第二章(2) 友
第二章(1)の続きです。文字数が超過して一度に投稿できないため、分割して投稿しました。
約50000文字(空白・改行含めず)
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「今日は綺麗な満月だ。」
そう呟いたのは、白髪の青年。月夜に照らされ、その髪は一層艶やかさを増す。夜の暗さと相まって、白というよりは銀色に近かった。
彼の名は、草薙・ラーンウォルフ・新夜。日本人の母とアメリカ人の父とのハーフだ。母は死産で既に他界している。父は、世界的な企業の社長で、電脳技術の第一人者。
今回は、彼の仕事に連れ添う形で朝陽にやってきた。
幼い頃から頭脳がずば抜けて優れており、中学生ながら既にいくつもの大学を卒業していることから、今は天才高校生として名を馳せている。父が有名人ということもあるが、整った顔立ちに純白の美しい髪、聖人君子のような性格、同情を誘う母亡き幼少期、などあらゆる付加価値が積もり、人気は高く、世界的にファンがいるとか。
そんな彼が、真夜中の公園に、それも日曜の深夜に一人で来たのは、ある人物と待ち合わせをしていたからだ。と言っても、会って楽しいお話しをするわけではない。あるのは、殺し合い、命と命のやり取り。そういうものだろう。なのに、この男からは、緊張感というものがまるで感じられなかった。近所のコンビニに行くような軽い足取りだった。
朝陽第四自然公園の敷地内には、ほとんど電灯の類は設置されていない。これは夜遅くまで遊ばないようにするための市の方針によるものだった。しかし、今夜はまん丸の月が闇夜を遠くまで照らし、遮蔽物の少ない公園内はむしろ他より明るかった。
(さて、公園に来いと言われたが、まさかここまで大きいとは。)
初めは、入り口から敷地に沿って右回りにぐるっと一周してみることにした。
呑気に散歩を始める。
歩いて十分ぐらい。
前に遊具などが一切置かれていない、誰も立ち入らなさそうな森林地帯だった。
足を踏みれた。
瞬間、『感じた』。
(ここか。)
一周歩けば数時間以上もかかるほど大きな公園の中から、歩いて一人を見つけるのに十分しかかからなかったのは何かの運命だろうか。
木々は空に向かって大きく伸びている。日光を争った結果だろう。他より高く伸びればより日光を浴びることができ、逆に埋もれてしまうと、陽の光を十分に浴びることが出来なくなる。このような競合により、木々は空と地上を分つように覆い茂っている。地上から見たら、さながらドームの中にいるようだ。
今夜は風が吹いていた。木の葉を揺らし、その隙間から木漏れ日のように月光が垣間見える。
新夜はさらに奥地へと足を進める。
(朝の様子からすると、『ヴァイス』の感知や操作には慣れていないな。とういことは、fakerに成ってからまだ間もないのか?)
空を見上げる。そして長いため息をついた。
(やはり事は上手く運ばない、か。)
有次は木の上で息を殺している。
敵のヴァイスを感じる。果てしない深淵を覗いているような感覚だ。改めて敵の脅威を認める。
(全く自分のヴァイスを隠していない!? 自分の位置は教えてやるってことか?)
完全に下に見られている。
しかしそれが逆に好都合だった。
弱者が絶対的な強者に勝つ方法の一つが、油断を誘うことだ。強者が警戒心を緩めず、徹底的に攻めてきたら勝つ術など皆無だからだ。
敵の大きな牙をへし折る瞬間を、手に汗をにぎりながら待ち望む。
ふと足を止める。
目を閉じて、神経を研ぎ澄ます。
サァ――ッと風が吹き抜ける。
「……」
ゆっくりと目を開く。口元は怪しく曲線を描いていた。
(右前方、八十から九十メートルといったところか。)
敵を捕捉した。
「隠れてないで、出てきたらどうだい。」
あえてわかるように声を張り上げる。
こちらは隠れる必要が全くないため、感知に慣れていない相手への自己主張だった。余裕、と見てもいいだろう。
(しょうがない。)
新夜は、先程目星をつけた地点へ向かう。
一歩一歩、ゆっくりと。ゆっくりと。獲物へ迫っていく。
五メートル、……十メートル、……十五メートル。
…………………………………………………………………………――
サクッ、サクッ、サクッ。土を踏む音がやけに響く。風は止み、重たい空気が澱む。
…………………………………………………………………………――――
五十メートルほど歩いたところで、事態は動く。
相手が高速で動いた。
しかし、こっちには向かって来なかった。
上へ。
垂直に上へ飛んだ。
(!!)
この局面で逃げるのか。
いや、それはありえない。
誘いか?
(乗らない手はない。)
絶対的な強者の思考故、弱者の誘いは断らない。
ダンッ、と強く踏み込み、新夜も跳躍する。凄まじい力がかかり、さっきまで立っていた地面は、まるで埋められていた地雷が爆発したようにめくれあがっていた。
彼の跳躍は、もう人の域を超えていた。一飛びで十数メートル近くまで伸びた木々を容易に越す。
目標が森林の天井を突き抜けた。
上昇中、新夜の右手には『光り輝く粒子』のようなものが集まり、やがて剣を形創る。細い棒を直交させて十字架を作ったかのようなデザインだった。
『光り輝く粒子』のようなものの正体は、可視化されるほど凝縮された『ヴァイス』。星が作り出した原初のエネルギー。すべての源。
バキバキバキ、と木の枝をへし折りながら、今、覆われたドームの天井を突き破る。
ブワァッ、と視界が一気に開ける。
たとえ相手が見えていなくても、ヴァイスを感知しているため居場所はわかる。そのため突き抜けた瞬間、生成した剣をギュッと握り、目標に斬りかかる。
と、そこで初めて相手を見た。
(!?)
そこにいたのは、そこにあったのは、
直径二十センチ程の『光り輝く粒子』の塊――――。
はるか後方、既に新夜が通り過ぎたある地点。
木の上で期を見計らっていた有次が、カッと目を見開き、敵の方を鋭く睨む。
前方で、なにかが爆発したかのような衝撃音が聞こえた。それは新夜が跳躍した音だった。そのことに有次が気づいたのは、新夜の位置を常に感知していたからだ。
新夜が上空へ舞い上がった直後、足にヴァイスを集中させ、それを半ば爆発させる形で大きな推進力を得る。
ボッッッ!!!!!!!!
それまでのっていた太い木の枝が粉々になり、爆風が周りの木々をなぎ倒す。
常人の目では追いきれない速度で木々を突き抜ける。空気が震える。
止まることなど考えていない。一直線に敵へ向かっていく。
木々で覆われた天井を突き抜けた瞬間、日本刀に似た形の刀剣を創り出し両手で強く握りしめる。
「ッッッ!!!!」
新夜の死角、真後ろから有次は迫っていた。まだ気づいていないのか、相手はなんの反応も見せない。
決着は一瞬だった。
狙うは背中。
最も面積が広く、多少相手が動いたとしても確実に突き刺せる。心臓をひと刺しで仕留められたらそれで良し。例えこの一撃で仕留めきれなくても、実力差を埋めるほどの致命傷を与えられればまだ勝機がある、と考えた有次の最善で最高の攻撃であった。
刀を前へ突き出す。
グサッ!!!
刀が新夜を貫通し――
「惜しい。」
「なっ!?」
感触はほとんどなかった。
刀は服の端を突き刺しただけで、新夜には当たっていなかった。
(あのタイミングで避けたのか!?)
刀が突き刺さる直前まで、確かに新夜は何もアクションを起こしていない。後ろから迫る有次の方を振り返ろうとすることもなく、体をねじったりヴァイスで剣や盾を創るなり、攻撃を躱すこともなかった。
一瞬の隙が命取りになった。
ガッ、と腕を掴まれた。
新夜はその状態で回転し、有次を地上目指して思いっきり投げ捨てる。突進攻撃の推進力を逆に利用する。遠心力と重力も働き、目にも留まらぬ速さで落下する。
ドォォォオオオン!!!!!
有次は地面に対してほぼ垂直で衝突した。鋭角に地面に衝突すれば、バウンドして衝突回数が増えるが衝突の衝撃は小さくなり、また受け身がとりやすい。その点垂直に衝突すれば、落下の衝撃がそのまま有次を襲う。動揺していたこともあり、受け身はとれなかった。
「ぐはっ!!」
血混じりの空気を吐き出す。幸いにも血が喉に詰まる事はなかった。
ダメージが想像以上に大きかったが、内臓の損傷を確認している暇はない。敵の攻撃に備えなければならない。相手がこんな美味しいチャンスを逃すとは思えないからだ。しかし体がいうことを聞いてくれなかった――。
一方、
新夜は有次を投げた後、それを追う形で降下を始める。手のひらを空へ向け、集めたヴァイスを空気中で爆発させて初速を作り出す。
真下では、有次が地面に仰向けで倒れていた。あまりのダメージに動けない様子だった。
そこへ容赦のない飛び蹴りをくり出す。
ぐんぐんと加速していく。先程とは関係が逆になっていた。今度は新夜が敵を捉える。もう一秒にも満たない内に新夜の足は有次の腹部へ鋭く突き刺さり、上半身と下半身は永遠の別れを迎えることだろう。
一瞬、攻撃が当たるその刹那、
有次の右瞼が、勢いよく開かれた。
瞳が、青色に輝いた。
同時に、軽く口が動いた。
「リジェクト。」
ドンッ!!!
鈍くくぐもった音が響いた。まるで分厚いガラスを叩いたような音だった。
衝撃で舞い上がった砂埃が流れると、有次の腹部の上部三十センチほどのところに、霞みがかってうっすらとした灰色の『膜』のようなものがあった。いや、『壁』の方が近い表現だろうか。全身を覆うわけでなく、部分的に『壁』が展開されており、新夜の攻撃を直前で防いでいた。
新夜はその『壁』の上に立ち、下では有次が仰向けで見上げている、という不思議な構図になった。
「なるほど、これが君の『眼』の能力か。」
「くっ……。」
新夜の顔には余裕が見えるが、有次は苦悶の表情を見せていた。
「実力を見誤っていたよ。劣勢の中でこの精神力や思考力、そして胆力。さす――」
言い終わる前に有次は行動を起こす。
『壁』を消すと同時に左手に刀を創り出し、円の軌道を描くように横なぎに振る。
が、空を切る。
『壁』の消失の直前に新夜は後ろへ大きく飛んだ。
「っと、人の話は最後まで聞こうか。」
「……。」
のっそりと起き上がる。平静を装うが体は鉛のように重かった。
依然として会話にはのらない。
「全く、愛想ないな。ま、しょうがないか。冷静なフリして本当は必死に考えてるんでしょ? 次の一手を。」
図星だった。
「そもそも無駄だよ。さっきの一撃が当たる当たらないに関係なく、今の君には僕は殺せないよ。今の君には。」
「……っ!!」
何も言い返せなかった。
確かに有次は、最高の条件と最高のタイミングでの全力の一撃を軽々と避けられ、敵がどうやって躱したのかさえわからないでいる。その上、『眼』の能力も見せてしまった。一回でも見られたなら、能力について粗方看破されたと考えていいだろう。逆に相手の能力は謎のままだ。実力で劣っているのに、手札のアドバンテージもなくなった。
「そうだね、一つ試させてくれ。」
そう言うと、新夜の右眼が突如輝いた。
あまりにも唐突だったため、完全に反応出来なかった。
固有能力が介在する勝負においては、能力をいかに有効活用し、いかに相手の能力を見破るかが重要になる。初手が慎重になり、探り合いの駆け引きが終わった、つまり均衡が崩れた時、一気に戦いは加速する。
つまり、有次が手札を見せた今、相手もタイミングを見計らって能力を行使してくる可能性が高いのだ。それに、有次の能力が防御系だとわかったのなら、正面からの勝負ではなく、例えば意識外からの攻撃など、何らかの方法で防御を避ける手段を用いるはずだ。
それを、有次は失念していた。先ほどの攻撃による消耗や、経験値不足も含まれるが、弱い立場だからこそより一層慎重になるべきだったのだ。
新夜の能力にかかって分かったことは、
その瞳が、彼の髪と同じ色に、
周りの白目部分よりも白く透き通っていて、高明度の白銀のような美しい色に輝いたことだった。
目が合った瞬間、眼球の神経を伝って強烈な刺激が脳を叩いた。
「~~~~~ッツ!!!」
頭の中が通常ではありえないような熱を持ち、今にも爆発しそうだった。視界がチカチカと点滅し、意識が飛びそうになる。体が前に傾き倒れそうになるが、寸前のところで片足を前に突き出して踏ん張る。
「ハァ、ハァ、ハァ、――――」
体中から脂汗が止まらなかった。
(なにが、起こったんだ……?)
