君を離すために命をかけたのに間違えるから。
「おはようございます。髪切ったんですね」
「おはよう……うん、ちょっと毛先だけ……よくわかったね」
菅原未那さんは今日も引き攣った笑顔で僕の挨拶に応える。この人は感情が顔にでるから好きだ。
♢
僕は父親の顔を知らない。
毎月母親が養育費を受け取っていたようだから存在していることは知っている。
「あなたがいないと生きていけないわ」
僕の世話を祖母に任せきりにしてほとんど顔を見せないのに、こんな言葉をかける母が幼いながらに恐ろしかった。すぐに財布としての意味だと理解したけれど。
母は会うたびに違う男を連れていた。確かに子どもから見ても美しい人だった。性根が腐っていても美しく儚げな花を見事に演じていた。
中学生のとき、母は家に帰らなくなり、僕は祖母の故郷で暮らすことになった。
♢
入社して初めて菅原未那さんの顔を見たとき、思わず息を呑んだ。死んだ母親に雰囲気が似ていたからだ。
「森野です。よろしくお願いします」
自己紹介のとき、無表情で見つめてしまった僕に彼女は苦笑いを返した。
――もしあの女だったらそんな顔をしない。
僕の存在をないもののように接していた母親。幼いころはかまってほしくてワガママを言ったこともあったけれど、まったく相手にされなかった。でも母に似た菅原さんは違う。嫌ならイヤな顔をするし、たまに笑うこともある。母の笑顔を知らない僕は、彼女を盗み見ることが楽しみになった。
♢
祖母と暮らしていた村には御神木がある。そこには縁結びの神様がいると言われていて、御神木を囲む柵に、縁を結びたい二人で編んだ麻の紐を結びつけ祈れば、固い絆で結ばれると信じられていた。僕も恋人同士が麻の紐を結びつけている姿を目にしたことがあった。
「和史はこんなものあてにするんじゃないよ」
普段穏やかな祖母が御神木のそばを通るたびに厳しい顔で言うものだから、一度理由を聞いたことがある。
「絆は自分で結ぶもの。神の力を借りたあの紐の絆は強すぎて、断ち切りたくても断ち切れないんだよ」
「おばあちゃん?」
「いやだ、わたしったら何を言っているんだろうね」
自分が言ったことなのに慌てた様子の祖母をみて、僕は御神木が気味の悪いものだと思うようになった。
縁切りの石の噂を聞いたのは高校生のとき。縁結びの紐をその石で切れば穏便に縁が切れるというもの。
僕はそんな都合のいい話があるものかと疑ったが、なぜか皆はスンナリ受け入れていた。
石は本当にあると写真まで見せられた。歴史の授業で習った石包丁のような形をしていたから、本来なら収穫に使われるものがこんな用途で使われたらイヤだろうなとふと思った。
次に聞いた石の噂は、別れ話のもつれで男が逆上し、縁切りの石で女を殴りつけ大怪我を負わせたのに、二人は復縁し結婚間近だというものだった。
やっぱり縁を切る石ではないというオチとして話されていたが、僕は石の使い方を間違えると反動がくるのだと怖くなった。誰にも言わなかったけれど。
それから二、三日後に、あの石がうちの床の間に飾られているのを見たときは目を疑った。写真より大きく見えたがあの石だとわかった。置いたのは祖母だった。
「夢で見た石が家の前にあったのよ」
いつもの祖母と違い、どこか間延びした言い方が気になった。でも「これは幸せをもたらす石なの」と嬉しそうな顔をされて何も言えなかった。
数日経った深夜、何年かぶりに母親から電話があった。父親が死にそうで僕に会いたがっていると言う。僕は婚外子で認知されていないことは既に知っていたし、母に群がる男の一人という認識でしかない。だから今さら会う理由がなかった。
