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災禍の魔法使いは恋慕の情には慣れていない  作者: 桜庭 暖
第1部 最終章『その名を呼んで。親愛なるファムファタル』
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第119話 《追憶》ヴィクター・ヴァルプルギスの初恋

 今頃魔獣の胃の中へと収まっていたはずのクラリスを救ったのは、ここにいるはずのないヴィクターであった。

 彼の左手には、クラリスが見たことのない黄金色のステッキが握られている。先端に取り付けられた拳大もある宝石からは煙が上がっていて、その内部では天から降ってきたのと同じ(魔力)が揺らいでいた。


 ――まさか、さっきの光はヴィクターさんが……?


 それを見た彼女は、ようやくこの男が魔法使いと呼ばれる人間だったのだということを思い出した。

 もちろんヴィクターが魔法を使うところを見るのは、これが初めてではない。しかしそれは日常生活で使う便利道具程度のもので、魔獣と戦うような……それこそ、一方的にあの恐ろしい魔獣を()()()()()()()()()ほどに(なさ)け容赦のない彼の姿など――クラリスは知らない。



「嗚呼……この再会をずっと待ち望んでいたんだ。世界で一番愛おしい、ワタシのクラリス……やっぱり本物は記憶の中より何十倍も何百倍も愛らしい。その驚いた顔だって、ああ、もう……本当にどんな表情だって、キミは世界中の誰よりも素敵だね」


「ヴィクター……さん? アナタ、本当にヴィクターさん……なんですか?」



 大仰に両腕を広げて、ヴィクターがクラリスの元へとやって来る。しかし感動の再会をよそに、クラリスの口から出たのはそんな質問だった。なにせ姿形は記憶の中のヴィクターそのものだったとしても、彼の口から飛び出たのはクラリスが聞いたこともない愛の言葉だ。共に過ごした一年間、彼からあんな砂糖を煮詰めた鍋を引っくり返したようなセリフを聞いた試しが無い。

 すると……クラリスの言葉のどこに引っかかったのだろうか。ヴィクターは彼女の前で立ち止まると、怪訝(けげん)そうな表情で首を傾げた。



「こんなにハンサムな男がワタシ以外にいると思うかね? そんなことより……ヴィクター()()だなんて、他人行儀な呼び方はよしてくれたまえ。これからは気軽にヴィクターと呼んでほしい。もちろん敬語も不要だ。ワタシとキミの仲なら、それくらい距離を縮めたってなんらおかしくはないのだろう?」


「私達の仲? いったいなんの話を……」



 その時である。ヴィクターの後方――どこからともなく短い咆哮が聞こえたかと思えば、二十メートル以上は離れた瓦礫(がれき)の山の向こう。土煙を上げて、あのワニ顔の魔獣が飛び出してきた。近くに群れの一体が潜んでいたのだ。



「ヴィクターさん、後ろ!」



 いち早く気がついたクラリスが危険を知らせるものの、今の今で早速さん付けで名前を呼ばれたヴィクターは不満げに口を尖らせるだけだ。渋々後ろを振り向いた彼は、手元でひと回転させたステッキを魔獣へと向ける。

 この時、クラリスからは見えていないヴィクターの紅梅色(こうばいいろ)の瞳の奥。生まれたばかりの純新無垢な感情を制御しきれないその瞳が、杖先の苺水晶(ストロベリークォーツ)と同じ熱い(狂気)を孕んでいるということを――ヴィクター本人を含めて、まだ気がつける者は誰一人としてこの場にはいなかった。



「ワタシ達は感動の再会の真っ最中なんだ。畜生ごときが――水を差すなよ」



 刹那、宝飾を起点として放たれた眩い光線が、一直線に魔獣の身体を貫いた。ヴィクターが石突きを強く打ち付ければ、たちまち魔獣の身体が内側から弾けて赤と黄色、二色の紙吹雪が血に代わって空へと舞い上がる。

 こんなものを目の前にしては、本当に夢でも見ているかのようだ。むしろ夢だったらどんなに良かっただろう。そうは思っても痛みを訴えるクラリスの右足首が、これが現実であることを証明してしまっている。



