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フェイカー   作者: 光田光
7/13

空章(2) 今はなき世界

空章(1)の続き

約30000文字(空白・改行含めず)

                   12


 一週間。たったの一週間で、カイは作り上げた。

「これが完成機だ。」

 試作機と比べると、大きな違いはないが、一つだけ変わったことがあった。

 胸の辺りに取り付けるであろう装置が加えられていた。

 ジェットコースターの安全シートベルトのように、通常は上げられていて、人が座った後にその装置を下ろして胸に取り付けられるようになっていた。

 装置の真ん中には、約二十センチの円柱状のものが外側に向かって伸びていて、蓋のない上面がちょうど胸の中央、みぞおちの上に来るように設計されている。実際に装置を起動すると、円柱から胸に向かって、青白い光線が当てられる。どうやらこれで魂の情報を読み取るようだ。

「カイ、全然寝てないでしょ。」

「少しは休まないと、いくらカイでも倒れるよ。」

 二人が心配するのも当然だった。

 この二週間、カイは二人と一切会話することなく、一日中研究室の奥の部屋に籠っていたのだ。水や食べ物を用意しても、ほとんど口にしなかった。寝ているところも見ていない。実際、顔面蒼白で、目の下にくっきりとくまができていた。

「カイ、聞いてる?」

 日向が歩み寄って、肩を揺らしても反応がなかった。

「!?」

 (体が、冷たい。それに力が全くない……。)

 カイの体の違和感に気付いた時にはもう遅かった。

 意識はプツリと切れて、倒れてしまった。

 今度は日向が体を受け止めた。

「カイ!」

 リッカも駆け寄る。

 二人は顔を合わせた。

「一体、カイに何が起きてるの……?」


 病院に運ばれたカイは、まるで死んだかのように眠り続けた。


 目が覚めぬまま、四日が過ぎた。



 ガラガラガラ、と静かに扉が開かれた。

 入ってきたのは、一人の男性。

 病室の右奥へ進み、カーテンを開ける。

 一組の男女がベットの側に座っていた。

「九重社長……。」

 日向が立ち上がろうとしたが、九重が止めた。

「まだ起きないのか。」

「はい……。」

 日向は、ベットに目を向ける。

 布団の上からカイの体に手を置いた。哀愁の気持ちが感じられた。

「相当体が憔悴していて、一時は命の危険もあったとの事です。」

 リッカは社長に、簡単な状況を説明した。

「社長は、カイの右眼の変化について知っていますか?」

「ああ。本人から聞いてるよ。」

 日向は九重に尋ねた。そのまま話を続ける。

「その時からの担当医がこう言ってました。カイの体には、人間の理解が及ばない現象が次々と起こっている、と。今回も、根を詰めて働きずきたにしては、明らかにおかしい弱り方らしいんです。それに、そもそもどうして急に倒れたのかも原因がわかっていないようです。担当医はこうも言っていました。まるで命を吸い取られたみたいだ、と。」

「……辛い気持ちは分かるが、我々がやるべき事は他にある。」

「仰る通りです。社長。」

 リッカは、日向の肩に手を置いた。

「明日が委員会との約束の日です。カイが改良した完成機については、今のところ報告するつもりはありません。私たちも詳細を知らないので。けれど、心配しないでください。カイがいなくても、僕と日向の二人で、委員会への報告をします。」

「うむ、では明日の委員会会議で。」

 九重は風のように静かに立ち去った。

「僕たちも行こう。」

「……うん。」

 家族の身を案じながら、日向はリッカと共に病室を後にした。


                    13


 翌日 午前十時。

 会社の最上階にある、委員会会議専用の会議室。

 だだっ広い部屋の真ん中に、楕円をさらに押し潰して細くしたような大きな長机が置かれていた。数メートル毎に椅子が置かれている。数は十一個。一つは社長用のひときわ豪華な椅子。そこから辺に沿って等間隔に委員会の有権者たちの椅子が並んでいる。

 社長が真っ直ぐを向いた時の視線に、ちょうど垂直になるように巨大なスクリーンが天井から垂れている。ここに議題に関する資料などが映し出される。

 今日は全員が出席している。通常なら数名は中継を繋ぎ、別の場所から参加するのだが、今回の会議がどれほど重大かがうかがえる。

 自由開発部が何も成果をあげていなければ、即時解体。予算も浮き、もしかしたら新しい部署の設立や計画案が提示される可能性もある。

 仮に成果をあげていたならば、見極めなければならない。それが真なら、歴史が大きく動く時である。

 時刻が十時になった瞬間、静寂を破るように扉がノックされた。

「入れ。」

 強く、短い言葉だった。そこにはいつもの陽気な九重はおらず、社長としての九重がいた。

 リッカと日向が部屋に入ってきた。

 二人は社長の正面に立つと、社長や委員会の人たちに丁寧なお辞儀をした。

「本日は、我々自由開発部の研究報告をさせてもらいます。」

 日向が手に持っている小さな機械を操作すると、巨大なスクリーンに画面が表示された。

「結論から言いますと、我々の研究は成功しました。」

 一気に会場がざわついた。

 しかし、社長が瞬時に周りを制して、会場に再び静寂が訪れた。

「本日は、我々の軌跡を辿ることで、この研究への理解を深めてもらいます。」

 画面は変わり、閉じられた世界の様々な光景が、次々と映し出された。

「この世界についての理解が、我々の第一歩でした。ありとあらゆるものが人工物に置き換えられた世界。外の脅威から身を守るために取った、人類の選択の結果です。少数の人類は閉じられた世界で生き延びることに成功しましたが、人類は緩やかな衰退を迎えることになります。緩やか、というのが怖いところです。人々の認識の外で拡張し、気付いた時には手遅れ、というのが今の世界です。寿命は短くなり、不治の病は増え、子供はできにくくなりました。それは何故でしょうか。……残念ながら、解明には至りませんでした。ただ、()()()()()()()()()()()()()()()()、ということが分かりました。これは重要なことです。そこで、我々はこう再定義しました。この世界において、人類の救済は不可能、と。」

 場内はまたもやざわつくが、気にせず話を続けた。

「あくまで、この世界において、です。では、どこなら人類は救われるのでしょうか。その解答は、自分が思い描く理想郷、です。……もちろん、私は理想論者になったつもりはありません。みんながみんな、自由に想像する幸せな世界に行けるなら、それは素晴らしいことだけど、それを論ずることに意味があるのかと、鼻で笑われるかもしれません。もう一度言います。私は理想論者ではありません。我々は、今までは理想だったものを、現実のものにしました。一人一人にそれぞれ理想郷を用意し、そこへ旅立たせる。これが、我々が実行する人類の救済です。それを次のように再現します。」

 画面が左右に割れて、右には電脳空間が、左には、人を電脳空間に送り出すための椅子型の機械が映された。

「画面に見えるこの二つをもって、我々は夢のような世界へ行くことが出来るのです。これから詳細を説明します。」

 画面の中央線が左へ動き、一面に電脳空間が映し出される。

「皆さんの理想郷は、電脳空間上に作らせていただきます。これは基盤となる巨大な電脳空間です。この巨大な電脳空間は、無数の小さな電脳空間を内包できるようになっており、それが、個々人がそれぞれに思い描く理想の世界なのです。まるで自分の部屋に入るように、それぞれが自分だけの理想郷へと旅立つ。そのことからこの小さな電脳空間を、我々は『ルーム』と呼んでいます。」

 画面は切り替わり、椅子型の機械が一面に映された。

「この椅子型の機械、正式に名前は付けていませんが、ここでは『サルベート』と呼ぶことにします。サルベートの背中部分から数多くの管が伸びていますが、これは並列されたスーパーコンピューターに繋がれています。椅子の頭にあたる部分にはヘルメットが付けられており、使用時には装着してもらいます。ヘルメットは、装着者の脳波の解析、及び記憶を担います。」

 ここで、スクリーンは真っ白な画面に戻った。

「大まかな説明を終えたところで、実際に順を追っていきましょう。」

 ここからは、リッカの説明に合わせて、スクリーンの中央に黒文字のみが表示されていった。

「一、ルームの形成。

 ヘルメットを装着し、装着者の脳波を解析。無意識に埋もれた欲望や願望をも汲み取り、記憶します。それを元に、スーパーコンピューターが巨大な電脳空間の中にルームを形成します。

 ニ、電脳化と投影。

 これは一と並行して行われます。全身の細胞、血流、脈拍、機能、電気信号など、あらゆる生体情報を基に、その者の体を作成。ルームに投影します。

 三、人格の覚醒。

 ニで作成した体は、一意的な情報によって作られたものであるため、ルーム上では一切変化しません。利点ではありますが、ある問題を解決することはできません。それは人格です。作られた体は、いわば空っぽの容器なのです。そこで、体を作成した後も情報を取得し続け、それをルーム上の体に送ります。そうすることで、ルームの体に、その人特有の変化が起こり、人格が発生します。発生する人格が、当人のものと極めて酷似していることは我々が実証済みです。」

 ある者は驚愕し、ある者は困惑し、ある者は懐疑した。

 そしてある者は、希望を感じた。

「しかし、まだ課題は残っています。今のところ解決すべき問題は二点。全ての工程を終えるのに、最低でも一週間かかってしまうこと。そして、サルベートの台数が一台しかないことです。」

 リッカは指を一本、二本と立てて説明した。

「ルームへ送るだけなら台数が一台でも問題ないのですが、情報を更新し続けるには、サルベートに繋いだ状態を維持しなければなりません。そうなると、人類の総人口分サルベートが必要ということになります。課題はまだまだありますが、我々の研究は、十分な成果を上げたと思います。

