第118話 《追憶》『一番星』
《同時刻――ハイム》
どうして、こんなことになったのか。町が燃えている。いや、燃えているだけならまだいい。人が襲われている。齧られている。食べられている――殺されている。あちこちから聞こえる断末魔に歯を食いしばり、彼女はただひたすらに足を動かす。
どうして。嗚呼、どうして。私達がなにをしたというのか。そう叫びたくても熱と煙で今にも焼けてしまいそうな喉から絞り出す声は、自分達を噛み殺すために牙を研いでいるソレらに気づかれないよう、ボリュームを最小限に絞らなければならない。
「――お父さん、もう少しだよ! もう少しで病院に着く! あそこなら建物も頑丈だし、家にいるよりも安全だから。お母さんも待ってるからね!」
「ああ。……クラリス、すまない。俺が足を怪我をしたばかりに、お前をこんな危険な目に遭わせてしまうだなんて……」
「なに言ってるの。家族なんだから当たり前でしょ! 助けが来るまで絶対に生き延びないと。でも、魔獣なんかが突然どうして……!」
どうやら仕事の最中に、逃げる間も無く魔獣の襲撃に遭ってしまったらしい。手負いとなった父に肩を貸しながら、クラリスは変わり果ててしまった瓦礫の町を進んでいく。臨時で開放された避難所のひとつである、ハイムで一番大きな建物――大病院を彼女達は目指していた。
母から父が仕事中に襲われたと連絡があったのはわずか二十分程前。間もなく町中に響いたサイレンの音にクラリスが家を飛び出した頃には、山に近い地域は既に火の海となっていた。
――襲われた人が何人もいる。お母さんの話だと誰かが魔法局に連絡してくれてるみたいだけれど……でも、到着なんていつになるか分からない。今はとにかく、お父さんを連れて頑丈な建物に避難しないと!
幸運にも、病院に到着するまでクラリス達が魔獣と出くわすことはなかった。再会した母や友人達は彼女達の無事を喜んでくれたが、その安心感も一時的なものだ。あとは魔法局が来るまでの間、ひたすらにこの恐怖を耐え忍ばねばならない。
こんな叩けば割れてしまうような、人間にとっては頑丈な建物の中で。迫る死の影に怯えながら。延々と。
「――ん、――さん」
「……子供の、声……?」
クラリスの耳にその声が聞こえてきたのは、ちょうど彼女達が病院へと入るタイミング。父を友人達に任せて、自分も避難しようとした直後のことだった。
「――さん、お母さん! お願い立って! みんなあっちで待ってるよ!」
その声の出どころ。振り返ったクラリスの目に飛び込んできたのは、うつ伏せになったまま動かぬ女性――そして、その隣で泣き叫ぶ幼い少年の姿だった。
母親の方は魔獣に襲われたのか、足を怪我している。きっと子供のために必死に逃げてきたところを、体力が尽きて倒れてしまったのだろう。
――大変……あんなところにいたら、お母さんと一緒にもあの子も襲われちゃう……!