ズキン、ズキン、と頭に鈍痛が残るが、なんとか上体を起こして新夜を見る。
もう瞳は輝いていなかった。そしてさっきまでの薄気味悪い笑顔は消えて、神妙な面持ちでブツブツと何か呟いている。
「やはりこの『能力』は同等の存在には効かないのか。だが様子を見ると脳には作用している。魂へ作用するものなら効かないのも頷けるが……。器の形はその中身によって変化する……仮説は正しかった、ということなのか。」
「……か、せつ?」
「ただの興味本位の探求さ。我々は既に人間とは呼べない存在だが、じゃあどうしてそうなったのだろうか。fakerやcipherに覚醒したから? 残念ながらこれは理由の一部でしかない。覚醒してどうなったのかに踏み込む必要がある。初めはヴァイスの保有量に関係するのかと思っていたけど、それだったら僕たちは覚醒する前から人離れしたフィジカルや強度、治癒力を発揮するはず。だけどそうではなかった。これらは覚醒後に備わったものだ。では何が原因なのだろうか? そこで立てた仮説が、魂の変化さ。進化、と言ってもいいかもしれない。」
「……。」
今までの沈黙とは別で、新夜の言葉を受けてなにか考えているような沈黙だった。
少しは興味を持っていただけたことを確認した新夜は話を続ける。
「ここで関係してくるのは、魂と肉体の関係性だ。肉体というのはただの入れ物、器に過ぎず、中に入った魂によって肉体は変化する。人間の肉体的特徴がそれぞれ異なるのはこういうわけで、逆に、肉体に何か大きな変化があったのならば、それは魂の変化によるものと言える。もちろん、肉体自体に成長と衰退の機能が備わっているため、必ずしも肉体の変化が魂の変化によるものではなく、というよりは、そもそも魂なんてものは基本的には変わることはない。例えるならば、魂は大きな木の幹で、そこから意識や精神という枝が伸びてるんだ。一本の枝葉が、違う方向に伸びたり枯れてしまったとしても、幹になんの影響はない。魂が変わる、ということは木ごと変わるということ。それじゃあビフォーとアフターで全く違うものなんだよ。人間の短い一生の中で、概念レベルで全てがまるごと変わることなんて、到底考えられないね。」
「……つまりお前はこう言いたいのか。俺たちの変化は魂が変化したからだ、と。」
「より正確に言うならば、変質なのかな。進化していることに変わりはないんだけどね。君がまるっきり別人にでもなったのなら、話は別だけど。」
「…………。」
「僕の神眼の能力は『支配』。文字通り対象の全てを支配することが出来る。さっき君に使ったことでやっとこの能力を完全に知れた。どうやら、効き目は対象者の魂の段階によって変わるようだ。人間程度の強度なら完全に支配できるが、魂が進化した者は肉体も進化するから、脳に作用するこの能力は通用しないらしい。君も僕と同じで『あそこ』に辿り着いたからね、実力に差があっても支配はできなかった。」
「……何故能力を明かした?」
有次は一瞬驚いたが、すぐさま怒りの表情を見せた。手札のアドバンテージをこうもあっさり手放したのが、舐められていると感じたからだ。
新夜は両手を上げてお手上げのポーズを取り、
「分かっての通り、僕の神眼は君に通用しないからだ。」
と言ったが、裏でニタリと薄ら笑いを浮かべた。
「とんだはずれくじだな。」
「そうかな? 」
秘め事を話す時につい小声で話してしまうかのように、かろうじて聞こえる声量で短くこう言った。
「用は使い方次第さ。」
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それは、まるで小規模の収容施設のようであった。大きなバスケットコートおよそ四個分の空間が広がっている。
この空間の特徴は二つある。
一つは、この空間の使われ方である。残念ながらこの空間は、避難用のシェルターでも何かの貯蓄庫でもない。中央に、一辺四メートル程の立方体があった。そしてそれしかなかった。天井も床も壁も全てが真っ白のこの空間には、それしか見当たらない。立方体は全面透明なガラスでできていて、中に一対の机と椅子が置かれているのが見てとれる。
もう一つは、この空間がどこにあるのか、というものだ。
無音でエレベーターの扉が開く。
一面真っ白の空間に入ってきたのは、二人の男性。
一人は恰幅が良く、高級なスーツを身にまとっている。身なりから育ちが窺える。
もう一人は、すらっとした出で立ちに普通の黒スーツ。特にこれといった特徴がなく、影は薄そうだが穏やかな表情から暗い人間ではないとわかる。そして、常にその人の後ろを歩いていた。
「まったく、地下五百メートルというのはこんなにも遠かったかね。」
「『コネクトルーム』を使われるのはお久しぶりでございますから。無理もありません。」
二人は中央の立方体、通称コネクトルームへと向かった。しかし、コネクトルームから少し離れたところで足を止めた。
「月影。」
「はい、主人様。」
会話、というよりはお互いの確認作業のようだった。月影はその場に留まり、彼の主人は立方体へと入っていった。
机には、片手で持てるほどの装置が一つ、それと机に埋め込まれる形でボタンがあった。この装置は、月影が何か緊急の用事がある時に鳴るようになっている。ボタンを押すと中が見えなくなった。光の透過率を操作して内からも外からも見えないようになっている。加えて、この特殊なガラスは防音の性能も備わっているため、月影からは声すらも聞こえなかった。
外部からの光が届かないということは、内部は真っ暗なのだが、ガラスに埋め込まれた極薄のライトが部屋を明るくする。この立方体のガラスはとても分厚く、内側に面した部分の至る所にライトが埋め込まれていた。そしてもう一つ、ライトとは別のものがガラスに埋め込まれていた。椅子に座って正面を見ると、大きな液晶パネルが綺麗にはめ込まれていた。リモコンはなく、ライトがつくのと同時に自動で電源がオンになる仕組みだ。
電源がつくと、画面を六等分するように境界線が映された。左上の一つは常に真っ暗だが、残りの五つには『No Image』と表示された。
次第に『No Image』の表示が切り替わり、それぞれにある人物達が映し出される。
全員が出揃ったことを確認して、
「本日は急な申し出に集まって頂き、感謝申し上げる。」
始めに切り出したのは日本の首相、柏田浩之。今回の招集をかけた張本人だ。
「挨拶は不要だ。本題に入りたまえ。」
そう言ったのは、アメリカ合衆国の大統領、クレイド。
「緊急ということは、まさか……」
「ええ、その通りです。ミラー氏。」
イギリスの首相、ミラーの言葉を受けて、柏田は表情を変えずにこう言った。
「cipherが現れました。」
画面に映された人たちの表情が一斉に曇る。
「以前、柏田氏からfakerの出現が報告された時から想定していたことだが、こうも早く現れるとは。もう接触したのかね?」
そう話すのは、フランス大統領、アシル。
「ええ、日本時間で今日、四月十九日の深夜零時にcipherと対峙するようです。」
険しい顔をしたクレイドが、どこか鬼気迫るように、
「そのcipherがどこの誰だか分かっているのかね?」
「いえ、まだ分かっておりません。」
すると、ドイツ首相のフリッツが急にドンッ、と机を叩き声を荒げて、
「問題は勝てるかどうかだ!! どうなんだ、柏田氏!!」
「部下からの情報によると、勝てる確率は、……今のところ低いと。」
しばらくの沈黙が続いた。
「……ということは、例のものを使わざるおえないのか。」
沈黙を破ったのは、中国の国家主席、王。
柏田の重たい口が開く。
「誠に遺憾でありますが、……グリーンランドの二の舞もやむなしかと。」
「……君はそれでいいのかね? 」
「はい。各国の皆様、準備のほどよろしくお願いします。状況についてはわかり次第追って連絡します。」
他の五人が了承の意を示したところで会合は終わった。
画面の電源がオフになると次第にガラスの透過率が戻っていった。
立って四角い部屋を後にする。月影が歩み寄ってきて飲み物を渡す。
「……ふぅ。fakerからの連絡はないのか。」
「はい。」
「監視をつけられないのが痛いな。肉眼での監視は確実にバレるのがオチだ。おそらく衛生映像ぐらいだろうがそうなると、リアルタイムの状況がいまいち分かりにくい。」
「結局、彼次第、ということですね。」
「……」
柏田は何か考え込んで、従者にあることを言い渡す。
「月影、仕事だ。」
その言葉を聞いた途端、月影の表情は切り替わる。その顔からはおよそ感情と呼べるものが感じられなかった。例えるならば、無だ。
これが彼の仕事。これが彼の本業。これが彼の存在意義。
「今すぐ朝陽へ飛び、朝陽の状況を調べてこい。もしfakerが生きていたら接触をし、できるだけ情報を聞き出せ。」
「承知しました、主様。」
「クレイド大統領、どちらへ行かれてたのですか?」
廊下ですれ違った職員に尋ねられた。
「何、ちょっとした私用だ。」
「内務省長官が訪ねていらっしゃったので、応接間で待ってもらっています。」
「わかった。ありがとう。」
そう言って、応接間ではなく、大統領室へと向かうクレイド。
部屋の扉の鍵を閉め、カーテンも閉める。
胸の内側のポケットからスマートフォンを取り出し、誰かに電話をかける。
「……もしもし、私だ。」
「クレイド、何かあったのか?」
大統領から電話がかかってきたというのに、相手方に動揺も緊張も見られなかった。大統領と電話の相手との間に、大きな上下関係がないことが分かる。
「ウィリアム、先程裏同盟に招集がかかり、緊急会議が行われた。議題はcipherの出現についてだ。どうやら新夜と例の偽物が接触したらしい。何か聞いていないか。」
「まだ何も。」
「……そうか。しかし、焦る必要はない。『計画』は順調だ。それと、自由にさせるのもいいが、手綱は離すなよ。」
「そのための父親だからな。」
そこで通話は終わった。
「『シンヤ計画』、か。」
スマホを胸元にしまい、部屋を後にする。
ウィリアム・ラーンウォルフはその時、ちょうど自宅へ着いたところだった。
時刻は、あと数十分で二十四時になるところだ。
玄関に息子の新夜の靴はなかった。名を呼んでみても応答はなかった。
(もう行ってしまったか。)
できれば万が一に備えて、接敵する前に相手の情報を聞いておきたかったが、行き先も分からないから、今の彼にはどうしようもなかった。
彼は待つしかなかった。
12
キィーン、キィーン、と甲高い衝突音が深夜の森に響き渡る。
「くっ!!」
目にも留まらぬ速さで新夜が斬りかかってくる。かろうじてヴァイスで創り上げた刀で受け流すも、すかさず百八十度回転して迫り攻撃を繰り出してくる。
(一撃一撃が、重い!!!)
一つの攻撃を全力で抑えている状態だ。その攻撃が次から次へと息つく間もなく襲ってくる。そうなると当然、対処できない攻撃もでてくる。致命は避けているが長くは持たないだろう。
新夜は剣を大きく振りかぶり、垂直に振り下ろす。対して有次は刀を地面と平行にし、先端の方に片手を添えて剣を受ける。ギィィィーンッと鈍い音とともに、有次の足元の地面がズドンと沈む。力と力がせめぎ合い火花が散る。しかし徐々に、徐々に均衡は傾いてゆく。
新夜は不敵な笑みを浮かべて、
「ついてこれるかな?」
まるでギアを上げるかのように力が増大していく。そして、ガードの上から無理やり剣を振り抜く。刀が押し切られ、有次の左側の胸から腹にかけて服が切れ、血しぶきが舞う。
痛さのあまり叫びそうになったがぐっと堪えた。
(浅い!!)
しかし、ほんの一瞬の間すら彼の前では致命的であった。
剣を振り抜いた勢いで回転し、体を寝かせながら跳躍する。ちょうど空中で地面に平行になり、剣を持ちながら高速回転して頭上から有次を襲う。反応が一瞬遅れ、刀で防御に出るが体に近すぎた。斬撃が左肩に届く。鮮やかな赤が宙を染める。
新夜は着地後くるりと体を捻り、またもや剣を頭上に構える。
(舐めるなっ!!!)
今度はガードではなく、相手の攻撃を迎え撃つ。有次も身を翻し、刀を下から上へ勢いよく振り上げる。ここで回避を選択しなかったのは、fakerとしての意地か、劣等感から生じた虚勢か。
それすらも見透かしているように、新夜は攻撃を変化させる。
剣と刀が交わることはなかった。
刀が途中でピタリと止まったのだ。
「!?」
気づいた時にはもう遅く、腕を振り上げる勢いを止められなかった。
無防備な胴に、正確にはみぞおちの辺りに新夜の足の裏が食い込んだ。
「ぐぅっ……!!」
後方へ十数メートルほど吹っ飛び、木へ勢いよく衝突する。あまりの衝撃に視界がぼやけてはっきりしない。
しかし、もう寸前まで新夜が迫っていた。彼は有次を蹴り飛ばした後、その速度を上回る速さで追撃した。木に衝突した直後を狙い、剣を突き刺す。
青が煌めく。
剣先はあと一歩届かず灰色の『壁』に阻まれる。
「ハァァァ――――――――ッ!!!!」
今度は、有次が攻勢に出た。
有次はただひたすらに前へ、前へと詰めていった。
攻撃の手を緩めない、それが有次の取った『防御』であったが、新夜は後ろに下がりながら刀を簡単にいなしていった。
体を九十度だけ回転させ、最低限の動きで一振りを躱し、逆に間合いを詰めて有次の顔めがけて剣を振り抜こうとする。前のめりなっていた有次に避けることは不可能に思えた。実際どう体を捻ったところで直撃は免れなかっただろう。だが、有次は避けようとはしなかった。
むしろ、より姿勢を低くして敵に突進していった。
頭上に冷やりとした『死』を感じたが、有次は臆さない。
「オォォォッ!!」
キィン! と耳障りの悪い音が響いた。新夜の剣が灰色の壁に弾かれたのだ。
有次は勢いを殺さず、一旦刀を消してから、そのまま相手に体当たりをした。人間の体は二本の足で支えられて立っている。それゆえに足が浮くと簡単に倒れてしまうのは自明の理だろう。有次は水平より上の角度で、レスリングのタックルのように相手の下半身を狙った。
「――。」
新夜もこれには少し驚いた様子だ。パワーで勝っている新夜が倒されてしまった。
有次はすぐさま馬乗りになった。ヴァイスで刃渡り三十センチほどの小刀を創り出し、両手で力を込めて握りしめ、新夜の顔に振り下ろす。防御されると思い全体重をかけたが、新夜は手の甲にヴァイスを集め、切先を軽く撫でて軌道を逸らす。新夜の顔の真隣に刀が深々と刺さり、有次は勢い余ってそのまま新夜の上に覆い被さった。
二人の顔は、息がかかるほど近かった。
「………………………………」
「………………………………」
緊張が走る。
一見有次の方が上をとり有利に思えるが、事態はそう簡単ではない。もう一度攻撃するには、上半身を少なからずとも起こす必要がある。逆に新夜は位置的には不利だが、腕を回すだけで剣を突き刺せる。
相手の瞳に自分の姿が映る。互いに目を逸らさないでいるのは、相手の出方を注意深く観察しているからだろう。少しでも動いた時が引き金となる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。
瞳が揺らいだ。
先に動いたのは有次。
体を小さく最小限起こし、もう一度小刀を創り出す。先程と同じように振り下ろそうとするが、当然それを許してくれるわけではない。
有次が動いた瞬間に新夜も仕掛ける。右手に剣を創り、腹部に突き刺そうとする。
その間、およそコンマ四秒。
パリンッ、と剣が途中で砕けた。
有次の瞳は、青に染まっていた。
(やはり……)
小刀が振り下ろされる。
新夜はすぐさま行動を切り替える。剣を創った逆の手を体の前にかざし、ヴァイスを集中させる。金色のシールドが出来上がる。
光と光が衝突した。
ヴァイスという力自体に優劣はない。
fakerとcipherの力の源はヴァイスであるため、その力の差の基準の一つが、保有するヴァイスの量である。新夜の保有するヴァイスも有次が保有するヴァイスも、性質は全く同じなのだ。であれば多く持っていた方が強いのは道理である。例えるならばゲームのMPのようなもので、MPが多いほど威力の高い攻撃が放てたり、より多くの技を繰り出せるが、MPの消費量が同じ技なら誰が使おうと同じ技なのだ。しかし、同じ技でも使い方次第で異なる結果を生み出せるし、MPが多いからといって必ず勝てるというわけでもないだろう。だからヴァイスの保有量というのはあくまで指標の一つである。
ここで、ヴァイスで作った矛と矛をぶつけるとする。使い手を考慮せず、速さなどの外部条件を同じにした場合、その勝敗を決めるのは何か。それは、ヴァイスの密度である。つまりは、同じコンクリートでできた薄い壁と厚い壁ではどちらが頑丈か? というのと同義になる。
先程も述べた通り、彼らの力の源はヴァイスである。そして二人の保有量には圧倒的ともいえる差がある。全体で『十』ある内の『一』を使って武器を創り出したとしても、『十』の量が違うのだから『一』の量も違ってくる。もしお互いが作り出した武器が正面からぶつかったら……
ピシッと亀裂が走った。亀裂はどんどん広がり、やがて刀はその形を崩した。
「!!」
経験値不足だろうか。刀が壊れたことに一瞬怯んだ隙を、新夜は逃さない。思いっきり上半身を起こし、有次の額に渾身の頭突きを繰り出す。
ゴンッッ!!! と痛々しく鈍い音が響いた。思わず目を閉じてのけぞった隙に、片足を抜き、蹴り飛ばす。有次は後方の木へぶつかり、血を吐いた。蹴られたダメージは大きくないが、もう体は限界に近かった。内臓はぐちゃぐちゃで、骨はそこらじゅう悲鳴をあげている。血を流しすぎたせいで思考も朧げだ。それでも彼は立ち上がる。瞳に宿る生気はむしろ強くなっていった。
まだ諦めていなかった。
「いいぞ、もっとだ! 死力を尽くして僕に立ち向かってこい!! 」
*
その時、翔の頭の中にはある言葉が反芻していた。
“『……ごめん。』”
それは、彼が姿を消す前に放った最後の言葉だった。
(お前はどんな思いで言ったんだ?)
