第109話 拝啓、大好きな人。もう会うことは無いのでしょう
日頃、どれだけヴィクターが加減をしていたのか――いや、どれだけクラリスに綺麗なものだけを見せようとしてくれていたのか。それを彼女は思い知らされた。
煌びやかで、美しくて、時には全てを忘れて見惚れてしまうほどの彼の魔法はここには存在しない。ここにあるのは人を殺すための魔法。そしてここにいるのは――クラリスの知らない、一人の男。ヴィクター・ヴァルプルギスという、ひとつの災害を体現した魔法使いだった。
「エルマー! ――ッ、あのクソサングラス……なんで避けなかったんだよ!」
左胸を押さえたまま倒れて動かなくなったエルマーを見て、思わずダリルが名前を叫ぶ。見間違いでなければ、今確かにヴィクターの放った光線はエルマーの体を貫いたはずだ。怪我の程度は分からないが、あんな化け物の攻撃を正面から受けて無事である保証があるはずもない。
しかし――そう他人の安否を心配している彼の元にも、既に危機は迫っていた。
危険。危険。危険。後方約十メートル、その数ひとつ。濃い獣の臭いと唸り声。殺気を感じ取ったダリルは弾かれたように振り返ると、眼前まで迫っていた巨狼の鋭い牙を剣で受け止めた。
「油断も隙もあったものじゃないな。というか……まさかまたコイツも爆発するんじゃないでしょうねぇ!? こちとら爆発物を処理しに来てるわけじゃねぇんだぞ!」
するとダリルの前で、ぐちゃぐちゃに生え揃った牙の奥――巨狼の喉奥に明かりが灯った。ランタンのようにゆらゆら揺れるその明かりは、徐々に彼の方へと近づいている。……熱い。そしてその正体が燃えたぎる炎であることに気がついた時――彼は持てる力を総動員して牙を押し返し、とっさに巨狼の顎を蹴り上げた。
刹那、狙いがブレた巨狼の口から放たれたのは天高くまで昇る火柱。人間一人を容易に焼き尽くすほどの熱だった。
「火炎放射!? 使う魔法は常識の範囲内で統一しとけよ馬鹿野郎ッ!」
そう悪態をつく間にも――危険。危険。危険。前方約二メートル、魔力の膨張を感知。
次第に収まる火柱からダリルが目線を下げれば、たった今炎を吐き出したばかりの巨狼の喉が赤く腫れ上がっているのが目に入った。震える大顎、揺れる牙。それが意味することに気がついたダリルは、とっさの判断で自分の全身を覆い隠すほどの大盾を作り出した。そして――
「こいつ、やっぱり爆発して――イッ!」
弾ける爆弾、飛び散る散弾。破裂した巨狼の顎から飛び出した牙は、今度こそダリルの大盾を破壊して彼の二の腕の肉を削り取ってしまったのだ。
短い悲鳴が上がり、ダリルが右腕を押さえて片膝をつく。寒気がする。体が震える。痛みで額に脂汗が浮かぶ。そんな動けない彼へととどめを刺すべく、ヴィクターの手元で赤く染まった苺水晶が怪しく輝いた。
このまま放っておけば、今すぐにでもヴィクターはダリルを手にかけるだろう。もう時間が残されていない。今のわずか数秒の出来事を呆然と見ることしかできなかったクラリスでも、その未来は容易に想像することができた。
――早く……早くどうにかして、ヴィクターを止めないと! でもダリルさんは今ので怪我をしてるみたいだし、あのエルマーって人も倒れて動かない。それじゃあ誰がヴィクターを……こんな状況で私に彼を止めることなんて、本当にできるの……?
