第113話 宿なし子犬は哀を語る
《同時刻――ラクス郊外・とある小屋》
静寂。それを破るかのような鍵の開く音。油の切れた蝶番がキィキィ軋む音を立てて、ドアが開かれる。
「……ヴィクター、帰ったぞ」
わずかに空いた隙間から足を滑り込ませ、肩でドアを押し開けたのはフィリップだった。彼は抱えていた紙袋をテーブルの上に置くと、ようやく電気のスイッチを押して室内に明かりを灯す。
この小屋は数あるフィリップの隠れ家のうちのひとつ。ラクスの中心から離れているわけではないが、森の中にあるため人目にはつきにくい。もちろん、魔法局ですら存在を知らない場所だ。
――あの状態でヴィクターを一人にするのは心配だったが、物が荒らされたりは……してないな。八つ当たりで噛み付いてくる気配も無いし、オレの秘蔵の酒瓶で勝手にヤケ酒している様子も無し。こりゃあ本気で落ち込んでんなぁ……
名前を呼んでも返事が無いのは想定の範囲内だ。気配は感じるから、買い物の間にどこかに行ってしまったというわけではないのだろう。
フィリップは買ってきた食材の一部を冷蔵庫へと詰め込むと、そのままの足で隣の部屋へと向かう。同じように電気をつければ……案の定、彼が探していたものはすぐに見つかった。
「おーい。そろそろ落ち着いたか? ずっとその中でめそめそしてるのは構わないけど、頼むから鼻水だけは付けないでくれよ。この家のベッドカバーはそれしか無いんだからさ」
そうフィリップが声をかけた先には、部屋の隅で大人しくしている使い古されたベッドと脱ぎ捨てられたコートが。そしてその上にまるまると乗ったベージュ色の毛布の固まりが、中にいる生物の呼吸に合わせてわずかに上下していた。
フィリップが近づいていくと、毛布の隣で静かに眠っていたもう一つのクリーム色の毛玉がピンと耳を立てる。犬だ。小さな犬はフィリップの記憶の中のように笑うことこそ無かったものの、尻尾をパタパタと振って主人の代わりに彼を出迎えた。
「よぉペロ。オマエのご主人様はずいぶん使い魔と見た目が近くなっちまったんだな。遠くから見たら毛玉が二つにしか見えなかったよ」
『くん……』
軽い冗談を話したとて、相手が使い魔では悲しげに鼻を鳴らされるだけである。
フィリップは一度大きく息を吐き出すと、あまり振動を起こさぬようにと配慮をしながらベッドの縁へと腰掛ける。久しく使っていなかったベッドはそれだけでも多少のホコリを舞い上げたが、毛布の中の人物がそれに文句を言うことはなかった。
「……なぁヴィクター。だから前に言ったよな。苦しい思いをしたくなかったら、早いところあの女とは関係を切って戻ってこいって。それでもオマエが健気に頑張る姿を見せるもんだから、心を入れ替えてオレも応援してやるつもりだったけど……はぁ。こんなことになるんだったら、やっぱり辛抱強く説得を続けるべきだったかな」
「……うるさいな……いつもいつも分かったような口ばかり聞いて……。キミだってロクな恋愛なんてしたことないくせに。豚王の城までクラリスを勝手に連れ去ったことだって、ワタシはまだ許してないんだからね……」
「そのクラリス・アークライトの前で、あれ以上オマエが失態を見せないように逃がしてやったのもオレだけどな」
「……」
別に説教がしたいわけでも、文句を言いたいわけでも、慰めたいわけでもない。ただフィリップは、自分の心で思ったことを素直にそう口にした。
するともぞもぞと毛布の固まりが動き、ぴょこんとひと房、紅い髪の束が姿を現した。少し袖で擦ってしまったのだろう。隙間から覗いた紅梅色の瞳は、普段見るよりも赤みがかって見えた。
「……キミがなんと言ったところで、最後はどうせこうなっていたさ。無事にサントルヴィルに着いたあかつきには、魔法局に乗り込んで奪われた魔力を回収しようと思っていたからね。遅かれ早かれクラリスには幻滅されていたに違いないよ」
