空章(1) 今はなき世界
約43000文字(空白・改行含めず)
1
これは、もう一つの世界の物語。
2
男は、その『世界』を滅ぼした。
3
二〇五〇年代を境に、人類の歴史は徐々に暗雲の兆しを見せる。
年々途上国の人口増加が問題となる中、環境問題が起爆剤となった。熱帯は暑すぎて住めず、海面上昇で小島はなくなり、砂漠化も深刻なものとなった。人間の住める場所がなくなっていったため、やがて人口は大都市に集中していくが、そこで新たな問題が発生する。住む場所がなかったのだ。作物も全然育たず食料問題も加速していく。
……人々が争い始めるのにそんなに時間はかからなかった。
二一〇〇年代に入ると、石油や天然ガスの埋蔵量にも限界が来ていた。やがて他の資源が尽きることを恐れた先進国の人々は、あらゆるものを独占していった。武力や財力、知識までも先進国は途上国に譲らなかった。
まもなく世論が分かれる。途上国の人たちを排除すれば人口問題も他の問題も解決できる、と考える過激派と、途上国の人たちにも支援をしようとする擁護派。初めは擁護派が多かったが、それは単に一般的な倫理観による行動で、いざ自分の生活が脅かされればコロッと立場を変えていった。
途上国の人も黙っていなかった。日に日に先進国との溝は深まり各地で紛争が起こる。だが、先進国に技術でも兵力でも何もかもで劣っていた途上国の人達は、次々に殺されていった。それはもう一方的に。
先進国と途上国との戦いが続く中、あの日の出来事は、決定的に、歴史を大きく変えた。
核だ。
石油や天然ガスがいずれなくなり、新たなエネルギーや代替エネルギーも目新しいものがなかった。そのため先進国たちは、原子力発電に力を入れるわけだが、それは表向きの顔だった。裏では、核兵器の開発を最優先にしていた。理由は明白。後の資源争奪戦を見越しての準備であった。自分たちが助かりたいなら相手を殺すしかない。ただその規模が、隣人を殺すことから全人類単位となったに過ぎない。だが問題なのは、途上国には核兵器開発をするだけの技術も資本も足りない、ということだ。彼らは生きていくだけで精一杯であり、そもそもそのようなことをやる余裕すらなかった。
そしてついに、人類はこの日を迎えてしまった。
二一三〇年七月一日、後に「終わりの一日」と呼ばれる。文字通り人類が滅びゆくそのスタート地点に来たんだと知らしめた日であった。
突如、ある国が周りの途上国に向けて核ミサイルを打った。どの国が打ったのか、誰が指示したのか、そんな小さなことを追求する暇などなかった。他の先進国は、周りの途上国が一斉に蜂起して進撃してくることを恐れた。何故なら、唯一途上国が先進国より勝っているもの、それは人の数だからだ。今までの紛争は、途上国の中でも過激な連中との小規模な戦いであったが、例え単位あたりの兵力が圧倒的に違っていても、数にものを言わせれば甚大な被害は免れないだろう。戦場ではない、自分たちの住む町の真上に、いつ爆弾が降ってくるかわからない状況になったのだから、全面戦争は必然的な流れと言える。加えて、今までの差別環境に対する鬱憤が爆発したら、それこそ止めようがなくなってしまう。
だから危険の芽は早めに摘まなければならない。しかし、もし攻めてこなかったら?やるのかやらないのか、相手の意志が判らない以上攻撃のしようがないし、だからといって何もしないでもし攻めてきたら、被害は予測不可能だ。
どの国もそう悩んでいた矢先、また別の国が核を打った。次々と周辺の途上国へ核ミサイルを放っていった。
何かが切れる音がした。それはきっと我々人間を人間たらしめた『偽善』だったと思う。
あの国もミサイルを打ったなら、と一気に倫理観が崩れ去っていった。こうなるとなかなか止められなくなるのが人間の性というものだ。恐怖や不安で正気を失い、憶測が憶測を呼び、やがて自分たちを正当化していき暴力に酔う。一度流れができれば誰も逆らわず、今までの常識が通用しなくなる事態が起こる。人間の悪い部分だけを具現したような酷い話だ。第三者が観測していたらこう思うだろう。斯くも人間は弱い生き物なのか、と。途上国は技術が大幅に遅れているため、為すすべがなかった。そこにあったのはただの虐殺であった。
当時の技術力を結集させた核兵器、それはもう凄まじいものだった。数発あれば、小さな国程度簡単に滅ぼせてしまった。
結局、途上国の半数以上は一日で姿を消した。
だが、最悪な事態はまだ続いた。
飛散した放射線物質の影響なのかは不明だが、やがて地球の大気に未知の粒子が発見されるようになる。わかった事は二つ。それは生物にとっては毒となる事。即効性はないものの、晒され続ければ数年で死に至る。もう一つは、対処の術がないという事。呼吸器系や粘膜のみならず、皮膚からも体内に入り込み、どんな高温や低温でも死滅しない。組成や発生原因、発生元も全て不明と八方塞がり。加えて、核が全世界で使われた事で星は氷河期へと向かい始め、核の冬が訪れようとしていた。
それらに対して、先進国たちは、特殊な合成樹脂でドーム状に国を覆うことにした。それによって空間的に断絶され、外界から身を守ったのだ。
これを成し遂げることができたのは、高度な科学技術によって、人工的にあらゆるものを作り出すことが可能になったからだ。太陽、水、空気、天気、環境、食料。それによって完全に遮断しても、その中で生きていけるようになった。
もう一つの要因として、人工激減がある。元々地球環境は深刻なレベルで穢れていて、出生率の低下や食料難も相次ぎ、人類は徐々に人口が減りつつあった。人口が少ないからこそ、限られた区域内で、一定数の人が生きて行くのに必要なもの全て人工物で賄うことが出来たのだ。
また、合成樹脂にはあらゆる電波を阻害する装置が埋め込まれている。それは、他国と連絡が取れないようにするためのものだった。地球が死に、人口が減った人類は、いずれ資源をめぐって殺し合いになると誰しもが予想した。それに対して、自国を完全に外界から閉ざすことによって、自国のみの世界を作ろうと考えた。そうすれば、自分たちのドームの中の世界が『全世界』となり、他からの攻撃もなく、変わりに救援もないシステムを構築したのだ。だから他国と連絡が取れないように、壁に装置を埋めこんだのだ。他国が生きているのかもしれないし、もう既に存在しないかもしれないが、そこに触れないのがルールだ。
ちなみに、自国を覆うと言っても、もちろんでかい国ひとつ覆うことは無理であるから、限定的な領域を覆っている。日本は、国内の人々を全て関東圏に集め、そこをドーム状に覆った。
だが、先述したように、これは高度な科学技術を有していないとそもそも実現しないのだ。そしてこれも先述しているが、先進国は途上国のありとあらゆるものを奪い、独占してきた。
ここから導き出される答えは一つ。
途上国の人たちに、この環境を生き延びる方法はない。誰かが手を差し伸べない限り。
だが、そういう助け合いをなくすために世界を閉じたのだから、誰も目もくれなかった。
いつの時代にも万人を救う策などなかった。この世界には必ず強者と弱者が存在し、両者は絶対に相容れない。
彼らはとっくに捨てていた。というか初めから同じ人として見ていなかった。外に取り残された人たちを助けよう、保護しようなんてそんなこと微塵も思わなかった。
外に取り残された人たちがどうなったのか、それは誰も知らない。もはや人が住める環境ではなく、逃げる場所もなく、食料も水も何もかも限界状態。彼らが死ぬまでに味わった深い絶望も、病気で死んだのか、餓死したのか、はたまた自殺したのか、その死でさえも、それを悉く奪った奴らの目にとまることなく浪費されていった。
そんな壊れている世界の、数少ない穢れたオアシスの中で、俺たちの物語は始まった。
4
「今日からここで働かせてもらうことになりました、宗宮日向です。どうぞよろしくお願いします。」
パチパチパチパチ、と盛大な拍手で迎えてくれた。私はスーツを着ていたが、職場の人達は服装がバラバラだった。同じようにスーツに身を包んでいる者もいれば、シャツ一枚のラフな格好をしている者もいる。全員が笑顔をこちらに向けてくれている。
中年の優しそうな男性が近寄ってきた。
「私はここのまとめ役、のようなものをしている日嘉だ。君のことは上から聞いているよ。君みたいな優秀な人材が、また一人増えたことを嬉しく思うよ。」
「ありがとうございます。」
「ご覧の通り、ここはゆるい職場だから気楽にいこう。改めて、ようこそ『九重』へ。私たちは君を歓迎します。」
こうして、私の新しく、そして変わらない日々がはじまった。
宗宮家は、世界を閉じる前から続いている権力者の家系で、当時は政界とも太いパイプを持っていたと言われている。世界を閉じた後も様々な協力や支援を行ったことで、この世界では名の通った家系となっている。
そんなお家の一人娘として生まれた私は、両親から多大な期待を寄せられながら生きてきた。
両親とも厳しい人で、基本家にいない父に代わって、母が多くの習い事を私にさせた。小さい頃は嫌じゃなかった。むしろ色んな新しいことに触れることができて楽しかった。
だけど、年齢が上がるごとにそれは私の足枷になっていった。
小学生の頃、習い事をサボって友達と遊びに行ったことがあった。夕方近くに帰ると、初めて母にぶたれた。母はとても激怒していた。私は習い事に行かなかったからだと思い反省したが、母は加えて、そんな友達がいること自体に怒っていた。それから友達も選ばされ、習い事と勉強が第一。どんなことでも一位であり続けることは義務だった。
高校生にもなると息苦しさを募らせたが、幼い頃に見た、母のあの激怒した顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。そんなふうに怒らせてしまったことが悲しいのか、それともただ恐怖していたのか。自分でもわからない感情に支配され、自分の気持ちを心にしまいこんだ。でも何かやりたいことがある訳でもなく、親のレールの上を、ただ、歩いてきた。
そうして就職した先が、日本有数の大手総合企業『九重』。
社長兼代表取締役の九重徹氏が、この世界を自分なりに救うことを目標に、様々な事業を展開している。私が入ったのは、都市開発部。現状に合った多種多様な空間を創り出し、提供するのが仕事だ。この部署は、求められる能力レベルが他と比べて多岐にわたる。建築学やデザイン学、工学全般や、統計学、法政学が必要になることもある。世界を閉じてから七十年、より良いまちづくりの重要性は急上昇している。そのため、この部門にはエリートな人材が多く集まるのだった。
「初めまして、宗宮さん。私の名前は浅川華蓮。今日からあなたの教育係よ。よろしくね。」
「はい。こちらこそご指導よろしくお願いします。」
ここでは、新人に一人ずつ教育係をつけるのが慣習となっている。少し化粧が濃いせいか、浅川の年齢は推定しずらいが、恐らく三十代後半だろうか。しかし自分をよく見せようと努力する姿に、日向は素直に尊敬の意を持った。
それからの日々は、浅川の指示に従って業務に慣れていった。
事前にリモート面接で業務内容を聞かされていた日向にとっては、ほとんどの仕事を普通にこなすことが出来た。
「ふむ……、完璧だ。すごいね君は。流石といったところか。……いやすまない。こう言うのはあまり良くないね。」
日向の提出した報告書を見た日嘉が、つい声を大にして話した。
「いえ、気にしてませんので大丈夫です。」
「それにしても、ここに来てまだ一ヶ月。既に入社一、二年の能力レベルだよ。」
「ありがとうございます。」
その能力の高さをかった日嘉は、浅川のみならず、他の人たちの業務も手伝わせて、一層の成長を期待した。
そして、期待に応えるような働きを日向は示した。職場の同僚達が口を揃えて日向の能力を褒め称えたのだ。特に、業務内容の理解と飲み込みが早かった。
初めは宗宮家のお嬢さんということもあって、どこか遠い目で見ていた人達が多かったが、人当たりの良い性格と驕らずに謙虚な態度から、今では職場の人気者だった。
美しい顔。
聡明怜悧。
品行方正。
清廉潔白。
常に周りの目を惹き、ちやほやされて、大切にしてもらえる。
これが、どこへ行っても変わらない光景。
辛いことや悲しいことはない。でも、満足しているのかと聞かれたら、どう答えるのが正解なんだろう。
5
入社して、一年が過ぎた。
近頃、あらゆる所で警察沙汰が相次いでいる。どれも傷害や殺人などだった。原因は共通して小さなトラブルだった。
ある専門家はこう言った。
「これは文明が発展した結果とも言えるでしょう。つまり、ストレスが極端になくなってしまったからなんですよ。綺麗すぎる空間にいるとアレルギーを持ちやすくなるのと同じですね。今や多くの物が人工物に置き換えられ、素早く大量生産できます。また、これ以上人口を減らさないためにも、政府の補償は手厚い状況です。このようになんでも手に入り、不自由ない生活に慣れてしまうと、些細な不自由さにカッとなってしまいます。実際、事件の容疑者の多くは、職についていない若者や、職を離れた高齢者です。しかし、機械による自動化がすすみ、職が消えているのもまた事実です。これは今後の大きな課題となるでしょう――――」
『九重』でも、労働環境や人間関係に対する不満から、離職者が増え始めた。
その関係で、優秀な人材は他部署の応援に回されることとなった。日向は既に、浅川がついていなくても一人で業務をこなせるようになっていたため、一年を皮切りに、他の部署の見学・体験をし始めた。今では仕事の合間に、日嘉の同伴のもとあちこち回るのが習慣だった。
「えーっと、まだ行ってないところは……」
紙をペラペラとめくっている日嘉に、会社の資料は一通り頭に入っている日向は、
「機械開発部だけです。」
「ああ、そうだったね。」
機械開発部は、『九重』で最も有名な部署であり、所属している人数も一番多い。
――――
一通り大雑把な業務内容を聞かされ、いくつか体験させてもらった。
部署を後にして、都市開発部に帰る途中、
「いまいちピンと来てない顔だね。」
「……はい。」
正直、今まで回ったところの中に、都市開発部と同じぐらい惹かれる部署はなかった。
「今の仕事に余裕が無いのに、他の部署の仕事と言われても仕方ないさ。」
「すみません。」
「謝ることないさ。元々うちに入りたくて『九重』に来たんだから当たり前さ。」
こういう日嘉のおおらかな性格はとても好感が持てた。
すると、彼が脇に挟んでいた書類の中から一枚の紙が落ちた。
「日嘉さん。何か落ちました。」
言いながらかがんで紙を取ろうとした。
紙には、まるで新聞のようにびっしりと小さい文字が敷き詰められており、一際大きな文字で見出しが書かれていた。
「自由開発部廃案計画……?」
日向は聞いたことのない名前に首をかしげた。
日嘉はその紙を受け取って、日向に説明し始めた。
「これについては、今年のうちの資料には書かれていないんだ。」
聞いたことないわけだ。
「どうしてですか?」
「初めは、一人の男と社長が作り出した部署だと言われている。天才たちを集めて自由に研究をさせるという計画で、数年前に始まったのだが、思うように結果が出なかったらしい。今年いっぱいで解体されることが内々的に決定したんだ。」
「……ということは、まだその部署は存在してるんですね?」
「まあ、そうだけど……どうして?」
「いえ、なんとなく、聞いてみただけです。」
普段あまり自分の主張を積極的にしない日向から出た言葉に、日嘉は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「今所属しているのは二人だけなんだが、変わってる二人でね。私も数回しか話したことがないから詳しいことは言えないけど。ちょっと時間があるから寄っていこうか。」
「はい。」
と直後、プルプルプル、と着信音が廊下に響いた。日嘉はポケットから端末を取り出し、画面をタップして耳にあてる。
「もしもし、日嘉ですけれども……はい、……はい、そうです。…………はい、わかりました。はい、では失礼します。」
何か緊急の用事だろうかと考えていると、日嘉がこちらに申し訳なさそうな顔を向けてきた。どうやら考えは的中したようだった。
「ごめんね。急用ができてしまって。どうする?行くなら行ってきてもいいよ。話は、まあ通す必要もないだろう。会えばわかるさ。」
「一度行ってみたいと思います。……それで場所は何処ですか?」
「一階の一番角。何も書かれてないプレートが目印だよ。」
「わかりました。」
そこで二人は別れた。
人が歩く音、階段を上り下りする音、誰かが会話してる音。
あらゆる音が一切届かない最奥。そこに部屋はあった。
少し陰気な雰囲気が漂うが、日向の中では好奇心の方が勝っていた
どんな人たちがいるのだろうか。どんなことをしているのだろうか。成果があげられてないにしても、逆に簡単には達成できない壮大なことをしようとしているのかもしれない。
胸をめぐる思いをしまい込み、扉をノックした。
トントン。
トントン。
応答がない。
ドンドン。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか。」
――――
物音すら聞こえない。
(誰もいないのかな?)
