第115話 《追憶》インプリンティング=クラリス・アークライト
《数ヶ月後――とある病室》
まぶたを閉じた暗闇の中をピコピコと。メトロノームのように、なにかが規則的に音を刻んでいる。それ以外に聞こえるのは、どこから漏れているのか生ぬるい隙間風の音だけ。
意識自体は浮上したものの、鉛のように重い体はそう簡単には言うことを聞いてはくれない。長い眠りから覚めたヴィクターがハッキリと覚醒するまでには、もうしばらくの時間が必要だった。
「――う、こ……こは……?」
ようやく開いたまぶたに差し込むのは、人工的な昼白色の光。
喉から絞り出した声は掠れていて聞けたものではなかったが、長い牢獄暮らしに発声の仕方まで忘れてしまったわけでないことにヴィクターは安堵の息を漏らす。ここまではどうやって来たものだったか。空間移動の壮絶な痛みを思い出すと、無事に四肢がくっついているのかすら心配になるほどだったが……どうやら体が欠けているということは無いようだ。
――たしか、魔法局の追っ手をまくために空間移動の魔法を使ったはず。その後は……ダメだ、記憶が曖昧でうまく思い出せない。もしかして、誰かに助けてもらった……のか……?
時間をかけてようやく上半身を起こした彼は、ひとまず状況を整理するべく周囲をぐるりと見渡した。
ヴィクターを取り囲むのは白い天井に、白い壁。それから微かにツンと香る薬品の匂い――ここはもしや、診療所なのだろうか。振り返れば機械仕掛けの箱がいくつも並んでいて、あのピコピコとやかましい音がここから鳴っていたのだということが分かる。
――これは……見たことのない技術で作られた物だ。たしかサントルヴィルにも、不可思議な看板が付いた建物がいくつもあったが……もしやワタシが魔法局に捕まった時から時代が進んでいるのか? 思ったよりも長い間、オズワルドの箱庭に閉じ込められていたのかもしれないな……
視線を動かせば、この機械仕掛けの箱の近くにはなにかの液体が入った容器が高く掲げられていた。パッと見は無色透明に見えるが、水だろうか。どうやら管を使ってどこかにこの液体を送っているらしい。
起きたばかりのまとまらない思考で、ヴィクターは無意識にその管の行先に目を滑らせていき――
「ッ!?」
彼の目はギョッと驚きに見開かれた。なにせ管の先に繋がっていたのは自分の右腕。それもよく見れば、あの液体を送るための細い針が丁寧に刺されていたのだ。
ヴィクターの全身にぞわりと鳥肌が立つ。無我夢中でその針を腕から引き抜けば、チクリと鋭くも鈍い痛みに顔が引きつった。注射の類は昔から得意ではないのだ。たとえそれが……自分のためを思って使われた物だったのだとしても。
病室のドアが不意に開かれたのは、そんなタイミングであった。
「……えっ? いつの間に起きて――って、ちょっとアナタ! なにしてるんですか!?」
入室早々ヴィクターにそう声をかけてきたのは、肩口まで金色の髪を切り揃えた若い女だった。
どうやら針を引き抜いた瞬間を見られてしまったらしい。女は飛びつくほどの勢いでヴィクターの元へ走ってくると、骨ばった彼の腕と管とを交互に見て呆れた様子で息を吐いた。
「もう。どうして勝手に抜いちゃうのかな……たしかに意識が朦朧としてると抜いちゃう人がいるみたいな話は聞いたことがあるけど……。ダメですよ? アナタがご飯を食べられない間、ずっとこうやって点滴してたんですから。ビックリしたのは分かりますけど、こんなことをしたらお医者さんに怒られちゃいますよ」
そう言って、女が顔を上げたまさにその瞬間――ヴィクターの喉がひゅっと声にならない音を上げた。
途端に激しく脈打つ心臓に驚いて、掴まれていない左手で思わず胸を押さえる。その間もヴィクターの目は、いつか見た真夏の大海原を思わせる彼女の瞳へと釘付けになっていた。
「――ッ、…………?」
「あの……どうかしましたか……?」
「……いや、な――もな……ッ!」
そこまで言いかけたところで、ヴィクターは背中を丸めて咳き込みはじめた。喉が引っ付くように呼吸を邪魔して、上手く喋ることができないのだ。
死に物狂いで逃げた先がこんな間抜けな姿では、自嘲だってしてしまう。しかしそんなヴィクターの心情を知るはずもない彼女は、彼が落ち着くまでの間、ただただ心配してずっと背中をさすってくれていた。
「……落ち着きましたか?」
そうして数分が経った頃。心配そうな声を受けて、ヴィクターが小刻みに頷く。すると彼女は安心した様子で背中をさすっていた手を離した。
「良かった……。お水、くらいなら飲めるかな……? お医者さんに起きたことを伝えてくるついでに、お水買ってきますね。少しだけ待っててください」
彼女はそれだけ言い残すと、足早に病室から出ていってしまった。その後ろ姿を黙って見つめていたヴィクターは、ぽやぽやと働かない頭と胸に残った不思議な感覚に首を傾げた。
――なんだか変な感じだな。彼女が触れた所から、暖かさが全身に広がってくる。この感覚、前にも……そうか。あの時、ワタシを助けてくれたのは彼女だったのか。
あの朦朧とする意識の中で感じた暖かさを思い出し、ヴィクターは再び胸元に手を寄せる。――心臓は、トクトクと緩やかな鼓動を刻んでいた。