口調こそはいつものヴィクターに戻りつつあるが、それでも彼が正気を失っているのは明らかだ。
本当に彼が別人になってしまったみたいで、恐怖に足が震える。もしかしたら自分の声なんて届かないのかもしれない。その凶器が次はこちらに向けられるのかもしれない。あのヴィクターに、殺されてしまうのかもしれない――そんな考えが脳裏によぎってもなお、クラリスはもう一度彼の名を呼ばずにはいられなかった。
「ヴィクター! もうやめて!」
「……あ」
クラリスの呼びかけに、反射的にヴィクターの肩がぴくりと反応する。その目には、わずかながらに光が戻っているように見える。しかし彼は足元に転がるエルマーやうずくまるダリルに目を向けて、それからまたゆっくりクラリスに視線を戻すと……わざとらしく微笑んでみせた。なるべく普段通りを装っているつもりなのだろうが、口元は痙攣していて上手く表情が作れていない。
彼は――怯えているのだ。捕食者として頂点に君臨することのできるほどの力を持つ彼が、遥かに弱い子ウサギ一匹を前にして命の危機を感じている。
取り返しのつかない姿を見せてしまったことに、ヴィクターはようやく気がついたらしい。彼は魔法の発動を中断すると、今更無害を示すかのように両手でステッキを胸元へと引き寄せた。
「あ――ああ、大丈夫だよ! クラリスの前で殺したりなんてしない。もしも肉片になっちゃっても、ワタシなら元の形に戻せるから! 心配しないで。大丈夫……まだ本調子じゃないけど、多分、大丈夫。あの時だって上手にできたんだ……今回もきっとやれる。また最初からやり直せばいい。旅もまだ続けられる。ピクニックの続きだってしなくちゃ。それから、それから……えっと、あとはなんだっけ……」
うわ言のようにそう可笑しな自論を並べては、ヴィクターはつま先で芝生の土を掘ってクラリスから目を背けようとする。――彼の頭上高くに鈍いきらめきが現れたのは、その時だった。
それはヴィクターから見て死角にあるが、クラリスからはよく見えている。空に浮かぶ幾本ものナイフの包囲網――ついさっき、これに近いものを彼女は目にしたはずだ。
クラリスがダリルに目を向けると、彼は右腕を押さえてうずくまったまま、ヴィクターを睨みつけていた。やはりあのナイフはダリルの魔法でできたもの。きっと彼の武器を操る魔法は目視だけでも発動することが可能なのだ。
獲物へと狙いをつけたナイフは、息を潜めて合図の時を待っている。そして――
「……ここまでしてやったというのに、どいつもこいつもまだワタシから居場所を奪おうとするのかね。どうして……どうしてどうして! ワタシはただ――彼女と一緒にいたいだけなのに!」
刹那にヴィクターへ向けて放たれるナイフのスコール。しかし悲痛な叫びを上げた彼へと届く前に、それらはこつ然と現れたガラス玉達の妨害を受けてあえなく爆ぜてしまった。
爆煙がヴィクターとエルマーを包み込み、失敗を悟ったダリルの舌打ちが響く。そんな彼を睨み返すかのように、煙の中で赤い閃光が目を光らせた。
「やべ……!」
焦りの声が漏れると共に、ダリルの目が見開かれる。吹き上がった風で煙が晴れると、理不尽な憎悪に燃え上がる紅梅色と目が合った。
今から走り出せば、一度は避けることが可能かもしれない。だが、その後は? 怪我を負った状態のダリルが、先程のようなヴィクターの猛攻を避け続けることはおそらく不可能だ。そんなことを考えている間にも、一際明るい魔力の光線がダリルへ向けて放たれた――まさにその時。
ヴィクターの体が、ガクンと傾いた。
ダリルを撃ち抜くはずだった光線が明後日の方向へと飛んでいく。体が勢いよく天を向くことになってしまったのは、なにも急にバードウォッチングがしたくなったわけじゃない。横から足が払われたのだ。