 以上で、我々自由開発部の研究報告を終わらせていただきます。」

 スクリーンの画面も真っ暗になった。

 委員会の連中が周りとコソコソと話し始めた。

 日向はリッカに歩み寄った。

「お疲れ様、リッカ。すごく良かったよ。これで自由開発部は――――」

「一ついいかね?」

 委員会の一人が喧騒を打ち破って手を挙げた。

「初めに、人類の救済、その可能性を示してくれた君たちの研究に賛辞を。」

「ありがとうございます。」

「本題だが、この実験のサンプルはどれくらいあるのかね?」

「現状、私とこちらの宗宮日向、両名が実際に試験しました。」

「確かに、そうここの資料には書かれている。」

 配布された資料の該当箇所を見せながら、委員会の一人はさらに続けて、

「しかし、サンプルが少ないと思うのは私だけだろうか。誤解しないでくれたまえ。成果は疑っていない。ただ、身内二件のサンプルだけでは、やや不十分だと思わないかね?」

「……おっしゃる通りです。人類の救済という大きな旗を掲げるには、相応の信頼を示すだけのデータが必要となります。」

 実は、これはリッカも気にしていたことだ。

 今回の報告会は、あくまで自由開発部の存続を勝ち取ることが目的であり、より詳細なプランは改めようとしていたのだ。特に、サンプルの少なさは最大の懸念材料だった。

 以前、リッカと日向は完成されたサルベートを使って実験した。ただし、その時は電脳空間上に理想郷を作ることはせず、こちらで用意した疑似地球サンプルの空間に体を形成したのだ。実験は成功であった。一週間という長い時間現実の体の情報を得ることで、本人そっくりの特性を持つ体を作り上げることができた。

 しかし、そこは問題ではない。むしろ、少ないサンプルとはいえ成功例なのだから、前面に押し出して、今後の研究でサンプルを増やしたいですだから自由開発部を存続させてください、そう訴えた方がベターだ。

 問題は、その実験をしたのが、カイがたった一つのサルベートを改造する前だったということ。そして、今そのサルベートを扱えるのはカイしかいないということだ。

「どうかね。我々の前で実証実験してみるというのは。」

 来た。最悪の言葉が。

「…………。」

 目線は真正面で固定されている。その先には、九重社長がいた。

 隣で日向が、どうする、と質問してきたが、リッカの耳には届いていない。

 九重もリッカの目線に合わせていた。お互い、目線だけで会話しているようだった。

 やがて、九重は目を閉じて目線を切った。了承したかのように日向には感じられた。

 リッカは、口元をキュッと強く結んだ。その口元は微かに震えている。覚悟と躊躇が入り交じった表情だった。しかし、刹那に選択を決めたリッカは、マイクを再び手に持った。

「皆さんに、加えて報告させてもらいたいことがあります。」

 全員が行動を止めて、リッカに注目した。

「今まで私が報告したことは、全て試験や実験を重ねて立証されたものであります。しかし、これから私が話すことは、立証がまだで、細かい理論も不透明でわかっていないことが多いですが、それでもここで報告する必要があると、私は考えます。」

 委員会の別の一人がその場で声を上げた。

「それは何なのかね。言ってみたまえ。」

 委員会会議は事実のみが共有される場であり、あやふやな報告は本来許されざるものであるが、自由開発部の研究結果が目覚ましいものであったため、話ぐらいは聞こうという雰囲気になったのだ。

「サルベートは、()()されてはいますが()()ではありません。」

「抽象的な表現はよせ。具体的に述べろ。」

 九重がリッカに注意した。委員会の連中が気を悪くしないようにするための助け舟であった。

 リッカは頭の中を整理して、ゆっくりと話し始めた。

「先程の報告では、ルームの体に生身の体の情報を入力し続けることで、その人の人格を含めた心身をルームで再現する、というものでした。しかしこれは、自分自身が電脳空間に飛び込む、というよりは、自分と寸分違わない人間を電脳空間上に作り出す、というものです。見方によっては、それは本人ではないと思う人も出てくるかもしれません。では、()()()、電脳空間に作り出された自分が自分だと言えるようにするには、どうすればよいのでしょうか。」

 部屋は物音一つなく、リッカが次に何を話すのか、皆がそれを待っている。

「魂、またはそう呼ばれる何か。つまり、自分の核、です。精巧にまねた体に、もし本人の魂が宿ったのならば、それは本人と言えるはずです。そしてつい先日、自由開発部の部長が、()()()()()()()()()()()。」

「「!!!」」

 会場全体がどよめいた。「馬鹿な!」「嘘をつくな!」など厳しい声が飛んだ。

 リッカは負けないように、一歩前に出て、マイクをより口に近づけた。

「さらに! 彼は、魂をルームの体に転送する装置を開発しました。それはサルベートに取り付けられ、今、我々の研究所にあります。これが本物ならば、一週間の時間がかかることもなく、情報を更新し続ける必要もなくなります。台数も一台あれば足ります。確かめる価値は十分にあるのではないでしょうか。」

 疑っていた人たちも、これには何も言えないでいた。

 そして、リッカは最後の言葉を言い放つ。今回の目的でもあり、委員会の議題でもあるそれを。

「我々は、自由開発部の存続を希望します。」

 もう、誰も何も言い返せなかった。

「自由開発部の存続に、異論のある者はこの場で発言せよ。」

 場内が答えを示していた。

 九重が会議の最後に、こう全員に言った。

「今日、ここで行われた会議について、その内容の一切を最高機密事項とし、この場にいる者だけが知るものとする。人類の救済という光が、本物の光なのかを確かめるまでは、その光が外に漏れて、混乱が起こるのを防ぐ必要がある。皆、心せよ。」

 

 ここに、自由開発部の存続が決定した。



 会議が終わり、役員たちが部屋を去る中、リッカ、日向、九重は残った。

 三人のみなったところで、ようやくリッカが口を開いた。

「これは僕の独断だ。責めてもらってもいいよ、日向。」

「ううん。カイのことを話した時は驚いたけど、結果的に自由開発部はなくならなかった。それで十分だよ。」

 九重が席を離れて、リッカの前に立った。

「お前の選択は最善だったと俺は思うぞ。ああいう言い方をすれば、今後、研究に協力する奴も現れるかもしれない。……まったく、カイといい、すっかり大人になりやがって。」

「恩義は、持ち続けるものではなくいずれ返すものだと、最近わかったのです。」

「そうか。」

 九重は安心したような顔を見せた。

「今後すぐに、委員会全員で、自由開発部の視察を行おうと考えてる。百聞は一見にしかずってやつだ。準備しとけよ。」

 リッカの肩をポンポンと軽く叩いて、九重は去っていった。


 予告通り、会議の二日後に視察が決行されることとなった。


                    14


「実演するに当たって、カイがいないことで問題がいくつかあります。まず、あれの操作方法についてです。従来と変わらなければ良いのですが、もし変更がされていた場合、カイでないと動かせない可能性があります。」

「それくらい、実際にやってみればわかることだろ?」

「そこが次の問題です。魂を送る、それが本当だとして、魂を現実の体に戻す方法が、現状ありません。」

「………つまりは片道切符、ということか。」

「はい。」

「………動物は無理か?」

「やったことはありません。」

「……こちらでどうにかしよう。」

「わかりました。ありがとうございます。」

「お前たちの機材は全て、第二支部に移す予定になっている。あんな狭っ苦しいところでは、視察なんてできないからな。」

「僕達はあそこが落ち着くんですがね。」

「わかってるさ。いずれ戻してもらうように取り図ろう。」

「何から何まで、本当にありがとうございます。」

「いや、本当はカイが目覚めてから行うべきなんだがな。上の連中が待ってられないってうるさくて。全く都合のいい奴らだ。」

「それは仕方のないことです。最善を尽くしますが、もし出来なくとも、出来なかった、ということがわかりますから。そうすれば上も何も言えなくなります。」

 リッカは社長室を後にした。


                    *


 カイは、まだ目覚めない。


                    15


 普段三人がいる会社は、『九重』の第一支部である。

 第二支部は、第一から車で一時間もかかる。

 委員会の会議があったその日午後から、機材の運搬が始まった。サルベート、並列型スーパーコンピューター、配線、などなどが運ばれることになるが、どれも大きいものであり、かつ慎重さが求められるので、意外にも時間はギリギリだった。リッカや日向にも、実際に動かしてみるまではどうなるか分からないので、二日間特にやることもなくいつも通り過ごした。

 カイの容態は安定しており、目覚めないのが不思議だと医師も話していた。

 当日は朝早くから第二支部へ移動し、機材の点検を行った。

 正午になると、機材の整った研究室へ、委員会の役員たちと社長の九重が入ってきた。そして最後に、眠らされてストレッチャーに乗せられた男性が一人、連れられてきた。

「九重社長、その男性は?」

 思わずリッカが尋ねると、九重はリッカにだけでなく、全員に聞こえるように言った。

「この男は、近いうちに死刑が執行されることになっている犯罪者だ。近年、極悪犯罪が後を絶たず、死罪を言い渡される犯罪者も増加傾向にあるのは周知だろう。今回、国に申請し、受理される形でこの死刑囚を扱うことが許された。国の中でもこの事実を知っている者は極小数であるが、もはやこの計画は、我々のみの力だけで動いているものではない。加えて、例えこの男がどんな男であろうと、これから行う事は明らかな人体実験である。成功失敗に関わらず、その意味をしかと受け止めろ。」