彼が何を抱え、何に悩み、何に対して謝ったのか。
(俺、今度こそ有次の…………)
自己満足かもしれない。既にその資格はなく、手遅れかもしれない。
それでも彼は前を向く。
心中にはたくさんの想いが溢れていた。
もっと有次のことを知りたい。有次が困っているならその手助けをしてあげたい。今度こそ有次のことを、胸張って『友』と呼べるようになりたい。
ふと、視界の上部がキラリと光った。空を見上げると、一つ、また一つと輝く光が宙を駆けた。
「流れ星か。」
こういう時は願い事をすると相場が決まっている。
「そうだな、」
翔は、ここで大言壮語を並べる人物ではない。
穏やかに笑いながら、遠い彼方を見上げる。
「とりあえずは、再会を願うとするか。」
町の郊外に向かって歩みを進める。
特に意味はない。
人のいない方へ歩けば、考え事が捗りすっきりすると思ったのかもしれない。
夜の冷え切った道を、彼は進む。
*
深夜の森で、激しい戦闘は続いた。
新夜は、戦闘を重ねるごとに有次が確実に強くなっていってるのを実感していた。それは力が急増した訳ではない。持っている手札で最善の戦い方を見つけ始めていたからだ。
「――――」
「――――」
両者ともただ刃を交えた。巻き起こる爆風が辺りの木々を吹き飛ばす。二人の戦闘の前では、大きな樹木や大地さえも脆く崩れる。
新夜は高速で攻撃を仕掛けるも、悉くを『壁』に止められた。
ここでお互い、一旦距離を取り呼吸を整える。
大きく変わった点は、有次が防御を捨てたところだった。いや、こう言った方がいいだろうか。防御というアクションをしなくなったのだ。新夜の攻撃のほとんどを眼の能力で抑え、自分は攻撃に専念することで、先刻の防戦一方の状況を脱したのだ。そのため、彼の右眼は篝火の如く燃え続けている。ただし紅蓮の炎ではなく蒼炎だった。
しかし、ここで疑問が生まれる。依然と力の差は縮まっていないのに、ここまで攻撃を防げるものなのか、と。ここにカラクリがあると新夜は確信していた。
「さては、視界の外でも能力を展開できるのかな?」
相手の応答を待たずに話を進めた。
「神眼は、『眼』の能力である以上、視界内でないと能力を発動できないのは必然。かくいう僕の能力も、対象を視界内で捉えないといけない。だけど君は幾度となく、死角からの攻撃に能力で対応した。つまり、『見る』以外にも、どこから攻撃が来るのか知る術があるってことだ。それが、君の『ギフト』だね。」
真偽がどうであれ、相手が自分の持っている『眼』とは異なる能力の実態に感づいた時点で、手札のアドバンテージは失われたと思い、
「……俺のギフトは、『空間把握』。見ずとも、どこに何があるかがわかる。だから俺に死角はない。」
「感知じゃなくて把握か。素晴らしい。」
有次には、どうしてこいつがこんなにも嬉しそうなのかが理解できなかったが、
(確かに俺の手に入れた力は強い。だがまだ使いこなせていない。)
これは明らかな経験不足であった。有次は、神眼とギフトの、二つの能力を持っているが、それぞれを、自分を守る能力と自分の周りがわかる能力、としか認識していなかった。そして今、有次は急成長を遂げている。実戦経験なしで、いきなり遥か格上の敵と死闘を繰り広げ、少しでも気を抜けば命取りになり、そもそも彼の肩には人類の存亡がかかっている。その極度の緊張とプレッシャーを背負いながらの極限状態は、有次を強くしていった。習うより慣れろとはまさにこのことだ。激しい刺激の中で、彼は二つの能力を結びつけて、一つの強大な力へと昇華させた。それがあの、攻撃と防御を切り分ける戦闘スタイルであった。
(もっと、もっと集中しろ! この能力を最大限使えばあいつにも手が届く!)
息を深く吐き、強く一歩を踏み出す。攻撃を仕掛けるための予備動作であったが、まるで有次の心を表しているようだった。
直後、
(…………!?)
始めに、違和感を感じた。
次に、その違和感は全体に広がり、自分を取り巻く空気がズンと重くなった。まるで上から押さえられているような重圧感だ。
「僕も少しは真面目にやるか。」
そう言った新夜の顔からは、先程まで見せていた、どこか遊んでいるような表情は消え去っていた。別段表情が険しくなったわけではないが、明らかに変わった。辺り一帯はねっとりと絡み付いてくるような不快な空気に包まれた。
身体中から冷や汗が止まらなかった。刀を何度も握り直し、生唾を飲み込む。本人は自覚してないが、彼は『不安』だった。あと一歩のところで、自分の成長を嘲笑うかのような絶大な力にあてられて、ゴールだと思っていた場所が新たなスタート地点だと察したのだ。長く、先の見えない道のりを前に、例えようのない漠然とした『不安』が彼を襲った。恐らく、本能的に無意識の中へと隠したのだろう。しかし、どれだけ自分を誤魔化そうとも体は正直だった。
冷たい風が二人の間を突き抜けていった。
ほんの数秒が長い時間に感じられる。
音はなかった。
油断していたわけではない。瞬きと重なったわけでもない。見ていたのに、わからなかった。
既に相手が自分の真正面に来ていたことを。
五感が感じたものを脳が認識するよりも速く、相手は動いた。しかし、それは有次が五感にのみ頼っていた場合の話である。
空間把握。
彼のギフト。神から与えられたもの。
その能力は、遮蔽物がないこの状況では、別視点から自分たちを俯瞰できるようなもので、視覚を拡張、補助してくれる。
つまり、彼は捉えていた。相手の動きを。だが、それに体が反応するには時間が足りなかった。であれば、選択肢は一つしかない。
右眼が青い輝きを放つ。暗い森の中では、紺碧の閃光は美しくも儚げに見えた。
ここで彼の神眼の能力、『リジェクト』について触れておこう。
『リジェクト』とは、すなわち何かを『拒絶』する能力。
任意の座標に『隔絶空間』を創ることができる。膜や壁に見えていたものはこれである。
創る、という表現だけでは十分とは言えないだろう。より正確に言えば、そこの空間を、まるで抜き去ったかのように無くすことで隔絶された空間をつくり出し、『拒絶』を可能としている。
空間がないのだから、物体のみならず音や光でさえも、何もかもが『隔絶空間』を通り抜けることはできない。『隔絶空間』が、モヤがかかったような濁った灰色に見えたのは、これが原因だ。
基本的に能力を使う時は、必要最低限の隔絶空間しか創り出さない。例えば、自分の前面に大きく隔絶空間を展開すると、相手の攻撃を防ぐことはできるが、自分も相手を攻撃できなくなってしまうからだ。壁は外から内、そして内から外、両方向からの攻撃を完全に遮断する。そのため有次は、敵の攻撃に対して最適な大きさの隔絶空間を創り出す。そして、敵の攻撃を精確に計算して、ピンポイントに隔絶空間をつくり出せるのは、彼のギフトによるものである。
『空間がないところは通れない』という普遍的かつ絶対的な道理を元に、完全無欠の防御を可能にしているわけだが、ここで一つ考えてみよう。人類の持ち得る道理も、論理も、理屈も、常識も、通用しないものがいたらどうだろうか? 人の理解を超えた神のような存在の前では、人の世界はどこまで通用するのだろうか?
新夜が繰り出した攻撃は、それまでのヴァイスで創り出した武器での攻撃とは違った。
より原始的な攻撃。
拳で殴る。
人類が知恵を身につけ、道具を作り出すよりも前から存在した原初の暴力。
低い姿勢で懐へ潜り込み、相手の無防備な腹部へ拳を突き出す。
しかし、体に届く寸前のところで、霞がかって濁った色の『壁』が行手を阻んだ。
普通攻撃が避けられないとわかっても、例えば体を捻ったり、後ろに飛んだり、と何かしらの防御反応が見られるのだが、有次はむしろカウンターに打って出た。強い攻撃ほど動作や反動が大きくなるのは必定。絶対的な防御を有している有次にとっては絶好の機会だった。低い姿勢の新夜に対して、頭上から刀を振り下ろそうとする。
新夜の拳が『隔絶空間』に衝突した瞬間、力と『力』がせめぎ合い、凄まじい閃光と衝撃波が起こった。
空気を伝い、震わせ、それは凶器となって周りを破壊した。何十年も何百年も地中に張り巡り、大きく太く成長した根さえ容易に断ち切り、木々が遠くへ吹き飛んでいく。飛ばされ、傾き、倒れていく様は、大地が慟哭しているようだった。
ただそれは一瞬だった。一瞬で終わった。
まもなく、不思議なことが起こった。
拳と『壁』の間の空間がグニャりと歪んだ。そこへ収束しているようにも見えるし、そこから発散しているようにも見える。色も輪郭もぐちゃぐちゃに混ざって溶けていく。
そして、有次の瞳に、信じられないものが映った。
空間がギチギチギチギチッ!!! と震え、やがて歪曲がほぐれていき、
バリンッ!!!!!
分厚い窓ガラスが割れるような鈍く乾いた音が響いた。
閉ざされた扉をこじ開けて、厚さも硬さもそんな概念すら存在しない『無』から、一つの拳が出てきた。
「――――」
瞳孔が大きく開く。
攻撃が届くまでがとても長く感じられた。この理解できない事象を必死に解析しようとする極限の集中力故か、それとも死を悟った時の走馬灯に似たそれか。
どちらにせよ、その拳は腹部へ直撃した。無慈悲なほど、鮮やかに、綺麗に。
足が宙に浮き、体が文字通りくの字に折れ曲がる。拳が内臓を押しのけるほど深く突き刺さると、一瞬時が止まったように静止し、直後、有次の体は目にも留まらぬ速さで吹き飛んだ。
バキバキバキバキッと自然を薙ぎ倒していき、森林地帯を抜けて行った。バンッ! バンッ! バンッ! 。断続的に木や地面に衝突する音が夜に轟く。
新夜の見えない所まで飛んで行くと、大きな、爆発にも似た衝突音が聞こえた。そして音は鳴り止み、夜の公園は元の形を取り戻した。舞い上がった砂塵は風に踊らされて、血と汗と闘争を流していく。残ったのは、勝敗という事実のみだった。
「…………。」
新夜は一人、有次が飛んでいった方向を眺めていた。先刻の一撃で勝負がついたのは明白だった。下手すれば彼は死んでいるかもしれない。
元々彼らは命のやり取りをしていた。戦いに負けることは死を意味する。少なくとも他方はそう思っていた。
新夜の顔には、歓喜も達成も充実も現れてなかった。―――喜怒哀楽の感情が読み取れなかった。それは何も感じていないわけではない。むしろ、今の心情をどう表現すればよいのか分からないように見えた。やがてそのまま、有次が飛んでいった方向へ足を向けた。
追っていくと、立派な大樹が見えてきた。
そこは公園の中心地だった。
大樹の周りには、遊具などは置かれておらず、ベンチが複数散置されていた。囲うように桜が咲き誇っていた。ここはこの公園の象徴ともいえる所で、世界から注目を集める最先端の試験都市には縁遠い存在に思えるが、だからこそとこの大樹を中心に大きな公園を作ったのだった。それが朝陽第四自然公園である。
樹齢千年を超えるこの樹からは、神秘なエネルギーが感じられた。巨大な生命力とでも言おうか。それは多くの人を惹きつけ、多くの人に生気を分け与え、多くの人を内側から癒していった。
西暦で数えること二千年以上経ち、この星の霊長は自然を蔑ろにしてきた。エゴな話だが、その上霊長は自然を愛することをやめられなかった。そのことに悲嘆した古来の土着民たちは、自分たちの祈りをこの大樹に込め、一つの名前を付けた。
再盛の樹、と。
有次は荘厳に聳える大樹に体を預けるように倒れていた。覆い茂った木の葉の隙間から、木漏れ日のように淡い月明かりが彼を照らした。
着ていたワイシャツはボロボロに破れ、自分の血で真っ赤に染め上げていた。純白だったシャツには、もう白い部分は残されていない。かろうじて通された両腕は、どちらも皮が剥がれ落ち肉が露出している。左足は、もうおかしな方向を向いていた。膝から下が内側の方へ九十度、捻じ曲がっていた。
意識はかろうじてあった。が、満身創痍。腹部に直撃をもらったため、内臓は無残に潰れていた。手足はピクリとも動かず、重度の脳震盪で思考はまとまらなかった。
呼吸しようとするが、肺が傷ついているのか、ヒュー、ヒュー、と細く弱い息遣いだった。微かに瞼を開き、風に靡く木の葉を恍惚とした表情で眺めていた。すると、ぼやけた視界が突如暗くなった。誰かが自分の前にやって来たようだ。
(ごめん……幸一……。ごめん……父さん……。ごめん……みん、な……)
目の前に立っている誰かに、有次は色んな人たちの面影を重ねて、そして謝罪した。嘱望や慚愧、怨嗟や哀惜よりも、彼は始めに謝罪した。危機に直面した時にその人の本性が、人間性が顕になるのならば、これが彼という自己の本質と言えるだろう。
眼下に倒れている血だらけの青年を見下ろしているのは、白髪の青年。対照的にこちらは傷一つなかった。
肉塊と成り果てたそれは、何かを喋ろうとしているが、うまく声が出なくて口をパクパクと動かしている。その顔を見れば、『敵』に向かっての言葉ではないことが分かった。
逆はどうだろうか?
cipher、人類を滅すモノ。faker、人類を生かすモノ。
相容れない両者の関係を表す言葉は、どれが適当だろうか?
敵、壁、邪魔者、障害。それとも―――
サイファーと呼ばれる青年は、フェイカーと呼ばれる『敵』に向かって、一言、言葉を放った。
「――――――」
その瞳は、何色に輝いていたのだろうか。
13
翔は、ひたすらに走っていた。
数刻前、彼は町外れにある朝陽第四自然公園へと向かって、寝静まった閑静な住宅街を抜けたところだった。
有次の家を出てからのらりくらりと歩いていると突然、轟音が耳を突き刺した。あまりの衝撃に全身が強張るのを感じた。
(なんだこれ!? どっかで事故でも……っ!!)
そう思いながら気づいた。この音がどの方向から聞こえて来たのか。
「もしかして……公園の方か!?」
ゴォォォォンン!!!!!
立て続けに何度も轟音が夜空に鳴り響いた。工事現場で鉄骨が落ちた時のような鋭く耳に残る音だったが、翔は今までで聞いたこともないようなボリュームだった。
予想は確信に変わった。
走っている最中にも何回か轟音は聞こえた。公園に近づくほど聞こえる音は大きくなっていった。耳を押さえないと頭が痛かったが、構わず腕を振り続けた。
*
ぱちりと瞼が開いた。
眠りが浅かったせいか、覚醒は早かった。
寝返りをうってもう一度瞼を閉じる。必死に何も考えないように、長い呼吸を心がける。
――――――――。
ぱちりと瞼が開いた。今度は体を起こし、反対側の壁の小窓へと目を向ける。全く動かない星々を見ていると、まるで窓枠大の写真を眺めているようだった。
――――――――。
(やっぱり、音がする。微かにしか聞こえないけど、なんだろう?)
