第106話 邂逅、魔法局
《数時間後――ラクス郊外・公園》
暖かな日差しに包まれて、ヴィクターとクラリスは予定通りにピクニックを満喫していた。大きな公園というだけあってか、この時間は思っていた以上に家族連れなどで利用している人が多い。喧騒を離れてのんびり過ごせそうな場所を探すのに時間が掛かってしまったくらいである。
カサカサと袋を開ける音が静かな草原の端で響く。長時間の持ち歩きでホットサンドは少し冷めてしまったが、それでもクラリスはベンチに座ったまま足をパタつかせてランチを楽しんでいた。今更ながらに朝も昼もパンというチョイスは間違いだったかと、ヴィクターは内心ドキドキしていたのだが……その心配はいらなかったようだ。
「見てヴィクター! このチーズすっごく伸びるの!」
「本当だ。クラリスが買ったのはトマトとチーズのやつかい? 色も鮮やかだし、美味しそうだね」
「……さすがにこれはあげられないよ?」
「ははっ、心配しなくても取らないよ。ワタシはひとつ食べてもうお腹いっぱいだからね。あとはデザートだけで十分さ」
そう答えるヴィクターの元にふわふわと空を浮かぶティーポットがやって来た。ポットは二人の前で大人しくしているカップ達の中身に目を向けると、尋ねる暇もなくおかわりのミルクティーを注いでいく。あいにくここにはベンチしか無いため物を広げることこそできないが、空を飛ぶティーセットには場所なんて関係ないのだ。
その間に二つ目のホットサンドを食べ終えたクラリスが、隣に置いていた紙袋をごそごそと漁りはじめた。あれにはたしか、彼女が選んできたというデザートが入っていたはずだ。
購入時に店の外で待っていたヴィクターはその中身の正体を知らなかったが、どうやらクラリス自身がラクスに来たら食べたいと思っていたデザートらしい。焼き菓子か? プリンか? はたまたケーキなんかが出てくるのか? そう期待に胸を膨らませ、ヴィクターが彼女の手元に目を向けると――
「はい、これはヴィクターの分! すっごく有名なフルーツサンドのお店の一番人気なんだよ。クリームの甘さも控えめだからアナタも食べられると思うの!」
差し出されたそれは、雪のように真っ白な食パンの間に生クリームと大きくカットされたフルーツが挟まったフルーツサンドだった。
パン、パン、パン。やはり先程のヴィクターの心配は杞憂だった。なにせクラリスが既にトリプルパンの予定を立ててしまっていたのだ。きっと美味しければどれだけメニューが被ろうとも関係がないのだろう。
「……ありがとう。これは……ずいぶん分厚いな。Hmm……見た感じ、さっきのホットサンドと同じくらいの厚さがあるのではないかね?」
これでは一口食べただけで端からクリームがはみ出てしまいそうだ。……ああほら、やっぱり。パンのおしりからむにゅりと。そうしてクリームを掬ってあくせくしながら食べるヴィクターとは対照的に、当のクラリスは慣れた様子で自分の分をペロリと平らげてしまった。
そうこうしているうちに、太陽は頂点を超えて緩やかに午後の時間が訪れる。
お腹はいっぱいで、日差しも暑すぎずに丁度いい温度感。ランチもティータイムも終わって日向ぼっこしかやることが無くなったヴィクターの口からは、自分の意思とは反して思わず大きなあくびが零れた。
「ヴィクター、眠くなっちゃった?」
「いや……これだけ穏やかだと条件反射でついあくびも出るというか……わふ。草の上に寝転がるわけにもいかないし、せっかくキミとピクニックに来ているのに昼寝するのはもったいないかな」
「それじゃあ体でも動かす? とはいっても、なにも用意なんてしてないけど……」
「運動か……ならペロ達を呼んで少し走るとしよう。ボールとフライングディスクならワタシが持ってるし、犬用のオモチャなら一通りあるよ。これだけ大きな原っぱで走り回れるなら彼らも気持ちがいいだろう」
そう言って、ゆっくりとヴィクターが立ち上がる。大きく上に向けて伸びをして、上半身を右に左に捻って軽いストレッチをすれば眠気だって飛んでいく。
