相手であっても、彼女を守れるという自信があるからだ。その上でクラリスを信頼しているからこそ――魔法も使えない彼女に、いつだって大事な局面を任せてくれようとするのだ。
――そっか。いつもはヴィクターの厚意に甘えてばかりだったけれど……人を守りながら戦うことって、すごく難しいことなんだ。私がここに残ることで、かえってダリルさんを危険にしてしまうかもしれない。……それだけは駄目だ。これ以上……私のことで、ダリルさんには迷惑をかけられない。
足元に倒れた紙袋からは買ったばかりの衣服がはみ出しているが、今はこんなものを持って逃げ出す余裕は無い。わずかに未練の残るそれらに心の中で別れを告げ、クラリスは両手でしっかりとステッキを抱え直した。
「……ダリルさん、分かりました。私がエルマーさんを呼んでくるまでの間、魔導士のことはお願いします。でも、本当に危ないと思ったら逃げるってことだけは約束してください!」
「ははっ……そりゃあもちろん。僕だって、死に急ぐためにこんな仕事してるわけじゃないんですから。援軍さえ来りゃあ、あとはさっさと尻尾を巻いて逃げ出しますよ」
そう皮肉げに笑うダリルの背中を見て、クラリスが大きく頷く。間もなく彼女は無人となったショッピングモールに向けて全速力で駆け出した。
いくらハロルドがただの人間に興味を示さないとはいえ、警戒を解くわけにはいかない。半径五十メートルにも及ぶダリルの武器の生成範囲内――または索敵可能な範囲からクラリスの気配が消えるまでの間、握られた剣の切っ先は魔導士の喉元へと真っ直ぐに突きつけられていた。
「さて……ああは言ったものの、どうするべきですかねぇ。ハロルド・フィルボッツ……魔法使いを食らうことで魔力を吸収する魔導士、か。どんな奴かは話に聞いてましたけど、たしかにほとんど魔獣みたいなもんじゃないですか」
『……』
ズキズキと痛む右腕。ダリルの額に浮かんだ汗が、雫となり顎先へと伝っていく。
しかしそうして全神経を尖らせるダリルとは対照的に、ハロルドの砂金のように小さな瞳はクラリスが走っていった方角を静かに見つめていた。不審に思ったダリルが眉をひそめるのも当然のことである。
「ちょっと……魔法使いを腹いっぱい食べたいってんなら、アンタの相手はこっちですよ。よそ見するのはいいですけど、それならまた脳天にナイフをぶっ刺されたって文句は言えな――」
『なんか……あっちのほうが、おいしそう』
「は? あっ……ちょっと!?」
とっさにナイフを投げてももう遅い。水面に投じた小石のごとくハロルドが影へと沈み、地鳴りがショッピングモール全体を大きく揺らす。もちろん揺れは走るクラリスの元までも届いており、意図せず彼女の足が止まった。
突然ぐらつく地面。地震か? それともダリルの方で何かあったのだろうか。付近をキョロキョロと見回し、クラリスが後方を振り返ろうとした、まさにその時――
――違う……この揺れ、だんだん私の方に近づいてきてる! だめ……立っていられない!
瞬間、一際大きな揺れが足元を突き上げ、バランスを崩したクラリスが弾き飛ばされる。勢いよく壁に背中を打ち付けた彼女は、漏れかけた悲鳴をグッと飲み込み、自分が今までいた場所に目を向けた。すると――パチリ。なんということだろうか。その小さな六つの瞳と目が合った。
『あまぁいあまぁい、ちょこれぇとけぇき。……いただきまぁす』
影の中から響く子供の声。とぷん、と水面が揺らいだかと思えば、次の瞬間――飛び出したハロルドの三つに分かれた首が、追い詰められた獲物へ向けて襲いかかった。




