第107話 あーあ。ぜんぶおわりだ。
魔法局のダリル・ハニーボール。彼とは直接深い関わりがあったわけではないが、その存在はクラリスもよく覚えている。以前ラヴという魔獣が起こした事件で、彼女達と共に事件を解決へと導いた魔法局の魔法使いサラ。そんな彼女の先輩にあたる人物が、このダリルという男だったはずだ。
彼らが敵意を持っていた記憶は少なくともクラリスには無い。むしろサラは魔法局で共に働かないかと提案をしてくるほど、彼女達に好意を抱いていたはずなのだ。
――そんな魔法局が、どうしてヴィクターに攻撃なんて……!
なにかの手違いならばそうであってほしい。しかし、そう胸にわずかな希望を抱くクラリスの後ろで、ダリルが弾かれたように顔を上げた。
危険。危険。危険。半径四十八メートル地点――高出力の魔力を感知。その正体を目視する暇もなくダリルがクラリスを引き寄せる。間髪入れずに彼が反対の手を振り上げると、地面を突き破って二人の体を丸々隠してしまうほどの鉄の大盾が現れた。
武器を作り、操る魔法使い。サラはたしか、ダリルのことをそう説明していた。もしやエルマーの使っていた斧も彼の魔法で作られたものだったのだろうか。
「話が違うじゃないですか、エルマー! アンタが引き付けておくって言うから武器まで作ってやったってのに、あんなに易々と手放して……。僕の方にまで攻撃が飛んでくるなんて、そんなの聞いてないんですけ――どぉっ!?」
大盾から顔を覗かせたダリルの目の前を、高速で赤い光線が通り過ぎていく。間もなくクラリスの耳に届いたのは、まるで降り注ぐスコールのように盾を殴りつける衝突音。そのうちのひとつが盾のフレーム部分を削り取ると、ダリルは分かりやすく顔をひきつらせて光線が通った先を振り返った。
「マジかよ……一番頑丈なヤツを作ったんだぞ?」
「だ、ダリルさん! これってどういうことなんですか!? あのサングラスを掛けた人はいったい……? どうして魔法局がヴィクターを襲うなんてこと……それに私が人質って!」
「そんなにいっぺんに聞かないでくださいよ! 僕だって詳しいところまでは分かってないんですから。……とにかく、僕らは仕事であの脱獄犯を捕まえにきただけなんです。アンタに危害は加えませんから、安全な場所に行くまで大人しくしててください」
「ヴィクターが脱獄犯……? それってなんのこ――わぁっ!」
ついに猛攻に耐えきれなくなった大盾が、鈍い音を立てて弾き飛ばされた。突如ひらける視界。同時に降り止む光のスコールの先に見たものは、クラリス達へ向けて突き出された熱を孕む宝飾。そして――ヴィクターの血走った紅梅色だった。
地面に膝をついたヴィクターは、右手こそ蹴られて痛む腹を押さえていたものの……しかし左手ではしっかりステッキを握ったまま、ぶれない照準をダリルの顔の中心めがけて絞っている。
あのヴィクターから、あれほどまでに感情が取り除かれた姿を見るのはクラリスも初めてのことだった。なにせ彼は時に冷たい目をすることはあれど、喜怒哀楽をハッキリと示す人間だ。
見間違えるはずもないあの綺麗な顔が、どこか他人のように見えてしまうのは――なぜだろうか。
「――ヴィクター……?」
思わずクラリスが呼びかけると、ヴィクターの双眸が微かに揺らめいた。よかった、あれはやっぱりヴィクター本人だ。そんな場違いな安堵感にクラリスがもう一度口を開いたところで、彼女がその言葉の続きをかけることは叶わなかった。一瞬の隙をついて飛んできたエルマーの蹴りが、ヴィクターの脇腹へとめり込んだのだ。
「ガッ!」
「ほら、よそ見は終了ぉ。ウチのダリルちゃんに危ないもの向けないでよねぇ」
「……ッ、よそ見なんてしてないさ。優先順位が変わっただけだよ。そんなことより……キミの目的は魔法局から抜け出したワタシを連れ戻すことなのだろう? 穏便に済ませたいのなら、あの件とは関係のない彼女のことは解放したまえ。そうすればワタシも大人しくキミ達の指示を受け入れるとしよう。魔法局でもオズワルドの元でも、どこだって好きな場所へ連れていくといい」
仰向けで苦しげな吐息まじりにヴィクターが提案をすると、見下ろすエルマーは意外そうに片眉を上げた。ヴィクターの過去を知る彼からしてみれば、この男がそんな実に安直で平和的な解決案を出してくるとは思ってもいなかったからだ。