とりあえず中を覗いてみることにした。もしかしたら気づいていないだけかもしれない。そう思ってドアノブをひねる。ガチャンと扉が開く。
「……え?」
そこは、あまりにも暗かった。
どこに何があるのかもわからないくらい何も見えない。
いくら部屋の照明を全て消そうとも、カーテンの隙間などから微量の光が部屋に差し込んでくるはずだ。それなのに完全な暗闇。
(とりあえず電気をつけないと。)
近くの壁を手で探ってみると、手に何かが当たって、
パチッと音がしたのと同時に、一気に部屋の明かりが付いた。
日向にも急なことだったので、大量の光で目が痛かった。目が慣れるようにゆっくりと瞼を開いていると、
う~~ん、と音が聞こえた。まるで、朝母親に叩き起こされた時のような……
(誰かいるの?)
やがて視界がクリアになり、改めて部屋を見渡してみた。
「ひっ!」
驚いて変な声を出してしまった。
だが、無理もない。部屋には二人の男がいた。
一人は、床に枕だけを置いて毛布にくるまっていた。もう一人は、椅子に腰掛け、両足を机にのせていた。
そして、二人とも寝ていた。
よく見ると、まるで壁に貼り付けんばかりに、真っ黒なカーテンが何重にも重なって外光を遮っていた。
決して広くはない部屋だが、二人にしては広い部屋だった。部屋を真っ暗にして昼間から寝ている男二人が急に視界に入れば、温室育ちの日向でなくても驚いたことだろう。
「誰だよ、こんな時間に。」
そう言いながらモゾモゾと動いたのは、椅子に座りながら寝ていた男。男が机から足を下ろそうとした時、上半身を反らしすぎたのか、椅子が縦にくるりと回った。
大きな音をたてて、男がひっくり返った。頭から、それはもう綺麗に。これには日向も目をつぶってしまった。
「いっ、て~~~。くそ、ローラー式はやめたのに。というか、電気付ける時は先に起こせよな、リッカ。」
頭を擦りながら男がぼやくと、いつの間にか床で寝ていた男も目を開けていた。体は起こしていないが。
「僕じゃない。」
男は一言だけ言うと、小さくあくびして、毛布にくるまってしまった。まるで光を恐れるモグラのようだ。
「じゃあ誰だよ。」
「あ、あの……。」
「…………。」
椅子から倒れた男と目が合った。
お互いがお互いの状況を全く把握していない。奇妙な眼差しが交差した。
「……………………どちら様?」
これが、三人の物語の始まり。
6
「つまり簡単に言うと、職場体験ってことか。」
「ええ、まあ。」
日向は今、ありとあらゆるものが乱雑に床に置かれた汚部屋で、ポツンと小さな椅子に座っていた。向かいには、倒れた椅子を起こして一人の男が座っている。その右隣にはさっきまで床で寝ていた男が眠たそうな顔で座っている。
二人とも、上には白衣を羽織っていた。髪はボサボサで身だしなみはお世辞にキレイと言えるものではなかった。小汚い二人に日向は警戒心を募らせた。
向かいの男は席を立ち、壁際に設置された冷蔵庫へと向かった。
「何か飲むか?」
「いえ、大丈夫です。」
男は視線をもう一人の男へ向けた。黙って首を縦に振ると、それを確認した男は冷蔵庫からエナジードリンクの缶を取り出し、そしてもう一本スポーツドリンクのペットボトルを取り出して椅子に座った。
二人ともこちらを気遣うどころか、こっちのことを全く意識してないのか喉を鳴らしながら一気に飲んだ。少しは遠慮の姿勢を見せていた日向は、彼らの行動に機嫌を損ねた。
「そういえば、名前を聞いていなかったな。」
それはこっちも同じだ、というツッコミは胸にしまって、
「私は宗宮日向です。」
「俺はカイ。でこっちはリッカ。よろしく。」
リッカと呼ばれた青年は無言なまま首を縦に振った。今度はお辞儀のようだった。
「………。」
日向が何の反応もしなかったことを不思議に思ったカイは、
「どうした?」
「あ、いや。自己紹介の時に、名前だけ言うのは珍しい、のかな、と思ってしまって。」
二人とも日向と同じぐらい若かったからだろうか。つい思ったことを言ってしまった。
対してカイと名乗った青年は、衝撃の発言をした。
「まあこれ本名じゃないし。」
「……は?」
日向は今まで、家がお金持ちながら普通の生活を送ってきたと思っている。しかし、自己紹介でいきなり偽名を答える人を日向は知らなかった。
「本人以外が付けた名前なんて、意味のない記号でしかない。そこに意味を見出せる者もいれば、俺のように見出せない者もいる。だから自分で自分に名前を付けてそれを名乗ってる。」
「…………。」
もう訳が分からない。
「ま、そんなことはどうだっていいんだ。早速だけど、君はここについてどれくらい知ってる? ここに来た時点でそこそこはわかってると思うけど。」
「ここが自由開発部ということと、今年いっぱいでなくなってしまうことぐらいしか。」
それに頷いたカイは、補うように説明した。
「設立は三年前。今年で四年目だ。対外的には自由に研究をすると謳っているが、これは正しくない。正確には、ある目的のために、自由に研究をしている。」
「その目的、というのは……………」
「世界を救うことだ。」
カイは堂々と言い放った。
言葉にするのは簡単だが、日向には、実際どう救うのか皆目見当もつかなかった。
「今の『九重』にはうちを除いて八つの部署があるが、それはどれも“より良く”を目指している。機械による自動化で、無駄な労働力・人件費を削減したい。食料を人工的に量産することで、食料問題を解決したい。住みやすい街を作って快適な生活を送りたい。聞こえはいいけど、ただ人のエゴを満たしているだけだ。実際、平均寿命は減少、出生率は激減。このままでは人類は、この世界は、遠くない未来確実に滅ぶ。そこで、社長の理念を思い出してみろ。」
日向は、『九重』の公開資料の“はじめに”の部分に書かれた社長の言葉を引っ張り出し、ハッとなにかをひらめいた。
「そう、世界を救う、だ。人類の発展でも幸せでもなく、世界を救う。つまり、あの人が本当にやりたいことは抜本的な解決。すなわち今の世界の在り方を変えることなんだ。」
彼の言葉には、言い難い重みがあって、日向の心を揺さぶった。しかし、ここで彼は顔を曇らせた。
「と言っても現状は手詰まり。幹部連中も予算の無駄だと騒ぎ始めて、とうとう今年で、だ。まったく皮肉な話さ。自分が作ったところなのに、自分の夢を最優先できないぐらい大きくなり過ぎたんだよ、『九重』は。」
「まるで他人事みたいに話すんですね。」
「ただ客観的に述べてるだけさ。あくまで今は君に説明してるんだ。主観は必要ないだろう。」
「では、その主観とやらを教えてくれますか?」
「意外とグイグイくるね。」
お淑やかそうな見た目に反して、前のめりになってこちらに鋭い眼差しを向けてきていた。脅すような鋭さではない。欲望に純粋で真っ直ぐな鋭さだった。それを笑って受け流すほど、カイは不真面目な人間ではなかった。
「あの人には拾ってくれた恩がある。この一年でせめて何か掴めれば、ここは存続を許されるかもしれない。ただ、それだけさ。」
「……カイさんは、芯の通ってる人なのですね。」
日向が優しく微笑みかけたその時、突然カイが右手を大きく開いて、日向に突きつけるように前に掲げた。
「待った。」
「あの、私、何か……。」
気に触れることを言ってしまったのかもしれない。そう思った日向は、常に体裁を気にしてきた悪癖によって、すぐに自分を低くした。
「敬語はやめよう。」
「…………。」
しばしの沈黙が通り過ぎた。
「だって俺ら多分歳近いし、そうでなくってもかしこまった表現は好きじゃない。だから俺のことはカイでいい。あと、隣で寝てるこいつも同じだ。」
(いつの間に寝てる!道理で話に全然入ってこないわけだ。)
日向は、はぁ~~と大きなため息をついた。
ここに来てから、ずっと調子が狂われっぱなしだった。だけどこの大変失礼な二人に出会ったことで、自分という存在が揺らいでいるのを感じていた。
「わかった。じゃあさっきのは訂正する。カイは意外にも芯の通ってる人なんだね。」
「なんかさっきと微妙に違くないか。」
「フフフ。」
日向は笑った。どうして自分が笑ってるのかわからないけど、笑った。
今まで友人を呼び捨てで呼んだことはなかった。男の人と仲良くなったことはなかった。こんなに気をつかわずに話したことはなかった。相手の前でこんなふうに笑ったことはなかった。
多分原因は全て『家』。
私が宗宮だから、周囲にはこの名前がちらつき、私はこの名前を背負っている。だから、周りは気をつかい、私も気をつけて行動する。そうやってできたコミュニティは、中身が入ってないのに綺麗に包装されたプレゼントボックスのようなものだ。みんな何も入ってないことを知っているけど、誰も口にしない。外から見て、中に何が入ってるのか想像して楽しむだけ。一線は超えない。そんなハリボテの関係。日向の今までの人間関係はそういうものばかりだった。
だけど、彼らとは違かった。今までにないことずくしだけど、不思議と楽だった。
ここで初めて、日向は思った。これが普通なのかもしれないと。これが、本当の私なのかもしれないと。
「ところで、時間はいいのか?」
日向は壁に掛けられた時計を見た。確かにそろそろ自分の仕事に戻った方がよさそうだった。
「そうね、ここにいつまでもいるわけにはいかないから。でも一つだけ質問させて。」
「なんだ?」
カイはぶっきらぼうに返した。
「どうして私に気楽な態度で接してくれたの?」
自分でもおかしな質問だと思った。でも、この答えが自分を変えてくれる気がした。
「ん~、それはどういう意味だ?」
何故かぱっとしない表情のカイ。
「だから、大抵みんな私と話す時、……こうなんだろう。少しかしこまったような態度を、とるから……その…………」
日向は言っているうちに、ますますはてなマークを頭の上に付けたカイを見て、ある可能性に気付いた。
「ねぇ、私のこと、どれくらい知ってる?」
「おいおい、おかしなことを聞くな。今日会ったばっかなんだから、詳しく知ってるわけないだろう。」
「じゃあ、『宗宮』って名前、今までに聞いたことは?」
「そんな珍しい名前、俺の周りにはいなかったかな。俺もあんまり人の事言えないけどね。」
「………………。」
「………………。」
「………………。」
「……俺なんかまずいこと言った?」
こんなやつにどうして大きなものを期待したのだろうか。そう反省しているうちに、どうして私が反省する必要があるんだ? という考えに至り、やがてふつふつと怒りが込み上げてきた。
明らかに怒ってる日向を見て、カイは隣の椅子で眠りこけてるリッカの胸ぐらをガシッと掴み、前後に揺らした。
「おい、リッカ。『宗宮』って名前、聞いたことあるか?」
「知らない。」
「「………。」」
空気が凍るのをカイは感じた。
「私はこれで失礼するわ。」
嫌に上品に振舞っている日向に、カイは苦笑いしながら、
「今度はちゃんとノックしてから入るんだぞ。」
日向は無言のまま、力任せに思いっきり扉を閉めた。バンッ、と大きな音が部屋の外にも響いた。
日向がいなくなり、静寂が訪れたのも束の間、リッカが口を開いた。
「彼女、何回もノックしてたよ。」
「それを先に言え!!」