「話の途中で邪魔が入ったね。まぁ……慣れるまで時間がかかるだろうし、名前の方は落ち着いたらでいいよ。ところで、噂に聞いた通りこの町は魔獣のせいでずいぶんと荒れ果ててしまったようだが……キミの父上と母上は健在かね。よければ戻ってきたついでに挨拶をさせてもらいたいのだが」



 再びクラリスへと振り返ったヴィクターが放ったのは、そんな突拍子もない言葉だった。こんな時に挨拶だなんて。その態度にはクラリスも思わず口を開けてしまうほかない。

 ヴィクターは自分で言っておきながらなにを照れているのか、そわそわとしていて落ち着きがない。そんな場違いな彼の言動を受けて、ついに。度重なる混乱と恐怖心――そんな非日常に好き放題に嬲られ続けたクラリスの心へと、限界は訪れてしまった。



「挨拶って……そんなこと言ってる場合じゃないのが見て分からないんですか!? 助けてくれたのは本当に感謝してます。でもヴィクターさん、さっきから言ってることがおかしいですよ……。周りを見てください。人が……町の人達が何人も魔獣に殺されてるんです。怪我をしてる人だってたくさんいるし、魔法局の助けだっていつ来るかも分からない! また楽しくお喋りができる状況じゃないんです。それに住む家だって失った私達には、もうなにも残ってなんか――」


「ちょ、ちょっと待ちたまえクラリス! ……あー、その……今のはワタシが悪かった。キミとまた会えたことが嬉しすぎて先を()いでしまったようだ。常識が少し他人とズレていることは自分でも認識している。本当に……すまなかった」



 これまでなんとかせき止めていた涙が、言葉と共にクラリスの目からポロポロとこぼれ落ちる。それを見たヴィクターは、目に見えて慌てた様子で彼女の言葉を制止した。

 かなりマズイ。今ので一年間をかけて築き上げたクラリスからの()()()が、ガクッと下がったのが手に取るように分かる。せっかく再会できたというのに、こんなにも早く拒絶されるだなんて予想外だ。これは早々に手を打つ必要が……全力をもってご機嫌取りをする必要がある。



「あー、えっと……つまりはアレかね。死んだ人間と死んだ町。その両方が()()()になったとすれば、キミは喜んでくれると……またワタシの前で笑ってくれると。そう期待してしまっても……いいの、かな」


「……なに言ってるんですか? 元通りだなんて、そんなことできるわけが――」


()()()()。クラリスがそれを望むのなら、どれだけ困難だろうとワタシが絶対にその願いを叶える。もちろん見返りなんていらない。ただキミがワタシのそばにいてさえくれれば……また一緒に前みたいな暮らしができれば、それだけでかまわないんだ」



 そう言ってヴィクターが指を鳴らすと、どこからともなく犬の遠吠えがハイムに反響しはじめた。まさか新しい魔獣が現れたのか? そう警戒心を上げたクラリスの足首を、柔らかな毛皮がくすぐったのはその時である。



『きゃんっ!』


「え……アナタ、たしかヴィクターさんが倒れてた場所まで私を案内してくれた……あの時のわんちゃん?」



 クラリスの足元に座っていたのは、一見すると茶色い毛玉のような子犬だった。彼女はその姿に見覚えがある。あれは……そう。初めてクラリスがヴィクターを見つけたあの草むらの中。そこまで案内してくれたのがこの子犬だったのだ。

 そんなクラリスの反応を見て、驚いた様子で眉を上げたのはヴィクターである。なにせ彼の召喚する使い魔達は、透過の魔法が掛けられていて常人には見えるはずがない透明犬。それでも目視ができているということは――


 ――どうやらペロに気に入られたみたいだね。他の子達もクラリスのことは好意的に見ているみたいだし……まぁ、姿を見せるかどうかの判断は彼らに一任していることだ。ワタシが彼女に心を許したのを感じ取って出てきたのだろうね。


