向かいの家のキンモクセイ
今年もまた、向かいの家のキンモクセイが花を咲かせた。
九月下旬の朝。秋といえども、温暖化の影響だろうか、まだ夏は完全に過ぎ去っていなかった。
ギリギリ車が入れるほどの幅を隔てた向かいの家には、今はもう誰も住んでいない。
ただ壁に亀裂の入ったこげ茶色の瓦の家が、ひっそりとたたずんでいる。
向かいのキンモクセイが初めて花を咲かせた時、俺はまだ幼稚園に通っているころだった。
その頃はまだ壁に亀裂は入ってなく、人も住んでいた。
今はもう跡形も無い、川原と書かれた表札も、当時は新品そのものだった。
その家に住んでいた女の子は、とても可愛らしかった。
すらっとした顔で、長い黒髪を頭の横で結んでいて、いつも植木鉢に水をやっていた女の子。
でも、名前は知らなかった。確か幼稚園も違った。
その女の子を窓から眺めるのが、小さい頃の俺の日課だった。
朝ごはんを済ませて、お母さんに制服を着させてもらう準備をする時間、決まって植木鉢に水をやっていた。
そのほんの何分かが、毎日の楽しみだった。
でも、その女の子とは一度も目が合わなかった。
きっと向こうは俺の存在すら知らなかっただろう。
それでも俺はその女の子を眺め続けた。
それが初めての恋だという事に気付いたのは、もっと先の事だった。
そんなある日、幼稚園からの帰りに、大きなトラックを見た。
引越し屋のトラックだった。
家と向かいの家の間にちょうど止まり、荷物をどんどん乗せていく様子を、俺はまじまじと見つめた。
今日の様な、秋の日の事だった。
それから数日。今度は一台の乗用車が同じところに止まった。
その乗用車の前に、あの女の子がうつむき気味に立っていた。
可愛い服に包まれた、可憐な女の子。
その女の子が、初めて咲いたキンモクセイの前にしゃがみこんだのが見えた。
俺は何を思ったか、急ぎ足で外に出た。
裸足のまま外に出ると、キンモクセイの甘い香りが鼻を誘った。
ゆっくりと女の子の前まで歩き、同じようにしゃがみこんだ。
「だれ?」
女の子が俺の方を向いて話しかけてきた。
「ゆうと」
ゆうととは、俺の名前だ。
「なんさい?」
笑って話しかけてくる女の子。
「ごさい」
すると女の子は柔らかそうな細くて白い右腕をすっと伸ばし、小さなキンモクセイの花弁を優しくちぎりだした。
きょとんとしている俺に、女の子は優しい笑顔で頭を撫でてきた。
「てぇだして?」
何が起こっているのか分からず、体が固まる俺。
すると女の子は左手で俺の右手首をつかんで、中途半端に開いている手のひらに、ひとつずつ小さな花弁を乗せていった。
「ごさいだから、ごこあげる」
綺麗に並べられたキンモクセイの橙色をした花弁をじっと眺める俺。
「おほしさまみたいでしょ」
また優しい笑顔で俺に笑いかける。
キンモクセイの甘い香りと女の子の優しい笑顔でぼーっとする俺。
目の前がぼやけて見えた。
「かおり、そろそろ行くわよ」
「は~い」
女の子の母親だろうか。
その声の方へと走って行ってしまった。
エンジンがかかる音が聞こえ、ゆっくりと走り出す乗用車。
その車をずっと目で追い、中にいる女の子を眺めた。
その姿が確認できなくなっても、ずっとその方向を見続けた。
お母さんの声で家の中に戻った俺は、おもちゃのお茶碗にキンモクセイを綺麗に並べた。
握りしめていたせいか、しおしおになっているキンモクセイ。
星型のそれからは、まだ甘い香りがしていた。
そして手のひらからも、同じように香った。
女の子と突然に会えなくなってしまった。
それが理解できた次の日の朝から、キンモクセイを見る日課をやめた。
それから毎年、キンモクセイが咲くたびに女の子のあの笑顔を思い出した。
そして今年もまた、向かいの家のキンモクセイが花を咲かせた。
また女の子の顔を思い出してしまった。