こんな状況なのだ。このクラリスの最悪の予想が外れるという可能性は、おそらくゼロに等しい。
心臓まで凍りついてしまいそうなほどの恐怖心。もしかすれば踵を返したその瞬間に、魔獣が現れるかもしれない。食べられてしまうかもしれない。そんな嫌な想像が駆け巡る中でもクラリスの足は、病院とは反対側――その親子の元へと無意識に走り出していた。
「待て、どこに行くんだクラリス! そっちは――」
「すぐに戻るから、お父さんは先に中に入ってて! あそこに怪我をしてる人がいるの!」
父の制止を振り切って、クラリスは一目散に親子の元へ駆けていく。距離はそう離れていない。たどり着いてすぐ、クラリスは母親の横にしゃがみ込み、泣きじゃくる少年の頭を優しく撫でた。
「ぼく、大丈夫? お母さんはお姉さんが背負っていくから安心して。病院に行けばお医者さんもいるから、きっとすぐに元気になるよ」
「うぅ……ひぐっ。うん……ありがとう、おねえちゃん……」
少年が頷いたのを見て、クラリスは視線を母親の方へと向けた。どうやら怪我をしているのは足だけではなかったようだ。脇腹からも出血していて、意識が朦朧としている。背負うと口にはしたものの、本当に一人でこんな状態の人間を起こすことなどできるだろうか。
それから試行錯誤の末、クラリスは母親の腕を自身の肩へと回すことに成功した。完璧に背負うのは難しいかもしれないが、病院まで運ぶだけならばこれでも十分。ようやく皆の元へ向かうことができそうだ。……そう。できそうだったのだが――
『――Grrrrrrr……』
ピタリ。動きと共にクラリスの呼吸が一瞬止まった。無情にも、その唸り声は彼女の頭上から聞こえてきたのだ。
いくら怪我をした人間だって、あんな獣そのもののような声で唸ることはない。ならばその声の主は……人ではないその生物は、いったいどのような姿をしているのか。答えは簡単――ほとんどワニだ。
――そ、そんな……
これを絶望と呼ばずになんと形容するのか。
クラリスの後ろにある民家の屋根の上から、固い鱗に覆われた長い顎が飛び出している。それがなぜ顎だと分かったのかといえば、その口の端から一本。おかしな方向へと人間の足が飛び出ていたからだ。まるでタバコでも吸っているかのように、二メートル近い長さの顎から飛び出た足はもう動かない。――その隠された口内に、持ち主の体が残っているのかも分からない。
「ッ、うっ……!」
その光景を前に、クラリスは胃の奥から込み上げてきたものを気力だけでなんとか押し込めた。小さな子供の目の前で、今自分が取り乱すわけにはいかない。いかないのだが……果たして、あんなものを見せられて、これ以上自分を保っていることができるだろうか。
魔獣の存在には少年も気がついたのか、言葉を失って立ち尽くしている。このまま魔獣が過ぎ去るまで二人で息を殺して耐え切ることができれば、隙を見て病院まで駆け込むことができるはずだ。
そう、わずかな希望を抱いて再び屋根の上を見上げたクラリスの瞳は――魔獣の黄色く濁った瞳と目が合った。
『Grrr……rrrrraa……!』
「あ、あ……! に、にげないと……でも、このひとをおいて……わたし……!」
これ以上黙っていたところで、もう意味も無い。魔獣の一挙一動から目を逸らすことができないクラリスは、パニックで支配された脳から溢れる言葉をうわ言のようにそう呟く。
ここで立ち止まっていれば、あの大きな顎で体を真っ二つにされてしまうのは時間の問題だろう。だからといって逃げ出せば、あの魔獣は必ずクラリス達を追ってくる。仮に病院まで逃げることができたとしても、そこにいる人達を巻き込むことになるのは確実だ。いったい、どうすればいいのか。どうすることが、皆の……自分の命を少しでも長くこの世に留めておくことができるのか――
「う、うぅ……お姉ちゃん……!」
その時、恐怖に耐えかねた少年がクラリスへと抱きついてきた。しがみついて震える腕を見て、クラリスはハッとする。ここにいるのは自分だけではない。この少年と母親――二人の命を今、自分は担っているのだ。このまま迷っていれば、彼らごと魔獣に襲われてしまう。
――そんなことは……絶対にさせない。どうせ死ぬなら誰かを守ってから死んでやる。少しでも私にできることがあるのなら、この子達だけでも私が守らないと……!
