第101話 夢と現実の境界線。キミの声に耳を傾ける
『アアアアアッ! イタイイタイイタイ! モウユルサナイ、キヒ、ユルサナイヨォキミタチイヒヒヒヒヒッ!』
全身を起こした『ポール』は、口から煙と唾とを撒き散らして聞くに絶えない笑い声を上げている。
ヴィクターは『ポール』の魔法で正気を保てる自信が無いと漏らしてはいたが、果たして正気でないのはどっちなのだろうか。そもそも最高の魔法使い様とやらに心を売り、人の身を捨てた彼が最初からまともだったとは思えない。
――大丈夫。クラリスを信じろ。彼女ならきっと――いや、絶対にワタシを導いてくれる。だから今は……目の前のアレを排除することだけを考えろ!
そう自分に活を入れたヴィクターは、体中の痛みをものともせずに再び『ポール』へ向けて駆け出した。
だが何度も爆撃された魔獣が簡単に接近を許すわけはない。『ポール』は豚頭に生えた両翼を広げると、そのまん丸な目玉に怪しい紫色の光を灯してヴィクターへと視線を向けた。
やはり脅威となるのはあの目玉。同時に弱点にもなるアレに狙いを定めなくてはならない以上――ヴィクターは真っ向からその視線を受け止めなければならなかった。
『サァ――モウイッカイ、ネムッテェ!』
「ッ、クラリス!」
一気に意識が持っていかれる感覚。ヴィクターの膝から力が抜けて、彼の上体がかくりと傾く。
その絶好のチャンスを見逃すはずもない『ポール』は、嬉々として口の端から長い舌を吐き出した。鞭のようによくしなる舌が、ヴィクターの頭の上へと振り上げられる。そして――
「ヴィクター! 右に避けてッ!」
「ッ!」
瞬間、後方から聞こえたクラリスの声に、ヴィクターの意識は現実へと戻ってきた。
足元で起こした小爆発の衝撃を使い、彼の体はクラリスの指示通りに右へ。刹那に振り下ろされた『ポール』の舌は、ヴィクターではなく爆発によって盛り上がった床の瓦礫を叩き潰した。
『アァ!? ニゲ――ナイデェッ!』
「横から来てる! 上に飛んで!」
紫色の光がヴィクターに浴びせられた直後、横薙ぎの舌が彼に迫る。
クラリスの指示が出て一瞬の間の後、ヴィクターは再度地面に起こした爆発の反動で宙へ。
「左目……この位置からなら、一撃叩き込め――」
『ソンナニチカクデミテ、ダイジョウブゥ?』
「ッ――」
空中に浮いたまま、至近距離から浴びさせられる光に再びヴィクターの体が傾いた。――そのまま、真っ逆さまに落ちていく。
「ヴィクター!? 危ない、下に向けて魔法を撃って!」
「――この……!」
ギリギリのところで意識を取り戻したヴィクターが、放った爆発の反動を使って地面へと着地する。
片膝を付いてうつむいた彼の額には、脂汗が滲んでいた。
クラリスの指示はしっかりヴィクターへ届いている。しかし――昏睡と覚醒を繰り返す彼の頭は、早くも混乱しはじめていた。
意識がある方が現実だというのに、そっちへ呼び戻される度に自分が何をしていたのか、一瞬なにも分からなくなる。
ずっと目が回っているみたいに気持ち悪い。こんなことを続けていたら、いずれ空っぽなはずの胃の中のものを全て吐き出してしまいそうだった。
――集中、しないと。だが……魔力を溜める間もなく気をやっていては、隙をついて食らわせることも難しい。逃げつづけていればチャンスが来るか? いや、そんなものを待っている間にワタシの体力が尽きる方が早い……か。
ステッキ伝いにヴィクターが立ち上がってすぐ、『ポール』の両目がまたもや怪しい光を浮かび上がらせた。
クラリスは光を直視しないようにと薄目でヴィクターと『ポール』の位置を見て、魔獣の攻撃に備えようとする。――刹那、『ポール』の両翼が放つ光が、ヴィクターを包み込んだ。
「ヴィクター! そのまま後ろに避けて!」
すかさず前足で彼を踏み潰そうとする魔獣の猛攻に、クラリスが瞬時に判断して指示を飛ばす。なんとか飛び退いたヴィクターの左手は、杖先を地面に押し付けたまま震えているようにも見えた。
攻勢に出ようとする度に洗脳をかけられる、一進一退の状態。
その度にかろうじて避けつづけることはできているが、ヴィクターにあからさまな疲れが出てきていることは、後ろで指示を出すクラリスの目にも明らかだった。
彼の体が負っているダメージもそうだが、『ポール』の魔法を浴びつづけていることがなによりの負担になっているはずだ。持久戦に持ち込まれるほど、きっとこちらが不利になっていく。
おそらく――彼の心身は次の一回に耐えられるかすら分からないほどの、限界を迎えている。
――いくら私がサポートしたとしても、あの光をヴィクターが見ている限り避けてばっかりで攻撃なんてできない。なんとか彼が王様の魔法に掛からない状況を作ることができればチャンスがあるかも……あの目を見ないようにさえ、することができれば……!