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日向は彼らのことを詳しく知らない。どんな家庭に生まれて、どんな幼少期を過ごして、どんな経緯で今に至るのか。どんな人間なのか。どんな考えを持っているのか。
それなのに、彼らといたあの時間が忘れられなかった。友達の家にお泊まりに行った日の夜みたいに。
(そっか。私、楽しかったんだ。)
すると、後ろの方から、
「宗宮さん最近機嫌がいいのかしら?」
「なんだかウキウキしてるように見えるわ。」
「以前とは別人みたい。」
「恋人でもできたのかしら。」
など、コソコソと同僚たちの話し声が聞こえてきた。
(ダメダメ、仕事に集中。)
気持ちを切り替えて、デスクに向き合う。
――――
――――
ピ――、とアラーム音にも似た音がオフィス中に鳴り響いた。昼休憩の合図だ。
日向は意気揚々とカバンを持って自署のオフィスを出た。
最近日向は、昼食を自由開発部がある部屋でとっている。
日向自身は興味があるからと思い込んでいるが、あそこを一種の寄りどころにしている節もあった。
「最近よく来るな。」
「いけない?」
「そんなことないさ。でも名前を調べた時は驚いたぞ。なかなかのボンボンじゃないか。」
今日もカイは、長袖長ズボンに白衣という服装。リッカも同様だった。もしかしたら服をあまり持っていないのかも。
「それでも大して態度が変わってないように見えるけど。」
「だって、お前が偉いわけじゃないだろ?」
「ハイハイそうですね。」
「初めて会った時の気品高い振る舞いは、見る影もないな。」
カイのこういうところが日向には新鮮だった。自分の家を知っても対等でいてくれる。だから自分も、余計に肩に力を入れる必要がなくなる。それで初めて、自分がどういう人間なのかが分かってきていた。いわば、日向は今成長期なのだ。
「そういえば、私まだあなたたちの本名を知らないんだけど。」
「む、確かに言ってなかったな。特に面白いもんでもないが隠すものでもないしな。」
カイは、コーヒー缶片手に、サラッと呟いた。自分の名前とリッカの名前を。
「―――。――――。」
「………………一つツッコんでいい?」
「どうぞ。」
カイは手で促した。
「リッカは、まだわかる。でも、カイはどこからきてるわけ? カイのカの字も入ってないんだけど。」
「真っ当な反応ありがとう。では君の疑問を解消して差し上げよう。」
カイは缶を机の上に置いた。
「ところで、日向は小さい時、アニメとか見てた?」
「ううん。そういうの私疎くて。」
カイは特に気に留めず、話を続けた。
「俺が小学生の時、とあるヒーローもののアニメが放送してたんだ。人気を博していたわけではなく、周りに知っている子は少なかった。でも、俺はそのヒーローが好きで、憧れてた。大人になっていくと段々と忘れていってしまったけど、自分自身に名前を付けようと思った時に、ふとこいつを思い出した。そのヒーローの名前は、カイザー。俺は一部をとって自分の名前にしたんだ。願掛けに近いのかもしれないがな。」
「ちゃんと理由があったんだ。」
「失礼だな。名前はその人を表すものだ。どんなものにも願いや希望が込められている。」
ふと、日向は両親のことを考えた。
『日向』、親が与えてくれた名前。親が、私にこうなって欲しいと願って付けた名前。幾度となくこの名前を書いて、言って、呼ばれて。自分を表す記号は、当たり前のように自分の生活にありふれているのに、その意味を、その形を考えたことがなかった。
対してカイは、全て考えた上で自分自身に名前を付けた。初めて聞いた時は正直理解できなかったけど、それは、彼の思考が常人とはズレた域に達しているからではないだろうか。
しかし、それでも、こう思ってしまう。
「やっぱり変な人。」
別の日。
訪れると、珍しく二人とも机に向かって作業していた。
二人の机には、大きな画面のパソコンが何台も並列に繋がれていた。
そこで、日向は彼らが具体的にどんな研究をしているのか知らずにいたので、
「あなたたちは何の研究をしているの?」
「世界を救う研究。」
カイは手を休めることなく、明らかに適当に答えた。
「質問を変えるわ。どうやって世界を救うの?」
カイはピタッと手を止めて、こちらを振り返った。
「前も話したように、世界をより良くすることと救うことはイコールじゃない。」
「ええ。」
「世界を救う、と聞いて初めに何を想像した?」
日向は、恐らく多くの人が考えるであろうことを伝えた。
「外の環境をどうにかする?」
「正解だ。」
カイは息抜きも兼ねて、椅子から離れ部屋の中を歩き始めた。
「今、この世界の人間の体に発生している数々の異常。実はその明確な原因はわかっていない。しかし俺は、全てが人工物だからだと考えるてる。例えば食料。組成にいたるまで全てを模して作った人工食料。含まれる栄養価は全く同じであるはずだが、それは生き物を殺して得たものではない。では、命が吹き込まれていた食べ物は、俺たちに別の、俺たちの知らないエネルギーを与えていたとしたらどうだろうか。もちろん非科学的な話さ。なんの根拠も証拠もない。が、これがもし正しければ、この体の異常にも説明がつく。」
カイは天に向かって指さした。
「太陽。どんなにそっくりにつくろうと、本物の星の輝きではない。故に俺たちに必要な『何か』が供給できない。」
今度は冷蔵庫を指さした。
「水。大自然から溢れ出た水を口にし、人間が知らず知らずのうちに大きな『何か』を得ていたとしたら。」
次に日向を指さした。
「それが何なのか君は知らない。そして俺も知らない。この『何か』を知らないのだから、それを創り出すことはできない。さっき原因は人工物だからだと言ったが、それは誤りだ。正しくは、人類が『これ』を認知し、模倣する術を持たないからだ。」
「でもそれは、仮定に仮定を重ねた空論に聞こえるけど。」
失礼かもしれないが、これが普通の反応だ。いきなりこんなことを言われて、素直に信じるほどのバカはここにはいない。
カイは日向の反応を予測していたのだろうか。特になにも感じていない様子だった。日向は、カイがこうやって人に話すのは、初めてじゃないのかもしれないと思った。
「もっともな意見だけど、そこにこそ、真理はきっとある。」
カイは後ろを向いて、自分の机に向かっていった。椅子を引くと、自分は座らず、日向へここに座るよう促した。
日向が座ると、カイはパソコンを操作して、あるファイルを開いた。画面にはあるものが大きく映し出された。
それはレポートのように、文字が書き並べられていた。
「これが、俺の考えた『ヴァイス論』だ。」
「ばいす?」
日向には聞き馴染みのない言葉が出てきた。専門用語だと思ったが、それは不正解だった。
「ヴァイスは、俺たちが話してる言語とは別の言語の言葉だ。」
「別?」
この世界では、過去に日本人と呼ばれていた人達しか生活していない。世界を閉じたことで、外国語という概念が消失したのだ。例外として、日本語の一部となってしまった外来語は、世界を閉じた後、日本語としてそのまま再定義された。今更チョコレートを日本語で呼ぼうとしても、チョコレートで馴染んでいるから、覚えにくいし普及しないと考えたからだ。
世界を閉じた後に生まれてきた子供たちには、外国語は教えられていない。その意味がないからだ。そのため、外国語を知らない人もそう多くない。日向は特に、幼少期から英才的で効率的な教育を施されていたので、現代では不必要な外国語について無知であった。
「かつて外の世界の別の国が使ってた言葉だ。とりあえずこの資料に目を通してみてくれ。そんなに深く読み込まなくていいぞ。」
画面に表示された資料を読むと、さっきの会話の内容を、さらに詳しくまとめたものが書かれていた。
簡単にまとめると、地球という星が創り出した『エネルギー』が存在していて、これによって世界は動いているというのだ。
いまいち想像しにくい日向は、元の話題へ戻る。
「それで、このヴァイスが存在していると仮定して、それが世界を救う研究とどう関係があるの?」
「ヴァイスは、外の環境をどうにかすれば世界が救える、って話と関わってくる。人間が生きていく上でヴァイスは必須ではないが、長く健康的に生きていくには最低限の供給が必須だ。それは、ヴァイスのないこの世界でも人間がある程度は生きていけてることからわかる。だから俺たちには、ヴァイスを創り出すか、外の環境をどうにかするかの二択がある。けれど、ヴァイスはまだ机上の空論。創り出すなんてもってのほか。つまり、外の環境をどうにかする以外、道は残されていない。」
日向は喉が渇いてきて、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出した。
「じゃああなたたちはそれを研究しているの?」
「ちがう。」
「どうして?」
「外の環境をどうにかするのは、現状不可能だからだ。」
カイは肩をすくめてこう言った。
「自由開発部が設立された当初、ここでは、外の大気に存在している謎の粒子について研究していた。だが、あいつは正真正銘ダークマターさ。二年かけてもわかったことは一つもなかった。今でもあらゆる機関が調査しているだろうが、結果はご存知の通りだ。」
「それで手詰まりってわけね。」
「そういうことだ。」
カイは机に寄りかかるように腰掛けて、コーヒーを一気に飲み干した。
「今の俺らの研究テーマは、人間の電脳化。これは俺とリッカで導き出した第三の選択肢だ。」
「電脳化。……つまり……情報世界の中に人を移す?」
カイとの会話で、段々と視点が変わってきたのか、自分なりに推察してみた。
「冴えてきたな。その通りだ。俺たちは既に、地球での生存を諦めている。電脳空間を作り出し、そこへ人を情報体として連れていく。もうこれしか道は残されていない、と思う。」
日向は、完敗して開き直ったように笑って、
「カイと話してると、世界がとても大きく見えるわ。」
ふと時計に目を向けると、もう戻る時間だった。ご飯もまともに食べていないのに、長時間話し過ぎたようだ。
「最後に一つ聞かせて。どんな名前にも意味が込められているなら、『ヴァイス』はどういった意味なの?」
カイは初めて暗い顔を見せた。椅子に座ってしまい、もう表情は見えない。
「『悪』という意味だ。」
*
その日、研究室にカイはいなかった。
(なんか気まずい。)
部屋には、日向とリッカしかいない。
日向は、リッカと今まで会話をしたことがなかった。せいぜい、どうぞ、ありがとう、ぐらいだ。
しかし、カイと同様、前からリッカのことも知ってみたいと思っていた。いい機会だし、自ら対話を臨んだ。
「リッカ、ていう名前は自分で付けたの?」
彼は首を横に振った。
「じゃあ誰が付けたの? カイ?」
縦に振った。
「カイに付けられた名前でいいの?」
縦に振った。少し頬が緩んだ。
「リッカにとってカイはどういう存在?」
悩まずに答えた。
「カイは僕に名前をくれた。そして自由をくれた。カイは僕の光で、僕の憧れ。」
話し終えると、リッカの視界の中に、急に日向の顔が現れた。日向がリッカの顔を覗き込んだのだ。
「リッカもそんな顔するんだね。」
リッカは照れたのか、慌てて顔を背けた。
「ごめん。僕、人と話すのが苦手で。いつもはカイとしか話さないから。何を話せばいいのかわからなくて。」
