第117話 《追憶》息ができないほど溺れて、初春を芽吹く
《半年後》
「ヴィクターさん……本当に行っちゃうんですね」
どこか寂しそうなクラリスの声に、ヴィクターの心臓がギュッと掴まれる。
魔法局から逃げ出して一年も経てば、一度は空っぽになった魔力もある程度戦えるくらいにまで回復することができた。それこそ一人で魔獣の群れに襲われたとしても、落ち着いて対処ができるくらいには。
ヴィクターがクラリスの元を離れる決断をして、その気持ちを伝えたのは一週間前。きっと彼女も、いつかはヴィクターが旅立つと分かっていたのだろう。互いに涙こそ見せなかったものの、つかの間の共同生活を送った相手と離れることは彼らの心を柔らかく苦しめることとなった。
「……ああ。クラリスくんには本当に感謝している。死の間際だったワタシを助けてくれただけでなく、長きにわたって面倒まで……本来ならなにかお返しをするべきなのだろうが……」
「気にしないでください。ヴィクターさんが元気になって、この一年近くを楽しく過ごさせてもらったことが、なによりのお返しですから。近くに来た時は絶対に会いに来てくださいね」
「もちろんだ。いつか必ず会いに来ると約束するよ。……それじゃあ、また。クラリスくん」
ハイムを――クラリスの元を離れ、それからのヴィクターは自分の足で旅に出た。
現代の知識はある程度学んだつもりだが、もちろん昔と変わらないものだってある。その中の一つが資金の調達方法だ。魔獣や強盗団といった、指名手配されている迷惑物を片付ければ謝礼がもらえる。それは人付き合いの苦手なヴィクターにとって、町で仕事を探すよりも手軽にこなせる楽な調達方法だった。
それからまた二週間も経てば、一人での生活にも少し慣れてきた。慣れてはきたのだが……そんなヴィクターの心にぽっかり空いた穴にはいつも、クラリスの姿があった。寂しいわけじゃない。でも、なぜだろうか。離れることを選んだのは自分だというのに――時折こうして思い出してしまうくらいに、彼女のことが恋しくてたまらなくなってしまうのだ。
――クラリスくんは、今なにをしているのだろうか……。あのスマホとかいうので電話ができると彼女は言っていたが……ワタシも使えるように頼んでおけばよかったな。使い魔に手紙を持たせてもいいかもしれないけれど、できることなら声も聞きたいし……いっそのこと、帰っちゃおうかな……
ある町で立ち寄った大衆酒場で、ヴィクターはそんなことを考えながらジョッキに注がれた酒を喉に流し込む。昔から酔いが回りやすい体質ゆえに酒は得意ではなかったが、こうして胸の辺りがモヤモヤする時は酒の力に頼って忘れるに限るのだ。
そうやってうとうとと店の隅で船を漕いでいたヴィクターの元へ喧騒が響いてきたのは、彼が入店してからゆうに三時間は経とうとした頃のことだった。
「おい、その話本当なのか……? ハイムって、ここからそう遠くない町だろ?」
聞き覚えのある町の名前を耳にして、ヴィクターの意識がゆっくりと浮上する。
「本当だよ! もう町全体が魔獣の襲撃に遭ってるらしい。今母ちゃんから連絡があって……逃げ損ねた人がまだたくさん町の中にいて、魔獣に食われた人もいるって!」
「食われた……? でもあの辺りって魔法局の管轄からも離れてる地域だろ? 助けなんて呼んでも数日は来ないんじゃ――」
焦りを含んだ男達の声。しかし酔いがすっかり覚めてしまったヴィクターの耳には、それ以上の話が入ってくることはなかった。なにせハイムはつい二週間前までヴィクターがいた町――クラリスがいる、あの町のことだ。そこに人を食らう魔獣が現れたと、彼らはそう言っているのだ。
――まさか、クラリスくんも襲われて……!