「……見ない?」
ぽつりとクラリスが呟く。まさか――こんな簡単なことだったなんて。
それさえ分かってしまえば、勝機を作り出すことは難しい話ではない。……ヴィクターの了承さえ、得ることができれば。
『ソロソロ……ツカレテキチャッタカナァ? キヒヒ、アシガフラフラシテイルヨォ?』
「……それが分かるのなら、大人しく殺られてはくれないのかね。キミのそのケバケバしい光のおかげで気分は最悪だ。それこそ酒酔いにも乗り物酔いにも勝るほどにね。まだ夜通し酒を浴びるほど飲んでいる方がマシなくらいだよ」
『フヒヒヒヒヒ! ソレナラダイジョウブ。イマココデシネバ……ナニモキニシナクテ、イヒッ、ヨクナルカラネェッ!』
「ッ、クラリス!」
大きく開いた『ポール』の両翼を前に、ヴィクターが指示を仰ぐ。
そして魔獣の両目が光を帯びはじめた次の瞬間――
「ヴィクター! 目をつむって!」
「――えっ?」
予定よりも早く飛んできた指示。ましてやクラリスが飛ばしたのは、攻撃を避けるためのものではなく、単純動作を指示するものだ。
聞き間違いか? いや、そんなはずはない。言われるがままにヴィクターがまぶたを閉じてすぐ、次の指示は彼の耳へと飛び込んできた。
「上から来てる! そのまま右に!」
「ッ! く、クラリス! さっきのはいったい――」
「まだ目は開けないで! 意識は大丈夫? ハッキリしてる?」
「ああ、問題ない。問題はないが……だけどこのままじゃあ、なにも見えなくて狙いがつけられない!」
閉じた暗闇の向こう、彼女の声はより鮮明にヴィクターへと届いていた。
目をつむったことで、『ポール』が発する光を直視せずに済んだからだろうか。魔獣の洗脳効果が弱まった。
胸の辺りに拭いきれない気持ちの悪さが残ってはいるものの、それ以上の悪影響は感じない――いや、そんなことは分かっている。最初から分かっている。
『ポール』の魔法があの目玉の発する光を見ることをトリガーとしているのならば、それを見なければいいだけの話だ。それくらいのこと、ヴィクターは最初から気がついていた。
それでも彼がクラリスにサポートを頼み、無理をしてまであの目を直視していたのは他でもない――敵の弱点へと狙いがつけられないからだ。
しかしクラリスはわずかに口の端を上げると、正面から真っ直ぐに『ポール』を睨みつける。
怖くないと言えば嘘になる。もちろん彼女が考えている作戦が上手くいく保証もない。それでも、不思議と失敗するなんてことは微塵も思わなかった。
「……それなら大丈夫。ヴィクターはこのまま目をつむって私の声を聞いていて。代わりに私が目になって、全部指示を出す。最初に指示をしろって言ったのはアナタでしょ? なら……今だけはなにも考えないで、私に従ってほしいの」
「でも――」
「お願い! 私を信じて!」
「……」
なにかを言いかけたヴィクターの口が止まる。任せられない、心配だ、このままで行こう――果たしてなにを口にしようとしたのだろうか。とにかく作戦を変えずに自分を信じて、彼は『ポール』を倒そうとしていたのかもしれない。だが――
――馬鹿だな。一度はクラリスを信じると誓ったはずなのに、結局ワタシが信用していたのは、彼女じゃなくて自分の腕と経験だけだったなんて。
必ずクラリスは導いてくれる。いつもヴィクターを一番近くで見ている彼女が、間違った道を示すはずがない。
彼は無意識に右手を上げて、耳元のイヤリングに触れた。あれだけの攻撃を受けて、爆風に揉まれていたにも関わらず、彼らの瞳の色を象った宝石は――たしかにそこに存在していた。
「――分かった。キミに全てを委ねるよ。クラリス。我々の手で、この馬鹿げた事件に決着をつけるとしよう!」
「ありがとう、ヴィクター――今度こそ、行こう!」
雲の切れ間から陽が差し込む。
照らされたクラリスの目は、魔獣の目にも作り物の石ころなんかにも到底劣らない真の輝きを放っていた。