聞こえたというよりは、感じたのだろう。ベットから出て、バルコニー側の大窓の前に立つ。家は町の高台になっているところに建っているため、二階からは街光を一望できる。外の景色を眺めても、特に異常はなかった。いつもと変わらない僕らの町。
窓を開けてバルコニーに出る。
少し肌寒いが、冷たい風に当たると心が澄んでいくみたいで心地良かった。人は温もりに絶対の安心感を覚えるが、時に冷たさを感じるからこそのものだ。光あるところに闇はある、というが、闇があるからこそ光の大切さに気づき、光があるからこそ闇に目を向けることが出来る。対極のものは、互いが自分の存在に必要不可欠な要素であり、存在原因なのだ。
夜空に浮かぶ星々の光り輝く様は、闇を照らしているのではなくて、闇と共存しているように思えた。
(兄さん……)
ここに、平凡でありきたりな平和を望む少年がいた。彼は自分が無知で未熟だと自覚している。だからこそ、どんなに嫌いな相手ともきっかけさえあれば手を取り合えると、その可能性を信じている。
しかし、対極同士は向かい合って存在しているわけではない。背中合わせで一対の存在なのだ。だから光と闇が手を取り合うことは出来ない。彼らが、そこに立ち続ける限り。
*
「なん………だこれ…………」
公園の入り口に来た翔は、驚くべき光景を見た。
入り口から公園を眺めると、右手には高々と伸びた樹木が密集しており、左手には、一面に広がる草原と一本の大きな木が遠くに見えた。
そして、視界の右から左へ、一直線に、大きく地面が抉れていた。まるでアニメや映画に出てくるビームがここを通ったかのようだった。
(一体何がどうなったらこうなるんだ?)
とりあえず階段を降りて右へ走り向かった。
森へ入ってしばらく進むと、
「……ァ……」
開いた口が塞がらなかった。
外から見ると生い茂って見えた森林の中心地近くは、木がほとんどなかった。なかった、と言うのは、元からなかったということではなく、明らかに生えていた木がごっそり抜き取られているような様子だった。翔もここに数度来たことがあるからわかる。どんなに雲一つない晴天だったとしても、日光のほとんどは差し込んでこないほど、木が乱立していたはずだ。しかし今立っているあたりからは、綺麗な星空と満月が見える。覆われたドームに、ぽっかりと穴が開いてしまったようだ。またそこらじゅうの地面にある、穴に似た不自然な窪みは、木が根こそぎどこかへ吹き飛んでできたものだろうか? 他にも周りを見てみると、倒れている木が目立つ。完全に倒れてしまっているのもあるし、途中の幹が折れて、他の木にもたれるように倒れているのもある。
さらに先に進むと、翔には理解できないものが二つあった。
一つは巨大な穴。小規模のクレーターといってもいいだろう。隕石でも落ちないとできなそうな半球状の大穴の傍らには、抉れた地面が一直線に伸びていた。入り口から見えたもので間違いないだろう。ここから地面の跡が始まっていることから、どうやらこれは森から公園の中心へ向かってできたものらしい。
翔は地面の跡を辿って、公園の中心へと向かった。その姿は、大きな轍の上を進んでいるように見えた。
転校生。消えた友人。謎の単語、フェイカー、サイファー。大きな爪痕。そして今歩いている、露出した地面。
全ての因果が繋がって見えた。
どんな事故があれば、木々が吹き飛び、数百メートルにも及ぶ掘削機が通ったかのような抉られた跡ができるのか。
謎だ。全く想像できない。
そして、同じく友人に対しても、現在謎を抱えている。
証拠はない。根拠もない。
朝陽にどれだけの人間が住んでいる。この惨状に関わっている人間がいるとすれば、それが自分の知人など一体どれほどの確率か。
安直な思考だ。一見関係のない二つの事象でも、タイミングによっては短絡的に因果関係を見出してしまうことがある。
今の、篝翔のように。
(考えるな。)
胸騒ぎが強くなり、不安が募る。
(考えるな!)
つまづいて、転ぶ。痛みは感じない。
(考えるな!!)
必死に考えまいとするあまり、余計に思考の連鎖を断てないことに彼は気づいていない。
ぐちゃぐちゃの頭はやがて現実を曇らせる。
「きっと何か事故が起きたんだ。ほら、今日風が強いだろ? ここはいろんなもんがあるから、何か作っていたのかもしれない。」
自分一人しかここにはいないのに、作り笑いしていた。まるで自分自身を欺かんばかりに。
だって、おかしい。
こんなこと、ただの高校生一人にできる限界を越している。
「……」
気づいていたら、走っていた。真っ白な頭は思考を中断し、真実をこの目で確かめようと本能的に体を走らせた。
轍を逸れ、近くの緩やかな丘を駆け上がる。子供たちがコロコロと転がって遊んだり、寝そべって空を見上げるような場所だが、彼はその頂点を目指す。この丘自体たいした高さはないが、朝陽第四自然公園は、全体的に平坦ではない。公園の高低差を二次元的に捉えると、褶曲した地面の断面図のような滑らかな曲線を描く。丘陵を想像すると分かりやすいかもしれない。丘を登らずとも中央の大樹は確認出来るが、幹の先端部分と生い茂った葉しか見えない。だから彼は丘を登ったのである。
徐々に、徐々に、大樹の下半身が見えてくる。もしあの地面の跡が最悪の想定どおりだった場合、そして跡が大樹へと伸びているのなら、きっと樹の根元に答えが待っているはず。
心の奥底にあったのは、安堵したいという気持ち。
実は公園の出来事は全くの別件で、明日登校したら何事もなかったかのような澄まし顔のあいつがそこに座ってて、今日のことを話すんだ。多分お前はバカかって言われるけど、一緒に笑って。幸一や委員長、一なんかにも話してさ、一緒に笑うんだ。
だってこれは笑い話なんだ。そうに決まってる、そうに違いない。
そうあってくれ。
そして、丘のてっぺんに着いた。膝に手をつき、乱れた呼吸を整えようとする。その間、彼はずっと俯いていた。呼吸と共に頭の中も整理して、覚悟を決めていた。答えを得ることに。
「フゥーーー。」
鼻から大きく吸って、口から長く吐き出す。膝から手を離し、上体を起こす。下を向いたまま閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
意を決して、バッと思いきり顔を上げた。
「――――――ハッ」
少し距離は遠いが、大樹には誰も見えなかった。
「ハ、ハハッ、ハハハハッッ!!」
拍子抜けして、ぎこちない笑いしかできなかった。何だか一気に自分のやっていることが馬鹿らしくなってきた。
「はぁ~~。何やってんだ、俺は。」
空を見上げる。雲一つない星空に浮かぶ満月は、心の靄を晴らしていった。
丘の上で一人、不思議と孤独は感じない。冷めた頭はいつもの温かみを取り戻す。人は大小問わず変化の絶えない生物だが、現状に満足している者は変化を恐れる。プラスの可能性の裏にはマイナスの可能性がつきものだからだ。彼は生まれて初めて日常を失う変化を肌で感じ、恐れた。これまでその恐怖を知らなかったことは、彼の人生がバラ色だったからだろう。平和になったこの時代において、そのような幸せはむしろありふれていて、もう幸せとは言えなくなり、失うことのないものだ。それでも彼は、失うことの恐怖を、不幸を覚えて、そう思わせてくれる友がいることに感謝した。初めて、自分が幸せだと実感した。
「こんなに月って綺麗だったっけ。」
もう帰ろう。そう思って顔を下すと、急に前から風の大波が押し寄せてきた。突風に荒れ狂う草木が互いを擦り合わせ、自然を奏でる。あまりの強風に両手を顔の前にかざした。
その時、指の隙間から半開きの目に飛び込んできた光景は――――――
風に煽られて、大樹の葉が大きく蠢く。
同時に、それまで木の葉が影を落としていたところに月明かりが届いた。
それは神秘的で、白くてどこか碧い、太陽の強すぎる温かさを心地よく整えてくれて。そんな、そんな光に照らされた大地は、幹は、一帯は、
アカ、アカ、アカ――。
赤くて朱くて紅くて緋くて茜くて赫くて、そしてクロい。闇に紛れるほどにクロくてアカい。
美しい夜に不自然な色は、人の目に触れた途端、堰が切れたようにその存在を強めていった。身体に、頭に、心に、際限なく流れ込んできて、沸騰して、弾けた。
短くも長いような一瞬。一秒先をグンと伸ばしてその間を歩いているような感覚。網膜を突き抜けたモノを幾度変換して送ろうとも、彼は判らない。何を見て、何を感じて、何を想って。ワカラナイ、ワカリタクナイ、ワカロウトモシナイ。
――――――――――――――――
ドクン、と心音が一つ刻まれた。
遥か先の『現在』が、伸ばしたゴムの弾性のように急速に戻ってきた。一秒の『過去』は風に弾き飛ばされ、望まぬ覚醒が訪れる。
ダンッ!!!
まるで空を飛ぼうと跳躍するように、強く地面を蹴った。
転がるように丘を駆け降りる。体が重力に倒れそうになる前に、足を思いっきり前に踏み出す。
彼の視界の先、公園の象徴たる大樹の足元に、一人の青年が倒れていた。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、―ッ、ハッ、ハッ、ハッ!!――――――」
走って、走って、ひたすらに腕を振って前へ進んだ。逆風のせいか、目が滲んで雫が溢れた。
途中、何かに滑って転んだ。前しか見ていなかったから、下に何があるのか分からなかったのだ。
「って………………!?」
体を起こそうと一度座った体勢をとると、自分の手の平に土以外のものが付いていることに気づいた。
今度は自分の体がアカく染まっていた。
驚愕よりも先に戦慄した。
恐る恐る目を先に向けると、夥しい量の血溜まりが一つ、また一つと点在していた。
そしてその先には、樹にもたれかかってピクリとも動かない、有次の姿があった。
半ば這うように体を出鱈目に動かして、有次の元に辿り着いた。
「有次!!」
横へ詰め寄り肩を掴もうとするが、手を止める。
「なん、だよ……。なんっだよこれっ!!!」
その姿は、見るに堪えないほど酸鼻なもので、少しでも触れたら簡単に崩れてしまいそうだった。ただの高校生には有次がどのような状態にあるのかなんて詳しくわかるはずもなく、全身血だらけでかなり危険だということぐらいしかわからなかった。
激しく揺らすのはまずいと思い、大きい声で何度も呼び掛けたが、一向に反応がなかった。
視界に映る自分の両手がプルプルと小刻みに震えていた。
「はっ! まさか!!」
慌てて彼の左手首を掴む。脈を確認しようと手当たり次第に手首を触る。しかし実際に脈拍をとったことがない翔には、うまく感触が分からなかった。
「くそっ!!!」
本当は胸に手を置いて確認すれば早いのだが、真っ赤な胸を触っては返って傷にさわると危惧した。そうさせるほど酷い有様だった。
今度は下顎の付け根から顎のラインに沿うように、そっと手を添える。首元にこびり付いた血を擦って落とす。同時に耳を有次の口に触れるぐらい近づけた。
――――トクン。
強く指を押し当てると、皮膚の下で確かに命が脈動しているのを感じた。ほんの微かに呼吸音も聞こえた。
「良かった………生きてる。」
腕を有次の首に回して、体を傷つけないように優しく、そしてつよく抱きしめた。
「良かった………よかった…………………」
安堵に酔いたい気持ちを抑え、すぐに体を離し、今にこぼれそうな涙を拭った。生きているからといっても事態が好転するわけではない。このまま時間が経てば死んでしまうことぐらい、火を見るよりも明らかであった。
この状況で、恐れ、混乱に陥り、足がすくんで何も出来ない。それは、ただの高校生なら当たり前の反応だ。しかし、翔はそうではなかった。
そこに弱々しい姿はなかった。確固たる決意を秘めた毅い姿があった。
「絶対にお前を助ける!」
*
暗い。
ここはとても暗い。
光は届かない。そもそも光なんてものが存在しているのか疑ってしまうぐらい、どこまでも広い闇。
ザワザワッ、と『何か』が神経を燻った。
ああ、また君達か。
黒よりも黒い『何か』が迫り来る。
この感覚もほとほとに疲れた。
諦めているのではない。解っているのだ。『彼ら』は俺を逃がさないし、俺も『彼ら』から逃げられない。
何故なら、『彼ら』は自分が背負ってしまった罪や業、そのものなのだから。
ゆっくりと闇へと沈んでいく。『彼ら』に身を委ねていく。
ピシッ。
!?
闇に亀裂が入った。
ピシッピシッ!
亀裂は大きくなり、そこから光が零れてきた。
その細い光は、自分には眩しすぎるぐらい強かった。
パリンッ!
殻を破って光が入ってきた。闇はぼろぼろと崩れ落ち、やがて光に充ちた真っ白な世界に、真っ黒な自分だけがポツンと残った。
忌避感をおぼえた。長らく光を感じていなかったこともあるが、光を受ける資格が自分にはないことを知っているから。
だけどそんな自分をも包み込むように光は溢れている。
こんなにも、こんなにも光は温かっただろうか。
*
春の昼下がりの微睡みのような倦怠感と心地良さの中にいた。一定のリズムで微かに体が揺られて眠気を誘ってくる。
その温もりは、全てを忘れさせた。それでもいい。ゆっくりと弱く続くこの快楽の中を揺蕩っていたい。意識は覚醒しているし、体の感覚もある程度戻っている。それでも俺は瞼を開けようとはしなかった。目を背けたのだ。現実から。
――――――
少し不思議に感じた。
この大きな温もりは、自分全体を包み込むというよりは、自分が包み込んでいるような。まるで抱いているような。
億劫だが意識を、感覚を現実に少し集中してみた。
地面に足は着いていないみたいだけど移動をしている。腕は脱力しているのに、前に突き出したような状態で止まっている。そして膝裏には自分ではない別のものが触れている感触がある。
不覚にも、段々と意識が外に向き始めた。
自分がどんな状態なのか。何をしているのか。どこにいるのか。
そもそも、俺は誰だ?