 一気に場の緊張感が増した。

 たったの二日でここまで手配できたのは、これまで彼がどのような道を歩んで来たのかを顕にした。

 リッカと日向、そして数名のスタッフが機材の最終準備に取り掛かった。眠らされた男性を、リッカとスタッフの男性陣がサルベートに座らせる。ヘルメットを被せ、円柱状の機械が取り付けられた胸周りの装置を準備した。どれにも無数の配線が繋がれていて、背後のスーパーコンピューターに繋がっている。準備が終わると、スタッフ達が部屋を出ていき、いよいよ二人の出番となった。

 日向は、震えていた。

 今回の実験は、今までのものとは違う。全てが不明瞭で、どのような危険があるのかが一切分からない。

 それに、ただの動作実験ではない。うまく事が進めば、『魂の存在証明』についての実験に移行する予定であった。

 怖いのだ。目の前の知らない男性を殺すことが。間接的であれ、崇高な目的のためであれ、この男性の命を奪ってしまうかもしれないことが。

「目を背けてはいけない。」

「!?」

 心を見透かされていて、ドキッとした。

 リッカは真っ直ぐに男性を見ている。

「どんな結果になっても、僕たちが彼の命を扱った事実は変わらない。それは僕たちの力不足からきたしわ寄せなんだ。だから心に刻み、常に忘れず、その意味を考え続ける義務がある。」

 リッカは、決して日向を特別扱いしない。たとえ気分が悪くなろうとも、周りにあれこれ言われようとも、どんなに醜い現実でも、遠ざけたりしない。この場にいるのがカイであっても同じことをするだろう。それが彼らの家族の形であり、愛であるから。

「リッカ、始めろ。」

「はい。」

 九重からの合図で、実験は開始された。

 日向の目は、既にしっかりと現実を見ていた。

 二人でサルベートを操作していく。

 まずは、起動と基本操作。カイが改良したこのサルベートが、従来と根本の操作から異なるものであれば、全てがご破算になってしまう。

 しばらく、キーポードを叩く音だけが響いた。観覧者も固唾を飲んで見守っている。

 音が止まると、サルベートのヘルメットの縁や随所がひかり、同時にピーと電子音が鳴った。胸の円柱からも淡い光線が男性の胸に向かって伸びている。

「起動、成功。」

 小さな歓声が上がる。

「リッカ、基本操作も変更はなさそうよ。」

「よし。ではルームの作成に移行。」

 今日は特別に、大きななモニターが用意されており、そこでルームの様子を映し出すことが可能である。

 今はまだ、大枠とも言える真っ白な巨大な電脳空間が映されている。

 リッカの作業が進むと、電脳空間に、小さな点が現れた。日向がモニターを拡大させると、その点が丸い玉の形をしていることがわかる。

「これが彼のルームです。」

 役員や九重は画面に釘付けだった。

「中は見えないのか?」

 役員の一人が質問した。リッカが手を止めずに答える。

「中はまだ作られていません。段々と肉付けされていくので時間がかかります。」

「でもリッカ、これって……」

「うん。確実に速い。この調子でいけば、あと数分でできあがる。」

 二人は、新しいサルベートの性能に驚きが隠せなかった。従来品では一週間もかかる作業が、十分程度に短縮あらゆら情報をされたのだから。

 (あらゆる情報を統合するやり方とは雲泥の差だ。魂を読み取っている、と考えれば納得はいく。)

「リッカ、考えることは後にしよう。」

「そうだね、ごめん。」

 止まっていた手を動かし始める。

 リッカの読み通り、あっという間にルームが完成した。

「彼のルームを覗いてみます。日向。」

「任せて。」

 画面はぐんぐんと玉に近づいていき、一度真っ白になった。

 (もや)のような白が消えていくと、

 そこは彼の理想郷だった。

 一面広大な草原。奥には山々が連なり、見事な青空には雲一つない。強い風が草を揺らし、心が澄む音を奏でる。

 周辺には何もない。建物も村落も。大自然の中、男が一人。空を見上げ、耳を傾け、全身の細胞を自然と同化させている。その顔は、とても満ち足りているように見える。

「これが…ルーム。」

 九重を含め、全員が、息を呑んだ。そして確信した。これは本物だと。ありきたりで、誰もが幸せだと感じる世界が構築されたのなら、むしろ拙いものだったと評価されたかもしれない。

 彼のルームを見て、自分も行ってみたいとは思う人が大勢いるとは思わないが、男性の表情を見れば、ここが彼の理想郷であることは容易に判断できる。そこに、個々人の救済を掲げるルームの存在価値が垣間見えた。全体を一つの幸せな世界に連れていくのではなく、個一つ一つに合った幸せを提供する。カイが考える人類救済の実態に、この場の全員が震えた。

 言葉も出ない役員たちと九重に、リッカは振り向いて声をかけた。

「これが、我々の思い描く人類の救済です。」

 リッカは席を離れ、役員たちの前に立った。

「実は、今日はただの動作実験ではありません。」

「どういうことだ?」

 役員の一人が食いつくように質問を投げかけた。

「九重社長には既にお話しましたが、もしサルベートが上手く動けば、魂に関する実験をここで行いたいと思います。」

 役員たちは口々に困惑の声を漏らした。そもそも魂と言われても想像しずらく、具体的に何を始めるのかがわからなかったのだ。

 リッカは一から丁寧に説明を始めた。

「まず、このサルベートが、仮定通り魂を扱うものとします。その場合、今、ルーム上の男性には魂が宿っており、現実の体には魂が存在しないことになります。」

 前の人達が理解を示したところで続けた。

「今回の実験を、僕達ではなく別の人にやってもらったのには理由があります。従来のものとは異なり、魂を扱うこのサルベートには、『戻ってくる』機能がありません。正確には、魂をルームに送った後、逆にルームから現実へ返す方法がないのです。」

「では……彼はずっとこのままなのか?」

()()()()()()()、そうです。ですがこの後、彼の命を使い、魂の存在を証明したいと思います。」

 リッカはサルベートの(そば)へと歩いた。

「現段階では、サルベートが魂を扱った証拠はどこにもありません。一週間かかる作業が十分(じゅっぷん)で終わったのも、ただ改良されたからかもしれません。そこで、一度サルベートの電源を落とします。サルベートとは、いわば現実世界と電脳空間を繋ぐトンネルのようなものなので、そうすることで、トンネルを通して繋がっていた二つの世界が完全に乖離します。サルベートが従来通り、生体情報を更新し続けることでルーム上の人物を形成しているのであれば、電源を落としたとしても、特に問題はありません。ルームの彼はこれ以上変化することなく、そして現実の彼も目を覚ますでしょう。しかし、魂が移ったのならば、電源を落とした時点で、現実の彼の体には魂が宿っていないことになります。今のように、トンネルを通して間接的にルームの魂と繋がっている状態とは違います。完全に繋がりが断ち切られるのです。それで彼の身に変化が起これば、それは魂の存在を証明するものになるはずです。」

 何もかもが未知で、そして歴史が動くかもしれない実験が、目の前で、始まろうとしていた。胸の高まりを感じる役員たちに釘を刺すように、日向が強く言い放った。

「仮に彼が死ぬようなことがあれば、それはれっきとした殺人行為であります。その罪も、責任も、全て私たちにあります。覚悟の上で、私たちはこの実験を行います。」

「日向……。」

 一瞬儚げな表情を見せたが、すぐに元の顔に戻った。

「実験を再開します。」

 二人は再び作業に取り掛かる。

「では、サルベートを停止させます。」

 リッカの指は、震えていた。口が乾き、変な汗が吹き出てきた。

 彼らは聖人君子ではない。少しの犠牲で進歩するなら、カイもリッカも否定はしないだろう。できるだけその犠牲が自分たちになるように努力はするが、他者に委ねられた時は正しく力不足、ということだ。

 それでも、その行為はとても恐ろしいものだ。口では簡単に言えるが、心は簡単に騙せない。

「リッカ。私もついてる。だから、大丈夫。」

 横を見ると、日向が微笑んでいた。自分も怖いはずなのに。

 リッカは指を下ろした。

 ウーン、と音がして、光っていた部分も色をなくしていき、円柱から出ていた光線も消えた。

 すぐにリッカは男性の元へ駆け寄る。男性が身に付けていた上着のボタンを外し、肌を露出させる。右手を胸に、左手を首筋に置いて、脈を確かめる。

「!」

 手を置き直し、全神経を手に集中させる。

 ……

 開いていた右手を、強く握りしめた。

「リッカ!!」

 日向が叫んだ。

 隣まで行くと、モニターに映っていたルームに異常が起きていた。あの草原も、山々も、高い青空も、全ての輪郭がどろどろに溶けていった。ついには、一度ザーっと砂嵐の画面に切り替わり、直後、真っ白な電脳空間に戻された。

「……」

 場は唖然とした。

 日向は諦めずに、必死に手を動かしたが、

「……ダメ。どこにもない。……彼のルーム。」

「……男性も……脈が……恐らく……。」

 名も知らぬ男が一人、静かに息を引き取った。

 彼は死刑囚だった。実験の被験者にされていなくても、近いうちに死刑が執行されたことだろう。だけど、だからといってその命を不当に扱うのは、許されざる行為だ。

「……少し時間をください。彼の身に起きた異常の原因を調べます。」

 二人は無言のまま作業を開始した。リッカがサルベート側、日向が電脳空間側の異常を調査し始めた。実験が始まった時とは別の静けさが室内を支配していた。

 やがてリッカが手を止めて、横の日向を見た。日向もしばらくして、首を横に振った。

「調べた結果、我々にはこの異常の原因はわかりませんでした。つまり、我々が知らない、または知る事ができない何か、が介在していることになります。」

 リッカは、沈む心をしまい込んだ。

「まず前提として、従来品では、このような事態は起きませんでした。自分たちを被験者にして実験を繰り返しましたが、体に異常を感じたことは一度もありませんでした。自由開発部部長のカイが、魂が見えるようになったと言ったのが始まりです。これは真偽が不明なのですが、彼自身がそう言った、そう思ったことは確かです。その後、彼はサルベートを改良しました。この時、胸の円柱状の機械が取り付けられました。この機械を調べても、私にはどういう仕組みで動いているのかさっぱりでした。この新型の詳細は、彼しか知らないのです。時間的観点から見ても、この二つの出来事を乖離して考えることはできません。何かしらの因果関係があると考えるのが自然です。そして、今日の実験です。従来では体のあちこちにベルトを巻いたりシールを貼ることで、あらゆる生体情報を取得しますが、今回はそれを行いませんでした。つまり、生体情報以外の何かを読み取って、それを(もと)にルームや人格を形成していることになります。注目点は二つ。時間の大幅短縮と、接続を切っただけで死んでしまうほどの何か、を扱っていたという事実です。これら全てを繋ぎ合わせると、一つに繋がります。」