可愛らしいすらっとした笑顔。
あの時と同じようにしゃがみこみ、溜め息をひとつついた。
「――あの……」
目線の先にあるキンモクセイに左から影がさした。
見上げてみると、綺麗なすらっとした女性が立っていた。
「……どうも」
ぎこちなくあいさつする。
「……どうも」
女性もぎこちなく返してきた。
「この家、誰か住んでいますか?」
綺麗なピアノの様な声で聞いてくる。
「誰も住んでいませんよ」
「良かった。今度こっちに引っ越そうかと思ってまして」
「そうですか」
「ええ……」
しばらく沈黙が続いた。
先に口を開いたのは、女性の方だった。
「このキンモクセイ、実は私が育てたんですよ」
「えっ、あっ、そうなんですか」
「ええ」
まさか、あの時の女の子なのだろうか。
確かにどこか似ているような気がしないでもない。
「引っ越しの日の少し前の初めて咲いて、とっても嬉しかったなぁ」
「そうなんですか」
間違いない。あの女の子だ。
綺麗に成長されたんだな。
「引っ越しの当日に男の子がやってきて、私の隣にしゃがんだんです。で、その子にキンモクセイをいくつか摘んであげました」
「へぇ……」
「その男の子、ちょっと好きだったんですよ。一回もバレンタインチョコはあげてないですけど。キンモクセイに水をやる時に、時々横顔をみかけて。一度も目は合わなかったんですけどね。でも……ちょっと好きだったんですよ。ちょっとだけ」
キンモクセイの甘い香りが不意に俺の鼻をつつく。
急な告白に、鼓動が速くなる。
時間差とはいえ、平常心ではいられない。
「父の急な転勤で離れる事になって、結局バレンタインまでこっちにいられなくて、だから、チョコの代わりって言ったらおかしいですけど、大好きなキンモクセイの小さな花弁を――」
俺は次の瞬間、無意識で言葉を発していた。
「それ……五つじゃないですか?」
「えっ?」
「僕、幼稚園の時に、向かいの家の女の子にキンモクセイを五つもらったんです」
「えっ?」
固まっている女性だが、その表情の何パーセントかは、笑みが見えた。
「かおりさん、ですよね?」
一応、確認のため。
すると女性は少し上目遣いで返してきた。
「ゆうと、くん?」
それから二人で色々な話をした。
あれから引っ越し先で何人か付き合ったこと。
でも俺は誰とも付き合えなかったこと。
引っ越し先にはキンモクセイを咲かせられなくて、残念だったこと。
でも俺はこうして他人のキンモクセイを咲かせ続けられたこと。
そして、いつしかキンモクセイの甘い匂いに誘われて帰って来たこと。
偶然会えてすごくうれしかったこと。
もしかしてと思って、わざと他人事のように告白したこと。
そして、俺がそれに応えたこと。
空がキンモクセイの色に染まるまで、話し尽くした。
そして、『かおりさん』は去って行った。
キンモクセイの小さな花弁を二十二個摘んで。
そのうち向かいの家に立てかけてあった「空家」の看板は外され、次の日からあの日課は復活した。 毎朝、キンモクセイとかおりさんに挨拶をする日課だ。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
あの日のように、像の形のじょうろで優しく水をやるかおりさん。
出かける前の日課だそうだ。
毎日のように目が合い、毎日のようにかおりさんが微笑んでくれる。
これから幸せな日が続きそうだ。
ばっちりいい服を着て、玄関を出る。
それと同時に、キンモクセイの横からかおりさんが出てくる。
大人っぽい服装で、小さくお辞儀してきた。
「じゃあ、行きましょうか」
「ええ」
風の強い日曜日。
風に乗ったキンモクセイの花弁が五つ、ポストの上に乗った。
あの日のように綺麗な星型をして、甘い香りを辺り一面に放っている。
季節はもう完全に秋だった。