「ッ!?」
宙に浮く肢体。ヴィクターは仰向けに倒れ込む直前、とっさにステッキの石突きを地面に突き刺し体勢を立て直した。
そのまま後ろに飛び退けば、たった今彼の足元を蹴り払ったばかりのエルマーがニヤリと口角を上げる。たしかに貫いたはずの彼の胸には痛々しい痣はあったものの、内臓が零れ出している様子は無い。あれだけの近距離で一撃を喰らったにも関わらず、この男はケロリとした顔でなんなく起き上がっていたのだ。
「ほら、だからよそ見はしないでって。可愛い後輩を虐めるなって、さっき忠告してやったばっかりでしょ?」
「この……死んだフリか!? そんな姑息な手段を使うだなんて、この期に及んでしぶとい男だね、エルマー・ウィークエンド! そんなに死に急ぎたいのなら望み通りにしてあげるよ。あの男より先にキミから片付けて――」
その時だ。
「痛っ」
「………………え?」
ヴィクターが状況を理解するまでに、そこにはかなりの間があった。
彼の声に被さるように聞こえたのは、痛みを訴える小さな声。それは腕を負傷したダリルのものでも、高出力の魔力を浴びせられたエルマーでも、もちろんヴィクター自身のものでもない。
「クラリス……?」
おそるおそるヴィクターが名前を呼びかける。そう。あの声は、たしかにクラリスのものだった。彼女が痛いと……そう一言、口にしたのだ。全員の視線を一身に受止めたクラリスが、押さえていた左頬からゆっくりと手を離す。
一瞬――ヴィクターの呼吸が、止まった。
「いたた……うっ。やっぱり、切れてる……?」
手のひらに付いた血を見て、クラリスが呟く。彼女の頬を横一直線に、真新しい切り傷ができていたのだ。
彼女を傷つけた原因はなんなのか。もちろん人の肌が勝手に切れることはない。もしタイミングがあったのだとすれば――それは足を払われたことで、ヴィクターの魔法の照準がズレたあの時だろうか。
怪我の程度からして、直撃したわけではない。着弾箇所から彼女に向かってなにかが跳ねたのか? ならばそれはただの小石だったのかもしれない。バラバラに砕けたダリルの盾や、飛散した巨狼の牙の破片だったのかもしれない。はたまた……いや、この際なんだって変わらないのだろう。
重要なのはクラリスが怪我をしてしまったこと。それも――不運にも、ヴィクターの放った魔法によって間接的に怪我を負ってしまった可能性がある……ということだ。
「ワタシが……クラリスを、傷つけた……?」
ペタリと座り込むヴィクターの手から、ステッキが滑り落ちる。呆然とする彼の視界の端で、赤く色づいていた苺水晶が元の愛らしい桃色の宝石へと色を取り戻していく。それとは対照的に、彼らの頭上で時を掻き乱していた時計の短針が――ドロリ。溶け落ちた。
「あ、あぁ、そんな……ワタシのせいで……ワタシがしっかりしていないから、クラリスが……」
「……ヴィクター?」
溶けて崩壊した端から煙のごとく消えていく魔力の結晶。しかしその幻想的な大洪水よりもクラリスの注意を引いたのは、雨に濡れた子犬のように震え、壊れた人形のように首を横に振るヴィクターの姿だった。
その姿を見て、クラリスの記憶の一部が呼び覚まされる。それと同時に湧き上がる焦燥感。今にも泣き出してしまいそうな彼のあの表情には、一度だけ見た覚えがある。あれは――そう。先日マモナ国でクラリス達が言い争いを起こした末に、ヴィクターが彼女の元から逃げ出した時のあの表情だ。
思い返せば、パルデの事件で渦男に腕を掴まれた後。彼女の腕にできた赤い痣を見つけた時も彼は取り乱すような言動をしていたはずだ。あの時はいつもの心配性だと聞き流していたが、まさか。
――もしかして、ヴィクターは自分のせいで私が怪我をしたと思ってるの? あの震え方……普通じゃない。一回落ち着けないと!