「肝心の部長はどうしてるんだ?」

 しびれを切らした役員の一人が声を荒立てた。

「部長は……カイは、先日気を失って倒れてしまいました。今も意識が回復しない状態です。」

 それまでずっと黙っていた九重が割って入ってきた。

「カイの()については、共有した方が信憑性は増すかもしれないぞ、リッカ。」

 思案したリッカも同じ結論に達したのか、噂の眼について語り始めた。

「四色!?」

「驚かれるのも無理ありませんが、病院で検査しても、詳しくはわからなかったそうです。」

 つまり、人為的に、意図的に変化させたものではない。

「……。」

 役員たちは揃って頭を悩ませていた。しかし、それこそが答えなのだ。

「ここにいる全員に、理解不能な事が立て続けに起きている。つまりは、人類にとって未知な何かが存在することになる。それが魂なのか、それとも違う何かなのかは、現在持ちうる情報では断定できないということだ。」

 九重は役員たちへ言い放った。

「今日の実験はこれで終了する。男性の処理は私が行うため、皆、速やかに退室すること。今後の方針は、カイが目覚めてから検討するものとする。」



 一度動いた歯車は、もう止まらない。

 その歯車が見事に噛み合っていようと、醜悪に壊れていようと()()()()

 何故なら、第三者が、おもちゃ遊びみたいに、手のひらで転がしながら回しているから。回し方は重要ではない。この際、回っていなくてもよい。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そして、こいつは一度手にした歯車(おもちゃ)を簡単には手放さない。動かして、動かして、動かす。完全に動かせなくなるまで動かして、捨てる。

 だから、もう止まらない。

 


 同時刻。

 長い間眠りについていた男が、ゆっくりと覚醒した。


 彼の世界は、元に戻っていた。


                    16


 体に力は入らない。

 脱力したまま、この空間を()()()()()

 以前よりか幾分かは意識が明瞭だった。

 しかし、それが幸をもたらすとは限らない。何も見えないことは、日常では辛いことだが、状況が異なれば、むごたらしい惨状を見なくていいのだから。

 何もかも黒。他に、色という色は存在しない。闇を照らしてくれる(ひかり)も、色に富んだ真理も。

 ただ落ちていく。人が重力に逆らえないように、抗えない。

 ダメだ。

 まだそれは必要なんだ。

 どんなに乞いても、何も起こらない。奇跡など、そもそも存在しないのだから。人がそう思っているだけで、別の角度から見たら、変哲のない出来事なのだから。

 分不相応だったのか?

 人にはまだ早かったのか?

 なら、どうして見せたんだ?

 失うのなら、始めから持ちたくなかった。

 一本道だと思ってたのに、勝手に岐路を作られた。新たな道は凸凹(でこぼこ)してなくて、とても綺麗だった。踏み込んだ瞬間、世界が変わった。なのに、途中で道は無くなって、元の凸凹な道に戻された。今更、この一本道が綺麗だとは思えない。

 みんなにもあの道を歩いて欲しかった。自分にも、歩き続けて欲しかった。

 怒りや憎しみよりも先に、悲しかった。悔しかった。残酷な現実が。無力な自分が。

 こぼれた涙は闇に吸われて、誰の目にも触れることはなかった。

 ゆっくりと、記憶が、意識が溶けていった。


                    *


 第二支部を出たリッカと日向は、車で帰宅していた。

 現在、市場の車の百パーセントが自動運転車なので、二人とも後部座席に乗っている。疲れたのか、リッカは眠ってしまった。

 リッカは、そもそも外向的ではないため、人前で話すことに、想像以上の無理をしていたのかもしれない。いつもはカイの背中に隠れていたリッカが、カイがいない今、自分なりに周りを守ろうともがいていたのだ。環境の変化によって迫られたものでも、自分を変えることはとても勇気のいることだと、日向は知っている。

 その横顔を覗く。目が隠れてしまうぐらい長い前髪。毛先はボサボサしていて、あまり手入れがされていないのがわかる。肌は、男性にしては白すぎるのかもしれない。健康的には見えなかった。

 けれど、日向はそんな横顔をポーッと眺めた。ふと我に返って顔を赤らめた後、バックからスマートフォンを取り出す。電源をつけると、何件か端末に電話がかかってきていた。履歴を調べると、つい数分前から、一定間隔でかけられていた。その相手は――

 ブーー、ブーー。

 突然、電話がかかってきた。通知音を切っていたため、くぐもった振動音だけが鳴った。電話をかけてきた相手は、先ほどから電話をかけてきた相手と同じだった。

 カイが入院している病院である。

「もしもし。」

「もしもし宗宮日向さんですか?!」

 受付嬢の声は、つい耳を話してしまうほどの大声だった。そして、興奮しているのか早口だった。

「ど、どうかされましたか?」

「カイさんが目覚めたんですよっ!」

「本当ですか!」

 しかし、胸を撫で下ろすのは早かった。

「目覚めたのは数十分前なんですけれど、それが、……起きた途端錯乱してしまって、そのままどこかへ行ってしまったんです。」

「えっ!?では、今カイはそこにいないのですか?」

「はい。安定しているとはいえ、まだ安静にしていないと心配で……。彼の行きそうな所を当たってはくれませんか?」

「わかりました。自宅へ向かってみます。確認したら折り返し電話します。」

「ありがとうございます。こちらも周辺を捜索しているので、見つかりましたら連絡します。」

 通話を終了する。

 胸騒ぎが止まらない。

 とりあえずリッカにも知らせないと、と思い、一瞬躊躇ったが、肩を叩いた。

 手が触れた瞬間、リッカはビクッと過剰に反応した。

「ごめんね、リッカ。緊急なの。」

「大丈夫だよ。どうしたの?」

 カイが目覚めたこと、そしてどこかへ行ってしまったことを伝えた。

「……。」

 思い詰めたように気難しい表情だった。

「……会社に行こう。」

「いいけど、どうして?」

 表情を変えないまま、リッカは淡々と話す。

「僕の予想が正しければ、多分そこに向かったと思う。そして、恐らく、最悪の事態になっている。」

 日向には伝わった。リッカは、願っていた。何を願っているのかは分からない。しかし、聞くことはできなかった。


 会社に着いた二人は、すぐさま自由開発部の研究室に向かった。

 扉を開けると、そこは既に、自分たちの知る研究室ではなかった。強盗でも入ったかのように、書類は地面に散乱し、机や椅子は大きく位置を変えていた。

 そして、机に手をついて俯いているカイが居た。本当に、目覚めてから時間が経っていないのだろう。薄緑色の病院服を(まと)っていた。大きかった背中は、小さく(しお)れて見えた。

 日向がカイに向けて何かを言おうとした直前、リッカがそれを止めた。

「カイ。」

 詰問するわけでもなく、だからといって心配しているわけでもない。

 ただ、呼んだ。彼の在り方を表す記号を。

 呼ばれた本人は、なんの反応も示さない。

「カイ。()()()()()()()。」

「……。」

 机から手を離して、こちらをゆっくりと向いた。

 一つの感情では語れなかった。

 その顔は、複数の感情が乱れて、恐らく自分でも整理がつけられなくなっているのだ。

 堪えているような、諦めているような、絶望しているような、助けを求めているような。

 その原因は、一目で判った。

「やっぱり……。」

「カイ……右眼が……。」

 日向は口元を押さえて、ハッと息を呑む。

 (リッカはもしかして、この可能性を予見してたの?)

 これこそがまさしく、最悪の事態だった。

 カイの右眼は、()()()()()()()

「もう……見えない。何も……。」

 嗚咽のように言葉を漏らした。

 リッカはカイの側まで歩み寄って、

「カイ……。カイが眠っている間に、期限が来たんだ。僕と日向だけで、委員会へ報告して、自由開発部の存続は決まった。けれど、僕はその時、カイが作った新型を発表してしまったんだ。」

「…………道理でここにないわけだ。」

「……実は今日、その新型の実験を行ったんだ。」

 驚いて、バッとリッカの方を振り向いた。

「な……! それは! それはどうなったんだっ!!」

 恐ろしい剣幕で詰め寄った。

「ある死刑囚を被験者に据えて実験を実行した。結果的には、ルームの形成に成功した。たったの十分(じゅっぷん)で。僕は確信したんだ。魂の存在を。さらにこう思ったんだ。チャンスだ、と。今ここで、役員たちの前で、魂の存在を、僕たちの研究の真価を見せれば、研究に協力してくれるかもしれない。もっと大規模な研究が出来るかもしれない。そうすれば、カイの夢が叶えられる! だから……。」

「リッカ……お前、何をした…?」

「…………接続を切ったんだ。ルームを作った後、適切な過程を踏まないで、そのまま電源を切った。……ルームは崩壊し、死刑囚の魂は体と完全に乖離して、そして…………」

 カイはおぼつかない足取りで離れると、

「ハハッ、ハハハハハハッ!!」

 口角は不自然につり上がっていて、笑っているのに全く笑っていなかった。

 バンッッ!!!

