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災禍の魔法使いは恋慕の情には慣れていない  作者: 桜庭 暖
第1部 最終章『その名を呼んで。親愛なるファムファタル』
110/150

第110話 残されたものは酷く冷たく無機質で

 止めることが、できなかった。

 今起きた全ての出来事が、まるで壮大な悪夢だったのではないか。ここはまだ夢の中で、次に起きた時にはいつもの日常が待っているのではないか。そんな根拠の無い希望的観測にすがるクラリスへ現実を突きつけたのは、彼女の左頬に走る鋭い痛みだった。


 ――ヴィクターが……いなくなっちゃった……


 彼がいなくなることなど、今まで一度たりとも考えたことがあっただろうか。どんな危険や困難を前にしても共にくぐり抜けてきた彼が――たとえ喧嘩したとしてもクラリスの元を離れまいとしていたヴィクターが。まさかこんなにも簡単にいなくなってしまうだなんて。

 しばらく放心状態だったクラリスの意識が戻ってきたのは、彼女の膝になにかがぶつかったのを感じてからのことだった。ハッとした様子で二度瞬きをした彼女は、ゆっくりと視線を下へ降ろす。



「……これ……」



 それはヴィクターが落としたまま放置されていた、彼がいつも肌身離さず持ち歩いているあのステッキだった。

 これが見た目よりも重たいものであることをクラリスは知っている。風に吹かれて転がるようなものではないはずだが、もしやひとりでに彼女の元へ転がってきたとでもいうのだろうか。長く使っていると物も持ち主に似るともいう。落ち込む彼女の元へ、こうして健気に擦り寄ってくる姿はまるで――



「――クラリスさん!」



 その時、顔を上げたクラリスの視界にダリルが駆け寄ってくるのが見えた。彼女がこうして呆けている間にも応急処置で止血をしたのだろう。傷を負った右腕は赤いシャツの上からでも分かるほどに色が変わってはいたが、そこから感じる痛みに彼が顔をしかめることはなかった。



「大丈夫ですか? アンタ、顔を切ったんですよね。少し見せてください」


「えっと……。はい。ダリルさんも腕を怪我をして……ごめんなさい」


「なんでアンタが謝るんですか。謝るならあんなに暴れたあの男か……いや、そもそもあんな状況に追い込んだエルマーも悪いですよ。巻き込まれた僕らが痛手を負うだなんて、なんだか理不尽だと思いません?」



 そう愚痴をこぼすダリルは、どうやら一度クラリスの顔色をうかがって意見を変えたらしい。口では軽く言ってはいるが、その目は真剣だ。自分の血がついた手で直接傷に触れぬよう気をつけつつ、彼女のまだ新しい傷口を念入りに観察している。

 ある程度傷のチェックを終えると、ダリルは安心したように息を吐いて立ち上がった。



「パックリいってるわけではなさそうですね。適切な処置をすれば問題無さそうですけど……女の子の顔に傷が残ったらいけませんから。僕らと一緒に病院で診てもらいましょ」


「で、でも私はヴィクターを……」



 探しに行かないといけない。そうクラリスが言いかけたところで、ダリルが振り返った。とぼとぼと重い足取りで、エルマーが戻ってきたのだ。

 ボロボロになって穴の開いた花柄シャツは、ヴィクターからの一撃をくらった際に胸ポケットが消し飛んでしまったらしい。戦いの最中でヒビの入ったサングラスが行き場を失い、彼の手元でブラブラと揺れている。



「えーん、痛いよダリルちゃーん! 心臓止まったかと思ったぁ! ボクじゃなかったら(ここ)にドデカい穴が開いてたよぉ……。寿命が百年くらい縮んだかもぉ……」


「半分はアンタが撒いた種のせいでしょ……。というかその泣き真似、気持ち悪いんでやめてください」



 労りも無しに心無い言葉を受けて、エルマーはさらにしょんぼりと肩を落とす。しかし彼は座り込んだままのクラリスを見下ろすと、わざとらしい悲哀の表情から一変――口元に薄らと笑みを作った。なにせそれまで、この世の終わりのような顔でダリルの話を聞いていた彼女が、明確な怒りの感情をもってエルマーを睨みつけているのだ。あの戦いを見た上で、まさかまだ魔法局(こちら)を敵視してくるだなんて。



「どうやらお互い……聞きたいことがあるみたいだね」


「……はい。ただ……先にこれだけは言わせてください。たとえアナタにどんな事情があったのだとしても、話し合いもせずに突然ヴィクターを襲ったことだけは私……絶対に許しませんから」


「許さない? ……ははっ! なるほど。どうやらボクはすっかり嫌われてしまったみたいだねぇ。あー……女の子に嫌われるのは普通に傷つくな。うん。……とりあえず、込み入った話は病院が終わってからにしようよ。程度はどうあれ、ボクらは全員怪我人なんだしさ」



 それ以上の不要な言い争いを避け、鼻歌混じりにエルマーは先に公園の外へと向かっていってしまった。彼の行く先には黒い車が停まっているのが見える。たしか以前にダリルが乗っていたのも同じ車種だったはずだが、魔法局の公用車なのだろうか。

 クラリスはまだヴィクターを探しに行くことを諦めきれないでいたが、彼らの言う通り一度病院で適切な処置をしてもらう必要性も少なからず感じてはいた。それもそうだろう。こんな傷を残したままでは、ヴィクターに再会した時にまた彼が気にしてしまうかもしれないのだ。元気になった姿を見せた方が、彼も喜ぶに違いない。