ガシンッ。
外れていた歯車がはまった。
歯車は機能を取り戻し、回り始める。
(そうだ。俺はcipherと戦って、そして負けたんだ。じゃあ俺は死んだのかな。……嫌気がさすな、無力な自分に。そして胸を撫で下ろしている自分に。あの時だって、全てを滅茶苦茶にしたくせに、誰一人救えなかった。でも、やっと解放されるのだろうか。やっと終わりにできるのだろうか。この地獄から。円環の旅路から。俺はいつだって選択を間違えてきた。間違え続けてきた。けれど、きっと違う選択肢を選んだとしても望む結果は生まれなかっただろう。選択を迫られた時にはもう遅いのだ。残るのは涙と後悔しかない。だから『死』という選択肢を選びたかった。その先の一切を無責任に放棄できるその選択をしたかった。どんなに周りの人に恨まれようと、『死』にたかった。それほどに俺にとって『死』は甘美なものだった。逃げたかった。頽落したかった。耽溺したかった………のに……
何でだろうな。決まって最後に、みんなの顔が浮かぶんだ………)
目を開ける。ゆっくりと、うっすらと開けた。
段々と意識が、感覚が、視界が鮮明になる。
「……!」
誰かに背負われている。そうわかった直後、有次は拘束から逃れるように体をよじり、手ではねのけた。思うように体が動かないのに、無理に動かしたせいで変に暴れるかたちになり、落ちてしまった。
「!! ッアア、イ」
そこで初めて気づいた。体が思うように動かないのは当たり前だ。
全身に激痛が走る。今までで感じたことのない痛み。止むことなく、ありとあらゆるところに鋭い刺激が突き刺さる。
声にならない嗚咽を漏らすと、
「有次!!」
「!?」
声の主はこちらに慌てて駆け寄る。まるで精巧なガラス細工に触るように、こちらを気遣ってきた。
有次は知っている。この声を。
「………どう、して………………」
「どうしても何も、ここに来たらお前が全身血だらけで倒れてたんだよ!」
有次はしばらく目を伏せた。翔からはどんな表情をしているのか見えなかった。
「おまえは………がえれ。」
喉が潰れていて、上手く声が出なかった。
翔の手を退けて一人で立ち上がろうとするが、よろけて頭から前に倒れ込んでしまう。翔は正面から体を受け止めて支えてあげる。
「おい! あんまり動くな!」
「だい、じょうぶだ。」
「嘘つけ!全然大丈夫じゃないだろ! 一人で立てないじゃないか! 」
有次の左腕を掴んで自分の首に回し、歩き始める。
「今入り口に救急車呼んだからな。病院に行けば――」
「や、めろ!」
急に大きな声を出したから、またゴホゴホと咳き込んでしまった。掴んでいた手を離して背中をさする。
「びょういんに、いぐひづようは、ない。」
「でも――」
その時、翔は胸元の服をグッと力強く掴まれた。有次の半開きの瞼から覗く瞳には、剛毅な光が宿っていた。
「おれは、しな……ないがら、ぜ、たいに。だがら、……だのむ。」
到底信じられない。
こんな虫の息でそんなこと言われて、うんと素直には頷けない。
この場にいるのが誰だろうと、今の有次を見れば誰だって同じようにそう思うだろう。
しかし彼は違う。
公園での光景を思い出す。そこには到底理解できないものが広がっていた。それに有次が何かしら関与しているのは明白。であれば自分の常識すらこの場では疑う必要がある。
篝翔。十七歳。ただの高校生。
一つの選択に命が掛かっている。有次の状態と取り巻く状況がより事態を複雑にしたが、熟考の時間はない。
正直なところ、彼にはもう何が正解か全くわからなかった。思考は巡り巡ってジレンマを引き起こしていた。
だから、彼は友を信じることにした。
決して思考を放棄したわけではない。その眼差しを見れば、迷うことはなかった。これが親友で在りたいと願った男の選択だ。
「わかった。」
翔は有次の目を真っ直ぐと見て、そう答えた。
有次はその言葉を聞き入れると、また気を失ってしまった。
翔は再度有次を背負い、歩き始めた。
今度は来た道を引き返す。
「重いな……。」
自分に言ったのか、それとも背中の住民に対して言ったのか。
どちらにせよ、彼の口から溢れた言葉は夜風に攫われて、暗闇に消えていった。
「おい、そっち居たか?」
「いや、居ないな。」
「こっちも。」
全身真っ白な服装の三人組は、走り回っていた。
十七分前。市内に幾つかある災害救急情報センターに一本の電話が届いた。
声の主は若い男性だった。恐らく学生だろう。
怪我人は彼の友人であり、出血が激しく重体だ、とのことだ。
電話を取った職員は素直に感心した。今の時代、大きな事故や怪我は多くない。そのため、緊急の一一九番においてパニックになる人がほとんどだ。年齢によらず。しかしその学生さんは、簡潔に丁寧に状況と場所を知らせ、どのような対応を望んでいるのかを手短に伝えると、電話を切った。
職員はすぐさま救急車を一台手配し、朝陽第四自然公園の入口付近に向かわせた。
八分前。
駆けつけた救急隊員は、辺りを捜索していた。もちろんこんなの彼らの仕事ではない。通報してきた学生は公園の入口で待機しているとの事だったが、その姿はなかった。
もしかしたら公園のどこかで助けを求めているのかもしれない。
三人は手分けして公園内を散策し始めた。
そして現在。
隊員達は、通報者、重傷者共に見つけられないでいた。
ここまできたら偽の通報だったと考えるのが妥当だろう。しかし隊員の全員がそうは思わなかった。なぜなら、
「おいおいなんだよこれ。」
初めに一人の隊員がそう呟いた。この隊員は公園に入って右方向へ向かって捜しており、すぐに細長い幹が乱立する林に着いた。その日は雲ひとつない星空に大きな満月。ライトを使わなくても視界はクリアだった。
そして目にした。あの光景を。あの惨状を。
「どうした。いたのか?」
三人は小型のインカムで常に繋がっていたため、小さな呟きにも反応を示したのだ。しかし、残りの二人も同じく絶句することとなる。
「この辺、地面が大きく抉れて、一直線に伸びています。」
女性隊員が歯切れ悪く伝える。続いて先程反応していた隊員が急に大声で、
「おい! こっちはそこらじゅう血だらけだぞ!」
「「!?」」
「大きい木の下だ。確かここのシンボル的な木だ。俺はもう少し周りを捜してみるからこっちに来てくれ。」
そして再び三人の隊員が集まった。
初めにここに来た隊員はすこし息が切れていた。
「ダメだ。やっぱり誰もいない。」
「でも…これは……。」
「ああ。間違いなく何かしらの事件だ。」
一番年長の隊員が決断を下す。
「俺は警察に連絡し、状況処理に動く。お前らは引き続き辺りを調べろ。」
「了解。」
「分かりました。」
14
ある人はこう言った。誰もが主人公であると。誰もが、己の人生における主人公であると。
それは、物の見方によっては正しい。
広義の世界ではなく、あくまで自分が眺め、考え、影響を及ぼす主観的な『世界』において、確かに自分が『世界』の中心と言ってもいいだろう。
では、その『世界』が無数に折り重なって出来上がった、全体としての世界に目を向けたとしよう。そこに、世界の中心はないはずだ。何故なら、自分を中心とした『世界』が寄り集まってできた世界を俯瞰した時、誰か個人の主観など介在しないからだ。どんな有名人でも、世界全体の意思に、それも恒久的に影響を与えることはできない。
もし仮に世界の中心があるとするならば、それは人間では絶対に叶わない。人間という世界の構成要素から逸脱し、より高次元の何かと俯瞰視点を持つ必要がある。そして、その世界の中心を確認できるものもまた、より高次元からこの世界を俯瞰できる存在だけだろう。
この世界を外側から眺めた時、世界の中心と呼べる存在はあるのだろうか?
この『物語』の中心は、誰だろうか?
15
「…………え…………」
絶句とは、まさにこのことだろう。
深夜の一時。
気が立って寝付けなかった幸一は、突然のインターフォンの音に驚いた。
こんな時間に来訪してくる客に、当然心当たりなどなかったが、下の階に降りている最中に、ある可能性を思いつく。
まず、この時間を考えると、インターフォンを押した人は身内だろう。となれば、急遽自宅に帰ることとなった父親が、最も可能性が高い。
職場で徹夜することになった時にも、勝武は連絡してこないぐらいだ。幸一に連絡せずに帰ってくることは、十分あり得る。インターフォンを鳴らしたのは、鍵を忘れたか失くしたかが原因だろう。
念のため、インターフォンの画面で確認する。しかし、画面には誰も映っていなかった。
ということは、既に玄関ドアの目の前で待機しているのだろう。
すると、ドンドンドンッ、と荒くドアが叩かれた。それも、一度ではなかった。何回も、何回も。
急に怖くなった。
父親が、そんなことをするとは到底思えなかった。
ドアを今も叩き続ける人物は、一体誰なのか。
幸一は、ドアを開けようか迷っていると、
「幸一!! 幸一!! いるかっ!!!!」
(翔さん!?)
ドアの向こう側にいる人物は、翔だった。明らかに、何か急いでいる。
すぐに玄関の電気をつけ、ロックを解除する。
解除音が聞こえると、幸一が開くより先に、翔が乱暴にドアを開け放った。
真っ先に目に飛び込んできたのは、翔ではなく、翔が担いでいた、もう一人の人物。
真っ赤に身を染めた、自分の兄。
全く状況が読み込めない幸一に構わず、翔は有次を引きずって家の中に入る。
何。なぜ。どうして。あれは、兄さん?
処理が追い付かずに固まってしまった幸一に、
「幸一! 手伝えっ!!」
怒声にも近い、鬼気迫る翔の呼びかけは、混乱を極めた幸一の体を無理やり動かした。
「左を持て!」
翔は有次の右肩を担いでいたため、幸一がその反対から支えた。
有次の姿勢は安定し、運びやすくなった。いくら翔が大きな体躯と鍛え上げられた筋肉を持っていても、男一人を運ぶのは簡単ではなかった。
二人で、有次をリビングまで半ば引きずって運んだ。
ソファの上に置いてあった幾つかのクッションを床に敷いて、有次をゆっくり寝かせる。
「翔さん! これは一体どういうことですか!!」
「説明は後だっ!! とりあえず、ガーゼとか綺麗な布とか、何でもいいからありったけ持ってきてくれ!!」
「は、はいっ!」
有次を寝かせた後、応急処置についてネットで調べた。とりあえず血を拭い、ガーゼと包帯で対応した。
上の階からお布団を持ってきて、リビングに改めて敷いて、有次を寝かせた。折れている左足は動かないように固定したかったが、副木になるものがなかったため、複数枚の毛布で足を上げるとともに固定させることにした。
一時間以上も時間がかかった。一応形にはなったが、ネットで手に入れた知識で、どこまで通用するか。
「どうして、どうして兄さんは、こんなヒドイ怪我を……」
事態が一旦落ち着くと、二人は有次の寝ている布団の近くに座った。
独り言のようで、実際は翔へ投げかけた言葉だった。
「わからない。俺にも詳しくはわからないんだ。」
翔は、幸一に事の成り行きを全て話した。
家を出た後、郊外に向かって散歩していたこと。突然轟音が聞こえて公園に寄ったこと。公園がメチャクチャな状態になっていて、そこに有次が血だらけで倒れていたこと。有次に通報するなと言われて、ここに帰ってきたこと。
「正直、俺にも何が何だか…………」
自分の手には、未だ大量の血の跡が残っている。時間が経つと血が黒くなっていくなんて、知りたくもなかった。
今でも信じられない。現実ではなく夢だと、脳が必死に自分に信じ込ませようとしている。
目の前に瀕死の有次がいなければ、夢としか思えない。
ふと、隣に座る幸一が、こちらにもたれかかってきた。
「?」
目線を移すと、幸一の顔は真っ青だった。
一瞬気を緩んだせいで、意識が飛びかけたのだ。
翔の服を掴む手は、驚くほどに震えていた。
「兄さんは……兄さんは…………このまま………………」
幸一の心は、不安と恐怖で埋め尽くされていた。
その気持ちは、痛いほど伝わってくる。いきなりこんな血だらけで、今にも死にそうな兄を見て、きっと辛いはずだ。最悪の考えが頭に浮かんで増殖し、精神を蝕んでいるのだろう。
今からでも、病院に駆け込もうかと考えてしまう。
そうすれば、ここにいるよりは幾分かマシだろう。
しかし、有次はあのとき、異様にその判断を拒んだ。そして、自分は死なないと豪語した。
あの有次が、意味もなくそんなことを言うとは考えられない。
だから、その選択を信じた。だから、有次のその言葉を信じるって。そう決めたんだ。
不安がないわけではない。選択を誤れば有次は死ぬかもしれない。その未来を思うと、恐怖しかない。
それでも、信じるって決めたんだ。
幸一の肩に腕を回し、優しく抱き寄せる。震えや不安、恐怖を拭ってあげるかのように。
選択の結果が今の幸一をこうさせているのだから、それらを背負う覚悟を決めなければならない。
翔にできることは、見守ることだけだ。ただただ見守った。有次の容態と、そして自分の選択の結果を。
ふわりと開いたカーテンから一筋の光が射し込んだ。時間の経過とともに太陽は傾きを変え、午前十時を過ぎたあたりで翔の顔を照らした。
「ん………」
記憶がおぼろげだ。自分がどこで寝ているのかも覚えていない。
目を擦りながら体を起こす。隣に視線を移すと、幸一が横になって眠っていた。
体のあちこちが凝り固まったように痛いのは、床で寝ていたからだろう。
昨夜はお互い、不安で全く眠れなかったのだが、それ以上に有次の状態が安定しなかったのだ。ずっと汗が止まらず、時折うなされていた。
その影響で、幸一が疲れて眠ってしまった時間は日が昇ってからだ。二階から布団を持ってきて幸一に被せ、隣に一緒になって横になると、やがて翔も眠ってしまったのだ。
幸一を挟んで更に窓側で、有次が安らかに眠っていた。今は顔色が良く、状態は安定している。
胸を撫でおろす。
目を開けたら悪化していた、という最悪の事態は免れたみたいだ。
幸一を起こさないようにゆっくりと立ち上がり、有次の側まで行くと、布団をはいで怪我の様子を確かめる。
「えっ………………」
まず右腕の包帯を取った翔は、その腕を見て言葉を失ってしまった。
(昨夜まで皮は剥がれて、切り傷も相当深かった。それなのに、……もう、怪我のレベルまで回復してる。)
有次の腕は、まだ完全に完治したわけではないが、めくれた皮は再生し始めており、傷も軽く切った程度まで塞いでいる。普通なら全治数ヶ月と言われても不思議じゃなかった重傷が、このままなら明日にでも治りそうだった。
「幸一……幸一、起きろ。」
有次から目を離さずに、腕だけ後ろに伸ばして幸一の体を揺する。思いのほか早く起きた。気を張り詰めて熟睡していなかったのだろう。
「あ、……翔さん…………?」
翔の手が肩に置かれていたことから、自分を起こしたのは彼だと理解したが、本人はずっと背中を向けていた。
自分に背を向けていることから、翔が有次を見ていると思い、嫌な予感が走った。
這い寄って手元を覗き込む。
翔は、有次の右腕を手に取って凝視していた。
「!!」
気付いた。おかしなところがない、というおかしなことに。
翔が驚いて固まっている理由も、これではっきりした。
「翔さん、これ……」
言葉を呑んだ翔は、まだ確信しきれてなかった。
他の部位の包帯も取る。初めに包帯を取ったときは交換目的だったが、それ以降は皮膚を直接確認するためだった。
もう片方の腕や胸、背中、顔や頭も同様に、治りが尋常ではなく早かった。左足の骨折はまだ時間がかかるかもしれないが、外傷はもう回復傾向に向かっていた。
「これは…………おかしいだろ。」
ただ、何はともあれ、命の危機は回避したということだ。目の前の事実に戸惑いながらも、それは喜ばしいことだった。
とりあえず、まだ傷が残る箇所には包帯を巻いておいた。昨夜のうちに大量の包帯とタオルを買ってきたのに、その殆どが不要になった。
緊張が緩んだら、急激に空腹が襲ってきた。
二人は軽食を済ませた後、スマートフォンで昨日の朝陽におけるニュースのまとめを調べた。あの出来事について情報を集めるのが目的だ。
「まさかの大見出しか。」
基本的に事故・事件は滅多に起こらないため、人死の案件はニュースとしてむしろ疎まれる傾向がある。昨日の出来事は、誰かが死んだわけでもなく、かつ謎が残る事件だから注目を集めるにはちょうどよかったのかもしれない。
『偽の通報!!謎の現場!!