 カイは、思いっ切り机を叩いた。

「最低だなぁ! 俺は! 呑気に寝てる間に、こいつは、俺のために人殺しになって! それで俺は全てを失ってのうのうとここに立ってる! 笑えねぇ、なんにも笑えねぇよ!」

「全て……もしかして、カイ……。」

「…………あの新型は、あの眼がないと、二度と作れない。……接続を切ってルームが崩壊したのは、()()()()()()()()()()()。一日はかかる。」

 カイは弱々しく話した。

「現在の全人口は、ざっと百万人。一台しかないなら、全員を送るのに…………。」

「そうだっ! 人類の救済には、あれをもっと量産するしかない。なのに、もうそれは叶わない。あんな……あんなものさえなければ……………全部……全部俺のせいだ! ……ぜんぶ……なにもかも……。」

「ちがう!!」

 それまで抑えていた感情が、爆発した。

 カイの肩を両手でつかみ、その眼をしっかりと見て、

「カイ! これは僕たちの罪だ!!」

「っ!!」

「僕は、カイがあれを作ったのも、カイが人類を救済しようとしていることも、その手段も、悪だとは思わない。もしそれが悪ならば、それはカイだけが背負うものじゃない!」

 カイも、リッカも、必死に涙をこらえていた。

 まだ泣けない。泣くわけにはいけない。

 なぜなら、

「また一緒にやっていこうよ。いつだって僕たちはそうだったでしょ?他に仲間たちが居た時だって、何一つ上手くいくことはなかった。僕たちが歩いている道は、歩こうとしている道は、平坦じゃない。転んで怪我してしまうこともある。案内板もない。前に進んでいるのかもわからなくなる時だってある。だから、()()()()()()()()()()()。……さぁ、前を向いて。日向と、三人で、前を歩こう。」

 リッカに諭されたのは、これが初めてだった。だからこそ、心に響いた。いつの間にか置いてけぼりにされている自分が、恥ずかしくなった。

「……そうだな。……そうだったな…。」

 ようやく、カイの表情が、少しだけ和らいだ。

「ちょっと、私は仲間はずれ?」

 研究室の扉付近で見守っていた日向が二人の元に来た。

「日向、泣いてるのか?」

 目元はほのかに赤らんでいた。

「あんた達が泣いてないのに、私が泣くわけないでしょ。このバカ。どれだけ心配させれば気が済むのよ。」

 日向は鼻をすすりながら喋った。

「リッカ、日向。」

 カイは、家族の名前を呼ぶ。

 彼の家族は、彼の言葉を待っている。

 そして必ず、彼に応えるだろう。それが家族の形だと、彼らは気づいたから。

「これからも一緒にいてくれるか?」

「うん。」

「もちろん。」

 また、三人で笑い合える日が来る。

 カイは、家族を拠り所にした。

 リッカは、家族の支えになると誓った。

 日向は、家族の幸せな日々に想いを寄せた。


 しかし、歯車はまだ止まっていない。


 ブーー、ブーー。

 今度は、リッカのポケットから振動音が聞こえた。

 こんな時に誰だ、と思いながら画面を見る。

 (九重社長……?)

 考えても仕方ないので、とりあえず電話に出てみることにした。

「もしも――」

「今どこにいる!?」

 こちらに有無を言わさないほど、切迫している様子だった。あまりの声量に、近くにいたカイと日向にも会話は聞こえていた。

「会社にいます。」

「なら今すぐに社長室に来い! 緊急だ!」

 一方的に通話を切られた。

 三人は顔を合わせる。不安を隠して、社長室へ向かった。


 蹴破るように、勢いよく社長室に入る三人。

「カイ!?」

 九重は目を見開いて驚いた。そこには、カイが目覚めたことへの喜びはなく、むしろ悲しさを感じられる。

 力なくストンと椅子に座った。九重は何も話さなかったが、代わりに、社長室の大きな液晶テレビがついていた。

 音はやがて声となって、三人に届いた。

 画面には、一人の男性がアップで映されていた。フラッシュが目まぐるしく、会見でも開いているようだ。

 見覚えがある顔に、聞いたことのある声。

 しかし、そこは重要ではなかった。

 彼の話している内容。

 ちょうど中央にいる男が、力強く、カメラの前で言い放った。誇らしげに、高らかに、福音を授けるように。

「我が社のある部門が、魂魄(こんぱく)の観測に成功しました!! ここに、人類の救済を約束しましょう!!!」

「ぁ――――。」

「―――――。」

 目の前の光景を信じられなかった。一瞬、何が起こっているのか理解できなかった。

 役員の一人が、画面越しに笑っていた。満足そうな笑みを浮かべていた。


 彼は、全てを話した。リッカが話したことを、包み隠さず、全て。

 手には、委員会への報告時に配布された資料と、今日の実験についての資料が握られていた。


 腕がぶらんと下がり、膝が床に落ちた。リッカは、まだ画面を凝視している。その瞳は、あらゆる情報をかき集めようと、不規則に揺れていた。


 完全に崩れ落ちた。カイは、うずくまり、無様に泣き叫んだ。泣いて、叫んで、その慟哭が尽きることはなかった。


 リッカは、カイの上に覆い被さるように抱きつき、泣いた。片方の手は包み込むように回し、もう片方の手は、カイの服を破れてしまうほど強く握っていた。


 (もう……やめて…………。)

 その後ろで、日向は涙を堪えられなかった。

 偉大な二人。

 憧れの二人

 大好きな二人。

 その背中が、小さく、弱く、折れてしまいそうだった。

 目の前で、こんな風に、ただ泣くことしかできなくなった二人を見て、胸が内側から引き裂かれるように、悲しい。苦しい。

 (もう、やめて……。これ以上……彼らを…壊さないで。お願いだから……。神様……どうか…………どうか…。)

 もう祈ることしかできない。時間は巻き戻せないから。

 

 無情にも、人類が思うような神など、存在しないのだ。



 人達は希望を見た。空っぽの希望を。

 歓喜に溺れた。

 瞬く間に拡散していった。

 カイ、リッカ、日向、九重。この四人は感じていた。

 人類のカウントダウンを。

 地球が死に、少数だけがこのオアシスで生き延びておよそ半世紀。人類はまたも、過ちを犯す。

 何も変わらない真実。

 それを変える機会を、彼らは完全に失ったのだ。


                    17


 次の日、緊急会議が行われた。

 出席したのは、社長の九重、委員会の役員たちだった。

 そこには、昨日会見を行った例の役員も居た。

 彼の名は、天道(てんどう)泰人(やすと)。三十代と役員の中でも一番若く、常に新鮮な考えを持つ、期待の新生であった。

「天道。昨日のことについて、何か言うことはないか?」

 感情を必死で抑えているのは明らかだった。静かな言葉の裏には怒りがこもっていた。

「九重社長。あなたの言いつけを破って、独断で世間に公表したことは謝罪します。」

 一人席を立ち、全員に向かって頭を下げた。

「どうしてあんな事をした? 言ってみろ。」

 面を上げたその顔は、とても反省しているとは思えない、満面の笑みだった。

「私は、いえ私たちは、あの時、()()()()()()。」

 両手を大きく広げ、天を仰ぎ、恍惚とした表情で、そう言った。

「……は?」

「皆さんもご覧になったでしょう。あれはまさしく神の御技! 魂に触れ、神を感じ、人類を夢の世界へ導く。これを神と言わず、なんというのでしょう!! これを黙っていることなど私には出来ませんでした。人々に教え伝え、皆で協力し、人類の救済を実行する。私は先駆者として、その役を授かったに過ぎません。」

「………………こいつは何を言ってるんだ?」

 彼を除いた全員が、呆気に取られた。

 完全に、狂っていた。

 どこか頭のネジが外れていた。

 もう、かつての誠実な彼はいなかった。

「それに、『()()()()』? 誰かにそそのかれたのか?」

「何を言いますか。私は、()()()()()()()()()()! 神の御言葉のままに行動したまでです。」

 会話が成り立たないと判断した九重は、深く長い深呼吸をして、怒りを鎮めた。

「もういい。今日、ここに集まったのは、このバカの後始末についてだ。」

「なっ、バカとは何ですか! それは神への――」

「聞けっ!!!」

 興奮していた天道も、九重の気迫に黙るしかなかった。

「もう事は取り返しのつかない所まで進行している。」

「どういうことですか、社長。」

 別の役員が質問する。

昨日(さくじつ)、ちょうど実験が終わった直後だ。自由開発部の部長であるカイが、目を覚ました。」

 おお、と役員たちは歓声を上げた。カイの目覚めとは、魂について、そして人類の救済について、事態が善進することを意味するからだ。

「しかし、カイは、……もう魂の観測ができない。そして、新型のサルベートは、魂を観測しなければ作れない代物らしい。これがどういう意味かわかるか?」

 室内が凍る。

 天道の笑みは、引きつった笑みに変わった。

「いや、それは問題ではない! 何故なら新型のサルベートは一台あるじゃないか! 一台あれば救済はまだ終わっていない!!」

「本当にそう思うか?」

 天道は言葉に詰まった。

 九重が、脅しでこう言った訳ではないとわかったからだ。

「昨日の実験において、ルームの崩壊が起こった原因は、カイ曰く、魂の定着がまだだから、だそうだ。逆に魂さえ定着してしまえば、サルベートと繋いでいなくてもルームは崩壊しないし、しっかりとルームの体に本人の魂が宿るから、正真正銘の救済が叶う。問題なのが、定着に要する時間だ。最低でも、()()はかかるらしい。一人当たりに有する時間は短いと言えるかもしれない。旧型の一週間とはえらい違いだ。だけどな、全人類に使うとなるとどうだ? 今のこの世界の人口は、約九十七万人。それぞれに一日要するとしたら、全員をルームへ送り出すのに一体何年かかる。」