ずっと顔を背けてるから、かわりに日向はリッカの隣に椅子を持ってきて座った。
「じゃあ、二人はどこで、どう知り合ったの?」
日向は自分から話題を振り続けることにした。
リッカは彼女の積極性に驚いたが、やがて静かに語り始めた。
「僕は、小さい頃から親に虐待されてた。」
「どうして? 何か悪いことでもしたの?」
「ううん。僕は本を読むのが好きで、難しい本もよく読んでた。そのおかげか、とても頭が良かった。それを父さんは気味悪がった。父さんは頭がいい方じゃなかったからだと思う。いつも僕のことを自分の子供じゃないって言ってた。そしていつからか母さんに暴力を振るうようになった。そしたら母さんから暴力を振るわれるようになった。」
想像以上に壮絶な話に、日向は口元を押さえた。
「ごめんなさい。嫌なことを思い出させてしまって。」
だけど、リッカはこれっぽっちも俯いてなかった。むしろ日向に微笑みかけて安心させようとした。
「四年と少し前、いつの間にか父さんも母さんも居なくなって、そこにはカイがいた。カイは僕に手を差し伸べてくれた。あの日、僕は自由になった。確かに痛かったし辛かったけど、そのおかげでカイに出会えた。僕はそれが、嬉しい。」
その顔は、ヒーローに憧れる子供のようだった。感情の起伏は薄いが、温かさがある優しい人間味を感じた日向は、リッカへの認識をあらためた。
「ところで、どうしてカイは、あなたにリッカと名付けたの?」
「僕の名前を聞いたカイはこう言った――――」
リッカはその時のことを思い出した。
『暗い。』
『……。』
『ただでさえいつも暗いのに、名前まで暗い。静かなのはいいが暗いのはダメだ。』
『……。』
『よし、これからお前の名前はリッカだ。凛と立つ花のように、お前は生まれ変わる。』
『リッ、カ………。』
『そうだ、お前はリッカだ。』
「フフっ、なにそれ。カイが強引に決めたものだったのね。」
リッカも笑っていた。彼の笑っている顔は初めて見た。
「カイは僕と会った時から世界を救うと言っていた。荒唐無稽な夢をひたむきに追い続ける姿に、僕は憧れた。僕もそうなれたらいいなと思った。だから僕はここにいる。連れてこられたからじゃなく、自分の意思で、世界を救いたい。」
「私たち、似てるわね。」
「?」
「私は、あなたとは違って、とてもお金持ちの家に生まれて、環境のいい場所で育った。けれどとても厳しくて、やりたいことはできなかった。いつも心を閉ざして生きてきた。ここに来て、カイと会って、彼が真っ直ぐに堂々と夢を言った姿は、妙に印象づいた。きっとリッカと同じで、私も彼のようになりたいんだと思う。彼のように、周りの目を気にせず、自由に、心のままに、生きてみたい。最近そう考えるようになったの。」
リッカは、深く頷いた。
ガチャン。
後方から、扉が開く音がした。
「帰ったぞ、リッカ。」
カイが入ってきた。珍しくカバンを持っていた。身だしなみは相変わらずだが。
「珍しいな、この時間帯に日向がいるのは。仕事終わりか?」
「ええそうよ。」
リッカと日向、二人肩を並べているところを見て状況を察したカイは、親が子供の成長を喜ぶような顔をした。
「え、なに気持ち悪い。」
「おい。」
やりとりを聞いたリッカが、クスクスクスと笑った。
二人が一斉にリッカの方を向いた。
三人の視線が交わった。
そして、笑った。なんの意味もなく、笑い合った。
小さな世界の、さらに小さなこの部屋は、幸せで満ち溢れていた。
8
ここにきてから、一年と三ヶ月が過ぎた。
仕事にもだいぶ慣れてきて、一人で請け負う案件も徐々に増えている。
昼休憩になると、自由開発部の研究室に行くのが習慣になっていた。最近では仕事が早く終わった時も寄っている。
今日も昼になると、買ってきたパンを持って研究室に向かった。
珍しく、明るくない話題を切り出した。
「悩み?」
「悩み、というかなんと言うか。」
他人に相談事などしたことのない日向は、どう話を運ぼうかわからずにいた。
リッカが日向の分の水を持ってきてくれて、三人で机を囲んだ。
「それで?」
「……最近、職場で……嫌がらせ、みたいのを受けてて。」
「いじめか?」
「わからない。」
二人は、ここまで弱った彼女を初めて見た。さすがのカイもいじる気になれなかった。
「初めは、デスクのものが失くなってたり、違うことが伝えられたり。嫌がらせを受けてるとはちっとも思わなかった。けれど、明らかに私が忘れてたじゃあ説明できないことが頻発し始めた。それで、もしかしたら、って。」
「やってる奴に心当たりは?」
「正直、わからない。みんな普通に接してくれるし、あの中にそういう人がいるとは、あんまり考えたくなくて。でも困ってるのも事実で、それでここに話を持ってきたの。」
真剣な日向に対して、リッカは考えた。考えて、考えて、でも答えは出てきそうになかった。
「お前はどうしたいんだ?」
「どうしたいって……。」
それがわからないからこうして話しているわけで、そういう心情の機微が理解されなかった。
「本当に嫌なら、犯人を特定して糾弾すればいい。」
「……。」
ストレートな回答に言葉を詰まらせた。
「ごめん日向。全然力になれなくて。」
本気にリッカが落ち込んでしまったため、慌ててフォローした。
「いいのいいの。話を聞いてくれただけで十分。付き合ってくれてありがとう。」
「………うん。」
カイは椅子を引いて立ち上がった。
「もし何かあれば言えよ。」
「え、ええ。ありがとう……。」
カイはそのまま部屋を出て行ってしまった。
お手洗いに行ったのだろうが、少し引っかかる。
「カイ、不機嫌そうに見えたけど。迷惑だったかな。」
「そんなことないよ。ただ、他の人と比べて、人の感情に鈍感なだけなんだ。特にカイは、人間が嫌いだから、ああいう物言いになったんだと思うよ。」
さらっと聞き入れた言葉に、遅れて違和感を抱いた。
「? それっておかしくない? だって………」
「そう、カイの夢は世界を救うこと。そしてそれは人類を救うことを意味する。だけど、救うからといって、その動機が人類への愛とは限らないんだ。もし機会があれば、本人から聞いたみたら。」
(そういえば私、彼のことをまだ全然知らない。)
カイがどうして世界を救おうと考えるようになったのか。彼の原点とは何なのだろうか?
「日向。」
リッカが優しく名前を呼んだ。
「そういう嫌がらせは、いつか一線を越えて襲ってくる。だから気を付けて。なにかあればいつでも、頼って欲しい………。」
恥ずかしがって、語尾はごにょごにょとくぐもらせて聞き取りづらかった。
「もう、そこはビシッと言うところよ。」
「あ、ご、ごめん……。」
俯いたリッカを見ると、手がかすかに震えていた。
リッカは今まで、友好的な人間関係をカイとしか築いてこなかった。しかし、日向が来たことで、積極的に他者との関わりを持とうと、彼なりに一歩を踏み出そうとしていた。
自ら、心を開こうとしていた。
日向は彼の手をとって、両手でギュッと包み込むように握り締めてあげた。
リッカはビクッと驚いて顔を上げた。
そこには、とびきりの笑顔があった。
「ありがとう!」
リッカは、彼女に『光』を感じた。
*
「私たち先上がるね。」
「はい。お疲れ様でした。」
次々と先輩たちが帰っていった。
時計を一瞥した。時刻は、まもなく七時。
日向は、残った仕事を、このまま今日中に片付けようか、それとも明日に回そうかで考えていた。
(日嘉さん、急に別案件を私に回してきて。前の案件の事後処理、まだ終わってなかったのに。断らない私も悪いけど……。)
ここでうだうだ考えても時間が浪費されるだけ。
(明日早く来るのも嫌だし、もう少し居残って仕事しよう。)
ビタミン剤を流し込んで、もう一度机と向き合った。
帰る頃には、社内に他の人の気配は感じなかった。
一階の受付で警備員のおじさんに鍵を渡して、社を後にした。
日向は現在、一人暮らしだ。提案をしたのは本人だった。実家からは距離があることに加えて、一度は家を出てみたいと伝えたところ、母親には猛反発されたが、父親が了承したことで渋々受け入れてくれた。今思うと別に通えない距離でもなかったし、今どきなんでも機械がやってくれるから、一人暮らしをしたからどうと言うことはなかった。もしかしたら外の空気を吸いに行きたかったのかもしれない。
そういうことで、会社から歩いて十分ほどの社宅に今は住んでいる。
道中、スーパーに寄り、買い物袋を一つぶら下げて出てきた日向は、疲れて重い足をなんとか前に動かしていた。
日向はその時、後ろから忍び寄る足音に、全く気付かなかった。
大通りを抜けて、住宅街に入っていった。
この住宅街には元々お店が幾つかかまえていたが、ここ最近で立て続けに店を畳んでしまった。まだ取り壊しはされておらず、もぬけの殻となった建物が残っている。
(ここのパン屋さん、私が引っ越してきた時からお世話になってたんだけどね。残念だわ。)
感傷に浸るのもほどほどに、歩を進めようとしたその時、
後ろから急に力強く抱き締められた。拘束された、と言った方が正しかった。力が強すぎて、声が漏れそうになったが、口にハンカチのような布を口に突っ込まれた。
「…ォ……ァ……。」
声にならない叫びを繰り返した。すると今度は足を持ち上げられた。
もう一人、別の人がいたのだ。
そいつが日向の両足を抱えるようにして持ち、二人がかりで元はパン屋だった廃屋へと、軽々と運んだ。入口の窓ガラスは撤去されていて、中に入るのは容易だった。
そのまま奥へ運ばれ、厨房のようなところで投げ捨てられた。
痛みに耐える暇もなく、今度は両腕をパッと開いた状態で押さえられ、両脚も掴まれていて動かせなかった。
そこで初めて、自分を襲ったもの達を見た。
二人とも大きな男だった。一人は半袖に半ズボン。もう一人はタンクトップだった。どちらも、隆々とした筋肉が見えた。
一人がスマホのライトを付けた。
「へぇ~、こいつは上物だな。」
二人とも下卑た笑みでジロジロと観察してくる。
「~~~ッ。~~~ッ。」
もうなにも考えずに、ただがむしゃらに体を動かし、拘束を外そうと試みた。
直後、目にキラキラと反射するモノが写った。
刃渡りが十五センチ程の折りたたみ式ナイフだった。
恐怖で声を出せなくなった。
タンクトップの男が、ナイフを見せつけながら、口に入れたハンカチをそっと外す。代わりにナイフを口の中に入れた。
「声を出したら、つい力が入っちまうかもな〜。」
男の目つき、表情、体つき、持っているナイフ。何もかもが気持ち悪くて怖い。
もう抵抗する気が湧いてこなかった。体が固まって言うことを聞かない。
「よしよし、いい子だ。」
ナイフの側面で頬を撫でてきた。ひんやりとした感触に吐き気を催す。
もう一人の半袖の男は、ライトを付けたスマホを常にこちらに向けてきた。
「姉さん、今度のはとびきりのやつじゃないっすか。」
半袖の男が後ろに向かって話しかけた。
「ええそうね。いつも通り、好きにしていいわよ。あれは忘れないでちょうだいね。」
「!?」
日向は、その声に聞き覚えがあった。
姉さんと呼ばれた女性が、カツッ、カツッ、とハイヒールの音を鳴らして入ってきた。
半袖の男の隣に立って初めて、スマホのライトで顔が見えた。
(浅川さん!?)