 クラリスに使い魔達が見えているのなら、むしろ都合がいい。ヴィクターは彼女の足元で行儀よく座っているペロに目配せをすると、もう一度指を弾いて散らばっていた使い魔達に集まるよう指示を出した。その中の一匹が、不意にクラリスの足を掬い上げたのはすぐのことである。



「わっ! ちょちょちょ……なんなんですかこの子達!? 私をどこに連れて……!」


「心配しなくていい。ワタシが仕事をしている間、キミの警護をしてもらうために呼んだだけさ。他の人間達のところにも向かわせているから、今から被害が増えることは無いはずだ。だからキミは安心して眠っていたまえ。朝になれば全てが元通りになっているはずだよ」



 ヴィクターがステッキの石突きを打ち付けると、周りのコヨーテ達が応じて走る体勢を整える。毛皮の絨毯はとても座り心地が良いとはいえない。それでも足元から感じる鼓動と温もりは、崩れかけていたクラリスの心にささやかな安心感を与えてくれた。

 彼の言葉通りであれば、この忠犬達はクラリスを安全な場所まで運んでくれようとしているのだろう。きっと次の号令で彼らは走り出すはず。だから――そうなる前に、最後にひとつだけ。この別れの前に、クラリスはどうしてもヴィクターに確認しなければならないことがあった。



「……ヴィクターさんが本当にハイムを救おうとしてくれているっていうのは分かりました。でも、どうしてアナタは自分の身を危険にさらしてまで私を……私達を助けてくれようとするんですか? たった一年しか関わりの無かった私達に、どうしてここまで……!」



 そう。クラリスには分からないことが二つあった。一つ目は先程から発せられている意味不明なヴィクターの言動。彼と別れた二週間前……その時までの彼はクラリスの知る普通のヴィクターだったはずだ。口から砂糖の塊を吐き出したみたいに、あんな甘い言葉を吐く人間ではなかった。

 そして二つ目はヴィクターの目的だ。見返りはいらないと彼は言ったが、その言葉をクラリスはまだ信じきることができないでいた。いくら魔法使いだからって、死んでしまった人間を生き返らせるような奇跡を起こすことが不可能に近いことくらい彼女でも分かる。仮に可能だったとしても、それを見返りもなしに行うだなんて――そんな上手い話があるはずない。


 未だ疑心を拭いきれないクラリスの心の内が、誰にも聞こえるはずもない。

 しばしの間、ヴィクターは赤く燃え上がった空を見上げて沈黙を保っていた。それはたったの数秒……いや、もしかしたら数分だったのかもしれない。それだけの時間をかけて、やがて気持ちの整理がついたのだろう。まるでその思い出を懐かしむように、彼はそっと目を細めた。



「たった一年……そうだね。ワタシの長い人生の中では本当に短い……終わるのが惜しいと思う暇すら無いほどに一瞬で過ぎてしまった一年だった。それなのにハイムを出た後は心にぽっかり穴が空いたみたいで、キミのことばかりを考えてしまってね。そんな感情を抱いた理由がずっと分からなかったのだけれど……今日ある人に言われたのだよ。もしかしたらワタシのこの感情は、キミに惚れてしまったから生まれたものなんじゃないかって」



 そう口にしたヴィクターは、視線を下ろして愛犬達の上でへたりこむクラリスへと目を向ける。そして――これから先に続く長い付き合いの中で、クラリスが彼のこんな表情を目にしたのはこれきり。幼い少年のように()()()()()彼の姿を見たのは、これが最初で最後であった。



「ねぇクラリス。どうやらワタシはキミに……たった一年を共に過ごしただけのキミに、六百年分の恋をしてしまったらしい。こんな感情は初めてで、なにをすればいいのか皆目見当もつかないのだけれど……。でも、キミの悲しみを和らげるのにワタシの魔法が少しでも役立つのだとしたら、どんな不可能だって可能に変えてみせるよ。だから……ワタシを信じて少しだけ待っていてくれないかね。絶対に、何度でも。こうしてキミの元まで帰ってくるから」