四月十九日深夜零時過ぎ、朝陽第四自然公園において重傷人がいるとの通報があった。駆けつけた救急隊員三名はその姿を確認できず、公園を捜し回ったという。結果的に重傷人を発見することはできなかったが、通報があった現場は木々が大きく倒れ、地面にクレーターのような穴があり、所々には血痕も確認されたという。現在、警察は事故・事件両面を視野に、関係していると思われる通報者、並びに重傷者を調べるとしているーーー』
他にも、『憩いの場での悪質な迷惑事件』『真夜中に起きた怪奇現象』など様々なメディアで取り上げられていた。
(自分のスマホで通報したから、バレるのも時間の問題か。有次は今の状況を知られたくなかったから、病院に行くなって言ったのか?)
今の状況というのは、この信じられない回復力のことだ。これを有次は自覚していたから、あの状態でも絶対に死なないと言えたのだろう。
つまり、これは偶然ではなく、からくりがあるということだ。
謎は深まるばかりだ。
しかし、それがこの状況でも特に狼狽したり慌てたりしない理由でもある。何が起きているのか、起きていたのかを全く把握していないからだ。
(笑えない冗談だな。)
胸を張って友と言えるように、有次のことをもっと知ろうとした。この一週間で変わったことはないが、それが逆に彼を救う結果に結びついたとも言える。
自嘲気味に笑みをこぼした。
*
月曜日であるが、流石に二人とも登校できる状態ではなかった。
遅刻は確定しているし、回復力が規格外とはいえ有次から目を離すわけにはいかない。そして目下の問題は、
「とりあえず、掃除をしよう。」
「そうですね。」
家の外、玄関周り、廊下、リビング。昨夜、血まみれの有次を手荒く連れ帰った影響で、床や壁のあちこちが血だらけだった。特にひどいのは、廊下とリビングだ。血が黒くなって固まってしまっている。手負いの山犬が家の中で暴れ回ったと言っても疑われないだろう。
こまめに有次の容態を確認しながら、手分けして掃除を始めた。水をたっぷり含ませた雑巾で拭き、除菌・抗菌シートで隅々まで綺麗にした。
数時間経って掃除が終わると、昼食の前に交互に風呂へ入った。翔は昨日からずっと入っていなかった。
体を少しは動かしたおかげか、だんだんと気持ちに余裕ができた。
リビングでくつろぎながら、翔はある話題を振った。
「草薙・ラーンウォルフ・新夜を知ってるか?」
「はい。先週からよくニュースで取り上げてますよね。そういえば、兄さんたちと同じ学校に通ってるんでしたっけ?」
翔は頷いた。あれだけメディアが学校に来ていたのだ。最近のニュースはよく確認していないが、既に新夜が朝陽第一高等学校に在籍していることは周知ということだ。
ただし、問題はそこではない。
「幸一のお父さんと新夜のお父さんは共同研究をしているけど、以前から家族間の交流はあったりしたのか?」
「なかったですよ。僕は会ったこともないです。」
「じゃあ有次も?」
「はい。兄さんもないと思いますよ。ニュースを見ても特に興味を示さなかったので。」
幸一がそう言ったなら、その可能性は高いだろう。
新夜から聞いた話とも、矛盾はなかった。
久遠家とラーンウォルフ家に交流はなかった。だから、有次と新夜は、先週の月曜が初対面だった。
納得はしながらも、確信してはいなかった。まだ疑ってしまう余地は残っている。
やはり、一番引っかかるのは、とある二つの単語。名前なのか、それとも別の意味で呼称しているのか。詳細の意味は不明のままだ。
「言ってなかったんだけど、有次が突然変わっちまったのは、草薙・ラーンウォルフ・新夜と出会った時なんだ。」
「えっ!?」
それはつまり、一週間も家を空け、誰とも関わろうとしなかった原因が、新夜にある可能性が高いということだ。
「あの日、俺が登校した時には、既に草薙・ラーンウォルフ・新夜は教室にいた。新夜がうちの学校に転校してくること、そしてクラスが同じになること、それらはみんな事前に聞かされてなくて、突然新夜がやって来たんだ。学校はお祭り騒ぎで、特に、うちのクラスにはまあ人が殺到したものさ。やがて有次が教室に入ってきた。有次は、痛いのか右目を手で押さえていたし、具合も悪そうだった。まるで有次を待っていたかのように、新夜は有次に近づいた。そして、有次は新夜のことを『サイファー』、逆に新夜は有次のことを『フェイカー』と呼んだ。」
月曜の出来事を思い出しながら話していたが、ここで一回幸一を見る。
その単語に初耳、といった様子だった。
「少し会話した後、新夜は帰って、有次も学校を出ていった。その時の二人の様子は、仲が悪いとも言えるけど、俺には、ちょっと違って見えた。有次からは、憎しみ、のようなものを感じたんだ。でも、新夜から憎しみは感じなかった。むしろ…………。そこからだ。有次がおかしくなっちまったのは。」
「そうだったんですか。」
「もしかしたら、この一件も、新夜が関わってるのかもしれない。ただ、目覚めた張本人に話を聞くのが一番だな。」
まだ目覚めぬ友を見る。
こちらの苦悩も知らず、小さな寝息を立てている。
すると、
ピンポーン。
閑静だった家の隅々にまで届いた。妙に大きく聞こえたその音は、二人にとって一番聞きたくない音だった。
幸一は何も言わず首を横に振る。通販、宅配の可能性はない。父親の帰宅も薄い。学校を無断欠席したから、誰か来たのか。
「………………」
恐る恐る外の人物を、インターフォンの小型モニターで確認する。
「……?」
そこには真っ黒なスーツ姿の若い男性が一人、姿勢よく立っていた。明らかにただ者ではない。
暫く様子を見ることにしたが、一分、二分と経ってもピクリとも動かなかった。インターフォンを押した後、視線すら動かさず直立不動で待機している人を初めて見た。
居留守を決め込むつもりだったが、どういうわけか、男は一向に帰ろうとしない。
まるで、家の中に誰かがいるのを初めから知っているみたいに。
男の纏う雰囲気から、直感なのだが、警察ではない気がした。
「……あの、どちら様ですか。」
翔が出るのは不自然であるため、代わりに幸一が応じた。
その男はさんざん待たされたというのに嫌な顔せず、機械のように口だけ動かしてこう言った。
「私の名前は月影といいます。」
聞いたことのない名前だ。幸一も知りません、と囁いた。
「何かうちに御用ですか?」
「こちらに久遠有次君はいますか?」
「!」
有次の名前が出てきたことに二人は驚いた。そして違和感を覚えた。
(通報した俺がバレるのはいいが、どうして有次の名前が出てくる?)
「今はいません。失礼ですが学校の方ですか?」
幸一は慎重に言葉を選んだが、この何気ない一言で、月影はここに有次がいることを確信した。
彼は仕事柄多様の人間の多彩な行動を見てきた。例えば、知らない大人が訪ねてきて兄の行方を聞いたとする。自分が事情を知らなかった場合、わざわざ訪ねてきたぐらいだから、何かしらの事態が起こっていると考えるだろう。だから一番初めにこう聞く。何かあったのですか、と。しかし幸一は、兄の心配よりも先にこちらの正体を暴こうとした。つまり、兄の居所や状況について知っている可能性が高い。出かけたのなら、目的地をしっているのか、それとも、家にいないという前提が間違っているのか。
あくまで経験則であるが、こちらが有次の名前を出した時に一瞬息を呑んだのを、マイク越しといえど聴き逃してはいなかった。加えて、一回一回返答まで時間が空いている。
彼にとって細かい変化こそが大きな手がかりなのだ。
「私は学校の関係者ではありません。そして、警察の関係者でもありません。」
嘘ではないのだが、インターフォン越しの彼の警戒心を緩ませるには最適な言葉だ。
相手は、ますますこちらの正体がわからなくなっている。
仕掛けるのなら、今だ。
「一つだけ聞きます。彼は生きていますか。それとも死んでいますか。」
「!!!」
(どういうことだ。こいつは有次がこの家にいるって気付いたのか? どうしてだ?)
月影にも、確証があったわけではない。しかし、それに近い推察があった。
血痕。
朝陽第四自然公園から久遠家までの道で、いくつかの血痕を見つけていた。一般人では血だと気付かない程度の量で、あちこちに。
実は、昨夜翔が有次を見つけたとき、傷から流れる血は固まってほとんど止まっていた。加えて、有次の傷の大半は正面側だったため、翔の服の背中部分に吸収され、滴り落ちることはなかった。つまり、運んでいる最中ボタボタと血が流れていたわけではないのだ。だから、血の道が残ることはなかった。
それでも、血痕はどこかに残る。その道のプロなら血の跡を気にしたりするが、翔はあくまでただの高校生。そんなことにまで気は回らない。
血痕がこの家で止まっていることから、ここに有次が運ばれた可能性は高い。一度は通報したことから、有次本人に止められたことと、何も知らない一般人が有次を運んだということを、容易に想像できる。そして、自分が姿を現しても有次が出てこないことから、有次は意識を失っていると予想できる。
ここは久遠家。運んだのは、弟の久遠幸一だろう。
有次の人柄を知る月影は、彼が弟に自分の正体を打ち明けるとは思っていない。弟がアレを見たら、兄の秘密を知りたいと思うはず。
だからこう言った。興味を餌にしたのだ。
本意ではなかったが、月影も任務を任されている身。そして何より、彼の安否確認は最優先事項だ。事を荒立てずに家に入るには、こうするしかなかった。
(申し訳ありません、有次さん。)
心の中で謝罪する。
「私は、ただ彼の状態を確認したいだけです。彼をどうこうしようとは考えていません。」
暫くの後、ガチャンと鍵が開けられ扉が開いた。
出てきた少年は、何も言わずに男を家の中にに迎える。
「ありがとうございます。」
幸一は男を連れて、リビングへと入った。
「おや、あなたもいましたか。篝翔君。」
翔は驚きを隠せない。この男と面識はないからだ。
「なるほど、彼を運んだのは君ですね。」
月影の中で、最後のピースが揃った。
先ほどの考えでは、一つ疑問点があった。久遠幸一では、公園から自宅まで有次を運ぶことが難しいことだ。しかし、ここに篝翔がいることで合点がいった。翔の体躯は大きく、運動部に所属していることから筋肉質だ。細身の有次を運ぶことは可能だろう。
二人の突き刺さるような視線を無視して、窓側で眠っている有次のもとに近づく。
男は有次を見ると、一瞬顔が和らいだように見えた。ベッドの毛布をはぎ、傷の様子や脈拍を確認した。
部屋をぐるりと見回した。あるものが目に留まり、近づいて行く。それはゴミ箱だった。中には大量の血だらけの包帯やタオルが捨てられていた。
月影は、有次が負った傷の初期の具合を知らないため、今の段階でどれだけ回復しているのかを知ることが出来ない。そのため、別の情報を頼りに推測を立ててみることにしたのだ。
「この調子ですと、明日で完治するかもしれませんね。」
有次に毛布をかけて立ち上がると、今度は翔や幸一に向かって、
「見るからに、大した休息をとっていませんね。彼ならもう大丈夫だと思うので、しっかりとした食事と睡眠を推奨します。あなた方が倒れては、元も子もありませんから。」
翔は男の言葉に一切耳を傾けることなく、勝手に話し始めた。
「あんた何者だ。どうして俺の名前を知ってるんだ。」
「そう警戒しなくてもいいですよ。」
「有次がどうしてこうなったのか知ってるのか?」
「そう矢継ぎ早に聞かないでください。」
翔が敵対心剥き出しなのは、あえて翔の名前を口にすることで、月影がそう仕向けたからだ。この家に入ろうとしたときに、既に邪道を使った。なら一層ヘイトを買って、彼らに有次を守ろうという意識を強く持たせるためだ。
「ただ、どちらの質問にも私は答えかねます。」
翔は相手を鋭く睨みつけた。
「まず私の事については、私の口から言うことはできませんし、あなたにとってそこまで重要ではないので、機会があれば彼から聞いてみてください。そして彼の事についてですが、………これも私からはお答えできません。」
「どうして!?」
食い下がるが、月影の視線からは自分の言ったことを曲げない意思を感じた。
それでも、
「俺はもう見ちまったんだ。昨日のひどい光景も、傷だらけのこいつも、そしてありえない早さで回復していく様も。バカな俺でもわかる。有次は普通じゃあない。でも俺にとって有次は『有次』だ。どんな過去があろうとも、どんな秘密を持っていようとも、『あいつ』を助けるって、親友でいるって決めたんだ。だから知りたいんだ。」
「なら尚更、私からではなく、本人の口から聞くべきことではないのですか?」
翔は何も言い返せなかった。
スーツの男が、意地悪でそう言ったのではなく、自分を諭すためにそう言ったのだと気付いたから。
もしこの男が有次について語って聞かせたところで、その言葉を鵜呑みできるほど信用していないし、そもそもそんな上辺の情報だけが聞きたいわけでなかった。それを知った上で、有次の心を知りたかった。それができるのは本人しかいない。
この男が言っていることは正しい。
「私はあなた達より彼のことを知っています。でもそれは、私が彼にとって大切な人間だからではありません。むしろその逆です。彼は、自分にとって大切な人たちには、その秘密を明かさなかった。どうしてかは、私にもわかりません。ですが、これだけは言えます。彼は、あなた達を一番に考えていると。」
翔と幸一にとっては、もはや言われるまでもないことだった。
月影は篝翔から感じた。後悔と無力感。そして、次こそは選択を間違えないという強い意志を。
久遠幸一から感じた。無知に直面したこと故の自己への蔑み。そして、これからは兄の隣を歩きたいという共生の意志を。
この時、初めて月影は笑った。貼り付けたかのような機械的な笑みではなく、感情の籠った本心の笑みだった。
「あなた達は優しいのですね。これからも彼の側にいてあげてください。彼には、あなた達のような人が必要ですから。」
そう言って、月影は音もなく家を去った。
16
「これがクレーンゲーム!?」
珍しくもないゲームセンターの一角で、白髪の彼は子供のようにはしゃいでいた。
草薙君が学校に来てから数日が経った頃。勢い、というか、流れ、というか、自分でもよく分からないまま彼と一緒に商業区に来ていた。それも二人っきりで。
彼は、商業区センタータワー十三階のゲームフロアに来て、今、目の前でクレーンゲームに没頭している。
正直彼から話しかけてきた時は驚いた。自分のような暗いクラスメイトに話しかけてくるタイプには思えなかったからだ。体育の授業ではサッカーをそもそも知らなかったり、クレーンゲームも初めて見たような反応だ。とても不思議な人だと、素直に感じた。
「ねえ、これ全然取れないんだけれど、コツとかわかる?」
急に振り返ったから、少しびっくりした。
「この台はアームが弱そうだから、掴みにいくよりも、引っ掛けて落とすことを意識した方がいいかも。」