なにせ目の前のヴィクター・ヴァルプルギスという人間は好戦的で、所構わず爆発を引き起こす歩く災厄のような男。話し合いが通じる相手では無かったはずだ。真意を探ろうとするのは当然のことである。
――まさかヴィクターがこんな提案をしてくるなんて。ほとんど反撃してこないのは想定外だったけれど、これはこれで何か企んでる可能性があるな……。馬鹿正直に要求を鵜呑みにして、うっかりサントルヴィルなんかで暴れられたりでもしたら……駄目だ。ここで戦うよりも遥かに被害が大きくなる。
いくらこの場を穏便に収めるためであっても、そんな危険に大勢の人間を巻き込むことはできない。これがただの魔法使い相手ならまだしも、相手はあのヴァルプルギスの夜を引き起こしたヴィクター・ヴァルプルギスなのだ。大陸ひとつを沈めるような化け物の言葉を信用しきることなど――
まだ、できない。
その時、はたと。エルマーはある違和感に気がついた。注意はヴィクターに向けられたまま、彼の視線が動いたのは左方向。ここまでダリルに任せきりにしていた――この舞台における、もう一人の役者の元だ。
――あっちがサラの言ってたクラリスか。加勢して来ないところを見るに、本当に魔法使いじゃないみたいだね。最終的な目標は脱獄したヴィクターを魔法局に連れ帰ることだけど……それよりも先に、あの噂のことを確かめておきたい。ゆっくり話を聞くなら、安全性を確保するために一度彼を無力化させたいところだ。でも……正直、さっきの感じで来られたら正面からやり合うのはボクでもキツいな。どうにか彼女を使って黙らせられればいいんだけど……
一方的に攻撃を受け続ける、らしくないヴィクターを心配そうに見つめるクラリス。エルマー達の会話こそ聞こえていないようだが、彼らの間に漂うただならぬ空気は感じ取っているのだろう。状況に追いつききれないシアン色の瞳はわずかに潤んでいる。
いったい、彼女はヴィクターのなんなのだろうか。たった今エルマーが感じたばかりの妙な違和感の鍵は、おそらく彼女にあるはず――そんな彼の直感が確信へと変わるのに、そう時間はかからなかった。
「……ああ、なるほどねぇ。敵意も薄いし、気持ち悪いくらい抵抗してこないと思ったら……ヴィクター。君、あの子の前でかわいこぶってるのか。そうだよねぇ。ボクと本気で殺り合うところなんて見せたくないんだもんね。禍犬が女を侍らせてたなんて話、昔は聞いたことも無かったけど……もしかして人質じゃなくて恋人だったりする? そんなお気に入りのあの子は、そのお綺麗な顔を使って誑かしたのかな? それとも一緒に来るように脅した? 昔のことはなにも教えてない感じ?」
「それ以上しゃべ――ぐっ」
「だいたい図星か。その様子だと魔法局に収監されていたことも、四百年前の事件のことだって話していないみたいだね。あの子を解放することを条件に出してきたのは、ただ守るためだけじゃなくて、ボクらが都合の悪いことを言う前にここから遠ざけたかったからってところか……。ふぅん……そう。――そんなに聞かれたくないんだ?」
上から胸を踏みつけられて、ヴィクターの言葉が詰まる。ここまでなんとか余裕を保とうとしていた彼の表情も、エルマーが含みのある笑みを浮かべると目に見えて濃い動揺の色へと染まっていった。今からエルマーがなにを言おうとしているのか、ヴィクターにはもう――察しがついてしまったのだ。
「騙したままだなんて可哀想じゃん。ねぇヴィクター……せっかくなんだし、この機会にあの子に教えてあげなよ。君にだって、後ろめたい気持ちは少しくらいあるんでしょ。もしも自分で言えないっていうなら、ボクが代わりに話してあげようか?」
「ッ……! それだけは……!」
声のボリュームを上げるエルマーとは反対に、かろうじてヴィクターから漏れた制止の声は、彼が想像していたよりも遥かにか細く、弱々しい。思わず足を掴んだ手は震えて力が入らず、緊張で喉はもう使いものにならないのかパクパク口を動かす他には首を振って拒否するばかり。うるさいくらいの胸の鼓動は靴底からとっくにエルマーへと伝わっている。
そのよく働く口を、今すぐ息の根と一緒に止めてやろうかとも考えたが――そうだ。残虐な方法で誰かを殺す姿を彼女には見せられないと、足枷をつけたのは自分自身だったではないか。
その間にも一枚、また一枚とヴィクターの心を覆っていた虚勢のテープが剥がれていく。