いつも通りのスーツをまとった浅川華蓮が、そこに立っていた。
「わかってますって。この前みたいなヘマはしませんって。」
浅川はさらに近付いてきた。
「アハハハッ、何その顔。笑わせないでくれる?」
目の前の光景を信じられない日向を見て、顔を歪めながら嘲笑った。
「どうして~、どうして~、って思っちゃってる?そうやって恐怖に怯えて何もできなくなる惨めな顔が見たかったからよ!」
浅川は、日向の側まで来ると、みぞおちめがけてハイヒールのつま先で蹴った。鋭利な先端が深く沈みこんだ。
声を出したら殺されると本能的に感じた日向は、叫びはしなかったものの、一瞬呼吸ができなかった。
間髪入れず、続けて何度も蹴った。
「私可愛いでしょってアピールしてる奴が一番嫌いなのよ! ちょっと仕事ができるからって周りを見下したように澄ました顔をして、家が有名だからってお高くとまって、上に媚びへつらって大事にしてくださいって? そういうのが一番うざい。」
日向はただ泣くことしかできなかった。段々と感覚が薄れていき、意識も遠のいていく。視界が暗く、そして狭くなっていく。
「ちょ、姉さん。それ以上やったら俺たちの番まで持ちませんって。」
浅川は興奮していたのか、蹴ることをやめた後はしばらく息を切らしていた。
「それもそうね。お楽しみはこれからだものね。」
満足そうな顔で、浅川は後ろの厨房のシンクに腰掛けた。
「どうぞ。」
「へぇ~い。」
うっすらとした視界に、今度は二人の男が入ってきた。
一人が日向の両腕を頭の上で拘束し、もう一人がナイフを持って馬乗りになった。服の首元にナイフを入れ込み、そのまま下へ服を切り裂いた。その後もビリビリと服を無造作に切り裂いていく。
(もう…イヤ………。だれか……だれか……たすけて…………。)
絶望に染まった瞳に、次の瞬間光が戻った。
男たちの背後に別の人影が見えた。
どうして暗い中でわかったのかというと、その者が真っ白な服を身にまとっていたからだ。さらに色のシルエットから、日常的によく見るものだった。
白衣だ。
バキッ。
乾いた木材が折れる音がした。直後、日向に馬乗りになっていた男が真横に倒れた。その顔を覗くと、意識を失っていた。
「誰!」
浅川は叫んだ。
そこには、真っ二つに折れた長方形の薄い板を持った、白衣姿のリッカが立っていた。
日向を庇うように、男と浅川の前に立ち塞がった。
「彼女に何をしている!!」
リッカも叫んだ。
「リッ、カ……?」
極度の恐怖で、上手く声が出せなかった。しかし、そのか弱い声音をしっかりと受け止めたリッカは、彼女に向かって、彼女を安心させられるように微笑んだ。
「もう大丈夫。」
「~~~ッ。」
絶望から解放された涙を、日向は止めることができなかった。
「あんたもしかして、うちの変わり者じゃない!もしかしてあんたも彼女をつけてたの?あらあらごめんなさいね。横取りするつもりじゃなかったのよ。」
リッカは浅川の挑発を無視して、一歩、前に出た。
その面持ちに不機嫌な態度を示した浅川は、ニタリと口角を上げて、
「まぁいいわ。目の前で彼がボコボコにされるのを見る様はどうでしょうね、宗宮さん。」
次の瞬間、半袖の男が低い姿勢でリッカに体当たりをしてきた。
リッカは知る由もないが、この男は格闘技の経験者であった。対して、こちらは素人も素人。運動もまともにしたことのないしがない研究者だ。
当然、為す術なくあっという間に倒された。男はすかさず馬乗りになり、容赦なく拳を振り下ろし続けた。
再度静かになった空間に、人が壊れていく音だけが鳴り響く。音に合わせて、リッカの体が力なく跳ねた。
「イヤ……イヤ、もう、やめて……。リッカが……リッカ、が、……。」
「アハハッ、なにそれ!かっこよく登場した割に、同情したくなるほど弱いじゃない。あ~可哀想な宗宮さん。せっかく希望が見えたのにね~。」
日向は拳を強く握りしめた。怒りが、殺意が湧き上がる。が、もう体が言うことを聞いてくれない。
男がリッカを殴るのをやめた。
立ち上がって、気を失ったタンクトップの男の様子を見に行った。
「ダメっす。完全に落ちてますよ、こいつ。」
「仕方ないわ。後で考えればいい事よ。」
「それもそうっすね。最近一人で食うことが少ないんでいい機会っす。」
再度、男が近寄ってきた。
日向はリッカの方に目をやる。
ピクリとも動かない。まるで死体みたいに。
(リッカ……。)
「おいおい、お前の相手はこっちだぞ。」
男が日向の顎を適当に鷲掴みにして、自分の方を無理やり向かせた。
「つれねーじゃねぇかよ。」
「……もう、やめて……………。」
「やめてって言われて、はいそうですかってなるわけねぇーだろ。バカか?」
その体に触れようと手を伸ばした時、今度は後ろでキャア!と浅川の叫び声が聞こえた。
「ん?」
振り返ると、浅川は床に仰向けで倒れていた。そしてその上に覆い被さるかたちで、リッカが倒れていた。
まるで変な虫をはらうように、浅川はリッカを突き飛ばした。リッカはなにも抵抗しなかった。そのまま倒れたリッカは、しばらく動かなくなるが、やがてのっそりと体を起こして、おぼつかない足取りでこちらに歩いてきた。
「もうなに! 汚いっ! 血がついた! 汚い! 汚い!」
浅川は発狂しながら男の後ろに隠れた。
男は日向の元を離れ、ゆっくりとこちらに来るリッカの顔面に、容赦なく拳を叩き込んだ。
後ろに吹っ飛ぶ。今度はピクピクと体が痙攣したが、また立ち上がってゆっくりと近寄ってきた。顔からボタボタと大量の血を流しながら。
その姿に、男と浅川は戦慄した。特に男は格闘技の経験者。どのくらい人が殴られれば気を失うかを知っている。だからこそ、想像を超えるリッカの存在を恐れた。
「こいつ、普通じゃない。」
「………ねえ。」
リッカが小さく、だけど確実に相手に伝わるように言葉を発した。
「ねえ、知ってる? ………人間は、どんなに殴られても、どんなに蹴られても、どんなに切り裂かれても、意外と死なないんだよ。」
「何わけわかんねぇこと言ってやがる!」
男の渾身の一撃が、リッカの顔に突き刺さる。バキッと変な音が聞こえた。素手で殴りすぎた男の拳に痛みが走った。
それでもリッカは立ち上がる。
「どうなってやがる。」
右手を押さえながら動揺する男に、浅川は叫んだ。
「どうでもいいからあいつをはやくやっちゃって!!」
振り向いた男の目には四つのものが見えた。
浅川、日向、倒れているタンクトップの男。そして、その男が持っていたナイフ。
拳を痛めた男にとって、いい得物が転がっていた。
「ちょうどいい。そんなに死にたいならお望み通りにしてやるよ。」
男の意図に気付いた日向は、リッカに伝えようとするが、浅川に蹴られて阻止された。
男がナイフを拾った。
(もう、もうやめて!)
蹴られ続けている日向は、何とか力を振り絞って、大声で叫んだ。
「やめてっ!!!」
しかし男は止まらない。ナイフを持ってリッカに向かっていった。
男がナイフを突き刺そうとしたその瞬間、男に二本の細い光が横から当てられた。
「誰かそこにいるのか。」
突如、警察官二人組が厨房にライト片手に入ってきた。
たまたま照らした男がナイフを持っていることに気づいた警官たちは、慌てて腰の拳銃を抜いた。
「動くな!今すぐナイフを捨てて両手を上げろ!」
屈強な男だろうと、拳銃を向けられては無力だった。
カランとナイフが床に跳ねる音がする。男は両手を素直に上げた。
「なんでここにサツがいやがる。」
しかし、一番驚いていたのは浅川だった。
「警察……? 嘘でしょ?」
一人の警官が、浅川にも拳銃を向けた。
「そこの女も両手を上げろ!」
「ち、ちがう! 私は関係ないわ!」
「いいからその足をどけて両手を上げろ!」
ナイフのような凶器を持っていない浅川はこの状況から逃れようと無関係を装ったが、それには無理があった。なぜなら警官にとって、服が裂かれて倒れている女性の上にハイヒールをのせている女性は、ナイフも所持していた男の共犯者だと考えるのが当たり前だからだ。
「くっ……。」
浅川は渋々両手を上げた。
遡ること十数分前。
スーパーから出てくる日向を、リッカは遠くから目撃していた。
駆け寄ろうとした時、日向の後ろを歩く二人組を見つけた。
はっきりとした根拠はなかったが、彼らを訝しんだリッカは後をつけた。
予想通り、彼らは明らかに日向の後ろを、常に一定間隔開けて歩いていた。
住宅街へ入った時、二人組が一回どこかへ消えた。これに安堵したリッカは、そのまま日向が家へ帰るまで見守ろうとしていた。
彼女はふと足を止めた。不思議に思い注意深く見ていると、横から例の二人組が現れた。そしてあっという間に建物の中へ連れ去られてしまった。
ここで、助けに行く前にリッカは警察に通報していた。そして通話状態のままスマホをポッケにしまい、日向を助けに行ったのだった。
警官たちが犯人の拘束と応援の手配、及び救急車の手配でバタバタしている間、リッカは自分の着ていた白衣を日向に被せて、優しく抱き締めた。
「ごめん、遅くなって。」
「ありがとう、リッカ。」
日向は彼の胸に顔をうずめて泣いた。
「違うんだ、日向。僕、犯人を確実に捕まえるために、駆け付ける前に通報したんだ。君が襲われたところを目撃したから、その時すぐに駆け付けていれば、相手は君に何かをする前に逃げたかもしれない。でも、そうすれば犯人を捕まえられないと思った。君を助けようとする前に、そういう事を考えてしまった。そのせいで、君に怖い思いをさせた。本当にごめん。弱くて、ごめん。」
そう言って、リッカの意識は完全に途切れた。
日向が何度呼びかけても、彼が動くことはなかった。
翌日、リッカが運ばれた病院に、日向から連絡を受け取ったカイが駆けつけた。
頭を何度も殴られたリッカは、かなりの重篤状態。命の危険もあると医師は言っていた。
救急治療室で多くの機械に繋がれたリッカが眠っていた。壁一枚隔てた外で、日向とカイは見守っていた。
「あいつな、実は一種のPTSDをもってるんだ。」
「え……?」
「過去についてある程度は知ってるか?」
「うん。」
「当時、九重社長と俺は、世界を救うプロジェクトのために優秀な人材を探していたんだ。探したといっても、まだ俺は未成年だったから、俺の要望に沿った資料を用意してもらってたんだけどね。それで見つけたのがリッカだった。最終学歴は中学だったけど、既に突出した才能を発揮していた。気になった俺は彼の元を訪ねたが、もちろん会うことはできなかった。そこで知ったんだ。両親から酷い虐待を受けていることを。俺は社長に相談した。その後、社長から複数の機関を通して、彼は両親の手から解放された。俺は彼にリッカという新しい名前を与えた。過去に囚われずに生きてほしかったんだ。だけど、幼少からの恐怖の連続は、心の奥底にまで染み付いて簡単には落とせなかった。リッカは、暴力を目の当たりにすると、過去の記憶が蘇って不安定な状態になってしまうんだ。ひどい時は発狂して気を失う時もあった。日向が襲われた時、それを目撃してたなら、多分そうなってたと思う。最近はそういうことがなかったから、俺もどういう状態になったかまではわからない。だけど確実に一つ言えるのは、リッカは過去の恐怖に打ち勝ち、日向を助けに行った。これだけは紛れもない事実だ。そこにどれだけの勇気と覚悟があったのかは、本人しかわからない。」
うなだれたまま、日向は問いかける。
「ねぇカイ。私、リッカに何をしてあがれるのかな。命をかけてまで私を助けてくれた人に、何をしてあげたらいいのかな。」
まだ気持ちの整理がついていない様子だった。自分も被害者なのだから、無理もない。
「これは、俺が言うことじゃないのかもしれないが、あいつとしっかり向き合ってほしい。今まで俺や社長としか繋がりがなかったあいつが、初めて他の人と繋がろうとしてるんだ。人間的にまだ至らない部分も多いけど、成長してる最中なんだ。全て含めて自分を見てくれる存在が、あいつにとって一番の宝物だと思うぞ。」
「…………うん。」
日向は泣かなかった。零れ落ちそうな涙を堪えた。今ここで泣いたところで、何も変わらないから。
「ところで、犯人はどうなったんだ? 知り合いだったんだろ?」
「同じ部署の先輩だった。気に食わない女性を標的にして、男に襲わせる。それを写真や動画におさめて脅す。これが常習の手口らしい。私以外にも複数の女性が被害にあったことがあるって。」
「どうするんだ、これから。たとえお前が大丈夫でも、周りとの関係はぎくしゃくするぞ。」
カイは脅すつもりではなく、日向のためにただ事実を述べた。
「リッカを心配するのは結構だが、自分のことも考えた方がいいぞ。」
そう言って、カイは立ち去った。
9
事件から一週間が経った。
リッカはいまだ入院中。意識は戻ったものの、怪我が完治するには三週間はかかるだろうと医者は言った。
研究室には、カイ一人しかいない。あれから日向は来なくなった。カイ自身、日向は九重を辞めるだろうと考えていたから、特に驚いたりもしなかった。
誰も邪魔してこない一人の空間。不思議かな、研究は全く手つかずだった。
コーヒー缶だけが机に並べられていく。
「………。」
何をするわけでもなく、ただ時間が流れていった。
しかし、静寂は突然終わりを告げた。
バンッ、と思いっきり扉が開けられた。
「宗宮日向。本日付で自由開発部への異動が決定されました。以後、よろしくお願いします。」
「………………は?」
日向はずかずかとカイの前に歩いてきて、机に書類を二枚叩きつけた。
一枚は、異動届。日向が書いたものだ。もう一枚は、正式に異動が受理された証明書。
「一応ここの責任者は俺だぞ。俺はそんな話聞いていない。」
日向は何故か誇らしげな顔をして、
「ここの責任者は九重社長です。だから社長直々に許可をもらいました。」
確かによく見ると、証明書には九重社長のハンコが押されていた。
「日向、ここに来る意味はわかってるのか?」
つまりこう言いたいのだ。ここは今年いっぱいでなくなるんだぞ、と。
「もちろん。つまり、今年中に成果を上げればいいんでしょ?」
カイは驚いた顔をした。彼のこんな顔、めったに見られるものではない。
「全くその通りだな。いいだろう。改めてよろしく、日向。」
こうして、日向は晴れて自由開発部の一員となった。
「ねぇ、リッカのお見舞いに行かない? 私が自由開発部に入ったって驚かせてやるんだ。」
「そうだな。俺もあんまり仕事の気分じゃないんだ。しばらくあいつの顔も見てないことだし。」
*
ここで一つ、日向にとって衝撃的な一日を書き留めておこう。