「ッ! 待って、ヴィクターさ――」



 瞬間、ヴィクターが杖先を地面に打ち付けた。その合図と共に彼の使い魔達が隊列を揃えて走り出し、勢いで毛皮の絨毯の上をクラリスとペロが転がる。その最中で上がった彼女の呼び声も燃え盛る炎の中に溶けていき、数秒もしないうちに辺りにはヴィクターと――瓦礫(がれき)の山の上でただ静かにその時を待っていた、一羽のカラスのみが残されていた。



「……さて。あんな小物相手とは癪だが、少しばかり本気を出すとしようか。フィリップ、援護と移動はキミに任せたよ。今からこのハイム一帯の時間を巻き戻す。魔獣も人間もだ。あの群れがここを攻めてくる前まで戻せば、事が起きる前に叩くことができるからね。まだ病み上がりで朝まで体力が持つ自信も無いが……まぁ、それもこれも元を辿ればキミの責任なんだ。最後まで付き合ってもらうよ」



 そうヴィクターが言うと、カラスはぴょこぴょこと頼りのない足取りで彼の元までやって来て――空に黒い羽根が舞い上がる。その羽根が地上に落ちた時、そこにいたのはカラスではなく、人の姿へと形を変えたフィリップだった。



「なぁヴィクター……手伝うのはかまわないが、本気で人間まで直す気なのか? 無機物とは違って、生き物の時間を弄るのは簡単じゃないって……ヴァルプルギスの夜を経験したオマエなら分かってんだろ。そうやって体を酷使することはオマエの命にも関わるかもしれない。だったら食われた人間のことは諦めて、先に魔獣を一掃してから町だけ直した方がいいんじゃ――」


「もちろん。ここにいるのが誰とも知らぬ有象無象なんかであれば、きっとワタシはそうしていただろうね。だが……ここで被害に遭ったのはクラリスもよく知る人間達だ。襲われた中には彼女の友人もいたかもしれない。……フィリップ。大切な人間と死別することの辛さは、ワタシの家の事故のことを知っているキミなら分かるだろう。クラリスにはあんな辛い思いはしてほしくないのだよ」



 ヴィクターがステッキの石突きを地面に打ち付けると、町の上空に蜃気楼のごとく巨大な円盤が浮かび上がった。――時計だ。チクタクと、規則正しく針が動く音が懐かしい。本来、呼び出す文字盤は多ければ多いほど時間に干渉する効率はよくなるはずなのだが――どうやら今の魔力量では、ひとつ動かすだけで精一杯のようだ。

 周辺からは魔獣の唸り声がひとつ、またひとつと響きはじめている。なにせヴィクターがここに来るまでの間、彼は張り切って全身に香水を振りまいてきているのだ。悠長に話している間に、魔獣がこの匂いを嗅ぎつけてきたのだろう。



「……そうだ。フィリップ、もう一つだけ頼まれてほしいのだが……全部が終わった後、ワタシが動けなくなったあかつきにはクラリスの家の前まで運んではくれないかね。キミのことだから、場所くらいは知ってるだろう」


「あ? 別にそれくらいいいけどよ……なんで? どうせなら病院の前にでも運んどいた方が手間も省けるだろ」



 そうフィリップが尋ねると、ヴィクターはゆっくりと彼を見下ろし――鼻で笑った。その顔はまるで、覚えたばかりの恋心を棚に上げて『コイツ分かっていないな』と憐れむかのようでもあった。



「なんでだなんて……そんなの理由はひとつに決まってるだろう? また彼女に一番最初に見つけてもらうためさ。その方が――なんだかロマンチックだからね」



 それまで四百年間止まり続けていた男の時間が、この夜ついに目を覚ました。この輝くべき日に、せっかくのオーディエンスがあんな畜生風情と旧い友人だけというのは気に入らないが……しかしそれもまた一興。

 魔獣の荒い鼻息が聞こえてくる。唸り声が大きくなる。そんな戦場の中心で薔薇色に咲きはじめた時計の針は、ひとつ――過去(未来)に向けて再び時を刻み出したのだった。

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