いやだ。いやだ。いやだ。しられたくない。きらわれたくない。みすてられたくない。はなれたくない。もう、ひとりになりたくない――ずっとクラリスには隠していた弱い自分。そのひび割れたハートが無理やり引きずり出されて、柔らかい急所を剥き出しに曝される。しかしそんな彼の思いも虚しく、エルマーの言葉の金槌はついに――
「なにを今さら甘いことを言ってるのさ。もしかして隠し通せば過去の罪は無かったことにされるとでも思ってた? 平穏な暮らしができるとでも? 馬鹿言うなよ。四百年前にあれだけ多くの人間を皆殺しにした君が……大量殺人事件の首謀者であるヴィクター・ヴァルプルギスが! 人並みの幸せを手に入れられるだなんて――そんな日が来ると、本当に信じていたのかい?」
「……あ」
今、彼のハートを粉々に叩き壊した。
嘲り、ヴィクターの恋心を愚弄するかのごとく。いとも簡単にエルマーは彼の秘密を白日の下に曝け出してしまった。
焦点の合わないヴィクターの目がエルマーを――そして、ゆっくりとクラリスを見る。もしかしたら彼女の耳に今の話は届いていないのではないか。安い作り話だと聞き流してくれるのではないか。彼の目に込められたそんな淡い期待は、しかし次の瞬間――クラリス本人によって打ち砕かれることとなる。
「ヴィクター……どういうこと、なの……? あの人の話……本当?」
「……あ、あ……」
しかし尋ねたところでヴィクターからは明確な回答は無い。唇が震えて、意味の無い音が漏れる。いや――わざわざ肯定や否定なんかせずとも、これが答えだ。最後に与えられた弁解のチャンスすらも、彼は自分で握り潰してしまったのである。
ヴィクターの目尻を伝った雫が、地面を塗らす。真っ白になってしまった頭で走馬灯のように旅の思い出が蘇る。きっともう、クラリスとは以前の関係には戻ることはできない。そうは分かっていても、認めたくはない。そんな絶望の淵まで追い詰められた彼の心が折れるのは、時間の問題だった。
「――はは、もうだめ。むだ。きかれちゃった。ふふ。ぼくたちのたびも、こいも。なにもかも。ぜんぶ……ぜんぶおわりだ。あー……はは……――最初からやり直さないと」
「まさか……まずい! ダリルちゃん、早くその子を連れて逃げ――ッ!」
瞬間、湖面を風が凪いだがごとく――エルマーの足元が揺らめいた。前触れもなく影の中から飛び出してきたのは、ヴィクターとエルマー二人を余裕で飲み込んでしまうほどに巨大な狼の顎だった。剥き出しの歯茎を貫く牙は、四方八方へと伸び放題となった剣山のよう。それ自体が呼吸をするように荒い息を吐き出して、瞬く間に獣の臭いが付近に充満する。
寸前で飛び退いたエルマーはかろうじて食われるようなことは無かったものの、地面に転がされていたヴィクターはそうはいかない。彼は抵抗する間もなく、真っ逆さまに狼の口内へと落ちていく。しかし次の瞬間――轟音が鳴り響くと同時に、その巨大な顎は内部からの爆撃によって爆散してしまったのだ。
「ちょっ――あっぶね! なんですか今の!? 狙うなら僕らじゃなくて、エルマーだけにしてくれないと困りますって!」
そう抗議の声上げるダリルの手元には、とっさに彼が生成した刃の長い剣が握られていた。弾丸のごとく飛んでくるのは、あの狼の顎から放たれた槍のように鋭利な牙。一つ、二つと前方から飛来する牙を弾き返し、その合間に彼はクラリスを自分の後ろへと下がらせる。
チク、タク。チク、タク。
しかしそんな凶弾が降りやまぬ最中にクラリスの目が捉えていたのは、ダリルの背中越しに映る狼の顎が生えていた血溜まりの中心地。そこに立つ人影と、空を覆い隠すように現れた円盤達へと彼女の目は釘付けになっていた。
「……あれ、なんなの……?」
クラリスがポツリと呟く。
チク、タク、チク、タク。彼女達の耳に届くのは、不規則な秒針が時を刻むステップセコンド。この場にいた誰もが息を呑み、腹の底にゾクリとした恐怖心を覚える。
そんな中、人知れず冷や汗を流したエルマーだけが、わずかに引きつった笑みを浮かべていた。彼だけは知っているのだ。この光景が何を意味し、そして――これからあの男が何をしようとしているのかを。
「久しぶりに見たけど、相変わらず圧巻だねぇ……。名門ヴァルプルギス家最後の生き残りであり稀代の大天才と謳われた男、ヴィクター・ヴァルプルギス。この世界で唯一の時間を操る魔法使い……か」
その声に応えるかのように。無数に従えた時計に見下ろされ、血溜まりの中心にたたずむヴィクターが静かに両目を開いた。