使い魔達の運動のため、普段からクラリスを混じえて遊んだりすることはよくあるものの――ここ最近は色々な事件に巻き込まれて、立て込んでいたからだろうか。なんだかこうしてのんびり過ごすのも久しぶりな気がする。
――この旅が終わってサントルヴィルに着いた後は、こういう穏やかな日を増やしてもいいかもしれないな。あっちにはもっと広い森林公園なんかもあるって聞くし……都会の空気は汚いなんて言うからね。リフレッシュするのにはちょうどいいかな。
そうヴィクターが考えているすぐ横で、クラリスは膝の上に敷いていたハンカチを丁寧に折りたたんでいる。白いズボンを履いていることもあってか、ホットサンドからはみ出るトマトソースが落ちないかを気にしていたのだろう。ヴィクターの視線に気がついた彼女は目が合うと、美味しいものをたらふく食べていかにも上機嫌そうに微笑んだ。
ヴィクターの顔から表情が消えたのは――その時である。
「――……クラリス。もう荷物はまとまっているね」
「うん。全部しまったから、いつでもペロちゃん達を呼んで大丈夫だよ」
そう答えたクラリスの目の前――顔を上げたヴィクターの左手にステッキが呼び出される。反対の手で指を鳴らせば、浮かんでいたティーセットが火花を散らして消失した。
ヴィクターは動かない。その背中を冷や汗が流れる。空気が冷たく肌を刺す。体中の神経が氷で撫で付けられたかのように敏感になっている。今だけは、そう。愛しい人の笑顔ですらも、目に入らないほどに。危険が――脳内に警鐘を鳴らしている。
「そうかい。なら……すまないがやっぱり予定は変更だ。ボール遊びはやめて、ホテルまで競走をしよう。足の長さ的にはハンデがあった方がいいだろう? ワタシは五分経ってから追いかけるから、キミは先にスタートして――」
「ちょ、ちょっと待って!」
そうクラリスが割り込むと、ヴィクターは視線を彼女へ落とした。交わる視線にいつものような熱は無い。冷静を装っているが、ただ事じゃないことくらいこの顔を見ればクラリスには分かる。ましてや……こんなにも余裕の無い表情を浮かべたヴィクターなんて。
「ヴィクター、突然どうしたの? なんか……変だよ。もしかして危ない魔獣を見つけた、とか? それなら公園にいる人達を避難させないといけないし、私も手伝うよ。だから何が起こってるのか教えて」
「……すまない。理由ならホテルに戻ってから説明する。だからキミは先に行ってくれないか」
「で、でも……」
「お願いだから、今だけはなにも言わずにワタシの言うことを聞いてくれ! じゃないとキミまで――」
その時だ。ヴィクターがその場で反転し、紅梅色の双眸を大きく見開く。杖先の苺水晶に魔力を込めた彼がステッキを上げた刹那――躊躇う暇もなく、宝飾からは光線が撃ち放たれた。
光線は真っ直ぐな軌道を描き、地面へ着弾する直前で上昇。間もなく大きな爆発音を轟かせ、青空に黒々とした煙が上がった。それと同時に遠くで悲鳴が上がったものの、もちろん今の攻撃が誰かに当たった訳ではない。そこらの有象無象が突然の爆発音に驚いただけだ。
「……くそ、どこに行った。あまり動かれると狙いがブレるな」
「ねぇちょっと! ヴィクターってば本当にどうしちゃったの!? アナタ、さっきから誰に向けてそんなに攻撃して――わああっ!」
誰もいない空間へ立て続けに魔法を撃ち続けるヴィクターの姿は、明らかに異常だ。とにかく一度止めて話を聞くため、クラリスが彼の腕を掴もうとした次の瞬間。間近で起きた轟音に彼女は思わず耳を塞いで飛び上がった。それと同時に気がつく。ここで起きている爆発の間隔は段々と短く――そしてこちらへと近づいてきているのだ。
――いったいヴィクターには何が見えてるの!? 変な気配なんて感じないし、いるとしたらペロちゃん達みたいに透明な敵? アリみたいに小さな魔獣? それとも……
まさか本当にヴィクターがおかしくなってしまったのではないか? 度重なる爆発の揺れに耐えながらクラリスがヴィクターを見上げる。