それは、日向が自由開発部の人間として初めて出勤してきた日のことだ。リッカが退院するまでの間、日向は彼らの研究について知るところから始めた。彼らが何を作っていて、どういうものを作りたくて、何が原因で行き詰まっているのかを知らなければ、彼らの研究に加わることは当然出来ないからだ。
「俺たちがやろうとしていることは前に教えたな。具体的に今は二つのことに取り組んでいる。一つは電脳世界の構築。もう一つは人を電脳世界に飛ばす装置の開発。主に前者をリッカ、後者を俺が担当しているが、実際はそんなに意味はないな。片方が進みそうだったら二人で取り掛かるのが基本だったからな。」
「つまり私も両方に携われる方が望ましいと。」
「望ましいが、できるできないの問題はないのか?」
「……機械いじりはあんまり得意じゃないわ。」
「わかった。これから日向にはリッカのサポートに入ってもらおう。」
役割が決まったことで、中身を詰めていくことになった。
改めて彼らの凄さを目の当たりにして、彼らの力になれるのか心配する反面、この研究への期待を募らせた。
「こっちも案内しよう。」
そう言って、カイは奥にあるもう一つの扉を開けた。
中には、巨大な装置が置かれていた。一人用ソファのような椅子に無数の配線が繋がっていた。頭を置くところには、ヘルメットのような形状のものが付いていて、これにも無数の配線が繋げられていた。椅子全体から伸びた配線は、後方の、椅子より大きい直方体デバイスに接続されている。
「ここで拷問してると言われても疑わないね。」
「ひどい言われようだが、まだ試作機だからな。大きさと仰々しい見た目は今後の課題だ。」
「これは何?」
「これは、人を電脳世界に送る装置だ。人の脳波を解析し、それを記憶、複製して、電脳世界に投影する。そのための装置だ。」
つまり、彼らの研究の要となるものだ。
「と言っても、実はほとんど完成してるんだ。」
「え、じゃあ後は電脳空間の作成だけってこと?」
「いや、最大の課題が残っている。」
カイは奥の部屋を出て、研究室に戻った。日向も戻ると、既にカイは椅子に座っていた。
自分用の椅子を買おうと決意した日向に、話を再開させた。
「俺たちは完全な人類の救いを求めている。ここでいう『完全』とは、『永遠』に近い意味を持つ。」
「つまり、向こうに行って終わりじゃなくて、行った後、それを維持し続ける必要があるのね。でも向こうは情報体だから、外部からなにかを摂取しなくても存在し続けるんじゃない?」
カイの目は、正解だとは言っていなかった。もっと深くまで考えろと促してくる。
(恐らく電脳世界の問題ではない。……送った後、こちらに問題が起これば、向こうにも影響が及ぶ可能性は考えられる。となれば、ハードウェアの維持?……これも違う気がする。なんでも人工的に作り出してまかなえる時代。半永久的に稼働させるのは問題じゃない。すると……)
日向は熟考の末、答えを導き出した。
「時間とか?」
「いい線いってる。それもあるが、今直面している問題はそれじゃない。」
カイの思考に追いつけなくて悔しく思いが少々、それ以上に問題の正体が知りたかった。
「仮に今、俺があの装置で電脳空間に自分を作り出し、そして現実世界の俺が死んだとしよう。この場合、別に電脳空間の俺がなくなったりはしない。なぜなら、既に俺の情報を記憶しているからだ。現実の死と情報の喪失は結びつかないんだ。でも、果たして電脳空間の俺は俺と言えるのか? 俺の情報を読み取って写しただけの存在が、俺と言えるのか?」
抽象的すぎたため、話の方向性を変えた。
「人は夢を見ることがあるけど、夢を夢だと気づくのは、基本的には目が覚めた後だ。夢の中の自分が、『俺今夢の世界にいる。何やってもいいんだ!』と喜んだりはしない。例え明晰夢であっても、限界の範囲がある。それは、自分が夢の中における自分として作り出した偶像に過ぎないからだ。」
カイは自分で言いながら、相手には伝えづらいと理解していた。
「実際、俺もまだ答えを出せていないんだ。夢の中の自分が本当の自分ではなくても、その自分が楽しい世界で幸せでいるのならば、それは救済と言えるのかもしれない。そこが、わからない。送り出せば終わりなのか、もっと大切な『何か』を持っていかないといけないのか。」
「完全な救済が後者、つまり送り出すだけじゃいけないなら、カイはどうするの? カイのことだから何か考えがあるんでしょ?」
「……あるにはある。が正直仮説を通り越して空想に近いものだ。俺がそうあればいいなと考えたものだから、真剣に聞かないでくれよ。」
「わかってる。あなたの話はいつも突拍子のないことばかりだから、心得てるわ。」
今までだって、初見では訳のわからないことをずらずらと聞かされてきたのだ。もう慣れっこだった。そんな日向の様子に苦笑いをこぼした。
「常に情報を更新し続ける。その場の一意的な情報のみで自分を維持するのだはなく、情報を送り続けることで向こうの自分に変化を与える。これを一定時間続けることで、現実の体に近い、自己特有の変化を有した情報体ができる可能性がある、と俺は考えている。実際に研究の最終段階に入ったら、試してみるつもりだ。ただその場合、現実世界の肉体を保存しておかなくてはいけない。水、食事、運動、排泄。全てを自動化する必要が出てくる。もしこれが無理なら、それこそ魂でも持っていかなきゃいけないことになる。」
なぜか日向の反応がない。
「ねえカイ。ちょっと言いたいことがあるんだけど。」
「?」
「……………あなたがそこまで求める必要ないんじゃないかしら。」
「……。」
どんなことかと思えば、本気で心配された。
「誤解しないでほしいのが、私はカイのそういうところが世界を救うと信じてる。けれど、思考を巡らせすぎて、大事なことを忘れてしまう危険性もある。もっと簡単に物事を考えることも大切なことよ。」
「わかってるよ。でもしょうがないだろ。こういうタチなんだから。」
カイがすねた。
こんなところ初めて見たので、つい笑ってしまった。
「カイもリッカも時々子どもみたいになるよね。」
いよいよムスッとしてしまった。これまたいじりすぎた子どもみたいな反応だった。
「ごめんごめん。でも私には理解できないな。そんなに完璧って必要? それはもちろん、完璧な救済は素晴らしいこと。けれど、人間は完璧な存在じゃないでしょ。だから、どう言ったらいいのかな、人間に完璧は似合わないと思うの。」
「……やっぱり、俺たちには君みたいな視点が必要だ。なまじ頭がいい分、変にこじらせる時があるからな。」
「それって、遠回しに私がバカって言ってる?」
「ハッハッハッ。」
「そこは否定しなさいよ!」
そうやって話していくうちに、時間はあっという間に過ぎていった。これには、自分たちの研究に加わるなら志向の方向性を合わせる必要があるだろう、と考えたカイの意図だった。杞憂に終わったことだが。
時刻は定時を回った。
そこでふと、日向は疑問を投げかけた。
「ここは何時に上がるとかそういう決まりはあるの?」
元いた都市開発部では、大きな計画がなければ個々人で案件に携わっているため、それぞれが区切りのいいところで上がることになっている。それにも上限はあって、社に残っていいのは二十時までと定められている。ところが自由開発部は、名の通り自由であるため、明確なルールが存在しているのかも怪しい。日向は、今までの二人を見ていれば、ここにルールなど皆無だと感じていた。
それは間違いではなかった。
「特にないぞ。早く上がりたいならいつ上がっても構わないし、いつまでいてもいい。」
「いつまでって……具体的には何時?」
「何時でも。」
上手く話が噛み合わない。
なぜなら、間違えではないが、正解でもなかったからだ。
「一つ、君の間違いを正そう。世の社会人の常識をここに持ち込むのは厳禁だ。例えば、朝出勤して、夜退社する、みたいな誰もがとるであろう行動基準とかね。」
日向はある答えを導き出した。しかし、まさかなと笑いながら投げ捨てた。以外と短絡的に出した結論の方が、一番正解に近かったりする。
「俺たちは、ここで暮らしてる。ここの、研究室で。」
「えぇーーーっ!!!」
甲高い声が部屋中に響いた。カイは耳を塞いでいた。
「そんなに驚くことか?」
「当たり前よ!!」
疑問が洪水を起こしている。
(今思えば、初めてここに来た時、二人ともここで寝てたわ! 仮眠じゃなかったのね!)
一個一個聞くのも面倒と考えた日向は、
「一体どういう生活をしているわけ?」
「ここで寝る。起きる。近くのスーパーで食料と水分の確保。一日研究。寝る。以上。」
「お風呂はどうしてるの?」
「トイレの近くに、緊急用のシャワー室があるからそこで適当に。まあ、毎日入ってるかと言われたらノーコメントで。」
日向は本気で頭を抱えた。
「あなた達ってホントバカよね。ううん、バカなんだよ。そうに決まってる。」
「どこでどうしようと個人の自由だろ。」
ガミガミと母親に怒られた子どもが、適当にあしらうがごとく、そっぽ向いて返事した。
カイは知らない。それが火に油を注ぐことになることを。
「それにしたって、限度っていうものがあるでしょ! 仮にも世界を救うって意気込んでる人がありえない! なんで家に帰らないのわけ?」
「ないから。」
「は?」
目が点になる。
「もしかして自分の家がないわけ!?」
つまりこういうことだ。
入社→自由開発部へ→食べ物よし、寝床よし、トイレよし、シャワーよし→研究室に住めるじゃん→家いーらね。
「いいかげんにも程があるよ。どうせ生きていればどうだっていいとか思ってるんでしょうよ。」
「よくわかったな。」
パチパチと手を叩くと睨まれた。怖い。
「はぁ~、もういい。私の家に行こう。」
「じゃあまた明日な。」
「カイも一緒よ。」
「…………。」
日向の言い方から嫌な予感がして、話を切り上げようとしたが、もう据わった目をしていた。こうなるとてこでも動かなくなるのが、女の怖いところだとカイは実感した。
日向は大きな荷物を引きずりながら、研究室を後にした。
過去の情報を元に、日の長さまでここでは再現されている。暦上で今は七月中旬。六時過ぎでもまだ外は明るかった。
「なあ、ホントに大丈夫か?」
「私がいいって言ってるんだからいいの。」
「その意味、ちゃんとわかってる?」
前を歩いていた日向はくるりと振り返った。
「料理はできる?」
日向はカイのことを無視して、別の話題を振った。これは怒っているからではなく、言う必要がないと思っている様子だった。
「できるぞ。…………いや本当に。」
何も言ってないけど、嘘つけと目で語っていた。
「普段は作らないだけだ。丁度いいから晩飯は俺が作ってやるよ。」
「何を作るの。」
「できてからのお楽しみだ。ゲストは黙って待ってろ。」
(そしてそのニヤケ面も消してやる。)
日向は事件の後、別の社宅に移った。今度は一軒家ではなく、マンションの一室を使うことになった。最悪大声を出せば隣室の人が気がつくし、防犯カメラの数も死角も数倍良かったからだ。距離はさほど離れていないが、大通りに面していて、総合的に安全性が高いと言えた。
買い出しを済ませた二人は日向の部屋に入り、カイは早速キッチンへと向かった。日向は料理が出来上がるまで、溜まった家事を片付けた。
「できたぞー。」
リビングからカイの声が聞こえた。
入ると、美味しそうな匂いが充満していた。
「今日は麻婆豆腐を作ったぞ。加えて野菜スープ、サラダ、一品料理がちらほらって感じだな。」
想像以上の出来栄えに開いた口が塞がらなかった。
(いやいや。まだ美味しいと決まったわけじゃ――)
「美味しいっ!!」
日向は食卓に置かれた料理をそれぞれ摘んで食べてみたが、最高の味だった。
「これも美味しい!味付けが薄すぎず、そして濃すぎないちょうどいい味。」
そこでハッと気付いた。前を見るとニヤニヤしながらこっちを見てくる奴が。
「……前言撤回。あなたの料理は美味しいです、ハイ。」
「よく出来ました。」
満足したカイも食べ始めた。
日向は九重に入社してから、誰かと一緒に食卓を囲うのは初めてだった。
実家では、大きなテーブルに自分と母親の二人。会話はあるけど、事務連絡みたいだった。今は小さいテーブルで、誰かと膝を突き合わせている。実家と比べると窮屈だし、座りは悪いけど、全然苦にならなかった。
食後、二人はベランダで夜風に当たっていた。
「今でも夜は怖いか?」
「ううん。そんなことはない。」
日向は遥か遠くに輝く星々を見上げた。
「私、あの家を出てきて、本当に良かったと思ってる。カイとリッカに会えたから。」
「そうか。」
「カイは?」
ロマンチックな雰囲気に流されてか、二人ともやや叙情的になっていた。
「俺は、今が一番幸せだと思う。」
「幸せ……。幸せって難しいよね。」
「幸せの形は人それぞれだからな。」
「でも、私知らなかった。誰かといることがこんなにも心を満たしてくれるなんて。」
「リッカの事か?」
「……どうして?」
「リッカのことが好きなんだろ。」
日向は一瞬驚いてカイを見たが、手すりに腕をのせて、また星空を見上げた。
「……リッカのことは好きだけど、それが恋愛としてなのかは、わからない。でもね、私最近二人といると、まるで家族みたいだなって思う時があるの。一緒に色んなことを共有できるだけで、たまらなく楽しい。だから、リッカのことが好きでも、恋愛という表現は違う気がする。」
「家族……。」
日向はカイの方に一歩近寄って、カイの顔をしっかり見てこう言った。
「私、リッカと同じぐらいカイのことも好き。ずっと三人で一緒にいられることが、今思いつく私の幸せ。」
日向は笑っていた。闇をも包み込む、太陽のように。
一筋の星が流れた。
「どうして、泣いているの?」
「えっ?」
言われて初めて、自分の目から涙が流れたことに気が付いた。
カイは頬を伝う涙を指ですくい、手のひらを見た後ギュッと強く握りしめた。
悲しみではなく、喜びではなく、安堵をしていた。
「そうか。俺の選択は、間違ってなかったんだな。」
二人は、星空を見上げ続けた。それぞれの想いを胸に。
10
リッカが無事に退院して、すっかり三人の生活が定着していた。日向の家は、三人のシェアハウスのようになっていた。三人揃って出勤して、研究に明け暮れて、家に帰って、同じ釜の飯を食べる。本当の家族のようだった。
研究の方も、日向が来たことで、格段的に変化したことはないが、作業効率が上がったことで進捗が早くなった。
三人にとって、この時間は間違いなく幸せな時間だった。