新夜は一の言葉を噛み締めて、再び台に向き合った。
中の景品は、毛糸で編んで作られた、大きくて写実的な向日葵。女の子が欲しそうなそれを、新夜は何故か夢中で獲得しようとしている。意外な一面だ。
アドバイスを受けて、アームを少し手前で止める。狙いは端だ。
アームが垂直に降り、景品を越えて空を掴む。その状態のままアームが上昇すると、向日葵の茎の端が引っ掛かり、浮いた。数十センチ浮くと、やがてアームから落ち、その衝撃で初期位置よりも傾いた。
「なるほど、そういう事か。」
コツを掴んだ新夜は、次の一手で見事に景品を獲得した。
その後も幾つか景品を獲得した新夜は、大きな袋を手にしてフロアを後にした。
他のフロアをぶらぶらとあてもなく歩き回っている最中、一は新夜に質問をした。
「ねえ草薙くん。今日はどうして僕と一緒に帰ろうって言ってくれたの?」
言ってから、失礼なことを言ってしまったと反省した。もちろん新夜といることは楽しい。けれど、今の言い方じゃあ、それを嫌がっているようにも受け取られてしまうと思った。
しかし、新夜は嫌そうな顔を微塵もしなかった。
「君となら話が合うかな、って思っただけ。もし迷惑だったらごめんね。」
新夜の周りに人が集まる理由が、少しわかった気がする。
「一君、この前soraの作品を読んでたでしょ。」
「えっ?」
soraとは、ひと昔前に一部で流行った小説家だ。書く内容が難解で、万人受けはしないものの、一定数のファンを獲得した謎多き作家なのだ。
一が驚いたのは、そんな細かいところを新夜が見ていたことについてだ。
「う、うん。草薙くんも好きなの?」
新夜は頷いた。
「本はよく読むんだけど、あの人の作品は奥深くて面白い。」
「そうだね。有次君も同じこと言ってた。」
新夜は通りにあったカフェを指さして、ある提案をした。
「あそこで少し休憩しない?」
「この間、久遠有次と話していたけど、仲がいいの?」
「うん。」
「僕の親については知ってるよね?」
「確か、有次君の父親と草薙君の父親が共同研究をしているんでしょ?」
新夜はコーヒーを一口啜った。
「実は、久遠有次については前々から知っていたんだけど、直接は会ったことなくて、それで彼を知っている人物に話を聞いて回っているんだ。」
いつも周りに人が集まっているけど、意外と人見知りなのかもしれない、そう一は思った。
「もしかして、この間委員長と一緒にいたのって……」
「そう、少し話をね。今日もいい機会だし、君からも話が聞けたらなと思って。」
一にとって、久遠有次は恩人であった。だから、彼のいいエピソードを話すことに抵抗はなかった。
「去年のことなんだけど、僕はある事件からみんなと孤立していて、それを助けてくれたのが有次君だったんだ。」
一はゆっくりと語り始めた。
*
世界が平和になっても、救いようのないゴミのような人間はまだまだ沢山いる。同盟の台頭によって、見えづらくなっているだけだ。
父は、幼い僕から見てもダメな人間だった。酒、タバコ、たまに暴力も振るった。初めからそういう人間だったのか、それとも何かが原因でそうなってしまったのか、それを母は教えてくれなかった。
母は、子供のことを思って我慢していたけど、父が仕事をトラブルでクビになったことで、離婚が決まった。
僕が十一歳の時のことである。
家は元々裕福ではなかったため、父がいなくなったことで心のゆとりはできたものの、生活は質素だった。それでも母も笑顔が増え、楽しい生活を送っていた。
高校に上がると、バイトを始めた。本当はもっと前から始めたかったのだけれど、母はそれを許してくれなかった。
家が貧乏だってこともあったけど、貯めたお金はいつか役に立つ、そう思ってバイトに勤しんだ。
内気な性格から、友達はいなかった。バイトを率先していたこともあって、友達付き合いがなかったからなのかもしれない。それでも僕はそんなに気にしてなかった。
今思うと、強がっていただけだった。
成績は中間より少し上辺りをさまよい、運動は並程度、それなりにクラスメイトと話すけど目立たない、言ってしまえば平凡な高校生だった。
二年に上がって間もなく、僕の人生は変わった。僕の意思に関係なく。
遠くで暮らしていた父が、人を殺した。
「ねえねえ、あの人じゃない?」
「そうよ、よく学校に来れるね。」
「キモチ悪いんだけど、犯罪者の息子が。」
教室に入ると、必ず一旦静かになる。
会話していた人たちは僕を見て黙る。僕が歩くと目で追う。でも、誰も近寄ってこない。ヒソヒソとこちらに聞こえないように会話をするだけ。
家族を心配させないために、学校は休まず通った。
「ごめんね~朧くん。みんなが、ね?」
「はい、大丈夫です。お騒がせして申し訳ありませんでした。」
出勤日でもないのに職場に呼び出された時点で、覚悟は出来ていた。
職場の制服と名札を机に置いて、その場を後にした。
平和になった世の中で、むしろ犯罪者というのは珍しい。昔は毎日のように多種多様な犯罪がニュースで流れていたそうだけど、今は月に一回あるかないか。それも軽い犯罪ばかり。
父は離婚した後、大阪で暮らしていたそうだ。連絡は一切取っていなかったため、ニュースで知った。
人を殺した。くだらない理由で。
父の個人情報はあっという間にネット上で拡散された。僕たちについても、そう時間はかからなかった。
平和であるからこそ、僕たちは排斥対象となった。社会から、世界から、僕たちは要らないって言われた気持ちだった。
家に帰ると、母は僕を抱き、泣いて謝った。
母が僕の前で泣いたのは、離婚した時とその時の二回だけだった。
毎夜、毛布にくるまって泣いた。
恐ろしいことに、僕はそんな生活に慣れていった。
人間関係が上手くいかず、バイトも転々としていた。学校ではいつも孤立していて、家では気丈に振舞った。
母は引っ越しも考えていたが、朝陽は母子家庭や低所得者への支援が手厚く充実しているため、今の不自由ない生活を捨てることは出来なかった。
夏休みが終わっても生活は変わらない。そう思っていた。
新学期が始まってすぐに、教室で声を掛けられた。
「その本面白いよね。」
左隣の席からだった。初め、僕ではない人に話し掛けたのかと思い、何も反応しなかったが、その人は知ってか知らずか話を止めなかった。それでようやく自分に話し掛けているのだとわかった。
読んでいた本から目線を外し、左へ向ける。
(…………?)
誰だかわからなかった。見覚えのない顔。
(……隣の席はいつも空いていたはずだけど……。)
そこで気が付いた。顔を覚えていないのも、教室で僕に話し掛けてきたのも、彼が今までずっと学校に来ていなかったからだ。
(確か名前は、久遠有次。)
彼は、二年に進級してからほとんど登校していなかった生徒だ。前回の席替えで、今の僕の座席は彼の隣の席なのだ。
どうして今まで学校に来なかったのか、どうして夏休みが明けたタイミングで学校に来始めたのか、気になることはあったけれど、それよりも僕のことを知らない彼の身を案じた。
本を閉じ、無言のまま教室を出た。
僕と話せば、彼も教室で孤立してしまう。せっかく学校に来たのにそれは可哀想だと思い、無視した。
不思議なことに、彼はその後も、ふとした時に僕に声を掛けた。内容は授業のことや、行事のこと、ただの世間話など特別なものではなかった。僕はいつも無視して、ときには露骨に嫌そうな態度をわざと示した。それでも普通のクラスメイトとして接してきた。
ある日、ひょんなことから帰宅路が途中まで一緒だとわかり、途中まで一緒に帰ることになった。
これはチャンスだと思った。誰も見ていない二人きりの状況で、彼と話をしてみたかった。
学校から離れた帰り道、僕は彼に質問をした。
「どうして僕に話し掛けてくるの?」
それが、僕から彼に向けた最初の言葉だった。
彼は解答に困った。子どもに、どうして地球は回ってるの?、と問われた時のような、どう答えたらいいんだろうと悩んだ様子だった。
「どうしてって……友達になりたいから、かな。」
「で、でも、僕は犯罪者の息子だよ!」
その平然とした様子に、僕はつい興奮してしまった。
「うん、知ってる。」
「知ってるって、……なんで。」
驚いた。知った上で話し掛けていたのだ。
「俺は学校に来たのが久しぶりでね、君を除け者にしてる連中と、俺のことを思って無視する君とを見たらつい。それに本の趣味も合いそうだし。ただそれだけ。迷惑だったか?」
僕は、彼の話している内容が理解できなかった。変な生活に順応してしまったせいかもしれない。
「でも、僕は除け者にされて当然で……だって父親が人を……」
「それ、君と関係ある?」
言葉に詰まった。
恐らく、客観的に見れば誰にでもわかること。それ以上に、殺人を許容できる心がないから、拒絶する。平和な世界では、それが当然だ。
でも、目の前の彼は、僕の心を代弁してくれた。
どうして? どうして僕たちが? 何もしてないのに、どうして?
その問いかけに、意味はないと思った。だから胸の奥に閉じ込めた。時々涙と一緒に溢れてきたけど、そんなものに意味はないと思った。必死に耐えて、必死に生きて、家族のために頑張らなきゃいけない。
彼は、その心情を、短く簡単に言い表した。
あまりにもサラッと言うものだから、一瞬怒りが湧いた。けどすぐにそれ以上の感情が溢れようとしていた。
「一人は、辛いよ。」
遠くを見て、彼はそう言った。
下唇を噛む。
「どんなに繋がりを断とうとしても、温もりは忘れられない。」
下を向く。
「それにな、」
彼は僕の前まで歩み寄ると、こう続けた。
「俺が孤立しても君がいるから、孤立したって言わないよね。だって二人だもん。」
自虐めいた冗談を笑いながら言った。
その言葉は、胸に突き刺さった。痛みじゃなくて、温もりを与えてくれた。
じんわりと拡がるそれに身を任せると、驚くほどに周りが鮮明に見え始めた。
誰かのために生きることは素晴らしいことだ。でもそれは、自分を蔑ろにする理由にはならない。きっと僕は盲目になっていた。孤独という病が僕を蝕んでいた。分かりきった簡単な事を見落としていた。家族とは、一方的に誰かが助けるものじゃない。助け合うのが家族だ。
本当の気持ちを言うと、辛かったし苦しかった。一番苦しかったのは、このことを誰にも話せなかったこと。孤独だったこと。
「この後時間があるなら、ちょっと商業区に寄っていかないか?」
彼は、真っ直ぐに僕を見つめる。
僕は服の端で目元を拭うと、彼を真っ直ぐに見つめる。
彼は、じゃあ行こうか、と言って僕から目線を切り、前を歩き始めた。僕は慌てて着いて行き、横に並んで二人で歩いた。
彼は自信満々の割に、クレーンゲームが苦手だった。カフェでホットを頼んだのに、猫舌で全然飲めなかったり、買い物中に細かい二択でたっぷり時間を使ったり。
久しぶりに心の底から笑った。
学校に行くことは、辛いことじゃなくなった。
彼と一緒に過ごした学校生活は、僕の宝物だ。それですぐに周囲は変化しないけど、僕と普通に会話する人が増えていった。きっと、僕自身が変わったからだと思う。
委員長の波澄さんにもかなり助けられた。彼女は真っ先に僕に頭を下げて、今までの状況を変える勇気がなくてごめん、て謝ってくれた。それに、あの時の冷たい環境をどうにかするのは難しく、僕が閉鎖的だったこともあって不可能だったと思う。僕は全然気にしてないし、むしろそう思ってくれただけでとても嬉しかった。
「一、少し変わった?」
お母さんにそう言われた。
僕は笑顔でこう答えた。
「友達ができたんだ。」
お母さんも、笑顔になった。
それは今まで見てきた無理矢理な笑みではなかった。
僕は変わった。
たった一人のクラスメイトのおかげで。
それを他人にどう捉えられても構わない。
僕は彼に救われた。
家族のために頑張ることは変わらないけど、自分を大切にしようと思った。それが本当の意味で、家族に心配をかけないことだって知ったから。
クラスが替わって、新しく友達ができた。その人たちには、必ず自分の話をする。決まって彼らは、話を聞いた後も友達でいてくれる。その度に、自分が朧一だと実感する。父とは関係のない、ちゃんとした自己を持った一人の人間だと。それを初めに教えてくれた人の名は、久遠有次。僕の大切な友達。
*
「有次君はあまり多くの人と馴染もうとしないけど、芯の通った優しい人なんだ。」
新夜のグラスはとっくに空なのに、一のは疲れた喉を潤してもまだ半分残っていた。
「あ、ごめん。つい長く話してしまって。」
「ううん、聞いたのはこっちだからね。丁寧に応えてくれてありがとう。」
一は一気に残りを飲み干した。
「確か彼には弟がいたよね。弟とはどんな感じなのかな?」
「幸一君のことだね。僕は一度しか会ったことないけど、とてもいい兄弟だよ。だって、幸一君の話をする有次君、いつもよりも優しい顔してるから。」
「そうなんだ。」
「最近彼学校に来てないけど、心配だね。」
一は、首を横に振った。
「全然。」
表情から、その言葉の真偽は簡単にわかった。
その後しばらくして、二人は別々の帰路についた。
17
四月二十二日、水曜日。
連日、二人はリビングで寝た。机やソファを移動させ、有次の布団の隣に幸一、さらに隣に翔が布団を敷いた。有次を二階に運ばないのは、水道や風呂場、その他多くの物が置いてある一階であれば、突発的なアクシデントにも対応しやすいからだ。
月曜の内に、二人は各々学校に連絡し、ひどく風邪をこじらせたことを伝えていた。もちろん今日も休むつもりだし、有次が目覚めるまで休むつもりだ。
いくら容態が安定したとはいえ、心配や不安がすぐに消え去ることはなかった。口にしてないだけで、翔も幸一も夜は全然眠れず、結局目覚めるのが十時を過ぎてからだ。
今日も例外ではなく、先に起きた翔でも、時刻は十時半過ぎだった。
起きてすぐに有次を確認するのがもはや癖づいてしまい、半開きのまま上体を起こして横を見る。
「有……次……………?」
有次が寝ていた布団には、誰もいなかった。
ふと、正面の大きな窓の外、カーテンレース越しだがぼんやりと人の影が見えた。
まるで夜中に家の外へ出るときみたいに、そっとカーテンをどかして窓を少しだけ開けた。
今まで目を覚まさなかった人物が、そこにいた。
庭に立っていた。
こちらには背中を向けて、空を仰いでいた。
「おはよう、翔。」
「……………………ああ、おはよう、有次。」
どうしてだろう。聞きたいこと、言いたいことが山ほどあるはずなのに、言葉が出てこない。
有次が起きているこの状況に、まだ頭が追い付けていないのだろうか。どこか非現実的な感覚だった。
「翔………………………………お腹減った。」
思わず笑ってしまった。
いつもの有次だ。
「わかった。ご飯にしよう。」
翔は一人先にリビングへ戻り、キッチンで料理を始めた。暫くして有次がゆっくりとリビングへ入ってきて、椅子へ座った。
お互い、何も言わなかった。ただ料理の音だけが、狭い二人の間を通り抜けていった。