クラリスは魔獣を刺激しないようにゆっくりと、肩に回していた母親の腕を下ろして地面に寝かせる。その様子を不思議そうに見つめる少年の両肩に、彼女は手を置いた。
「ぼく、いい? 私が今から魔獣をあっちに連れて行くから、私達が見えなくなったら急いで病院に大人の人を呼びに行って。きっと誰かがお母さんを助けに来てくれるはずだから」
「でも、お姉ちゃんは……?」
「私は魔獣がいなくなるまで隠れてるから大丈夫。絶対に戻ってくるよ。お姉さんの言うこと、聞けるかな?」
「うん……分かった! ぼく、やってみる!」
クラリスが頭を撫でると、少年は土だらけの袖で流れる涙を拭いた。強い子供だ。彼女の言いつけを、そして母を守るために覚悟を決めている。次に覚悟を決めるのは――クラリスの番だ。
『Grrrrrrra!』
「ッ! 降りてきた……!」
己の獰猛さを隠しもしない唸り声で、魔獣が地上へと飛び降りた。反動で足場にしていた家の屋根が崩れて、瓦礫が屋内に崩れ落ちる。家の中から悲鳴は聞こえない。それを幸いと思える余裕までもがいよいよ失われてしまったのだと、追い詰められたクラリスはこの時気がつくことができなかった。
そもそも少年には魔獣を連れて行くと伝えたものの、実際問題どのようにすれば魔獣の気を引くことができるのかまではクラリス自身も思いついていない。仮にひとつ、方法があるとすれば古典的なやり方……物を使って敵の注意を自分だけに向ける、という方法だろうか。
ジリジリと近寄ってくる魔獣に意識は向けたまま、クラリスは瞬時に自分の足元を確認して投げられそうなものを探す。――そんな彼女のかかとに、なにかがゴツリ。ぶつかった。
「これは、崩れた屋根の……? これなら……!」
クラリスが拾い上げたのは、自分の手のひらよりも少し大きな屋根の破片。ズシリとした重さのある、たった今崩れてきたばかりのレンガだった。
するとその時、痺れを切らした魔獣が一歩、また一歩と前に踏み出るペースを上げた。前足と後ろ足に力が入り、目の前にいる柔らかな三匹の獲物を喰らい尽くすための準備が整う。そして次の瞬間――
『――Gyan!』
魔獣がクラリス達に向けて飛び掛ろうとしたその刹那、一瞬早くクラリスが投げつけたレンガが魔獣の飛び出た鼻先を押し潰した。痛みに呻く魔獣の濁った瞳がクラリスを睨みつける。
『Aa……a……Grrrrrrrrrrrraaaa!』
空気を震わせるほどの咆哮を上げて、魔獣がクラリス目掛けて走り出した。
注意を引くという最初の目的は成功。怒りに我を忘れた魔獣は彼女のことしか見えていない。あとは――生き残るだけだ。
「ッ、お姉ちゃん!」
少年の声に返事をする間もなく、クラリスは病院がある方とは反対に向けて走り出した。後ろを振り返れば、魔獣は一目散に彼女を追ってきている。上手く行けば、これであの親子は助かるはずだ。
――絶対に戻るって言ったんだもの。最後まで諦めるもんか……!
息を吸う度に喉が痛む。膝が震えてしまって、まるで夢の中で走っているかのように足が前に進まない。それでも生きるため、クラリスは言うことを聞かない足を叱咤して瓦礫の山となったハイムを必死になって駆けていく。
しかし――彼女が選択を誤ってしまったのではないかと、そんな疑念に駆られたのはしばらく走り続けた後のことだった。町の至る所から聞こえる魔獣の咆哮に、絶え間ない唸り声。これは一体の声ではない。クラリスの後を追い続けるあの魔獣の他に、何体もの群れがこの近くをうろついているのだ。
――どうしよう、ずっと追いかけてくる! この辺り、鳴き声もすごい聞こえてくるし、どの家も崩れてて隠れられない。でも、そろそろ休まないと……足が……!