「会わない」と言えば、母が「あなたのため」とか「大学に行きたいでしょう」と猫撫で声で懐柔しようとしてきた。面倒になり無視して受話器を置くと、祖母が暗闇からヌッと現れた。寝ぼけているのか目はほとんど閉じていた。
「ごめん、起こした?」
声をかけたが返事がなく、祖母は自室とは反対方向の和室に歩いて行く。心配になり後を追うと、祖母は部屋の前で待ちかまえていて、中へ入れとばかりに背中を押された。
電気は消えているが月明かりで中の様子はわかる。
部屋の真ん中にあの石が転がっていた。
形は角ばっていたはずが丸みをおびており、さらに大きくなっている。石がゴトゴトと音を立てた。
祖母は僕の頭をそっと撫で、「こうやって優しく触れながら、縁を切りたい者の姿を思い浮かべて名前を言うんだよ」と言った。それが正しい作法だったらしい。軽く触れると石はヒンヤリとしていた。
「どうか森野宏香と縁を切らせてください」
言い終えて石から手を離すと、闇が深くなり何も見えなくなった。
落ち着いてから電気をつけると、祖母の姿はなく石もなくなっていた。まさかと思い祖母に翌朝聞いてみると、夜中の出来事だけでなく石を拾ったことも忘れていた。
母が事故で死んだと知らせがきたのは、その会話のすぐあとのことだった。
♢
「彼に贈る誕生日プレゼント、何にしよう」
休憩中、向かいのデスクで菅原未那さんが同僚の沢村さんに恋人へのプレゼントについて相談していた。
「普段使いのものでいいんじゃない?」
「財布は三年使ってるって言ってたけど、結構値が張るからなあ」
チラリと沢村さんが僕を見た。僕が菅原さんを意識していることをわかっていてのことだ。好きなら奪えというような言葉を向けられたこともある。
「男の人って恋人から何をもらったら嬉しいと思う?」
菅原さんが沢村さんの視線を追い、僕を見て一瞬真顔になったが、明るい口調で質問してきた。
「好きな人からもらうものならなんでも嬉しいと思うよ」
無難に答えると菅原さんからは、あんたの意見なんてどうでもいいけどね、という表情を向けられた。
(その顔も好きだと言ったら軽蔑されるだろうな)
僕の秘めた想いは歪んだものだと自覚している。母から得られなかったものを与えてくれる彼女を母のように感じたり、笑顔を垣間見たときは死なせたことすら許される気がした。こんな僕に惚れられた菅原さんは不幸だと思うが、想うだけだから許してほしい。
祖母が亡くなった。
僕は唯一の味方を失くし、心にポッカリと穴があいた。
何かに縋りたいと自然と足が向かったのは縁結びの御神木だった。僕はそこに救いを見出した。
翌週、再び御神木の前に立つ。
こんな方法は間違っているかもしれないが、それでも構わなかった。僕は菅原さんの毛髪を編み込んだ麻の紐を柵に縛りつける。そして御神木に祈った。どんな関係でもいいから彼女との縁を断ち切らないでくださいと。
それから何日か経ったあと、菅原さんから初めて飲みに行こうと誘われた。
恋人に振られて落ち込んでいると言う。
ホテルにまで誘われたから、僕のことを好きかと聞いたら、好きだと答えた。
これが祖母の言っていた神の力ならば、心を歪ませる代償はどこにいくのかと思うと、幸せより不安が強かった。
代償は僕にきた。
日を重ねるごとに彼女への想いが強くなり、彼女を取り巻く全てのものが愛しく感じるようになった。自分でもそれがおかしいとわかっていてもどうにもならなかった。
反対に彼女の気持ちはどんどん冷めていくのが手に取るようにわかる。
なんとか気持ちを振り向かせようとしても空回ってばかりでうまくいかない。
縁を繋いだのもそんなつもりではなかったと彼女に対して申し訳なく思う。祖母にもあんなに言われたのに。途方に暮れて立ち止まった先に、あの日消えたはずの縁切りの石が転がっていた。