料理の音と美味しい匂いに誘われて、次第に幸一がもぞもぞと動き始めた。
「にい……さん……?」
「おはよう、幸一。」
「兄さん、……兄さん、どうして…………」
聞きたいことがありすぎて、言葉に詰まった様子だった。
「ご飯できたぞ。」
有次が何か言う前に、テーブルの中央にウィンナーとベーコンの皿を置き、加えてご飯、味噌汁、サラダ、目玉焼きを次々に置いた。
「幸一も、こっちに座ってご飯にしよう。」
渋々有次の向かいに座った幸一。翔も同じく有次の向かいの席へ。
三人一緒に手を合わせて、
「いただきます。」
有次と翔は、黙ってパクパクと箸を進める。
「幸一、とりあえず食え。話はそれからだ。」
翔だって、聞きたいことが沢山ある。しかし、今まで有次はそれらを秘密にしてきたのだ。向こうに話す気がなければいくら問いただしても無駄だ。
何日間も眠り続けていた有次は、相当エネルギーを欲しているはず。せっかく張本人が目覚めたのだから、そう焦る必要もないと翔は思っていた。
「………。」
その意図を汲んでか、幸一も食べ始めた。
人数が増えたのに、静かな食事になった。
「お前は怪我人なんだから、おとなしく座ってろ。」
そう釘を刺された有次は、しょうがなくそのまま座って待機した。
朝食の片付け、食器洗いは翔と幸一がやった。
ちらりと横を見る。翔は、今にも鼻歌を奏でそうないつも通りの表情だった。
きっと、自分以上に聞きたいはずだ。話したいはずだ。
幸一は、いざ兄を前にして迷ってしまう気持ちとそれでも聞きたいという気持ちが混在して、ばつが悪そうにそわそわした様子を隠せないが、翔はそうではない。
その理由を自分なりに考えてみた。
もしかしたら、翔は待っているのかもしれない。
久遠有次が心を開く、その時を。
そうだとしたら、無性に自分が子どもだと自覚した。
皿洗いが終わって手を拭くと、再び椅子に座った。
しばらく誰も口を開かなかったが、
「今日は何日だ?」
そう言ったのは、意外にも有次だった。
「四月の二十二日。」
そうか、と小さく呟き、目線を落として考え事をしているようだった。
「何も、聞かないのか。」
あくまで、こちらと目を合わせようとはしない。
「何か聞いてほしいのか?」
翔が質問で返す。
「俺は、お前の口から聞きたい。」
「……………………」
また俯いた。
そして、こう言葉を絞り出した。
「すまない、まだ話せない。」
意地悪で言ったのではない。苦渋の決断。本意ではない様子だった。前髪が垂れて顔はよく見えないが、大体予想ができる。
「それは、言えないのか、それとも言いたくないのか。」
「………………どっちもだ。」
翔は背もたれに大きく背中を付けてため息を吐いた。
「わかった。」
有次は立ち上がり、ギリギリ聞こえるくらいの大きさで、ありがとう、と言って二階へ消えた。
「ごめんな、幸一。」
「いいんです。」
幸一が有次ともっと話したかったことに気付いていたが、それでも翔は待つことにした。そのことに付き合ってくれたことに謝罪したが、幸一はしっかりその意図を汲み取って理解していた。
聞きたかった。知りたかった。もっと話したかった。でもそれ以上に、有次を信じる。
それが、篝翔の選択なのだから。
まもなくして、二階から有次が降りてくる音が聞こえた。しかし、リビングには戻って来なかった。
二人はリビングを出ると、有次は玄関で靴を履いている最中だった。
二階へ行ったのは着替えるためで、私服に着替えていた。
こちらには気付いているはずだが、何も言わず家を出ようとした。
「有次。」
振り返ることはなかったが、足を止めた。
「お前のこと、ちゃんと見てるからな。」
しっかりとその言葉を聞き入れて、有次は家を出ていった。
18
四月二十三日。一週間続いた快晴は終わり、久しぶりの曇り空が朝陽を覆った。
この日、三日ぶりにある生徒が登校してきた。三年E組の生徒で、背が高く、茶髪が特徴の少年。
教室に入るとクラスメイト達に囲まれて、この三日間についてあれやこれやと質問を投げかけられたり。しかし彼の耳には届いていなかった。
チラリと窓側やや後方の席を確認する。
(有次は来てない、か……。)
自分のいない三日間で、どうやら自分は事故に巻き込まれたのではないかと噂されていた。その『事故』というのが、先日の深夜に起こった、朝陽第四自然公園での『怪奇現象』。事故のタイミングと学校を休むタイミングが重なったための憶測だった。まあ気持ちはわからなくもないが。
「元気ないみたいだけど大丈夫?」
昼休み、珍しく教室で、購買で買ってきたパンを頬張っていると、委員長に声をかけられた。
「絶好調とはいかないが、元気健康だぜ。」
波澄には、いつも通りの光景がいつも通りには見えなかった。翔がどこか気を張っているように感じた。
「有次君とは一緒じゃないのね。」
「まあ、な。」
「何があったの?」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「とぼけないで。」
波澄の方を一瞥すると、真剣な眼差しをこちらに向けていた。翔が学校を休んでいたのは、有次が関係していると睨んでいたのだ。流石に鋭い。
少し迷ってしまう。実のところよく事態を把握している訳でもなく、現実離れした話になる。無駄に心配させたり怖がらせたりさせるのは避けたいが、彼女が真剣に有次のことを考えていることは知っている。情報を隠し続けることがいいことだとは思っていない。
翔が口を開こうとした時、
「ごめん、ちょっとお手洗いに行ってくる。」
教室後方の騒がしさの渦中にいた人物。
草薙・ラーンウォルフ・新夜。
大勢の女子達に囲まれた昼休みの最中、一人席を立ち教室を去っていった。残された女子達は再び騒がしく話し始めた。
「わりぃ委員長、俺もトイレ。」
新夜の方を見ていた波澄は、
「ちょ、ちょっと!」
慌てて呼び止めようとするも、足早に教室を出て行ってしまった。
教室を出た翔の目には、一人の男しか映っていなかった。
ついさっき教室を出た転校生。
翔は彼を呼び止めるわけでもなく、駆け寄るわけでもなく、まるでストーカーのように離れたところからついていく。
新夜はトイレには行かなかった。トイレを通り過ぎて、奥の階段を上がっていった。
(どこに行く気だ?)
三年生の教室があるのが四階。下級生達はその下の階に教室がある。四階より上の階には実験室や生徒会室、職員室などがあり、どこも許可なく立ち入りが禁止されている。理由がない限り基本的に五階には上がらないだろう。
可能性があるとしたら職員室。授業で使うような教室は昼休みだから閉まっているし、生徒会室も、さっき波澄が教室にいたことから集まりがあるように思えない。そもそも新夜が生徒会に入っているとは考えにくい。もしかしたら職員室に用があるのかもしれない。そう考えた翔は、すぐさま考えを改めた。
(ならどうして嘘をついた?)
よほど誰にも知られたくないのか?それとも別の理由が?
考えている内に、新夜はさらに階段を上がっていった。
(おいおい、その上にはもう何も……いや、何もない屋上が目的か?)
校則で屋上への出入りは原則禁止となっている。そのため屋上に出るためのドアには鍵がかけられていて、入ることができない。翔のように裏技でも使わなければ、ドアは開かない。
はずだった。
ドアの前に立った新夜は、平然とドアを開け放った。
真下の階段にいた翔には、ガチャンと開けられた音のみ聞こえてきた。
(開いている? それとも開けたのか?)
もう一度ガチャンと、ドアの閉まる音が聞こえたのと同時に、蛇のように音を立てずにドア横の壁にペタリと背中をつけた。
ドアの上部には、小さいが透明のガラスが埋め込まれていて、そこから屋上の様子がうかがえるようになっている。いきなり覗くとバレる可能性があると考えた翔は、しばらく耳をそばたてることにした。
「そんなに出さなくても気付いてるよ。」
よく聞き取れなかったが、
(他に誰かいるのか?)
壁に耳をつけるように一層聞き耳を立てた。
「それで? 一体僕になんの用かな?」
「…………どうしてだ。」
(!?)
朧げに聞こえた声は、ある人物の声に似ていた。
確認すべく、ドアの正面に移動し、ゆっくりと体を上げて屋上を覗き込むんだ。
(有次!)
新夜が話している相手は、久遠有次だった。
制服姿の有次が新夜と相対していた。
「どうして俺は生きている。」
有次は鋭い眼差しを新夜に向けているが、心中では戦意が皆無だった。それは自分が新夜に生かされているから。今この瞬間、相手が襲いかかってきてもそれを退けることはできないから。だから有次の中に戦闘という選択肢はなく、対話に望んだのだった。
「どうして俺を殺さない。どうして人類を滅ぼさない。お前は、一体何がしたいんだ!」
「それを今、君に教える必要、ある?」
「っ………。」
有次は苦い顔をした。
「ただ、何を話すにしても、彼を招いた方がいいかな?」
パチン、と新夜が指を鳴らした。同時にガタンと大きな音がした。
屋上のドアが開いたのだ。そして前のめりのまま、倒れる勢いで翔が現れた。
新夜は屋上の扉を閉める時、ヴァイスを使って、ドアノブが回った状態のままにして、さらに扉が開かないように固定していたのだ。合図とともにヴァイスは消え、そうとも知らずに扉に体重をかけていた翔が現れたのだった。
「翔!?」
「……。」
二人は気まずそうに顔を合わせた。
「おや、思いのほか寄りかかってくれていたのかな?」
有次は思わず叫んだ。
「どうしてここに来た! お前には関係ないから今すぐ帰れ!」
(すまない翔。俺にはお前を守ってやることができない。だから………頼む!)
二人の間を白髪の青年が遮った。新夜は翔の元へ歩み寄り、一言、こう呟いた。
「彼をあんなに傷つけたのは、僕だよ。」
その瞬間、翔の顔は明らかに怒りに染まった。
「それを疑って僕のことを朝から見てたんでしょ?」
翔は歯を食いしばりながら、必死に耐えた。新夜が得体のしれない存在で、自分が今挑発されていることを理解しているからだ。それはあの日の夜の惨状を見れば容易な結論だった。こいつとは関わってはいけないと、全細胞が訴えかけている。
「またあんなふうにして、彼を君の前に転がしてあげようか?」
翔には、目の前で口角を吊り上げている新夜が悪魔に見えた。しかし、この悪魔の囁きで、翔の中の一本の線が切れた。
たとえどんな状況だろうと、親友を傷つけると言われて黙っていられるほど情けない男ではなかった。
新夜を挟んだ奥で有次が何か叫んでいるが、翔の耳には届かない。
翔は右拳を血が出るほどギュッと強く握りしめ、新夜の顔めがけて思い切り拳を突き出した。少し助走をつけ、全体重をのせて殴りかかった。
対して、新夜は片目をつぶりながらスっと真横に動き、簡単に躱した。
人を殴ったことなどない翔は、空振りしたことでバランスを失い、勢いのままぎこちなく二、三メートル進んだ。
そのたった短い間。
新夜は通り過ぎた翔の真後ろに回り込み……
「翔!!」
有次は慌てて神眼を発動させようとした。
しかし、右眼が青く輝き出した時には、既に遅かった。
……音はなかった。
そう、音もなく、静かに、冷たく、そして刹那に、翔の胸を金色の直剣が貫いていた。
「ァ……」
自分の目の前で、本当にちょっと伸ばせば触れられる距離で、刺された翔がこちらに手を伸ばしてきた。
この時、翔には自分の身に何が起こったのか全くわからなかった。大きな怪我や、ましてや刺されたことなど体験したことのない翔にとって、この激痛と、段々と体が冷たくなっていく感覚は、脳の処理が追いつかなかった。
ただ、有次があまりにも酷く泣きそうな顔をしていたから、つい手を伸ばしたのだった。
「有………次…………」
どうしてだろう。声がうまく出せない。
翔の手と有次の手が触れ合うその直前、新夜が剣を翔の体から引き抜いた。
一気に力が抜けて、翔は有次の方へ倒れ込んだ。有次は慌てて翔の体を抱きとめ、膝をついて支えた。
「翔……………………?」
返事はない。
血がしたたり、地面にはねる音だけがいや鮮明に残る。
どうして。どうして、どうして、どうして、どうして。
どうして、自分が生きてて、翔が殺されなければならないのだろうか?
(俺は……また……何も救えないのか?)
翔を抱いたまま呆然としている有次の前に、新夜は立ちはだかった。その影が二人を覆い尽くす。
「全てが己の過ちだと知れ。」
新夜は冷酷に告げる。
事実を。
実際、この場に有次が戦うつもりで来ていれば、臨戦態勢を整えておけば、瞬時に神眼の能力を発動でき、翔を守ることなど容易かったことだろう。
「失って初めて気付くものだ。その存在の大きさに。弱ければ、何も守れない。」
いつの間にか、新夜の姿はなくなっていた。
一体どれ程の時間が経ったのか。それともほんの数秒しか経っていないのか。
すると、か細く、消えてしまいそうな声が聞こえた。
「ゆ……うじ。」
「!?」
微かに翔の体が揺れた。
「もう動くな!!」
言葉を遮るように、翔は力なく有次の服を握りしめた。苦痛に耐えようとしているのかと思ったが、そうではなかった。
「たすけに、なってやれなくて……ごめん……な……。ホント、……は、ゴホッゴホッ、……一緒に、背負って、やりたかった……。」
「……何、言ってるんだ…………………」
慟哭を抑え、彼に届くように必死に叫んだ。
「何言ってんだよ! お前が……お前がどれだけ俺の救いになってたことか! 俺が今生きているのも、まだ『夢』を諦めずにいられたのも、お前がいなければ無理だった! それなのに…………お前は…………、お前ってやつは………………」
翔はゆっくりと腕を動かした。有次の後頭部に手を置いてポン、ポン、と頭を撫でた。
涙が、止まらなかった。
力を弱めて、今度は子供に語り聞かせるような優しい口調で翔に語り掛けた。しかしそれは、どこか懺悔にも聞こえた。
「お前を救う方法を、一つだけ思い付いたんだ。成功する保証はないし、たとえ成功しても、それは…………きっと不幸にしてしまう。それでも……生きていて欲しい。自分勝手なわがままだけど、お前には、………………」
翔は小さく微笑んだ。
「……信じてる。」
「…………どうして、そこまでしてくれるんだ?」
憔悴している翔にもわかるように、丁寧にゆっくりと問いかける。
それに対して翔は、短く、簡潔に、こう答えた。
「友達だからだ。」
それは、言葉にしてみたらなんて事はないもの。
こう言ってくれる人がいてくれただけで、有次は既に救われていた。
「――――ああ。」
有次の体から、金色のヴァイスが溢れ出てきた。それはやがて翔の体へも移っていき、二人を包み込んだ。
ヴァイスは段々と輝きを増していき、周りを金景色に変えていった。
「俺、翔に全てを知ってもらいたい。俺が何者で、どこから来て、何をしてきたのかを。……だから……………おやすみ、翔。」
爆発したかのように、閃光は放たれた。
二人の世界は光に溢れ、真っ白になった。