ヴィクターが勢いよく立ち上がった拍子に椅子がひっくり返る。酒場中から視線が集まる中、彼は魔法で呼び出した財布をテーブルに叩きつけると、他の客を無理やりかき分けて一目散に店を出ていこうとした。
「お、お客さん! お釣り!」
「いらない! そんなはした金、好きにしたまえ!」
そう言い捨てて酒場を飛び出したヴィクターは、すぐになにかを探すように周囲を見渡す。
いくら近隣の町とはいえ、ここからハイムまで向かうにはどれだけ急いでも数日はかかる。きっとそれでは間に合わない。ならば彼に残された手段はあとひとつ……そう。魔法局から逃げ出した時と同じように、魔法で空間を超えることだけだった。しかしヴィクターがその魔法を使うことの危険さは、あの時の一件で彼もよく理解している。ならば――
「――フィリップ! キミがずっとワタシのことを見ているのは知っているのだよ! 隠れていないで姿を見せたらどうなのかね!」
人目も気にせずヴィクターがそう怒鳴り声をあげて、すぐ。酒場の屋根にたむろしていた一羽のカラスが彼の目の前まで降りてきた。
カラスはくるくると鳴き声を上げたかと思えば、少しの沈黙。そして――黒色の羽根を巻き上げる突風に包まれた次の瞬間、その姿はヴィクターのよく知る男――フィリップ・ファウストゥス。その人へと変化していた。
「……よぉ、ヴィクター。久しぶりだな」
「挨拶なんていいよ。ワタシは急いでるんだ。キミの魔法なら、ハイムまで正確にワタシを飛ばすことができるだろう。どうやら恩人が魔獣に襲われているみたいでね……一分一秒を要するのだよ。だからさっさと移動の手伝いをして――おい、フィリップ。目を合わせろ。人の話を聞く時は相手の顔を見ろと教えたのはキミだろう」
焦りばかりが募る中、苛立った様子でヴィクターがフィリップを睨みつける。上から感じる圧力に耐えきれずフィリップが顔を上げると、目が合ったヴィクターはさらに機嫌を損ねたのか、綺麗な顔には似合わない特大の舌打ちを響かせた。
「まさかキミ……ワタシに申し訳ないと思ってるのかね? ――ハッ。今更? あの時……エルマーとオズワルドに捕まりかけたキミが、自分勝手に位置を入れ替える愚行に出たせいでワタシが代わりに捕まることになったのだよ? 痛い思いだってしたし、魔力も奪われた。そのおかげで四百年もワタシは独りで閉じ込められることになって――」
そこまで言いかけたところで、ヴィクターは言葉を飲み込んだ。恨み言ならばいくらでも聞かせることができるが、今はそんな話をしている場合ではない。クラリスの身に危険が迫っているかもしれないのだ。
世界各地に目となるカラスを放っている情報通なフィリップのことだ。ヴィクターが急いでいる理由は大方察しているのだろう。彼は自然と重くなっていた口をようやく開いた。
「あれは事故だった。オレもあの時は必死になっていて、自分の身を守るだけで精一杯だったんだよ。巻き込んだヴィクターには本当に申し訳ないと思ってる。だから……オマエが協力しろって言うなら今回は手を貸すよ。でも、本気で行くつもりなのか?」
「どういう意味かね。力を奪われたワタシじゃあ魔獣すら殺せないと?」
「ちげーよ! ……オマエ、ハイムに行ってあの女を助けるつもりなんだろ。らしくないと思ったんだよ。昔のオマエならここまで一人の人間に入れ込むことなんて無かった。そりゃあ命の恩人なら助けたい気持ちも芽生えるかもしれないが……ましてや女だろ? ベタベタされるのが嫌いなオマエが、そこまでして動こうとするだなんて――」
きっとフィリップはヴィクターをからかうつもりでいたのか、はたまた冗談のひとつでも言って少しでも場の空気を和らげようとしたのだろう。
しかし彼は後にこう後悔することになる。……あの時、余計なことを言わなければヴィクターと共に世界を掌握することもできたのかもしれないと。いや、そもそももっと彼にマシな教育をしておけば、女の耐性をつけておけば……この後。あんなトンチンカンな言動をする人間にもならなかったのではないか……と。
「なぁヴィクター。オマエ……もしかして、あの女に惚れちまったのか?」
「……あ?」
惚れる。その言葉の意味がいまいちピンと来ていないのか、ヴィクターはそう発音したままフィリップの顔を凝視していた。惚れるとすなわちなにかに心を奪われるということだ。……では誰に? フィリップの口振りからして、クラリスのことを指しているに違いないだろう。
――ワタシが、クラリスくんに惚れている……? つまり、彼女のことを恋愛対象として好いている……ということ、なのか? 馬鹿な。この、ワタシが……?
思い返せば、初めてクラリスと出会った時のあの胸の高鳴り。彼女の手が触れた暖かい感覚。心が満たされるほどの心地の良い声に、透き通るように美しい大海原のような瞳。あの笑顔がまた見たいと……恋しいと、何度思ったことだろうか。
「おい。……おーい、大丈夫か。ヴィクター……?」
様子のおかしいヴィクターに気がついたのか、フィリップが不思議そうに顔を覗き込む。すると――真っ赤に茹だった顔を見られたヴィクターはその恥ずかしさからサッと片手で顔を隠し、潤んだ瞳で先程よりもずっと弱々しい眼光をフィリップへと向けた。
「この鳥頭……。余計なことに気づかせてくれたね……!」
ようやくヴィクターから絞り出された声は震えていて。親友の初めて見る表情に、思わずフィリップも目を丸くする。混乱を極めたヴィクターは空いた手でぐしゃりと自身の髪を鷲掴みにすると、煩悩を振り払うかのように頭を横に振った。
一度認識してしまったこの『好き』という感情は、抑えたくても抑えたくても、次々に胸から溢れ出してしまって止まらない。見えない感情、触れない記憶。息が詰まってしまうほどの『好き』に今すぐ溺れてしまいそうだ。なにせ――
「まさかこの歳にもになって、初めて恋心を抱くだなんて……。こんな人間らしい感情……頭の中が彼女だけで埋め尽くされるだなんて。――もう取り返しのつかないところまで、彼女のことしか考えられなくなっちゃったじゃないかっ!」
誰かを恋い慕うことなんて、ヴィクターには初めての経験だったのだから。