それからというもの、ヴィクターはそわそわと落ち着かない様子で彼女の帰りを待ち続けていた。もしも本当に自分を助けてくれたのが彼女だったのならば、礼のひとつくらい言わなくてはならない。その一言目をなんと言うべきなのか、ずっと考えあぐねていたのだ。――戻ってきた彼女が、何人もの医者と看護師を引き連れて来たのを見るまでは。
その後病院嫌いな彼との間に一悶着はあったものの、実に半年近くを眠ったままだったヴィクターの検査は無事に終えることができた。
彼女が担当医師から聞いた話によると、この長期間にも及ぶ睡眠は魔法使いの本能によるもの。魔法使いが魔法を使うために必要な魔力――つまりエネルギーが低下してくると、人と同じように食事や睡眠によって回復しようとする傾向が現れるのだという。その量や期間が、普通の人間とは遥かに違うというのだ。
そして彼らが初めて会話をした日――最初の検査が終わった日の夜。すっかり疲弊した様子でベッドに転がるヴィクターの元へ、彼女は再びやって来た。
「こんばんは。ふふっ、すっかり拗ねちゃって……。病院、苦手なんですか?」
「……別に。痛いことをされるから良いイメージが無いだけだよ。見たまえこれ。キミが医者なんて呼ぶから、また点滴を腕に刺されることになった」
「それを苦手っていうんですよ。アナタがちゃんとご飯を食べられるようになるまでは我慢してくださいね」
彼女は点滴の針が刺されたヴィクターの右腕に目を向け、それからわずかな警戒心のこもった紅梅色の瞳に向けて笑いかけた。
ヴィクターはぷいと横を向いてしまったが、それでも半年の時を超えてようやく彼と話すことができた彼女は嬉しそうで。カーテンの隙間から除く三日月を見ては、少しだけ名残惜しそうにカバンを手に取った。
「――それじゃあ、暗くなってきたので私はそろそろ帰りますね。アナタも今日は疲れたでしょうし、早めに寝てくださいね」
「……ああ」
「その返事、本当に大丈夫ですか? ……あっ。そういえば、アナタのお名前ってまだ聞いてませんでしたよね。名前が分かるものはなにも持ってなさそうでしたし、ずっとアナタって呼ぶのもなんだか変ですから。これからはなんて呼べばいいですか?」
彼女の思わぬ問いかけに、ヴィクターはパチリと瞬きをして振り向き――ああ、やっぱりやめておけばよかった。自分を映すあのシアン色の瞳を見ていると、心臓が誤作動を起こすのだ。だから目を逸らしていたというのに。
「……ヴィクターだ。ファミリーネームの方は――すまないが思い出せない。だから、ただのヴィクターと呼んでもらってかまわないよ」
嘘だ。ヴァルプルギスという悪名がこの時代にどれほど広まっているのか分からない以上、ヴィクターは下手に自身の素性を明かすことはできなかった。もしも魔法局に通報なんてされたあかつきには、ここまで逃げてきた苦労が全てパァになってしまうかもしれないのだ。
すると彼女は驚いた様子で考え込んではいたものの、頷きをひとつ。すぐに微笑んで彼の言葉を受け入れた。
「……分かりました。私の名前はクラリス・アークライト。気軽にクラリスって呼んでください。それじゃあヴィクターさん、私はこれで……あれ?」
そこまで言いかけたところで、クラリスは椅子から立ち上がろうとしたのだが――不意に、服の裾が引っ張られる感覚に視線を落とした。ヴィクターが彼女の服を掴んでいたのだ。
ヴィクターは慌てて手を離したものの、彼自身、自分で自分が起こした無意識の行動が信じられないのだろう。彼は「すまない」と一言口にすると、動揺を隠すことすら忘れておそるおそる口を開いた。
「あ……えっと、クラリスくんは……明日もまた、会いに来てくれる……のかね」
「えっ? ……もちろん。明日も明後日も会いに来ますよ。ヴィクターさんは知らないと思いますけど……この半年間、時間が許す時はいつもお見舞いに来ていたんですよ? 自分が助けた人のことは責任もって見届けます。アナタがちゃんと退院して元気になるまで、そばにいますからね」
そんな会話を最後に、クラリスは病室を後にした。
しんと静まり返る室内。ヴィクターがもぞもぞと布団の中へと潜っていく。言いつけを守ってまぶたを閉じたものの……彼はなかなか寝付くことができなかった。まだ心臓が跳ねていて、顔が熱い。また明日も会いに来てくれると彼女が言った。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいと感じてしまうだなんて。
――ずっと独りで捕まっていたからか? それとも魔力が低下しているからか? 身体機能と一緒にワタシの頭もおかしくなってしまったんじゃ……じゃなきゃこんなにも変な胸のモヤモヤ、感じるはずもない。次に彼女に会った時……ワタシは冷静でいられるのか?
この世に生を受けて六百年。初めて感じる未知の感覚を前に、ヴィクターの自問自答は彼が眠りにつくまで延々と続いた。
体の不調ならば、医者に聞けば解決してくれるのだろうか。しかし尋ねることすらなんだか気恥ずかしくて、この不可思議な悩みはしばらくの間、彼の胸の中だけに秘められることとなる。
もしもヴィクターが誰かにこの相談をすることができていれば。きっと人はそれを、恋だと。クラリスに一目惚れしてしまった彼の新しい人生が始まったのだと言ったのだろう。
しかし彼がそのことに気づくのはもう少し先のこと。今はただ、四百年間心にぽっかりと空いたままだった穴を埋めるかのように、この思いを大事にしまい込むのだった。