 もうここまで聞けば、役員たちもわかった。どういう意味で緊急事態なのかを。

 天道は、顔面蒼白で開いた口が塞がらなかった。

「唯一の解決策は、サルベートの量産だ。数さえ揃えば万々歳なんだがな、さっきも言ったように、もうそれは出来ない。なのに、天道は人類に夢を見せた。夢という名の幻を。世間が今どれだけこの話題で持ちきりか知ってるか? これだけ完璧な救済が叶うなら、皆現実を捨てるぞ。」

 天道は頭を抱えて、ぶつぶつと独り言を言い始めた。

「この件が世間に漏れれば、一台のサルベートを巡って争いが起こる。限られた席を巡る戦いだ。これは間違いなく激化する。だって何をしても、サルベートさえ手に入れてしまえば幸せになれるんだからな。」

 役員たちも事の重さを完全に理解した。取り返しがつかないなんて次元ではない。このままでは人類の存亡に関わってしまう。

「どうしますか? 社長。」

「正直俺にも、どうやったらこの波を止められるのかがわからない。ただ、もう間違えるわけにはいかない。これ以上のミスは本当に命取りだ。」

 九重は、しばらく外に目を移した。

 こちらの気も知らず、今日も清々しいほどの晴天。機械が組んだプログラムにもバカにされているみたいだった。

「それに、このままじゃああいつらに救いがなさすぎる。」

 小さく呟いた。

 脳裏に焼きついていた、カイたちが泣き崩れる姿。

 (俺の馬鹿げた夢に真剣に向き合ってくれたんだ。こんな悲劇で終わるなんて似合わねえよな、カイ。)

 決断する。

「今後、俺の方針に意見がある奴は遠慮なく言え。今は力を合わせる時だ。」

 天道を除いた、全員は腹を(くく)った。

「このまま事態を遅延させても逆効果だ。すぐに記者会見を開き、真実を話す。ここで嘘を重ねても解決にはならないからだ。幸いにも、旧型のサルベートなら、量産には時間がかかるが作ることは可能だ。よって、今後は旧型を使う路線に変更する。会見を行った後、暴動が起こる可能性は十分ある。だからまずは社員の安全確保だ。全社員と真実を共有し、必要ならば社内に匿うことも頭に入れておけ。社と社宅には警備をつけるように手配しろ。後に俺からも全社員にメールを送る。安全が確保されたことが確認され次第、会見を行う。俺は会見の準備をするから、役員の皆は他のことにあたれ。異論があるやつは残れ。ないならばすぐに行動に移せ。」

 役員たちは次々と部屋を出ていった。

 残ったのは天道だけ。まだ独り言を呟いていた。心ここに在らず、といった感じだった。

「天道、お前は社に残れ。真っ先に的になるのはお前だからな。」

「……九重社長。………私は間違えたのでしょうか? ……神は間違えたのでしょうか?」

「さぁな。生憎無神論者だ。神なんて信じてない。……ただ、神がいたとしても、人のことは人が決める。もし口を挟む奴ならこっちから願い下げだな。」

 九重は、最後に天道の肩をポンッと叩いて部屋を出た。

 まだ、天道を捨てていなかった。

 部屋に一人、男は涙を流した。



 役員の行動は迅速だった。

 多くの社員は社宅に住んでいたため、社宅の主辺エリアを、関係者以外立ち入り禁止にした。社宅に住んでいない者たちには、社内で生活することをお願いし、当分の必需品も揃えた。

 九重が会見の準備か整う前に、社員全員の安全が確保された。


 天道が会見を開いてからたったの三日という早さで、九重は会見を開くことになる。

 その三日間、世間はお祭り騒ぎだった。火に油を注ぐように、九重は会見を発表したのだから、一体何を話すのか、期待は最高潮に達していた。


 しかし、九重が話したことは、世間を大きく裏切ることとなった。

 サルベートがもう作れなくなってしまったことと、その理由。

 代替として、旧型のサルベートを量産すること。

 包み隠さず、真実のみを話した。そこに嘘は一つもなかった。

 ただ、世間からしたらそんなことどうでもよかったのだ。

 最大の瑕疵(かし)は、新型のサルベートが先に世間の目に触れてしまったことだ。

 彼らは先に一〇〇を知った。完璧で、見事なまでに輝かしい救済。先に九〇を知っていれば、それを一〇〇と思ったかもしれない。その上があると知っても、九〇で妥協できたかもしれない。納得できたかもしれない。九〇を知ってから一〇〇を知るのか、一〇〇を知ってから九〇を知るのか、その違いによる九〇への見方は、言葉に表す以上に異なるものだった。

 もう一つの要因として、やはり皆の心の奥底に、漠然とした不安があったのかもしれない。言わないだけで、水面下では、緩やかな人類の衰退が怖かったのだ。認知していたけど、していないと自分に思い込ませて、思考を捨てていた。

 その結果、希望に噛み付いた。捕らえた獲物を決して逃がさぬように、噛み付いた。九重がやったことは、その獲物を無理矢理引き剥がし、下質なエサと取り替えることだった。例えその獲物が安全ではなくて、善意からの行動だったとしても、獣からしたら悪印象になってしまう。

 予想通り、世間は激怒した。

 民衆が本社や他の支部に殺到した。予め警備を厳重に敷いていたため、被害はなかったものの、この騒動は収まるどころか、さらに激化していく。


 新型のサルベートは一台しか存在しない。一人当たりに要する時間は一日。一年で三百六十五人しか救えない計算になるが、裏を返せば、一年で三百六十五人は救われることになる。

 そこで、巷でこんな話が広まる。

 社長が会見を開いた真意は、一般人には諦めてもらい、裏で一部の人に使うためだった、と。既に選別は行われている、と。

 九重に問いたとしても、当然使っていないと答えるが、それが本当か嘘かは確かめようがない。

 迷っているこの間にも、()()()()()()()()()()()()()()()()。夢の世界へ旅立ったのかもしれない。その考えは人々の中に刺さり、空いた穴から際限なく怒りが溢れ出た。

 民衆は暴徒と化した。

 その大多数は、むしろ『九重』には手を出さなかった。救う側がいなくなったら意味がないから、母数を減らして自分を救ってもらおう。そう考え、金持ちや権力者を殺していったのだ。

 完全に、社会が二分した。高階層と低階層の争いが始まった。まるで、かつての忌まわしい歴史の再現のようだった。

 悪い意味で、九重の予想通りの展開となった。



 一方。

 自由開発部の研究室は、本当に人がいるのか疑うぐらい静かだった。

 現在、研究室にはカイしかいない。リッカと日向は自宅で待機している。

 あれからカイもリッカも、二人とも自分が悪いと責めた。自分を責め続けた。カイは家には帰らず、研究室に残ってしまい、家の中でも、リッカは全く顔を出さなくなった。

 三人の間に、会話らしい会話は無くなった。

 今や三人は、人類を救うヒーローではない。その逆。人類を滅ぼす元凶になりうる存在なのだ。その事実が、カイとリッカには耐えられなかった。本気で人類の救済を目指していたからこそ、心が壊れてしまった。

 (他の人に合わせる顔がない、って思ってるのかな、二人とも。何も……悪いことなんてしてないのに。)

 日向には、何もできなかった。その痛みを、一番理解しているからこそ、どう声を掛けたらいいのかがわからなかった。


 何も変わらない日々が続いた。

 しかし、世間は目まぐるしく流動していた。


 そして、ある報せが届く。


 九重の訃報だ。



 九重(とおる)。総合開発機関『九重』社の社長。

 半世紀を生きることなく、その生涯を終えた。

 彼の幼少期は、英雄に憧れる、どこにでもいる少年だった。周りと違かったことは、その夢を大人になっても持ち続けていたこと。

 実直で、裏表がない九重の最後は、彼らしいものだった。


 もう民衆達の戦いは止まらなかった。

 最初は、上と下の争いだったが、いつしか、紛れて私怨を晴らす者たちが現れ始めた。

 金持ちが人を雇って、暴徒となった民衆たちにこう吹き込む。あそこの○○さんはとてもお金を沢山持っているよ。裏であの人と繋がっているよ。隠れてコソコソと何かしていたよ。そうして下々を操作して、気に食わないやつを殺す。今度は、吹き込んだ者をよく思わない人らが、君たちはあいつに騙されているよと伝える。殺す。

 情報は錯綜(さくそう)し、真実は硝子の箱の中にしまわれた。

 殺して、殺して、殺して、殺して。

 それもただの一般人が。身近にある刃物や鈍器を使って、殺す。

 まさしく、この世の終末だった。

 ある意味、ただの戦争より酷かった。高性能な武器も、訓練された兵士もいない。徐々に、殺しに慣れていく。殺し方を覚えていく。命のやり取りが日常化してしまった、自然界のような社会。仮に戦いが終わったとしても、前と同じ生活は送れないだろう。

 つまり、あらゆる面から見て、この閉じた世界は詰んでいた。

 だからといって、諦めるかどうかは別の問題だ。少なくとも、九重徹は諦めていなかった。


 この地獄を、どうやったら止められるのか。

 もうここまで進行してしまっては、一人でどうこうできる域を超えていたが、九重には『社長』という肩書きがあった。それも元凶を引き起こした会社の社長という肩書きが。

 九重に、熟考は必要なかった。彼の中で、解は既に導き出されていた。

 彼はメディアを集めた。情報を世間に流し、多くの民衆を集めた。

 彼はこう訴えた。

「我々が裏で誰かにサルベートを使っている? 選別している? ふざけるのも大概にして欲しい。こんな茶番はさっさと終わりにしよう。私は、ただ世界の、人類の救済を願っているだけなんだ。その誠意を今、ここで見せよう。どうか、みんな目を覚ましてくれ。」

 綺麗なスーツから出てきたのは、似合わない大きな包丁。


 大勢が見ている中、彼は自分の腹に包丁を刺した。

 九重徹の最後は自害だった。

 自分一人の命で争いが止まる可能性があるなら、喜んで命を差し出そう。それが、人類の救済に繋がるなら。

 彼の最後をその目で見て、民衆は何を思ったのだろうか?