いくら死にたくないという強い思いがあったとしても、生物である以上疲れが溜まってくるのは当然のことだった。だんだんとクラリスの足が持ち上がらなくなっていき、一歩の歩幅が狭まっていく。そして――
「ッ!?」
ふとした拍子に、クラリスの足が瓦礫につまづいた。あえなく地面に全身を打ち付けて息が詰まる。……だが、ここで止まるわけにはいかない。こうしている間にも背後から死は迫ってきているのだ。早く前に進まないと――
「いっ……! うそ……足、捻って……!」
しかし立ち上がろうとした瞬間、ズキリと右足首に走ったのは激痛。転んだ際に彼女は足首を捻ってしまったのだ。
かろうじて立ち上がることはできたものの、それでもクラリスは再び走り出すことができなかった。一度自覚してしまった痛みはどんどん大きくなっている。きっと走ったとしても、これでは数歩進んだところでまた崩れ落ちてしまうだろう。
魔獣がそんな彼女の元へと追いつくのは、それから間もなくしてのことだった。
『Grrrrrr……』
「やだ……こ、来ないで! どうして私達がこんな目に遭わないといけないの……私達がなにをしたっていうの!」
クラリスに残された抵抗は、手と言葉を使って相手を制止することだけだ。しかしどれだけ手を振って帰るように示そうとも、同情を誘う言葉を吐こうとも。理性の欠けた魔獣には小指の先ほどだって伝わらない。
やがて唸り声をより濃くした魔獣が、後ろに長く伸びた尻尾を何度も地面に叩きつける。あれは、獲物を確実に仕留めるための予備動作。一際強く叩きつけたその反動で、魔獣はミサイルのように獲物に接近――対象を丸呑みにしてしまうのだ。
もちろんこの魔獣の生態に詳しくないクラリスが、そんな知識を知る由もない。――だから。どれだけ彼女が注意深く魔獣の行動を観察しようとも、頭をフル回転させて逃げるための策を考えようとも。冷静に回避するための方法など思いつくはずが無かった。
『Grrrrrrrrrr――Graaaaaaa!』
「ッ――!」
大きくしなりを上げて、地面に叩きつけられる魔獣の尻尾。その反動を使って、魔獣はバネ仕掛けのオモチャよろしくクラリスに向かって大跳躍する。
咆哮と同時に急激に迫り来る、黒光りする鼻先。長い口にびっしりと生え揃った牙。濃い血の臭い。悲鳴を上げる暇も走馬灯を見る暇だって無く、クラリスの全神経は目の前の魔獣に釘付けになっていた。
……そう。突如として現れた光の大波が、魔獣の全身を飲み込んでしまうその瞬間までは。
「――え?」
まるで大きな画用紙に描いた絵の上に、黄金色のラメを散りばめて塗り替えてしまったかのように。クラリスの視界一面を覆い尽くすのは熱く、それでいてあまりにも眩しい天から降り注ぐ光。
ラメのように見えていたのは、砂粒のように細かなガラス玉のようだ。そのひとつひとつに、事態を飲み込めずに唖然としているクラリスの顔が反射する。そして彼女が瞬きひとつをした、まさに次の瞬間。何千、何万ものガラス玉達が次々と砕けて――
満開の花畑の中心にいるかと錯覚してしまうほどの花火が、クラリスの前で次々に夜空へと打ち上がった。
「なにが、起きてるの……? これ、夢じゃ……ないんだよね……?」
思わず全てを忘れてしまうほどの光景に呆気にとられていたクラリスだったが……ふと。彼女は今の光がどこからやって来たのかを疑問に考える。ハイムに防衛装置が設置されているなんて話、聞いたこともない。そもそも、そんなものがあれば最初から使っていたはずだ。まさか天から神の鉄槌が落ちたとでもいうのだろうか。そんな馬鹿な。
右にも左にも答えは見つからず、思いつく限りの場所を見回した後。最後にクラリスは――後方を振り返った。
「――ヴィクターさん……?」
そこにいたのは、ここにいるはずのない人。彼が遠い地に向けて旅立ったのは二週間も前のことだ。ハイムのピンチを聞きつけたにしても、間に合うはずがない。しかし目の前にいるのは、どう見たって――嗚呼、神様。誰が呼んだのか、こんな崩壊した町には到底そぐわない美しい魔法使い。
その希望はクラリスの顔を見ると、彼女のよく知る顔で。しかし彼女がまったく知らない子供のように無垢な笑顔で、嬉々としてその名前を呼んだのだった。
「ただいま、クラリス! キミに――会いに来た!」