このヴィクターの変わりぶりには、あのエルマーやダリルでさえ状況を忘れて彼女の行動を見守っている。
クラリスが一歩前へ踏み出すと、ヴィクターの肩が大袈裟に跳ねた。その拍子に飛び出た靴先がステッキを蹴りつけて、土埃を纏った黄金色がゴロゴロと地面を転がっていく。
「ヴィクター! 私なら大丈夫だか――」
「や、やだ!」
大丈夫だから、落ち着いて話をしよう。そう言うはずだったクラリスの言葉は、強い拒絶の言葉で遮られてしまった。
きっと今のヴィクターに必要なのは、クラリスの口から聞く無事を知らせる言葉のはずだ。しかしあろうことか、彼はそれを聞くことすら拒否して耳を塞いでしまったのだ。
「……だ、大丈夫だよ? 心配しないで。ほら、少しほっぺが切れただけでもう痛くないから。ただ石とかが跳ねて当たっちゃっただけ。アナタのせいだなんて思ってないし、怒ってもいないから……ね?」
「……」
そうは言ってももう聞く耳を持たないヴィクターはいやいやと首を振るばかりで、こうして見ている間にも彼の呼吸はどんどんと浅く速くなっていく。……しっかりとは聞き取れないが、呼吸の合間に虚ろに呟き続けているのは謝罪の言葉だろうか。
するとそんな時――クラリスのすぐ横を、黒い羽根が揺らめく一陣の風が吹き抜けた。風はヴィクターの元までやって来ると彼の周りをくるり、くるりと覆うように旋回し、やがてその中心に一人の男の姿をあらわにする。
その全身をカラスのごとき黒い装いで包んだ男は、クラリスを一瞥すると怒りや軽蔑の表情を浮かべるまでもなく――やるせないような、苦虫を噛み潰したような。そんな面持ちで、うつむくヴィクターの頭に手を置いた。
「フィリップさん……!」
「……ほら、行くぞ。ヴィクター」
クラリスの呼び掛けに耳を傾けることも無く、彼――フィリップ・ファウストゥスは風を纏って空間を飛び越える準備を始める。何度も彼の瞬間移動を経験しているクラリスが、そのことに気がつかないはずがなかった。
――フィリップさん、ヴィクターをどこかへ連れていく気なんだ。そんなの絶対にダメ! 今彼と離れちゃったら、ヴィクターは……私は……絶対に後悔する!
しかしフィリップの出現に反応を示したのは彼女だけではない。エルマーもまた、彼もよく知る魔法使いの登場を前に驚きを隠せずにいた一人だった。
「まずい……どこかにカラスが潜んでたのか。ダリルちゃん、武器を貸して! こんなところでアイツらを逃がすわけには――ッ!」
その時、エルマーに向けて風の中から群れとなったカラスが弾丸のごとく飛び出した。攻撃はつついたり引っ掻いたりと先程の狼と比べれば可愛いものだが、群れとなって全身にまとわりつかれては簡単に抜け出すこともできやしない。
カラスの群れはすぐにクラリスやダリルの元にも放たれ、耳障りな黒い合唱が彼女達を外界から閉ざしていく。
だが――どれだけつつかれようとも、引っ掻かれようとも、クラリスはカラスの群れをかき分けて前へと進んでいく。まだ諦められない。諦めるわけにはいかない。諦めてはいけない。こんな形でヴィクターと別れるなんて、旅を終わらせるなんて。そんなこと――絶対に許さない。
そして、彼女が最後の一羽を押しのけた時――
「ヴィクター! お願い……待って!」
腹の底から絞り出すほどに叫んだ彼女の声は、耳を塞いだままだったヴィクターの元へと――ようやく届いた。
彼はハッと顔を上げて、決壊しかけていた涙腺をぐっと抑え込む。これだけの醜態を晒した自分へ、それでもまだ彼女は手を差し伸べようとしているのだ。まだ、やり直せる。希望はある。だが……ヴィクターがその手を取ることは無かった。そして彼は口先だけで紡ぎ続けていた言葉を、本当に伝えたかった彼女へ向けてようやく吐き出したのだ。
「クラリス、ごめん……ごめん、なさい……ずっと騙してて、ごめんなさい。傷つけてごめんなさい……お願いだから――」
無数の黒い羽根が、一斉に空へと舞い上がる。
「お願いだから、嫌いにならないで――!」
その言葉を最後に。ヴィクターとフィリップはクラリス達の前から姿を消した。
後に残されたのは浮力を奪われ散らばる羽根の残骸と、土埃にまみれた薄汚いステッキだけ。ずっと近くにいると信じて疑わなかった存在を突然失ってしまった現実を前に……クラリスはただ、その場で力なく膝をつくことしかできなかった。