『これで、正真正銘自分たちにも救済の可能性が出てきた。』


 今までは、『九重』と上級層たちは裏で勝手に救済を行っていると考え、上級層の人たちを殺すことで、その座に自分たちが座ろうとした。しかし、九重の自殺によって、『九重』と上級層の繋がりはなかったとわかった。どんな人でも条件は等しいことがわかった。上も下も関係ない。初めから上が優遇されて、下が劣遇されているわけではない。みんなが平等に救われる可能性がある。

 それまでの戦いは、人口を減らすことで自分たちを救ってもらおう、という間接的な願望と、誰かが救われるのを防ぐ妨害の面から起こっていた。が、状況の変化から、自分が救われるために、サルベートと、それが使える人を勝ち取る。そういう戦いへと発展していった。


 九重の死を目の当たりにして、戦いを()めようとは、誰も思わなかった。

 言うのは簡単だ。言葉ではなく行動で示してこそ、誰かの心に伝わるというもの。自害という選択は、九重にできる最大最善の行動だったことは否定しない。否定はしないが、それは無駄に終わった。

 悔悟(かいご)よりも嘱望(しょくぼう)を。悲歎(ひたん)よりも悦楽を。絶望よりも希望を。諸人(もろびと)よりも自己を。

 人らしさは、ここまで賎陋(せんろう)だったのか。

 


「「「………………。」」」

 自由開発部の研究室に、カイ、リッカ、日向の三人が揃った。

 久しぶりの再会は、楽しいものにはならない。

 三人とも、真っ黒な喪服を身にまとっていた。

 外では、会社に民衆が押し寄せてきていて、警備が突破されるのも時間の問題だった。それほど、彼らは本気だった。

 狙われているのは、当然自由開発部の面々。他の職員は、ここが安全でないとわかると、どこかへ去っていった。

 リッカと日向は、もうどうでもよくなったのだ。全てが徒労に終わり、大切な人も死に、人類の醜態を見た。人類の滅亡はもう止められないし、止めようとも思えない。

 だから、研究室にいた。三人の始まりの場所。ここに居たかった。


 


 

「…………二人に見てもらいたいものがある。」

 カイは突然そう言葉を放つと、二人に着いて来るように促した。

 隣の、新型のサルベートが置かれている部屋に入った。そこには、カイのパソコンやスーパーコンピューターなどの必要な設備が全て整っていた。

 カイは自分のパソコンを起動させた。

 大きな電脳空間を画面に映し出す。

 今は誰もサルベートに繋がれていない。なのに、真っ白な電脳空間の中に、一つだけ黒い点が存在した。

「これはルーム!? 誰が使ったの?」

 こうやってルームが存在しているということは、魂の定着が完了し、完全に救済が叶ったことになる。一体誰が使ったのか。

 しかし、カイは首を横に振った。

「これは、サルベートを使って、魂をもとに作ったルームではない。俺が自分で作った仮想空間を、この電脳空間上にルームとして存在させているに過ぎない。」

 カイは画面を動かし、ルームに迫った。どんどん距離は近づき、ルームの中に入った。一度画面に白い(もや)がかかる。

 靄が晴れると、そこにあったのは、

 広大な宇宙空間と、綺麗な青い星、地球。

「映ってるのは、この現実世界を模して作った擬似宇宙。全ての法則を入力することで、現実と同じように世界は回っている。」

「……人は、人はいるの………?」

 カイはさらに画面を拡大していく。

 高層ビルが立ち並び、眼下では沢山の人々が行き交っていた。そこにいる人たちは、それぞれが普通の人間のようだった。スーツを着た男性は、暑いのか胸元のシャツを掴んで、パタパタと涼もうとしている。スカートを履いた女子高生たちは、友人たちとお店を回っている。向こうでは、老婆が犬の散歩をしている。

 そこには、日常があった。

 誰もが知る、人間の、ありふれた営みが。

「ただ地球を作ったんじゃない。これは、史実上の出来事を辿ってきた地球だ。地球をこうあれと設定するんじゃない。地球を一から創造し、事ごとに最小限の数値を入力することで、手を加えなくても、自然と世界が回る、現実と変わらない地球が出来上がる。俺たちの歴史を『本史(ほんし)』とするならば、この世界の歴史は『模史(もし)』、とでも言うべきかな。まだ本史と模史の間に大きな差異はないが、模史が独自の歴史を築いてもおかしくない。映し出されてる模史の年代は、今よりずっと前のものだ。まだ平和だった頃の人類と星だ。」

 リッカと日向は、唖然としてしまった。

 眼前の事物に対してもだが、今更こんなものを見せて、どうしようというのか。

「カイは、……これで何をするつもりなの?」

「俺はこれで……。」

 一度言葉を止めた。

 二人には、カイが迷っているように見えた。


「自分を救いたかった。」


 カイは語り始める。独り言のように、静かに。


 

「俺は生まれてすぐ、親に捨てられた。物心ついた時には、家や施設を転々としていた。今の時代、子供を作りたくても作れない人が多かったから、自分たちの子供じゃない養子は、忌み嫌われる存在だった。少子化や人口減少によって、子供に対する様々な政策や援助が行われていたため、多くの場合、養子を引き取ることでもらえる援助金が目的だった。どの家も、子供にとっては劣悪な環境だった。ご飯は満足にもらえず、衣服も余った大人のものを着ていた。決まった寝床はなくて、当然、学校なんて行ってなかった。数年経ったら施設に戻され、少ししたら別の家に引き渡される。それの繰り返し。家の大人たちは必死に隠し、国も深く調査しなかった。結局のところ、きちんと整備されていなかったんだ。俺はそんな生活の中で、人のあらゆる側面を見てきた。大半はいい側面じゃないが。そこで俺は、そんな人たちに、()()()

 嫌いだから、憧れた。

 俺にとって人間とは、醜くて浅ましくて卑しい、盲目的で理性的で救いようのない生物だ。()()()()()憧れた。自分の理解できないことを平然とやってのける人間に、憧れた。自分もあんな風にできたら、どんなに楽だろう。何も考えずに、愚かに生きていけたらどんなに良かっただろうか。それができないからこそ、俺は人間に憧れた。……そして同時に気付いた。自分が壊れていることに。自分が、人間じゃないことに。

 生物学的な話をしてるんじゃない。本質の問題さ。例えば俺が、完全に人間になりすませる宇宙人だったとしよう。どんなに体を調べても、宇宙人としての名残は一切ありません。さあ、俺は人間? それとも宇宙人? ……重要なのは外ではなく内。その者の本質だ。ただ人間になりすましてるだけなら宇宙人、本気で人間になりたくて人間を真似ているなら、人間。そういう観点から言うと、俺は人間じゃなかった。少なくとも、幼少期の俺は、自分が人間に思えなかった。何の欲望も渇望もなく、何も生み出さない自分を。

 毎日が辛かった。何もかもに意味が見い出せない。どうしてそれをやるの? どうしてあれをやるの? どうして生きてるの? どうせ最後は死ぬのに、残したものもいずれ朽ち果てるのにどうして生きるの? どうして息をしてるの? こんなことを考えて意味はあるの? こんなことを考える俺って何? ………段々と、客観的に自分を眺めるもう一つの自分が生まれ始めた。そいつが俺の耳元でこう囁くんだ。可哀想だ、哀れだ、と。何度死を選んだ。何度首に刃を突き立てた。でもそれは救済ではない。むしろ一瞬だけにしても苦しむことになる。もう痛いのは嫌だ。辛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。俺は俺を救いたかった。俺という存在を救いたかった。けれどそれは絶対に叶わない。一度生まれた思考は、消えずに己の内に留まり続ける。永遠に生まれ続ける。思考というシステムを取り除かないことには、俺は人間になれない。記憶の消去も考えたけど、施設送りの子供の末路は予想がつく。新たな自己への逃避も、この世界では救済じゃなかった。

 そんなある時、俺はとある男に拾われた。その男はとても優しかった。温かいご飯、綺麗な毛布、身の丈に合った服。初めて普通の生活ができた。

 あの人との日々は本当に楽しかった。本当に、幸せだった。けれど、ふとした時に、暗い感情が押し寄せてくるんだ。どんなに忘れようとしても、ダメだった。一人になると出てくるんだ、もう一人の自分が。一時の幸せが不幸を膨らます。意味のない思考に心が埋め尽くされる。ただ普通の日常を当たり前のように享受したかっただけなのに、意味を求め、価値を求め、果てに絶望する。可哀そうだ。哀れだ。……俺はますます人間になりたいと思った。本当の意味で、あの人と笑い合える人生を送るために。そして、俺はあの人の夢を知った。あの人はとても目を輝かせて俺に語った。人類の救済を。俺は心を打たれた。これだ、と直感した。人類の救済を研究する過程で、自分自身を救う手がかりが得られるかもしれない。

