第103話 ありがとう、私の魔法使い
風に乗り、崩壊していく焼け焦げた死骸。ポールだったそれが跡形もなく塵となった頃には、ヴィクターの手にしていたステッキは熱を失い、すっかりいつもの輝きに戻っていた。
終わった。そう思うと同時に疲れがどっと押し寄せてくる。身体的な方もそうだが、どちらかといえば魔力に犯され続けた頭が疲れていると言った方が正しいだろう。脳が休みたくてたまらないのだと、重くなるまぶたがそう訴えかけている。
「――ヴィクター!」
すると、今にも思考を止めてしまいそうだったヴィクターの耳へと、彼を呼ぶ声が飛び込んできた。
どれだけ疲れていようとも、この体は好きな人の声に反応をしてしまうらしい。
無意識に振り返った先。クラリスは重たいドレスの裾を持ち上げて、一目散にヴィクターの元へと走って――いや、もう飛び込んできていた。
「わっ、ちょっ……クラリス!?」
構えようにももう遅い。重いドレスの裾を掴んで走っていた彼女は、飛び込む瞬間にその手を離し、ヴィクターへ向けて目いっぱいに両腕を伸ばした。
驚きに、彼の目が見開かれる。
なにせ、クラリスのその姿はまるで……一輪の薔薇のようだったからだ。
彼が毛嫌いしていたネオンピンクのドレスは、手を離した拍子にふんわりと裾が広がり、空中で大輪の花を咲かせる。
もしも童話の世界のように、この世に花のお姫様がいたのなら。それはこんな姿をしているのだろうか。それほどまでに今のクラリスは幻想的で、神秘的で、なにより――美しかった。
「――あだっ!」
だがそう見とれていたのもつかの間、クラリスを受け止めたヴィクターは押し倒されるがままに背面から床へ。そして、強かに背中を打ち付けた彼の口から漏れた声は、痛みを隠しきれない一瞬の悲鳴だった。
どれくらい痛かったのかといえば、そう……そちらに気を取られて、抱きつかれているにも関わらずあの厄介な花火が顔を見せないくらいに。
この部屋にカーペットが敷かれていてよかった。もしも硬い床が剥き出しであったのなら、今頃痛いどころの騒ぎではなかったはずだ。
「く、クラリス……本当に嬉しいのだけれど。危ないからそういう可愛いことをする時は、事前に飛ぶか抱きつくか宣言をしてからにしてくれないかね。そうしてくれれば、ワタシだってもう少しスマートにキミを迎えることもできて……クラリス?」
「……」
「……もしかして、泣いているのかね」
そうヴィクターがたずねると、胸の辺りから鼻をすする音が聞こえてきた。
少し顔を上げたクラリスの目元はわずかに濡れている。拭ってあげようにも、こんな砂埃まみれの手で触れては彼女の目を傷つけてしまう。それならハンカチでも出せばいいのだろうが――困った。疲れすぎてて、今指を弾いたらハンカチではない別のものを取り出してしまいそうだ。
彼がそう悩んでいる間に、クラリスは自分の手で目元を擦ってしまっていた。
「今回こそは本当にヴィクターが死んじゃうかと思って……安心したらなんだか涙が止まらなくなっちゃった」
「なに……そんなこと心配していたのかい。ワタシがキミを置いて逝くわけがないだろう。ほら、どうせならいつもみたいに褒めてくれないかね。……あ、頭を撫でてくれてもいいのだよ?」
良いことを言おうと思ったのに、こんなところでうっかり下心が出てしまった。これではまるで、褒めてもらうために彼女を助けたみたいではないか。
しかしクラリスは「うん……そうだよね」とだけ言って起き上がると、彼の言葉通りに右手をヴィクターの頭に添える。そして――
「助けに来てくれて本当にありがとう、ヴィクター! 世界一かっこよくて頼りになる――私の魔法使い!」
「わ……」
その時、二人の周りでバチバチと音を上げて火花が散りはじめた。
さすがにクラリスも何事が起きているのか分からず、キョロキョロと視線を右に左に忙しなく向けていたのだが、次の瞬間――火花の中から、大きな火球が空に向けて打ち上げられた。
「えっ……!? ……すごい花火。綺麗……」
そうクラリスが呟くのも無理はない。彼女の目に映ったのは、世にも美しい魔法の花火だった。
雲がかった真昼の空にもハッキリと咲いた大輪の花火は、今まで彼女が目にしたどんな花火よりも大きく綺麗で、咲いた後も七色の光を煌めかせながらパラパラと空気に溶けていく。それが次々と後を追って咲き続けているのだ。
もちろん発生源はいつも通り。ヴィクターで間違いないだろう。
しかし視線を下ろしたクラリスの前で、彼は――耳まで真っ赤に染め上げた顔を両腕で覆ってしまっていた。
「ヴィクター? えっと……あれ、綺麗だから一緒に見ない?」
「……い、いまはむり……へんなかおしてるから、こっちみないで……」
ヴィクター本人に向けて一緒に花火を見ないかというのも変な話だが、そもそも彼自身にその余裕が無かったらしい。
常日頃から『ワタシのクラリス』と息をするように言っているヴィクターであったが……実際自分が言われる立場となり、その破壊力にキャパオーバーを起こしてしまったのだ。
これが『私の魔法使い』だったのだからまだ良い。『私のヴィクター』と呼ばれていたあかつきには……それこそ死んでいたかもしれない。
――よくよく考えたら、この体勢もあまり良くないのではないかね!? お腹にはクラリスの体重が掛かってるし、化粧もよく見たらいつもと違うし、ああでも今更どいてなんて言うのも……なんかもったいないし……!
彼がそんなことを考えていると、二人の耳に愉快なハーモニカの音色が聞こえてきた。
クラリスが振り返った先、ドアの向こうからこちらへ向けて走ってくる小さな生物がいる。それはブリキ猫――ヴィクターが城中の女達を逃がすために放った、口の中にハーモニカを詰め込んだ未知の生物だった。
「わぁ! なにこの子、可愛い……! 懐いてるみたいだけれど、ヴィクターが呼んだの? 綺麗な音がするのね」
『ぷぁっ、ぷぁ!』
クラリスに褒められて、ブリキ猫は尻尾をパタパタ振りながらハーモニカを吹き鳴らす。
すると、利口な猫は主人の様子がいつもと違うことに気がついた。顔を隠しているのでよく分からないが、猫なりにとにかく嬉しそうなことだけは分かる。となれば……その原因は主人の上に乗ったこの見知らぬ女性だろうか。
それならば。ブリキ猫は、こんな時に演奏すべきがどんな曲なのかを心得ていた。
『ぷぁぷぁー!』
そして、ブリキ猫の口から奏でられたのはピアノとサックスが入り交じったムーディな音色。夜のオシャレなバーででも流れていそうな、それはジャジーな旋律だった。
美しい音楽に、美しい花火。思わずクラリスの顔がほころんで、彼女はまだまだ止みそうにない花火を見上げる。だがその一方で――
「からかうのはやめてくれ! キミはなんでそういう選曲をするのかね……!」
ヴィクターの胸の高鳴りも、今しばらくは止む様子は無かったようだ。