彼女の視界にそれが飛び込んできたのは、まさにその時だった。
「ヴィクター! 上!」
「ッ!」
はじめに彼女の目に映ったのは、逆光で輪郭だけがハッキリと浮かび上がった鈍色の輝き。なにかが落ちてくる。そう思っている間にも、それは――その巨大な斧を振り上げた男は、自身の身長ほどの大きさもある得物をヴィクターの脳天めがけて振り下ろした。
すかさずヴィクターが両手でステッキを構えて刃を受け止める。しかし男の体重をかけた落下攻撃に上乗せされているのは、見た目だけでは到底重量の想像もつかない大きな鉄の斧だ。受け止めるだけでも精一杯のヴィクターは、それこそ歯を食いしばって押されぬようにと耐えていたものの――太陽が雲に隠れたわずか一瞬。それまで逆光で見えなかった男の顔があらわになると、ヴィクターはわずかに口角を上げて目の前の相手を睨みつけた。
「――出会って早々、ワタシのことを殺すつもりかね。魔法局長の座からは退いたと聞いていたが……こんな場所までわざわざ追いかけてくるだなんて、とんだ暇な隠居生活を送っているみたいだね。元魔法局長――エルマー・ウィークエンドくん?」
そうヴィクターが名前を呼ぶと、斧を手にしたアプリコット色の髪の男――エルマーは、サングラスの奥の目を細めてニヤリと笑った。
「やだなぁ、隠居だなんて……ボクがおじいちゃんみたいな言い方はやめてよね。君の方こそ平和ボケしすぎてるんじゃない? 昔と比べて動きも注意力も――格段に鈍くなってるよ」
刹那、おもむろにエルマーが得物を握っていた手を離した。同時に空中に放り出された斧が刃の先から淡い光へと変わっていく。それが本物ではない、魔法で作られた模造品であるとヴィクターが気づいた時には既に、エルマーは次の行動へと移っていた。
エルマーが離れると同時にヴィクターの全身に掛かっていた体重がゼロになり、バランスを崩した重心がわずかにズレる。そこを目ざとく狙ったエルマーは、地上に降り立つと左足を軸にその場でひと回転し――強烈な回し蹴りがヴィクターの正面からみぞおちへと叩き込まれた。
「ッ――!」
「ヴィクター!」
そう呼び掛けたとて、崩れ落ちて丸くなっているヴィクターにクラリスの声が聞こえているのかは分からない。遠くまで蹴り飛ばされることこそ無かったが、防ぐ間もなく急所を狙われたからだろう。呼吸もままならないヴィクターは地面に転がったまま呻くばかりで、モノクロに点滅する視界に脳がまだ追いつききれてすらいないのだ。
――なにが起きてるの……!? この人、ヴィクターと知り合いみたいだけれど……いきなり襲ってくるなんて普通じゃない。とにかくヴィクターを連れて早く逃げなくちゃ……!
最悪でも、自分が壁になりさえすれば彼が立て直すくらいの時間稼ぎくらいはできるかもしれない。煙幕を使えば短時間でも目くらましになるはずだ。そう考えたクラリスがエルマーの目を盗んで駆け出した、その時――
「ダリルちゃん! 人質の確保!」
「えっ? 人質って――な、なに!?」
クラリスが慌てるのも無理はない。エルマーが声を上げたその直後、彼女の体を後ろから抱え上げた人物がいた。彼の他にもう一人、今の騒ぎに乗じて彼女の元へと近づいてきていた者がいたのだ。
「やだ! やめて……やめてったら!」
今しがたのヴィクターの仕打ちを見たばかりである。身の危険を感じたクラリスが手足をバタつかせて抵抗すると、その後ろの人物は――聞き覚えのあるその声の主は、分かりやすく慌てた様子で彼女の腕を掴み、早口に弁明を始めた。
「ちょ、ちょっと! 危ないから暴れないでください! 別に誰もアンタを取って食おうだなんて思ってませんから!」
「――もしかして……ダリルさん?」
おそるおそるクラリスが振り返った先。そこにあったのは覚えのあるバニラのような甘い香りと、想像通りの赤い瞳。
すると彼女と目が合った黒髪の彼――魔法局特例異変解決本部に所属する魔法使い、ダリル・ハニーボールは、まるでイタズラがバレた子供のようにバツが悪そうに目を逸らした。