 全ては、自分のためだった。

 人類の救済を目指してたけど、本当は人類とか世界とかどうでもよくて、ただその先でこの魂が救われるのなら、それで構わなかった。

 あの人も夢を叶えられる。あの人が喜べば俺も嬉しい。たとえ目的や(こころざし)が違えど、誰かが喜ぶのならいいじゃないか。そうやってまた、意味や価値を求める自分に絶望した。

 あの人は夢を叶えるために動いていた。そして、総合開発機関『九重』を立ち上げた。でも、あの人は立場的に忙しかったから、俺があの人の手足となって、代わりに研究をしようとした。それで生まれたのが、自由開発部だ。それからリッカと出会い、日向と出会った。お前たちといる時間は、俺の宝だ。何にも代えがたい大切なものだ。だから、日向が俺のことを家族と言ってくれた時は、本当に嬉しかった。みんなと過ごす時間が長くなればなるほど、俺の内に眠る願望は、再び強くなっていった。そして、あの日。俺は、魂を観た。やっと、やっと見つけたんだ。自分を救済する方法を。」

「……確かに、サルベートを使えば………。」

 カイは、持っていたマグカップを隣に置いた。

「同じように、サルベートを使うわけじゃない。」

「じゃあどうするつもり?」

 パソコンの操作をやめて、再び二人と向かい合う。

「俺は、肉体を作らずに、ここに魂のみを送る。新しい肉体を得て、やり直すんだ。今度こそ、この魂は真っ当な人生を送るんだ。そうすることで、自己の救済を果たしたかった。……でも、今は少し違う。……………二人にも、一緒に来てほしいって、そう思ってしまってる自分がいる。」

「「……。」」

 二人とも、黙ったままだった。

「わかってる。俺がやろうとしていることは転生に近く、記憶の引き継ぎはできない。そもそも成功は保証されてないし、あっちで生まれた俺らが、今の俺らとは全くの別人かもしれない。上手くいったって、今よりも不幸になる可能性だってある。それでも、夢の世界じゃなくて、この現実に、もう一度生まれたい。生まれ直したい。だって、俺が幸せを感じるときは、いつだってお前たちがいたこの現実世界だったから。」

 カイはもの儚げな表情で俯いた。

「…………前まで、俺は自分の夢について、他の人とは関係のないものだと思っていた。人類の救済が終わったら、一人勝手(かって)に挑戦して、成功しようと失敗しようと自分次第。そういう考えを持っていたから、隠そうとしていたわけではないけど、誰かに話そうとも思わなかった。でも、お前たちと出会って、俺の考えは変わっていった。怖くなったんだ。誰も本当の俺を知らないまま、俺が消えてしまうのが。今までの俺が偽りだとは言わない。けど、お前たちがかけがえのない存在だからこそ、知ってほしいって思ってしまった。それに、今は状況が変わった。人類の救済は失敗し、俺たちはこの世界の悪になった。ここで終わるくらいなら二人も…………。」

 カイは、その先を言わなかった。

 今まで黙っていたリッカと日向は、顔を合わせて、にっこりと微笑んだ。

「私ね、正直驚いてる。でも一つ告白するとね、人類の救済を本気で願っていたけど、私、それよりも大切なものができたの。人類の救済と家族を天秤にかけられたら、迷わず家族を選ぶ。そして、また再会できる可能性があるなら、それを選びたい。このままじゃ私たちどうなるかわからないし、それに今更あなたの我儘のひとつやふたつ、受け止められるわよ。だって私たち、家族でしょ?」

「カイ。僕たちの道は、カイがいなければ無かった。自由開発部が設立された時もそう。日向が来てからもそう。常に、カイはみんなの中心にいた。世のため人のため誰かのため。そうやって走り続けるのを止めて、そろそろ自分のために走ってもいいんじゃないかな。僕たちが一緒にいるから。」

 ポタ、ポタ。

 床に雫が落ちる。

「……本当に、いいのか? あっちで出会える可能性なんてゼロに近いし、記憶もないだろうし、今よりか不幸な人生を送るかもしれない。だから、だから……」

 涙を呑みながら、必死に言葉を振り絞る。

 前を見れば、リッカも日向も、穏やかな笑顔を見せた。カイの言葉に動じることなく、変わらない笑顔を。

 手の甲で涙を拭き取る。しかし、いくらぬぐっても、 とめどなく溢れてくる。前が上手く見えない。二人の姿がぼやける。

「カイ、泣かないで。()()()()()()()()()()()()()()、その時までとっておこう。」

 (そうだな……。)

「また三人で一緒に暮らそうよ。カイ。」

 (そうだな……。)

 二人は包み込むようにカイを抱き締めた。

 (たとえそれが叶わないとしても、欺瞞とわかっていても、眠る時くらい、幸せな(せかい)を想像したい。)

「……ありがとう。……本当に、ありがとう、リッカ。日向。」


 外は一層騒がしくなった。

 彼らは知らないが、既に会社の警備は突破されていて、民衆たちが社内を探し回っていた。幸いにも、廃部予定だった自由開発部は社内の見えにくい端っこに位置するから、見つかるまで時間がかかる。それに、カイは既に部屋にバリケードのようなものを築いており、簡単に入れないようになっている。


「ねぇ、ほんとに私から行くの?」

 サルベートは一人ずつしか使えないため、最初は日向になった。

「大丈夫。何も心配することはないよ。」

 リッカは、安心させようと笑いかけた。

 サルベートに座ろうとした時、日向が止まった。

「日向?」

 くるっと反転し、勢いよくリッカに抱きついた。

 リッカは倒れそうになるも、しっかりと日向を抱きとめる。

「またね。リッカ。」

 涙を必死にこらえた日向は、代わりに満面の笑みでそう言った。

「うん。いってらっしゃい。日向。」

 二人は、短く、強く抱き合った。

 名残惜しそうに離れた日向は、カイの元へ行き、抱きしめた。

 カイも応えるように強く抱きしめた。

「私、行くね。」

「またすぐ会えるさ。」

 離れた二人は互いを見つめる。

「やっぱり日向は、笑ってる方が似合ってるな。」

 日向は、嬉しそうにニカッと笑った。名前に負けないくらい、とても眩しかった。

 サルベートに戻った日向は、今度こそ座り、準備を整えた。

 もう何も言わなかった。これ以上何かを言えば、決意が揺らいでしまうかもしれないからだ。

 日向は、カイに合図を出した。

 カイはサルベートを起動させた。



 一度電源を落とし、ぐったりと意識のない日向を運ぶ。

 床に寝転がし、体に布を被せる。

「次はリッカだ。」

「どうせ言っても聞かないんでしょ。」

「ああ。俺が始めたことだしな。それに、お前たちを最後に回すわけにはいかない。だから日向を最初にしたんだろ。」

「まあ、ね。」

 これ以上の交渉は無駄だと思ったリッカは、カイに近づく。

「カイ。これは僕たちが自分の意思でやったことだから、余計なことを考えちゃ駄目だよ。」

「はいはい。」

 カイからリッカを抱きしめた。

「俺たちの運命は、きっと、またどこかで交差する。」

「うん。また一緒にいよう。笑って泣いて楽しんで悲しんで。」

 離れた二人は顔を合わせた。どちらも、毅然と、凛々しかった。

「「そんなありきたりな日常を。」」

 二人は笑い合った。一緒に、笑い合った。虚勢が吹き飛ぶくらいに。

「僕たちは、最高の友で、最高の家族。それはどこへ行っても、どう変化しても、この魂が変わろうとも、不変の真実だ。」

「当たり前だ。」

「僕と日向は、向こうで、カイを見送ることにするよ。だから、先に行ってくる。」

「またな、リッカ。」

 今度は、リッカがサルベートに座る。

 カイがサルベートを起動する直前、リッカはこう言った。

「カイがくれたこの名前。僕は好きだよ。」

 そう残して、リッカは旅立った。

「お前は、最後の最後まで優しいやつだな。ありがとう。」



 リッカを日向の隣に寝かせた。

 二人の寝顔を見て、微笑を浮かべた。いくつかの感情が籠った、複雑な表情だった。

「そろそろ俺も行かないとな。」

 研究室の入口が、ドンドンとつよく叩かれている。

 それでも急ぐ様子は見せず、淡々と準備を進める。

 カイは、一人でもサルベートを使えるように、自動機能を付け加えていた。

 時間を設定し、サルベートに座る。

 既に研究資料は全ての破棄しており、自分のパソコンにも、一定時間ログインしないと全データを自動消去するようにしてあった。

 これで人類は、サルベートを扱える者を失い、サルベートを動かすことが出来なくなった。

 今でも、耳に彼らの声が残っている。この場で誰も見送ってくれる人が居なくても、心で彼らは生き続けている。どんなに頼もしいか。どんなに愛おしいか。


 カイは深く考えるのをやめて、時に身を委ねた。


 長いようで、あっという間だった。





 三人の魂は、もう一つの地球(せかい)へ……



                    *



 誰かが部屋の扉を開けた。

 中に明かりが差し込んでくる。

 一つのシルエットが部屋に入ってきた。

 お母さんともお父さんとも違う、知らない姿。

 その人は、僕に手を差し伸べた。

 大きく開かれた手の平は、敵意がないことを表していた。

 手を掴み、立ち上がる。

 そこには、僕と身長が同じぐらいの青年がいた。


「俺の名前は、鴇矢(ときや)(ゆう)。君の名前は?」

「……僕の名前は、立花(たちばな)深夜(しんや)。」

「よろしくな!」


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