僕は彼女を解放する手立てを見つけ、縁切りの石の噂を流した。
僕から縁を断ち切るのは無理だから、彼女に僕を殺してもらうしか方法が思いつかなかったから。
それでもまだ望みがあるかもと食事に誘ってみると、彼女らしくない前向きな返事が戻ってきた。別れると決めたか、石の話を聞いたのかもしれない。
その日は自分が先に退勤したので、願うならこのタイミングだろうと思い、神社の裏で彼女が通るのを待った。
「もりの……かずし……と縁を切りたいです」
彼女は予想通り縁切りの石に願ったのだが、聞こえてきた言葉に力が抜けた。
僕の名前はかずふみだ。
まさか名前を間違えるなんて。
石が赤黒く変色し、変色した部分がパリパリと音をたてて剥がれた。剥がれたものが未那の顔や腕に張りつく。彼女には何も見えていないのだろう。顔をあげた彼女は晴々とした表情だった。
きっとあれは本来僕にくるもののはずだ。
それならば僕が死ぬことはない。あんなものを張り付かせた彼女が無事で済むのか。心配する気持ちと今は顔を合わせたくない気持ちの間で心が揺れた。
結局僕は食事に行けなくなったと連絡し、会社もしばらく休むことにした。
ただ、縁切りの石の影響が多少はあったらしく、いつのまにか会社をやめる話になっていたのは驚いた。
時間ができたので祖母の家でのんびり過ごすことにした。御神木の近くにいるからか、未那への気持ちが膨らみ続ける。
ある日彼女が僕に笑いかけてくる夢を見た。
目覚めて、膨らみ続けたものがパンッと弾けた。
今すぐ会わなければと思い、車にのりこむ。カーナビに知らない住所がセットされていた。そこに彼女がいる。
弾む心のままそこに行けば彼女が男といて、バースデーケーキを受け取っていた。男の誕生日らしい。30歳だからロウソクは3本ねと声が聞こえた。
店を出て二人は並んで歩いている。どうやら家は近いようだ。幸せそうに微笑み合い、前を歩いている仲睦まじげな老夫婦を見て「ああいう夫婦になりたいね」と言葉をかわしている。
――君も永遠の絆が欲しくなったんだね。大丈夫。僕となら神から授かった絆で離れることはないから。
二人はマンションに入っていった。
しばらくして4階の一室に明かりがつき、彼女の影が見えた。
このままインターフォンをならして顔を見られたら彼女は出てこないだろう。それなら直接訪ねた方がいい。
しばらく待つと他の住人が帰ってきた。にこやかに挨拶をしながら住人のうしろにつきマンション内へとすべりこむ。
階段で4階まで上がる。家のチャイムを押すと幸運なことに直接ドアが開けられた。
男へ誕生日おめでとうと言えば、警戒されドアが閉じられそうになり、足でそれを止める。
彼女が顔を覗かせる。
今、彼女の準備ができたから呼ばれたのだと唐突に理解した。
名を呼び手を伸ばすと、彼女はぎこちない愛の言葉とともに僕の手をとった。あの日の祖母のような間延びした声。何かに操られているとわかっていても嬉しかった。
――僕は君がいなければ生きていけない。
それから僕と彼女は結婚して穏やかな生活を送っている。彼女の心はまだ僕を受け入れていないとしても。
今日、彼女の顔に張り付いていたものが少し剥がれた。
彼女が僕を受け入れはじめたのかもしれない。その夜、彼女は自分が消えてしまいそうだと不安そうに言った。僕は彼女を抱きしめ背を撫でる。
「全てを受け入れた君は本当の未那ではなくなるだろう。それでも僕は君の全てを愛し続ける。だから自我が消えても心配ないからね。安心していい」
そう伝えたら、未那が初めて涙を流した。
読んでいただきありがとうございました。
結局、怪異の正体はわからない話なので、モヤモヤさせてしまったならすみません。