「クラリスさん……どうします? もしもアレ(エルマー)と一緒が嫌とかだったら、僕が歩いて案内しますけど……」


「大丈夫です。ダリルさんの怪我が一番心配ですから……少しでも早く着いた方がいいですもんね」


「ははっ、そう労わってもらえるとちょっとは救われます。そんじゃあ早いところ診てもらって、どこかで落ち着くとしましょ」



 その後の三人の診察結果としては、全員命に別状はなし。ダリルだけは数針縫うことになってしまったが、クラリスとエルマーは簡単な処置で済む程度であった。

 あれだけの戦闘の被害が()()()()で済んだのは、本当に奇跡だったのかもしれない。もしもエルマーが言っていたように、ヴィクターの魔法がラクスが消滅するまで時間を巻き戻していたとしたら。人々を巻き込んでまで全てを無かったことにしていたら。そう思うと……正直ゾッとする。


 ――ヴィクター……どこに行っちゃったんだろう。フィリップさんがいるから大丈夫だとは思うけど。今回のこと、あまり思い詰めてないといいな……


 そうはいっても無理な話ではあるのだろう。

 頬に手を添えれば、指先にガーゼが触れる。病院の待合室から、ホテルの宿泊部屋へ帰ってくるまで。その間もずっとクラリスはヴィクターのステッキを肩身離さず抱えたままだった。こうして汚れた服からパジャマに着替えた後も、なにをする気にもなれずに膝上の苺水晶(ストロベリークォーツ)をただ黙って磨いている。



「――クラリスさん、今大丈夫ですか」



 宿泊部屋のドアがノックされる。続けて様子をうかがうダリルの声が聞こえてきたのは、クラリスが宝飾を磨きはじめてから何十分かが経った頃だった。

 クラリスがドアを開けると、彼はステッキを手にしたままの彼女に驚いた様子だったものの……気持ちを汲み取ったのだろう。すぐに安心させるように微笑んで見せた。



「どうも。女の子の部屋に男が二人も押しかけてすみません。入ってもいいですか?」


「はい……奥に椅子が二つあるので、そこに。私はベッドに座りますから」



 ダリルからは微かにバニラのような甘い匂いがする。彼らも着替えてから来るという話だったが、きっとここに立ち寄る前に一服してきたのだろう。

 うながされるがままにダリルが入室すると、後ろからエルマーもするりと部屋へと入ってきた。彼はサングラス越しの笑顔で片手を上げて挨拶をするが、首や腕を飾るゴールドのアクセサリーに、派手な柄シャツを着た彼はどう見てもチンピラだ。とてもそんな笑顔を返す気分にはなれない。


 数分後。大人しく席についたエルマー達の前に、クラリスがコーヒーを淹れたカップを並べた。ヴィクターがわざわざ淹れてくれたものに比べれば味は劣るが、ホテルに備え付けされているものだ。不味いこともないだろう。

 クラリスがベッドの縁に腰掛けると、エルマーはゆっくりとコーヒーを味わい、ダリルは一度頭を下げてから落ち着かない様子でちびちびとカップの端に口をつけた。



「それで……エルマーさん、でしたっけ。アナタもダリルさんと同じで魔法局の人……なんですよね」


「うん。魔法局特例異変解決本部……なんて言いづらいから、局内じゃあ『異変解決屋』なんて呼ばれているけれど、そこの室長がボクだ。昔は()()()()だなんて肩書きの時期もあったけどねぇ……。今じゃ過去の栄光みたいなものだよ」



 エルマーはさらっと口にしたが、その言葉の偉大さは魔法使いの世界に詳しくないクラリスでも容易に想像ができた。

 魔法局とはすなわち、悪さをする魔獣や魔法使い――おそらくこの場合、魔導士も含まれるのだろう。そういった一般の公安組織では対処できないような事件を専門に取り扱っている機関だ。

 その性質上、本部はサントルヴィル(中央大都市)に位置しているが、世界各地にも拠点は存在している。それらを全て束ねていた人間ともなれば、あんなヴィクターの攻撃を至近距離で受けたにも関わらずピンピンしている姿にも納得がいく。



「それじゃあその魔法局長の時代に、エルマーさんはヴィクターと知り合いに?」


「知り合い……まぁ言い方によればそうだね。『禍犬(まがいぬ)』ヴィクター・ヴァルプルギス。そして『忌烏(いみがらす)』フィリップ・ファウストゥス……彼らの存在はいつだって、()()()の頭を悩ませてきた」



 そう言うとエルマーは目線をカーペットに落とした。

 いったい誰を思い浮かべているのだろうか。クラリスから見えるその横顔には、先程までの飄々(ひょうひょう)とした態度に代わって寂しさの片鱗が顔を覗かせている。



「とりあえず君の話を聞くより、先にボクから話した方が都合が良さそうだね。君達の様子を見るに、ヴィクターは自分の昔話をして来なかったみたいだし……コーヒーをご馳走してもらったお礼だ。知っていることは包み隠さず話させてもらうよ」



 エルマーがサングラスを外して胸ポケットへとしまう。

 これから彼の口から語られるのは、ヴィクターが今までクラリスに語ることはなかった彼の過去の話。生い立ち、魔法局との確執、『禍犬』という呼び名、魔導士との関係、そして――彼が起こしたという大量殺人事件『ヴァルプルギスの夜』。どれから手をつければいいのかも分からない情報量に整理をつけたエルマーは、カップに口をつけてひと息。ようやくクラリスへに視線を戻した。



「ボクとその相棒、オズワルド・スウィートマンが最初にヴィクターのことを知ったのはずっと昔……そう。六百年近くも昔の、まだ冬と呼ぶには暖かい晩秋のことだ」

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