しかし、日向には一つ、棚に上げていたことがあった。至福に包まれて、棚に置いたものをすっかり忘れていた。そういうものは、決まって出番なく終了することはないのだ。
残暑は残るものの、涼しさが心地よい九月。
その日は、会社の点検工事で、一日全職員立ち入り禁止となった。
三人は家のリビングで、変わらず研究に励んでいた。研究室に行かなくても、できることはあるからだ。
何気ない日常は、一つの呼び鈴から崩れ去った。
日向は少し離れたモニターまで向かい、来訪者を確認すると、そこにいたのは、
「お父さん……お母さん……。」
激しく動揺した。正直、もう両親には会いたくなかったのだ。今の日向にとって、家族とはカイとリッカのことだから。
もう一度、呼び鈴が鳴らされた。
「開けなさい、日向。」
冷たく、重く、そして絶対的な声だった。
扉を恐る恐る開けると、二人が外から扉を開け放ち、日向を無視して奥へ突き進んで行った。そしてリビングへと入っていった。カイとリッカのいるリビングへと。
「誰なんだ君たちは!!」
日向が遅れて入ると、そこには激怒している両親と、いきなり知らない人が入ってきてキョトンとしている二人。
「日向っ!! これはどういうことなんだ!!」
ここまで怒った父親を始めて見た。
「会社から聞いているぞ。全てを。親に何一つ連絡をしないとはどういう了見だ!」
日向は今の状況に混乱していた。加えて、どう説明したらいいのかわからず、黙って下を向いていた。
すると、カイとリッカは静かに立ち上がって、両親の前に立った。
「私の名前はカイ。こちらはリッカです。私たちは、彼女と同じ部署に所属している同僚です。実は私たちは根無し草でして、彼女の厚意でこちらによくお邪魔させてもらっていた次第です。我々がここにいたら、親子水入らずが台無しだ。一度席を外します。」
両親を通り過ぎてリビングを出ようとするカイとリッカ。しかしそれを、日向の母親が止めた。
「ちょっとあなたたち! どこに行く気!!」
かなり興奮しているのか、凄まじい面相だった。
二人とも無視して、日向の両親の隣を通り抜けていった。
リビングを出る直前、今度はその背中に父親が言葉を投げつけた。
「まさか逃げる気か?」
カイが止まった。後ろからだとわかりづらいが、カイの肩は震えているように見えた。
「カイ。」
リッカがカイの腕を掴んだ。
「こういうのは嫌なんだけどな。」
一度大きくため息をしたカイは、振り返って両親を睨みつけた。
「あなたたちは、ここへ何をしに来た。」
「カイ!!」
リッカが止めようと服を引っ張ったが、振りほどく。
「大事な娘がよくわかんねぇ落ちこぼれ部署に飛ばされて、そんで腹が立って会社に抗議して連れ戻しに来たんだろ。社長に会ったんなら、日向が自ら異動申請を出したことぐらい聞いてるんだろうからな。」
「それがどうした。お前には関係のないことだ。」
「そうかもしれない。なにもそれを食い止めようとかそんなことを言うつもりはないさ。でもな、これだけは言っとくぞ。お前たちは、どうして日向がうちの部署に来たか知ってるか? どうしてここに一人で暮らしてると思う? 今まであいつがどんな想いで生きてきたか、ちゃんと知ってるか?」
「君に私たちのなにが――」
父親の言葉を遮るように、声を大きくしてカイはこう言った。
「お前たちが真っ先にやるべき事は! 会社に行って話を聞くことでも、俺たちと話をすることでもない! こいつと話すことだろ!」
カイは日向を指差した。
「子供は人形じゃないぞ! 親が我が子を教え導く、それは大切なことだ。だが、子供の人生を決定する権利なんてない! 子供にだって考えがある。意思がある。俺が許せないのは、あんた達がここに来たことでも、俺たちを責め立てることでも、日向がうちの部署を辞めることでもない。これ以上、日向が自由に生きれないのが許せないんだ!」
カイの怒号に、両親は黙った。
その後ろで、日向は涙を流していた。
初めてだった。自分のために誰かが怒ってくれたのは。
両親が怒るときは、いつも悪いことをしたときだった。自分では悪いことをしたと思ってなくとも、両親にとっての悪いことならそれは悪いことになる。そして決まって、自由を束縛した。
カイは、私のために怒ってくれた。私の自由を願って怒ってくれた。
それが、ただただ嬉しかった。
「日向が望んだことなら、それこそ俺たちには関係のないことだ。その後で、いくらでも俺たちに唾を吐けばいいさ。」
日向の両親を鋭く睨みつけたまま、そう言い残してカイはリビングを後にした。
「日向。」
カイがいなくなった後、リッカは彼女を呼んだ。
「僕は変わったよ。」
「!!」
「日向はどう在りたい?」
質問だけを残して、リッカも去っていった。
日向にはわかっている。その答えを伝える人はリッカじゃないことを。
*
家を出た二人は、目的地があるわけでもなく、ただ歩いた。
どちらも口を開かなかった。
*
カイの剣幕に圧されて、なんとか両親は席についたが、怒りは収まっていなかった。
日向は自ら口火を切った。
「連絡を全くしていなかったことについては謝ります。ごめんなさい。」
「彼らは何なんだ。」
腕を組んだ父親は、日向からの話など聞く気がなかった。ただ私の質問に答えろ、と言わんばかりの態度。
日向はグッと奥歯を噛んだ。
「彼らは…………私の…………」
「もういい!」
彼は無造作に立ち上がって、高圧的に日向を叱り始めた。
「お前が事件にあった時、彼らのうちの一人が助けてくれたようだな。それで惚れでもしたのか!? どうしてあんな、今年中に潰れることが決まってる落ちぶれた部署に異動した!」
隣に座っていた母親も乗り出してきた。
「きっと二人に騙されてるのよ! こんな、家にも上げて、恥を知りなさい! 日向!」
そこからも、二人の怒声が止むことはなかった。
しかし、日向の頭の中には彼らの声は届いてこなかった。
(私、二人と一緒に居すぎたんだ。だってこんなにも……)
(息が詰まりそうなんだから。)
日向が勢いよく立ち上がった。椅子が倒れる。
驚いた両親は黙った。
日向が怒っていたからだ。初めて見る娘の態度に、二人は反応に詰まった。
「ねえ、私はあなたたちの何?」
日向は感情を爆発させた。
「どうして私を見てくれないの! どうして私の話を聞いてくれないの! 昔からそう。あれやりなさいこれやりなさい。一度だって私に、何がやりたいのか聞いてくれなかった!」
「それは、日向のためを思って――」
「違う!!」
母親の言葉を真正面から否定した。
「私が宗宮の娘だからでしょ? 宗宮の娘である前に、私は日向なの! 今まで会ってきた人たちは、みんな私の家を知ると態度を変えた。でもカイとリッカは違った! 二人は私を『日向』として見てくれた。宗宮について知った後もそれを変えることはなかった。さっき彼らは誰って聞いたよね。答えてあげる。彼らは私の家族よ! 私たちは、血が繋がってなくても、真似事だったとしても、私たちは家族なの!! それだけは誰にも何も言わせない!」
「な、何をバカなことを。」
「日向! 自分が何を言っているのかわかっているの!?」
今度は震えた、か細い声でこう訴えかけた。
「………二人は今日何しにここまで来たの? 私を連れ戻しに来た? それとも違う部署に異動させに来た? もっと宗宮日向に相応しい場所に連れて行くの? そうやってまた私の自由を奪おうとする。それに、リッカは私が襲われたとき、命がけで助けてくれたのよ。あなた達が何を思おうが勝手だけど、どんな事情や理由があれ、彼に対して何か言うことはないわけ? ………もううんざりなの。」
泣いていた。日向はボロボロに泣きながら、それでも必死に言葉を紡いだ。
「私を産んでくれてありがとう。ここまで育ててくれてありがとう。この会社に入れさせてくれてありがとう。ここにいられるのは全てあなたたちのおかげ。………でも、これからは新しい家族と自由に生きていく。これは誰かに強制されたものじゃない、正真正銘私が選んだ道よ!」
父親も、母親も、何も言えなかった。何も言い返せなかった。
それでも父親が何かを言おうとした瞬間、
「もう帰って!」
「「!!」」
「帰って!」
両親はいつの間にかいなくなっていた。
部屋には一人。
ずっとテーブルに顔を伏せて座ったまま。
心が、ぐちゃぐちゃだった。いろんな感情が混ざりあって、自分でもよくわからなかった。
コトッ、と前から音がした。
いい匂いがする。以前にも嗅いだことのあるこの匂い。
顔を上げると、正面の椅子にカイが座っていた。
「日向。」
声のする方を向くと、隣の椅子にリッカが座っていた。
「食べよ。」
テーブルに目を移すと、麻婆豆腐が置かれていた。
「「いただきます。」」
二人が食べ始めた。
日向も小さくいただきます、と言ってスプーンを持った。
口に入れた途端、涙が溢れてきた。目の前の景色が滲んでよく見えない。
「日向の好物を作ったんだ。お口に合いますかな?」
日向は鼻水をすすり、涙を流しながらも、
不細工に、そして大きく、心のままに笑った。
「あんたの好物でしょ、バカ。」
二人とも、いつも通りだった。ただいつも通り、そばに居てくれた。
味はよくわからなかった。
11
「期限まで、あと二ヶ月を切った。どうだ?」
「どうだとは、また随分抽象的ですね、徹さん。」
ここは、社長室。今は秘書も外で待機しており、部屋にはカイと九重社長の二人しかいない。
「まったく、あの時の青臭いガキが、すっかりクソ生意気なガキに育っちまったもんだ。」
「もうガキって年じゃないですよ。」
「そういや今年でなんぼだ?」
「二十三です。」
「ガキじゃないか。」
「そりゃあなたから見たらね。」
九重社長は今年で四十五である。
二人の関係性は奇妙に見えるだろう。社長と社員にしては気楽すぎるし、知り合いにしては上下関係が見え隠れする。
「一月もないうちに、いい結果を持ってこれると思います。詳細については以前書類にまとめましたよね。」
「ああ読んだ。実に素晴らしいぞ。ついに私たちの悲願が達成するのか。」
「その言い方、悪役みたいですよ。」
九重は年甲斐もなく、目をキラキラと輝かせていた。彼は、まるで子供のような人物だった。
どんなに歳をとっても、どんなに成り上がろうとも、夢を追い続ける一人の男であった。
「今のうちに委員会を黙らせる練習、しといてくださいよ。」
「そっちこそ、間に合いませんでしたーとかほざくなよ。」
カイは軽く片手を上げて、部屋を出た。
カイの言う通り、カイ・リッカ・日向、三名の自由開発部の研究は、いよいよ大詰めを迎えていた。
三人は、並列されたパソコン群の画面を眺めていた。
「ルーム。」
カイが突然口を開いた。リッカと日向はその言葉の意味がわからず、ぽかんとした顔でカイを見た。
「この電脳空間の名前。英語で『部屋』を意味する言葉だ。俺たちの研究にピッタリの名前だろ。」
試行錯誤の上、彼らの完成された『救済』はこうなった。
「まず、その人の脳の電気信号を長時間読み取り続けることで、脳の個性やクセを分析する。それを元に、無意識下で考えているその人の理想世界を構築。その後全身のあらゆる生体情報を記憶、複製、投影、そして更新することで、当人を電脳世界に作り出す。この作業を、閉じた世界に生きる全ての人間に行う。まるで、一人一人が自室へと帰るみたいに、誘われて、救われる。だからそれぞれの理想世界を『ルーム』と呼称することにした。」
「カイにしては、中々いい名前ね。」
「僕もいいと思うよ。」
二人の同意を得ても、嬉しくなさそうなカイ。なぜなら……
「今後の問題は……。」
カイは、研究室の奥の扉に目を向けた。その先には、例の椅子型の装置が置かれている。
「そうね。流石に装置が一つしかないんじゃあね……。」
三人揃ってため息をついた。
「今の段階では、一人送り出すのに最低でも七日はかかる。全人口が五十万とすると……二万年はかかるね。」
こんな時でも、冷静に分析するリッカ。余計に二人はげんなりした。
「速さと数が課題ね。」
「……リッカ、日向。理論の簡略化はできそうか。」
リッカは強く頷いた。
「やるしかないわね。」
日向は答えた。
「そっちこそどうなの?あのデカさと見た目、どうにかならないわけ?」
応答がなかった。
後ろにいるカイを見ようと振り向いた瞬間、
「なあ、二人とも。まだ未完とは言え、予行も終えて、これで人類の救済が可能だとわかった。ここまで来れたのは、二人のおかげだ。ありがとう。」
カイは深々と頭を下げた。
「今更何言ってるの。」
「僕たちはカイについて来ただけだよ。」
一人はやれやれと呆れ声を漏らし、一人はその姿に微笑んだ。
「カイ、こちらこそ、僕をここまで連れて来てくれてありがとう。」
「私も、リッカも、あなたに救われたの。だからお礼を言うのはこっちの方よ。」
「「「…………。」」」
三人が顔を合わせて、一斉に吹き出した。
全員が恥ずかしい本音を言ったせいで、面白おかしい雰囲気になってしまったのだ。
「実証データがあれば、委員会も黙らせることができるだろう。だから実質時間の縛りはなくなった!あと少しだが、焦らずに、じっくり事を進めよう!」
「「うん!」」
カイの意気込みに応えたリッカと日向は、カイの夢の、三人の夢の成就を固く誓った。
「今日は少し豪勢な夕飯にしない?」
「いいよ。何食べたい?」
「違う違う。今日の当番はリッカだけど、久しぶりに三人で作ろうよ。」
「そっか。わかった。じゃあ何にしようか。」
「私、たこ焼き食べたい!」
「なんでまたそんなものを。」
「いいじゃない。最近食べてなかったんだから。器具はうちに揃ってるから、ね?」
「僕はいいけど……カイはそれでいい?」
返答はなかった。
代わりに、ドサッと大きな音がした。
ビックリした二人は、横を見ると、カイが仰向けになって倒れていた。
「カイッ!」
「ちょっとどうしたの!?」
二人とも全く状況が呑み込めなかった。先刻まで何変わらず話してた人が、いきなり倒れたのだ。彼が悪ふさげで、家族を不安にさせることはしないと知っているからこそ、明らかに異常事態だと分かった。
「カイ! カイ!」
リッカが強く呼びかけても、ピクリとも反応しない。まるで、電池の切れた機械のように。
朧な意識。ぼやけた視界。薄い感覚。
落ちているのだろうか。それとも上がっているのだろうか。
前後上下左右の感覚が麻痺している。
目に映る色は鮮やかだった。ぼやけてもなお、色だけは認識できた。
それを美しいと思ったのだろうか。それとも怖いと思ったのだろうか。
両方とも正解かもしれない。
なぜなら、きっと『それ』が、人の域を超えたものだから。絶対に、人の目に触れないものだから。
?