「ははっ、マジで拗ねてんじゃん。なら都合のいい部分だけ記憶を消してやれば良いじゃねぇか。さっきだって、全部片付けたらそうするつもりだったんだろ?」
そうフィリップが尋ねると、ヴィクターは視線を白いシーツへと落とした。
彼が次に口を開くまでの数十秒の間、聞こえたのは規則的な時計の秒針が動く音とペロの息づかいだけ。眠ってしまったのではないかと勘違いしてしまいそうな生活音だけの空間で、フィリップはただヴィクターの次の言葉を待ち続けていた。
「……できなかった。することは簡単だけれど、彼女の記憶から少しでも自分のことが消えてしまうことを考えたら……やりたくないって、思っちゃったんだ」
「それは、オマエが隠し通したかった過去を知られたとしてもか?」
「……分からない。もしかしたらクラリスなら、全部受け入れてくれたかもしれない。彼女は話せば分かってくれるし、いつも歩み寄ろうとしてくれるから。さっきだってそうだった。でも……あの時は彼女の言葉が怖くて。もし拒絶されたら……昔のことを問い詰められたらどうしようって考えちゃって。聞きたくない言葉を聞く前に、とにかく逃げ出したかったんだ。ワタシは、彼女に怪我まで負わせてしまったというのに……」
ヴィクターはそう言葉尻を震わせて、またもぞもぞと毛布の中へと戻っていってしまった。あともう少し魔法を放つタイミングがズレていれば、あの光線はクラリスの体を貫いていたかもしれなかったのだ。そんなことを想像するだけで……震えが止まらなくなる。
鼻をすする音が聞こえると、ペロが心配そうに毛布の固まりへと擦り寄っていく。
これ以上、今のヴィクターに先程の出来事を掘り返させるのも酷な話だろう。フィリップはヴィクターの頭があるだろう位置を乱雑に撫でると、おもむろに立ち上がった。
「まぁいいさ。とにかく今は飯ができるまでそこで寝てろ。本気で使うつもりは無くても、久しぶりにあのデカ時計出して疲れてんだろ? 食欲のないパピーちゃんのためにも、久しぶりにお兄ちゃんが腕を奮ってクリームシチューでも作ってやるから。ちょっと良い肉も買ってきたし、付け合せのパンも焼きたてだぜ? ああ、だからなんだ……できたら起こしにくるよ」
「……ニンジンとブロッコリーはいらない」
「文句言うな。彩りってもんがあるんだよ」
訴えも虚しくフィリップがキッチンへと消えていく。
間もなく野菜を切るリズミカルな音が聞こえてくると、彼の言っていた疲れがヴィクターの体にじわりと広がっていき、泣き腫らしたまぶたがだんだんと重くなっていく。
世界中でただ一人、時を操ることができる魔法使いヴィクター・ヴァルプルギス。その魔法の対象は生物だけでなく、町や大陸でさえを消し去ることができるほどに強大。そんな彼の魔力が最盛期の頃に起こした『ヴァルプルギスの夜』という事件は、魔法使いが起こした事件ではなく自然災害のひとつだとして、今現在は語り継がれているという。
――こんな中途半端な魔法、使えたってなんの意味もない。本当になにもかもを巻き戻せるのだとしたら……もしも、クラリスと出会ったあの頃に戻ることができたのなら。全部を包み隠さずに話していたのなら。今はもう少し、変わっていたのかな……
本当に時間が操れるのならば、タイムスリップでもして過去の自分にでも代わってやりたい。もう一度旅に出て、また彼女の声を聞いて、笑って、時には赤くなって――ただ、隣を歩きたい。
まどろみに意識が落ちていく。夢が、ゆっくりと脳を支配していく。そんな中思い出されるのは、ヴィクターの長い人生ではつい最近の――しかし彼の中では遠い昔のように感じる懐かしい記憶。
そう、あれはたったの二年前。ヴィクターとクラリスが初めて出会った、ある昼下がりの記憶だった。