どうしてそうわかるのだろうか。
わからない。
思考がまとまらない。
ただ、ただ、流れてゆく。
抵抗せずに、水面に浮かぶ木の葉のように。
――――
誰かの声が聞こえる。
誰かと話してる?それとも俺に話してる?
――――
とても大切なことのように思えるし、どうでもいいことのようにも思える。
上手く聞き取れない。
……やがて声が聞こえなくなった。
そして、意識は、溶けていった。
「ん……。」
頭を押さえながら体を起こす。
ゆっくりと目を開けると、目の前に二つの顔があった。
「「カイッ!!」」
あんまりにも唐突に大きな声を聞いたカイは、余計に頭が痛くなった。
「なんだよ……急に。」
「なんだって……それはこっちのセリフよ!」
「なんで怒ってんだ?」
「ちょっと、日向。落ち着いて。」
とりあえず、リッカは日向とカイの間に割って入った。
「カイ、自分がどうなったか覚えてる。」
「さっきまでお前たちと話してて……それで……あれ?」
「記憶が欠落してるのも無理ないよ。だって、倒れて意識を失っていたんだから。」
「え?」
そう言われても、いまいち実感が湧かなかった。だって体に異常など一つもないのだから。
「驚きたいのはこっちよ。急にぶっ倒れて、ホントにどうしちゃったのよ。」
「いや、特に……。それで、俺はどれくらい意識を失ってたんだ?」
「ほんの数分程度だよ。」
カイはここで思考を整理することにした。
自分がなんの前触れもなく倒れて意識を失った。しかしものの数分で覚醒。体の異常はない。
明らかにおかしい。仮に自分の身になにかあったのなら、こんな短い時間で覚醒するはずがない。
(そういえば、意識が消える前に、音が聞こえたような……。誰かが指を鳴らしたみたいな、パチンという音が。)
リッカや日向に尋ねようとしたが、なぜかリッカがじっと目を合わせてきた。
「どうした?」
ここで気付いた。俺と目を合わせているんじゃない。俺の眼を凝視しているのだ。
「カイ……その眼……。」
「? 充血でもしてるのか? ぶっ倒れたならしょうがないと思うけど……」
そこでカイは言葉を止めた。
リッカが今までにないぐらい、驚いていた。顔に出にくいリッカが、口を半開きにして固まっていた。
カイは立ち上がって、研究室を飛び出し、近くのトイレに駆け込んだ。
そして、鏡の前に立ち、自分を見つめる。
「なんだ……これ?」
自分の瞳が、右の瞳が、黒色ではなかった。
左の虹彩の黒と比べると、一目瞭然。とてもカラフルだった。単一の色ではない。
何色かが、層のように積み重なっていた。詳しい色は、鏡越しでは判別できなかった。
二人にも確認してもらったが、間違いなかった。
カイの右眼の虹彩は、変色していた。
詳しく見てもらったところ、
「黄、赤、緑、黒、と上から層になってる。赤や緑は、どちらかと言うと暗めの色調かな。」
「ちょっと失礼かもだけど、綺麗な色だね。」
「……日向にはもう少し心配する心はないのか?」
日向は頬を赤らめて、コホンと一つ咳払いをした。
「でも特に悪いところはないんでしょ?」
「まあ……。」
「何か心当たりはない?」
横からリッカが質問してきた。
「……よくわからないけど、意識を失っている間、『何か』を見た気がする。それに、意識を失う前に、音が聞こえた気がしたんだ。パチンって。指を鳴らすみたいな。」
カイは頭をブンブンと横に振った。
「いや、何もわからない。何も思い出せない。」
「う~ん。私は音なんて聞こえなかったけど、リッカ聞こえた?」
首を微かに横に動かした。
「ねえ、その眼の色なら、世界が変な色に見えたりしないの?」
「……いつも通りだけど……ん?」
カイは目をひそめた。リッカや日向のさらに後方。
「あれはなんだ?」
カイはおもむろに窓辺に近づき、空中で何かを掴むような動作をした。
「何をやっているの?」
「だって、ここに黄色の小さな粒たちが漂ってるじゃないか。あれ?掴めないな。」
カイは繰り返し、何かを掴もうとする。
「これなんだろう? リッカ、日向、わかる?」
二人とも怪訝な表情で顔を合わせて、同じことを考えていると確認した。
代表してリッカがカイに向かってこう言った。
「僕達には何も見えないけど。何かそこにあるの?」
*
それから直ぐに病院へ向かったカイは、様々な精密検査を行ってもらった。
そして医師にこう言われた。
何もわからないことがわかった、と。
体の隅々を検査しても、異常なところはなかった。なぜ虹彩のみ、色の変化があったのか。どのようにして変化したのか。一切不明。過去に同じような事例は一つもなく、だからといって日常生活に支障をきたす違和感も感じられないため、定期的な通院をして様子を見ることしかできなかった。
その日から、カイには二つのものが新しく見えるようになった。
一つは、金色に輝く粒子のようなもの。これはどこにでも存在していて、街中を歩いているだけで当たり前のように観測できる。
もう一つは、青色の、握りこぶしぐらいの大きさの何か。青色の中でも、かなり白に近い色だった。これは滅多に見かけない。
どちらも、それの正体については一切わかっていない。どういうところに多く発生するのかも不明。
つまり、完全なお手上げ状態だった。
しかし、特に生活の上で困るようなことはないので、周りが怖がらないように眼帯をつけて、普段通りの生活を送った。
通院で、いつもの病院へと向かったある日のこと。
検査も終えて帰ろうとした時、あることに気付く。
(なんかここは多いな。青いの。)
カイが今までに見たこの青い球は、殆どが病院内や、その周辺地域だった。
そこで、閃いた。天から降ってきたように、根拠や理屈もなく、突然そう考えた。
(これってもしかして……。)
受付の女性スタッフに近づく。向こうも気づいて、こちらに尋ねてきた。
「どうかされましたか?」
「突然申し訳ないが、今日、この病院で亡くなられた人はいますか?」
「はぁ……。」
女性は突拍子もない質問に困惑したが、分かる範囲で答えてくれた。
「詳細は分かりかねますが、当院は一、二を争うほど大規模な病院ですので、重度な怪我や病気を抱えた人が毎日のように運ばれてきます。」
(つまり、可能性は高いということか。)
「もう一ついいかな?」
「なんでございましょう。」
カイはカバンをガサゴソとまさぐり、会社用の社員カードを取り出して、女性に渡した。
「白井医師にこう伝えてください。俺から話があると。」
女性は訝しみながらも、内線を繋げた。ちなみに白井医師は、カイの担当医だ。
ほどなくして、女性がこう言った。
「白井医師が、いつもの診察室へ来てほしい、とのことです。」
「わかった。どうもありがとう。」
カイにはこうなることがわかっていた。
まず、病院の面子だ。病気の類なのかも一切分からないカイの眼を野放しにして、万が一のことがあれば、病院側の責任問題が追及されることになるだろう。仕方がなかったの一言で済ますには、ある程度の診察と経過観察が必須だからだ。
と、いうのは建前で、彼がこの眼に興味を持っているからだ。
下ってきた階段を引き返し、本日二度目の邂逅を迎えた。
「済まないが次が控えているんだ。手短にいこう。」
診察室の扉を開けるなり、いきなりそう言われた。だがそれはこちらも望むこと。椅子へ座り、目的を端的に伝える。
「この病院の、死体安置所に案内してほしい。」
「……。」
白井医師はこちらをじっと眺めた。
カイは見つめ返す。
「……受付に言えば案内させるように話をつけておく。」
白井医師は、その眼差しをもって、理由の説明は必要なしと判断した。
カイは頭を下げて診察室を後にした。
再度受付へ向かうと、先程の女性が案内してくれることになった。
女性と共にエレベーターに乗り、地下へと降りた。
薄暗く、細長い廊下に、足音が不気味なほど響く。
「どうしてこういうところは決まって暗いんですかね。」
「こちらに割く電力が無駄だからです。あまり人が来ないところなので。」
なるほど、そんなに単純な理由なのか、と考えていると、目の前を青い球がポワポワと通り過ぎて行った。
青い球が来た方向を見ると、そこは部屋だった。
「この部屋の人、いつだ?」
女性が、手持ちのパッドで情報を照会した。
「こちらに安置されている人は、九時間前に死亡が確認されました。」
「中に入っていいか?」
「白井医師から、あなたの希望は聞き入れるように言われておりますので。」
「すまない。部屋の外で待っててもいいぞ。死体なんて見るもんじゃない。」
「では、私は外で待ってます。」
カイは一人で重たい扉を開けた。
部屋の中は簡素だった。しかし、厳かで剣呑な空気が充満していた。
カイは中央の台に置かれた死体に近づく。被せられた白い布を、上半身が見えるぐらいにめくった。
(やはり……。)
胸の真ん中あたりが、ほんのり青がかっていた。その色が、例の青い球と一致した。
まるで残滓のように残っている青を見て、カイは自分の仮説が正しかったと感じた。
(この青い球は、人の核にして、生命活動を終えた後、最後の最後に消えていくもの。人が魂と呼ぶもの。)
カイはゆっくりと白い布を直した。
(あなたの平穏を乱してすまなかった。)
部屋を出ると、変わらず女性が立っていた。
「もう少し付き合ってくれないか。」
「わかりました。大丈夫ですよ。」
その後、死後まもなくの死体を幾つか見せてもらったが、どの死体の胸にも青い残滓が残っていた。そして色の濃さが、時間に反比例していることも判明した。念の為、長い間安置されている死体を確認したところ、その死体の胸には何も見えなかった。
確信した。
カイは、魂の観測に成功した。
「リッカ! 日向!」
研究室に入るなり、息切れしながら二人を呼んだ。
頬がほんのり紅潮していて、興奮しているのがわかる。そして、今までにないくらい満面の笑みを浮かべていた。
「この前、青い球について話したよな。」
「うん、眼に変化があった時から見えるようになったっていうもの?」
「そうだ! それ、多分『魂』だ!」
「!!」
「ちょっと、一から説明して。」
リッカは薄々理解している様子だが、日向は、突然そんな事言われても理解できていなかった。
カイは、病院での出来事を話した。
「それがもし本当なら……。」
「そう、完全なる救済が叶うかもしれない!」
以前カイが日向に話した、完全な救済の在り方。もし『魂』の存在が明らかになれば、わざわざ身体情報を読み取って複製する必要がなくなるのだ。
「魂はその人の核だ。仮に俺が見た青い球が魂でなかったとしても、それが、命尽きて最後の最後に消えていくものならば、何であれそれこそがその人にとって一番大切なものに違いない。」
リッカは口元に手を置いた。
「その青い球を複製できれば、作業の効率は格段に上がることになる。でも、それに触れられないんでしょ?」
核心を突いてきた。
リッカの言う通り、観測できたことと、それを扱えることとは直結しない。
「大丈夫だ。なぜだか分からないが、発想が湧いてくるんだ。流れ込んでくるものを一つずつ結び付けていくと、見えてくるんだ、正解が。だから時間をくれ。俺が何とかする!」
カイは笑った。高らかに笑った。
別人のように。何かに取り憑かれたかのように。
高らかに笑った。
「これで、これでやっと……俺の夢が!!」
自由開発部がなくなるまで、残り一ヶ月。
運命を狂わされた青年はどこへ向かうのか。